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 さて、とカフカはカップの紅茶を飲みほして立ちあがる。
 いつまでものんびりしているわけにもいかない。肝心の上司が行方不明であるものの、いいかげん執務室へ帰ってきてもおかしくはない頃合いだろう。それに、いつまでもこんな場所にいたくはなかった。

「もう行くのね……」

 マリアが寂しげな視線を寄こす。こちらに向いているようで、どこか別の方を向いているかのような……そんな気味の悪い眼差しだ。
 けれどカフカはそんな内心をこれっぽっちも表に出すようなことはせず、別れを惜しむに相応しい笑みを浮かべた。

「ああ、悪いな」

「荷物はまとめて玄関に置いてあるから」

「オレの分だけか?」

 その言葉にマリアは首をかしげた。

「スーツケースをあとふたつ、引っ張り出しておけよ? サングラスと日焼け止めオイル、それと水着も忘れるな」

 パァッ、とマリアの顔に笑みが広がっていく。夏休みの予定を一足先に告げられた子どものような笑みだ。底抜けの明るさを湛えたその幸福な表情は、まさに底がないからこそのものだった。


 スーツケースを車のトランクへと押し込んで、カフカは助手席に乗り込む。できれば陰鬱な表情を見せる今のオーリスに運転を任せたくなかったが、彼女がさっさと運転席に乗り込んでしまったため仕方がなかった。
 ふと、オーリスがこちらを見ていることに気がつき。忘れ物でもしたのだろうか、などとわかりきっていることをあえて訊ねてみた。

「忘れ物なら、さっさと取りに行って来いよ」

「そうじゃないわ……」

 そんなことはこちらもわかっている。今の彼女がなにを言いたいのかなど、大体の想像はついていた。

「いつから……あんな風なの?」

「なにが?」

 頬杖をついてわざとらしく素知らぬふりを続けると、オーリスは声を張り上げた。

「あなたのお母様よ!」

 彼女は肩を上下させながら息を整えるとメガネを外し、じんわりと濡れそぼった瞳を服の袖で乱暴に拭って言葉を続ける。

「どうして教えてくれなかったのよ、わたしだってあなたのお母様のことは大事に思ってる……。それなのにあなたはまるで、そんなことはどうでもいいように装って……」

 運転席から聞こえる声を無視して、カフカは窓から母に向けて手を振る。
 見送りはいらないと言ったはずなのにそれでも見送りをするのは、父がそうなったように、もしかしたら2度と会えなくなることを恐れて無意識下での行動によるものなのかもしれない。
 なんにせよ気持ち悪いことこの上ない。嫌悪の表情を隠すことなく、カフカは言った。

「早く出せ、こんなとこホントは1秒でも長くはいたくないんだ。それに、オレもお前も暇な身というわけじゃない」

 彼女はまだ言い足りないというような表情をみせたが、渋々アクセルを踏んだ。
 家の前に立つ母の寂しそうな顔が景色に紛れていく。どうせ家に入れば何もかも忘れてしまうのだろう。そこが彼女の世界であるのだから。そして自分は今日もアンソニーという彼女の夫の役を終えたわけである。
 カフカは左手薬指に嵌めていたリングを乱暴に外して、ポケットへと放り込んだ。

「大事に思ってる……か」

 先ほどの彼女の発言を振り返り、笑う。
 今の今まで顔をみせることをしなかったのに、よくもそんなことが言えたものだな。と、少し可笑しかったのだ。別に責めているわけではない。
 けれど、耳にしたオーリスの方はそうはとらなかったようで、

「悪かったと、そう思ってるわよ……ちっとも顔をみせなかったんだもの……。薄情なのは自覚しているわ、でも――」

 心底申し訳なさそうな彼女に、わざわざ弁解するのもなにか癪だった。今はなにもかもがうっとうしくて仕方がない。いつだってそういう気分なのだ。あの家に帰った――いや、立ち寄った後は。
 カフカは“でも”の先を聞くのを止めて、窓の外へと意識を移した。
 だが、彼女の声がどうしても耳触りにしか聞こえず、思わず手で遮る。

「もういい喋るな。今さらお前にできることはなにもないし、オレはなにも望んじゃいない。それはアレも同じだ。アレがなにも望んじゃいないことは、お前もよくわかっただろう?」

「お母様のことを“アレ”と呼ぶのね……」

「装ってないからだろう」

 残念ながら、もはやあの母親に対して情などこれっぽっちも残ってはいない。どうでもいいように装っているのではなく、事実どうでもよかった。
 まるで予想だにしていなかった言葉だったのだろうか。彼女の顔に浮かんだのは怒りでも悲しみでもなく、ただの困惑だった。

「だって、それじゃあ……あなたは一体なんのためにそんなことをしているの?」

 そして、やっとこさ絞り出したようなかすれた声でオーリスは言った。
 そんなことってどんなことだ? などととぼけようものなら、車は思わぬ車線変更を遂げてしまうかもしれない、天国側へと。

「どうでもいいなんて言っておきながらお父様のまねごとなんてしている時点で、あなたはまるで矛盾してる」

「そうかな……?」

 ポケットのリングを弄りながら笑う。
 まだほのかに温かみを残したリングは、汗でぬめっているかのように不快なさわり心地だった。
 カフカのその笑みをどう受け取ったのか、オーリスは幾分安心したかのようにため息を吐き出した。

「安心したわ、そうじゃないってことがわかってね。あなたはひねくれてるけど、それは昔からだったしね……」

 面倒になり、その言葉にはあえて否定しない。そのまま勘違いすればいい。
 彼女がこれ以上なにかを口にする前にカフカは車を停めさせて、トランクからスーツケースを引っ張り出す。クラナガンの中心部にほど近い場所だ。ここからなら、あとはもう知りたがりの運転手はいらない。1人で帰ることができる。
 そのまま挨拶もなしに去ろうとするカフカに、彼女は窓から顔を出して戸惑いがちに言った。

「また、ね」

「いいや、お互いが忙しいことを祈ってるよ」


 思えば長い一日だったと、執務室に帰ってきたカフカはソファに腰を落ち着けてネクタイを緩める。
 執務室には、どうやら無事に緊急の用事を終えたらしい上司が待っていた。それもよだれを垂らしてのお出迎えとくれば、その熱烈な歓迎っぷりが窺えよう。上司と部下の関係を三段飛ばして、犬と飼い主の関係だ。

「このクソッたれめ」

 手元にあったクッションを、ソファに横たわってすやすやと眠っているフェイトに投げつける。
 この年下の上司は、部下をタクシーの一台も通らないような場所に置き去りにした挙句。自分は一足先に夢の中だったのである。納得のいく説明を求めれば、おそらくさっさと眠りたかったからと抜かすに違いない。
 結構な勢いで顔面にぶち当たったクッションを鬱陶しげに払いのけ、彼女はついでとばかりに目をこすった。

「あ……おかえりなさい、カフカ君……」

「ああ、ただいま。クラナガンの朝焼けを眺めながらの出社は最高だったよ……ところで、オレの車はどこへやった?」

「ん、ああ、見なかった? 比較的目につきやすい場所に停めておいたんだけど……」

 確かに目にした。彼女の言うとおり目につきやすい場所に停めてあったから、すぐにそれが自分の愛車だということはわかった。ミニクーパーなんてミッドチルダでは他に目にすることがないような骨董品であるから、ナンバーをいちいち確認するまでもない。けれど、

「いいや、見なかったね」

「んえぇ……? おかしいな、絶対見つけられるような場所に停めたはずだよ……それにほら、赤いから目立つでしょ?」

 口調に若干の苛立ちを滲ませながら、フェイトはソファに倒れこむ。
 起きぬけにそんな問答をやるのは、確かに面倒であろう。だが、こちらには譲れない訳もあった。

「ひょっとして、あのガラクタのことを言ってるのか? あの酷くみすぼらしい車だ。アレだよ、真ん前に停まってた不細工な赤い車だ」

「んー……それそれ、たぶんそれだよ」

 再び彼女にクッションを投げつける。
 話はまったく終わってなどいない。これからなのだ!

「オイオイ冗談だ、冗談だよ。さあ、本当のことを教えてくれないか? オレの車は一体どこにある? 今朝方しこたまケツを掘られたせいで泣いてるに違いないんだ。早いとこ直してやりたい」

「だから、その不細工な車がカフカ君のだってば!」

 いい加減にしてくれとばかりに、フェイトはクッションを放り投げてタオルケットを顔まで引っ張り上げる。
 飛んできたクッションを叩き落としたカフカは立ち上がると、野菜でも引っこ抜くかのようにして彼女の体をひっぱり起こした。
 工業地区において、バックでガジェットの群れに突っ込んだのは自分だ。ボコボコになったボディも確認している。だがつい先ほど目にした愛車は、リアどころかフロントまで大破一歩手前ではないか。かろうじてついていたミラーはどうしたミラーは。ボンネットはゾウにでも出くわしたのか。なぜオイル臭い煙が上がっているのだ。

「最後に見たとき、あんな不細工なツラじゃなかったはずだぞ? ガジェットにくれてやったのはケツだけだ。それなのにどうしてオレの車は、15ラウンドをこなしたボクサーみたいなツラをしてるんだ?」

 フェイトはしばらくゆらゆらと首を揺らしていたが、バツの悪い表情で頭を掻いた。

「えー……っと、セコンドがタオルを投げ入れなかったからかな? あはは、うん、きっとそう……とんだ鬼コーチだね」

「そりゃずいぶんとハードなコーチがいたもんだ……」

「もちろん。ハードじゃなきゃ選手は強くならないからね! 優しい訓練なんて、選手のためにはならないんだよ!」

 グッとこぶしを握り、彼女は話題の転換を計る。

「そうやってみんな打たれ強くなっていくんだよ。だから、ね? 日々の積み重ねが大事なの。毎日訓練を欠かすことなく続けた人間だけが、立派な魔導師になれるんだ。いいカフカ君? カフカ君は今きっとこう思っていることでしょう“なにをバカなことを”と」

 なにをバカなことを、と思っているカフカは、肩をすくめて向かいのソファに腰を下ろした。

「ん? 図星だね? 図星でしょ? ね? ほらやっぱり、お世辞にもまじめとは言えそうにないカフカ君のことだもん。たった一日と少しとは言え、それくらいわかるよ。こう見えてわたしには人を見る目があるからね」

「そりゃすばらしい。けど――」

 えへんと胸を張るフェイトに適当な相槌を入れ、ソファに背をもたせて天井を仰ぎ見る。

「できれば車を運転する能力も培ってほしいもんだな。」

「ううっ……、でも試験官は私のことを褒めてくれたもん。“君は私が今まで受け持ってきた生徒の中で、一番素晴らしい腕を持っていたよ”って……」

「その最も優秀なドライバーであるキミが運転した車は、一体どうなった?」

「…………うぅ」

「質問を変えよう。今も自分が最も優秀なドライバーだと思うか?」

「う、あ……わかんない……」

「ならオレが代わりに教えてやろう――このヘタクソめ!」

 ぷんすかぴーっ、とカフカはフェイトにクッションを放り投げた。

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