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顔面でボールを受け止めた、ということキッカケにして思い出していく。いや、今まで記憶の底にあったものが勝手に引き出されていくと言う方が正しい。
自分がまだロックスターかフットボールの選手になれると信じて疑わなかった頃、同じようにオーリスもまた子どもだった。それも、今の姿からは想像もつかないような可愛らしい少女だった。
おそらくは仕事の邪魔だからという理由で短くしてある彼女の髪は、あの頃はそうではなかった。なぜなら栗色の綺麗な髪はオーリスの自慢だったから。同じように、あの頃の彼女はメガネなどかけてはいなかった。キラキラと光る明るい瞳に、そんなものは不要なものだったから。
そして自分はそんな彼女の手をどうしていた? 確か、引かれるよりも引いていたことの方が多かったはずだ。彼女は自分よりも少しばかり年が上だったにもかかわらず、少し引っ込み思案な性格だったから。
そんな引っ込み思案ゆえに友だちの少なかったオーリスに付け込んで、自分は彼女ににたびたびゴールキーパーをやらせた。というか、ゴールキーパーしかやらせていなかったような気がする。
また、彼女は頑固者でもあった。負けず嫌い、あるいは意地っ張りと言い換えてもいい。いつだって自分があんまりにもシュートをキメてしまうものだから、仕舞にはムキになった彼女がシュートを止めるまで遊びは続いたのだ。
夕焼け空の下。ゴールの前にいるのは、泥だらけにもかかわらず満足そうな顔のオーリスだ。顔面でシュートを止めたせいで鼻血まで出ている――マズい、そろそろ夕飯ができたことを知らせに母さんがやって来る。オーリスは泥だらけ、おまけに鼻血まで出ている。なにをしていたのかと怒られるのは自分だ!
余計なことまでいっぺんにフラッシュバックした記憶に、恥ずかしくなったカフカは思わず顔をしかめて誤魔化した。
「やっと思い出した? あなたが女の子にどれだけ酷いことをしていたのかを」
「ああ、悪かったよ。けど、なにも鼻血を出すまで頑張らなくてもよかったんじゃないか? おかげで――」
クスクスと、まるであの頃のように彼女が笑っていることに気がついて口を噤む。
本当はね、と前置きしてオーリスは可笑しそうに真実を教えてくれる。
「あれは私からあなたへ、可愛らしいお返しだったのよ。私が泥だらけになればなるほど、擦り傷だらけになればなるほどあなたが怒られるんだもの」
「お前のパパは、そりゃもうおっかなかったよ。あの頃のオレは、お前のパパが子どもを丸飲みするって言われたって信じたくらいだ」
どっかりとシートに深くもたれかかり、息を吐く。
窓の外に視線を向けたなら、まだクラナガン工業スペースを抜けていないことが分かる。それもそのはず、なぜなら車のペースがことさら遅いからだ。度の過ぎた安全運転といったところか。それはもう安全運転とは言えないのだろうが。
ふと、カフカはまだ彼女に行き先を告げていないことに気がついた。
「オーリス、行き先は――」
「わかってる。あなたの家ね」
わかってるならいい、とカフカは頷く。
年下の上司が何やらただならぬ様子でどこかへ行ってしまったので、いい機会だとばかりに着替えやらなにやらを今のうちに取りに帰ろうと思ったのだ。2、3日ならともかく、これからしばらくの間泊まり込みになるのなら、査察部のところにあったものだけでは足りそうにない。それと、しばらくは帰ることができないと告げる必要があった。
「……帰れるうちに帰っておいたほうがいいわ」
「まるで帰れなくなるような言い草だな」
鼻を鳴らして運転席の彼女を見る。
オーリスは前方を見据えたまま、酷く言いにくそうに声を絞り出した。
「だって……、あなたのお父様がそうだったでしょう?」
「さあね」
素っ気ないその言葉が癪に障ったのか。オーリスは車を急停止させ、カフカに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。
感情をむき出しにしたその表情は、いつも冷静な彼女らしくない。焦燥と怒りが入り混じったようなそんな表情は。
「いったいどうして査察官を辞めたりしたの!?」
「話がずいぶん飛んだな」
「いいえ、飛んでないわ」
彼女は居住まいを正すと、再びハンドルを握った。
車はまたノロノロと走り出す。
「あなたは、戦闘任務のある執務官補佐なんてやるべきじゃないわ。今までどおり査察官でいるべきなのよ」
「3年間だけだ。執務官補佐でいるのは3年間だけさ。終わったらまた査察官に戻る」
「その3年の間にもしものことがあったらどうするの?」
「ないさ」
「きっとあなたのお父様も、あなたのお母様にいつもそう言っていたんでしょうね。そして――」
カフカはうっすらと笑みを浮かべて、朝焼けが照らすクラナガンの街並みに視線を移す。行きは暗くて気付かなかったが、工業スペースから街へと続く道からはクラナガンの街並みが一望できるのだ。
そうして離れた所から見ると、気づくこともあった。
高く聳え立つビルの群れが朝日を独占しており、ビルの反対側には日の光が届いていない。けれど皮肉なことに、それがクラナガンの色をくっきりと分けていて街並みを幻想的なものとしていた。爽やかな朝を迎える側と、いまだ夜を引きずる側とに。
「オレは進んでいるのさ、お前と違ってな」
窓の外に視線を向けたままそう口にすると、運転席からグッと言葉に詰まるような気配が伝わってくる。
「執務官補佐になったこともその証明だ」
「それがいったいなんの証明になっているのよ……」
「じきにわかる」
クラナガンの住宅街についた頃には、どこか気だるさを漂わせていた朝の気配はすっかりなくなっていた。それもそのはず。あと2、3時間もすれば昼どきだからだ。
結局、普通では考えられないような時間がかかってしまった。助手席から降り立ったカフカは、くたびれた背筋をうんと伸ばす。
目の前には、荒れ果てた庭をもつ自宅がある。おまけにクラナガンではあまり目にすることがないレンガ造りときたものだから、まわりの住宅からはおそろしく浮いたものとなっている。
「それじゃあ……」
と、別れの挨拶とともに去ろうとするオーリスをカフカは引きとめた。
「待てよ。茶の一杯でも飲んでいくといい。お前言ってたろ? “お母様は元気?”ってな。自分の目で確かめるといい」
「でも……」
いいのか、とでも言うかのように彼女は視線を彷徨わせる。
「別に無理強いはしないさ。忙しいなら帰れよ」
「お邪魔するわ!」
シートベルトを外して、オーリスは車から降りた。そして、はたして何年ぶりになるであろうかという邸宅を彼女はジッと見据える。おそらくは懐かしさから湿ったであろう瞳で。
昔、彼女は自身の父親の大きな手に引かれてよくこの家まで遊びにやって来た。彼女の父親は、子どもだった自分でもわかるくらい忙しそうな人間だったから、もしかしたらこの家を託児所か何かと勘違いしていたのかもしれない。とにかく彼女はそれくらい頻繁にこの家を訪れていたのだ。
カフカは来る途中に買ったタバコを口にくわえ、マッチを擦って火をつける。あのころ父親が美味そうに吸うのをただ眺めることしかできなかったソレが今手元にあって、自身が同じ銘柄のものを吸っているということにも、なんら感慨深いものはない。本来は吸いたくもないものだからだ。
煙を吐き出して、彼女の横に並ぶ。
「懐かしいか?」
「ええ、そうね……懐かしいわ」
懐にあるものを確認し、カフカは彼女に付いて来るように促す。
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