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クラナガンで一番の高さを誇っている建物は、時空管理局地上本部である。
それを見るたび、地上の平和を我々はこれからも守り続けていくだろう、といつだったかテレビで観た地上本部お偉いさんの言葉を思い出す。
そんな高みにいて、果たして細部まで見渡せるものなのだろうか。悪魔の助けでも借りなきゃ無理なんじゃないのか、と妙な勘ぐりを入れるのは、たかが査察官がすべきことではない。
地上本部の出入り口に停めた愛車の中で、たかが査察官であるカフカ・カサブランカスは、タバコを口から離して呟いた。
「長かったな……」
「……早く帰って休みたいね」
返事をしたのは、助手席のシートを倒して、今にも眠りそうに目を擦る長髪の男だった。
同じく査察官で、パートナーのヴェロッサ・アコースである。
「これが終わったら、休暇の申請でもするかな……」
「……いいね」
同意を示し、微睡む瞳を下ろしたヴェロッサを横目に、カフカはダッシュボードに放り込まれた捜査資料を手に取った。
資料には、とある男の顔写真とプロフィールが載っている。そして、その男に現在掛けられている嫌疑も。
嫌疑の名は、公金の横領着服。 そんなことをする役人は、税金を納めている一般市民に喧嘩を売るかのような大罪人である。しかも、それがミッドチルダの平和を守る管理局地上本部の高官とくれば尚更だ。
その大罪人を、カフカとヴェロッサを含む査察部は追っていた。
そして今日、実に4ヶ月にも及ぶ調査の末に踏み込む時がやって来たのだ。
きっと今頃は同僚の査察官が、それまでの鬱憤を晴らすかのように捜査令状を見せびらかしながら、鼻息荒く証拠資料を押収していることであろう。
これにて一件落着。
この後はパブでぬるいギネスをちびちびやりながら、だらだらと何時間も気持ち良く酔い続けるのだ。なんだったら、女を引っ掛けに行くのもいいだろう。
『―――男がいない!』
だから、その予定を台無しにするかのように飛び込んで来た通信に、カフカは心底げんなりした。
「証拠資料は?」
『押収した―――待て、非常階段だ! 男は非常階段から逃げた!』
今にも歯軋りが聞こえてきそうな同僚の通信に、カフカは思わず地上本部を見上げた。
クラナガンでは一番の高さを誇っているであろうその建物の、一体何階から男はやって来るのだろうか。
できれば途中で階段を踏み外して、足の骨でも折ってくれたなら楽々捕縛できるというものだ。
けれど、どうやらそんな都合よくはいってくれないらしい。
タイヤのスリップ音を派手に鳴らしながら走り去る車がバックミラーに映りこんだのだ。
手間をかけさせやがって……!
カフカは刺さりっぱなしのキーを乱暴にひねって車のエンジンを掛けた。
「男の追跡はこっちで引き受ける。そっちは空港と陸路、海路の封鎖を」
返事を待つことなく通信を切り、シフトレバーを入れ替えてアクセルを踏み込む。
所々塗装が剥げ、代わりに錆が浮き出た赤いミニクーパーは、可愛らしいボディをぶるりと震わせた。
逃げ道を封鎖するといっても、それが今すぐ可能になるというわけではない。
こちらがしなければならないのは、逃亡する男の現在位置をいつでも知らせられるように把握しておくことだ。
これはもはや、査察官の職務内容ではない。できることなら今すぐにでも、握っているハンドルを誰か別の人間に任せたかった。
それは別に、今隣りで眠りこけている男でも構わない。
前を走る一般車を退かすついでにヴェロッサを叩き起こすべく、カフカはクラクションを鳴らした。
「起きろ! クソったれ!」
「……なんだい、いきなりな展開だ。一体どうなってる?」
「まずはシートベルトを締めろ。このオンボロに、エアバッグなんて上等なものはついちゃいないんだ」
「やれやれ……」
ヴェロッサは、寝起きの緩慢な動作でシートベルトを引っ張り出そうとしたが、ベルトは車の急な進路変更で手からこぼれ落ちる。
「少し停まってくれないかい? これじゃ落ち着いてベルトが締められないよ」
「今ブレーキを踏んだら、お前の頭はフロントガラスにぶち当たってトマトだ」
「ありがとう、おかげで目が覚めたよ。でも、キミも目を覚ますべきだ。クラナガンの法廷速度とキミの頭のネジは、いつからこんなに緩くなったんだい?」
「どっちもつい2分前からだ」
そう口にすると、ヴェロッサは肩を竦めて座席の隙間に落ちたシートベルトを拾う為に腰を屈めた。
「ずいぶん汚いな……ゴミが散らかり放題だ……」
「それじゃ、ついでに掃除もよろしく頼まれてくれ。あと、左に曲がるぞ」
言葉の途中でゴツン、と何かにぶつけたような音とヴェロッサの悲鳴が上がった。
「そういうことは先に言ってくれ!」
「文句があるなら、オレじゃなくて奴に言え」
と、火のついたタバコを前を走る車へと向ける。
逃走車の紺色のセダンは車の性能が良いのか、それとも運転手の技量が優れているのか。先ほどからミニクーパーとの距離は開くばかりだ。
カフカの瞳が不機嫌に細められた。
今走っているのは直線の多い道路だ。カーブも緩やかなものしか存在しない上に、道幅も広い。今はまだ喰らいついていられるが、車の流れが少なかったらとっくに引き離されてしまう。
踏ん張ってくれよ、とカフカはギアを入れ替えハンドルを左へと切る。
ミニクーパーは軋んだ音を立てながら、まるで滑るように車線の変更を遂げた。
強引な車線変更に後ろの車がクラクションを鳴らすが、彼はそれに構うことなく更にアクセルを強く踏み込んだ。
一台、また一台と追い越し、そしてとうとうミニクーパーは紺色のセダンのすぐ後ろへと迫った。
いける、とカフカの唇が弧を描く。
セダンの前には大型トラックとタンクローリーが、それぞれ道を塞ぐかのように並んで走っているのだ。
これでしばらくは時間を稼げることだろう。後は封鎖が完了したという通信が、一刻も早く届くのを願うばかりだ。
と、ここでナイスタイミングとばかりに通信が飛び込んで来るではないか。
口元が緩み、ハンドルに掛けた指がご機嫌にリズムを刻んだ。
「はいはい、どうぞ」
『カサブランカス、封鎖の手配―――』
「よしきた!」
『……が、思った以上に手こずってる』
その知らせに相手を口汚く罵るでもなく、カフカはシニカルな笑みで答えた。
「いいさ、初めからそんなことは折り込み済みだ。お前はきっと手こずるに違いないってな。だから気にしなくていい」
『そう言ってくれると助かる……』
が、彼はそれに気づかずくたびれたようなため息を吐き出した。
『陸の連中がなかなか動かないんだ。上司を捕まえるのに抵抗があるらしい……』
「でも、動かざるを得ない」
と、ヴェロッサが身を乗り出してそう口にした。同僚の査察官はその言葉に頷いてみせる。
『まあな。身内を庇い続ければ、今度は自分たちに疑いの眼差しが向けられる』
「とにかく、だ。早いとこ封鎖の方をよろしく頼む。こっちもそう長くは保ちそうにない」
インターチェンジで下へ、市街地方面へと下りていくタンクローリーを見送りながら通信を切る。
逃走車は開いた車線を抜け、さらにスピードを上げて走っていく。
勘弁してくれ、とカフカはタバコの煙を吐き出しつつボヤく。『空港まで23km』の看板が目に付いたのだ。
「飛行機で逃げるのかな?」
「無理だろう」
ヴェロッサの問いかけを切って捨てる。
たとえ管理局の人間が間に合わなくとも、空港の警備員が男の身柄を押さえてくれるに違いないからだ。
男に魔導師としての素養はなかったはずだから、何かしらの人的被害が出ることもないだろう。
「なら、彼は一体どこへ向かおうとしてるんだ?」
「家にでも帰るんじゃないか?」
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