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Short Short
Daddy's Gone
 夕焼け空がついさっきまで目に痛いほど青かった空を赤く染め上げた頃、カフカは車を走らせながら、後部座席で眠るエリオとキャロ、助手席で欠伸を噛み殺すフェイトを見て昔のことを思い出していた。とても懐かしい昔のことだ。二度と戻らない。なぜならもう欠けてしまったものが多すぎるからだ。
 それはちょうど今日のような熱い日、ちょうど今日みたいに海に出掛けたのだ。ちょうどこの車で、ちょうど家族で。そのときのカフカはエリオやキャロよりも二、三歳下だった。

「――ハハッ、海だぜカフカ。分かるか? 海にはな、綺麗な人魚姫との出会いがあるのさ」

 派手なトランクス型の水着を履いて、頭にストローハットを被ったアンソニーが浮き輪を手に持ち、カフカの頭に手を乗せる。視線はもちろん、キャッキャッ言いながら波打ち際で水を掛け合う女の子たちだ。

「すごいや父さん! それでどこに人魚姫はいるの?」

「――ここにいるわ。とびっきり綺麗な人魚姫がね」

 トロピカルジュースを手に持ったマリアはおもむろにアンソニーに近づくと、トロピカルジュースを彼の水着の中に流し込んだ。冷たい氷ごと全てだ。そんなものを入れられては堪ったものではない。
 アンソニーは甲高い悲鳴を上げて水着を脱ごうとする。だがここはヌーディストビーチではない。

「ちょっと!? なに脱ごうとしてるのよ!」

「染みるんだ! デリケートなんだ! オレのディッキーは!」

「海で洗い流してきなさいよ!」

「残念ながらオレは泳げないのさ。海は泳ぐところじゃなくて、眺めるものだからな」

「女を!? 女を眺めてるのね? このスケベ!」

「ヘイ! 言いがかりはよせマリア。オレはロマンチストなだけだ。海を見て心を癒やすのさ」

 海に来たばかりだというのに、早々と痴話ゲンカを始める二人にカフカは恥ずかしくなる。さっきから通りがかる人がチラチラとこちらを見てくるからだ。
 そこでカフカは話しを逸らそうと口を開いた。ただ残念なのは、カフカには二人がなぜケンカをしているのか分からないことだった。

「――ねえ母さん。さっき、父さんが女の人に言ってたんだ。キミはまるで天使みたいだって。天使って、空を飛べるんだよね? あのお姉さんは一体いつ飛ぶのかな?」

 アンソニーの顔が凍りつく。我が息子はどうやら抜群に空気が読めないらしいと思いながら。
 そんなアンソニーとは対照的にマリアは息子カフカの頭を優しく撫で、砂浜に打ち上げられた木片を手に取ると、それを堅く握り締め俯きがちに薄ら寒い笑みを浮かべた。

「ウフフフフフッ、そうねカフカ。今すぐ飛ばせてあげましょう。教えてくれる? どの、女?」

「えっとね……、たぶん――」

「待て待て待て待て! オレが悪かった! だからマリア待ってくれ!」

 恥も外聞もかなぐり捨てたアンソニーがマリアを必死に止める。無理もない。妻はこれからその女をスイカ割りしに行くとぶっ飛んだことを言っているのだ。

「ならあなたがスイカになってみる?」

 ずるずるずると手に余る木片を引きずりながらマリアがアンソニーに詰め寄る。俯いているためその表情を窺い知ることができない。アンソニーはカフカを見る。父と子の目が合う。お互いに頷いた。さすがだカフカと、アンソニーは後でご褒美に甘いものを買ってやろうと誓った。

「母さん! おれはスイカ割りじゃなくて天使が見たいんだよ?」

――そうじゃねーだろ! バカ息子! なんだよなんだよ。なんでお前、やったよ父さん! みたいなツラしてんだ! ワザとか! ワザとだな? この裏切り者がっ!

 とアンソニーは心の中で息子をこれでもかと罵倒する。甘いものはなしだ。

「スイカ割りと天使に会うのはいっぺんにできることなのよ? わかった? カフカ」

「へー……知らなかった。一石二鳥ってやつだね母さん」

「フフッ、いい子ねカフカ。だからママが良いと言うまで目を瞑って耳を塞いでおきなさい。それと、しばらくパパに会えなくなるかもしれないけど……。何か言っておくことはある?」

 別にないと首を横に振ったカフカは、マリアに言われた通り目を瞑って耳を塞ぐ。この家では母の言うことは絶対なのだ。それにカフカは母のことが大好きだった。

「カフカーッ! 父さんは悲しいぞ! お前はそんなに薄情な奴だっ、アーッ!」

 生々しい音が耳を塞いでいても聞こえてくるような気がしたが、カフカは目を開けるようなことはしなかった。母の言うことは絶対なのだ。

「はぁはぁ……いいわよカフカ。目を開けても」

 マリアはカフカの肩を揺する。スイカ割りは終わったのだ。

「……天使は?」

「海の向こうに逝っちゃったのよ。見せてあげたかったんだけど……。ごめんねカフカ」

「父さんは?」

「あの人は、そのうち打ち上げられるわ……たぶん。だからママと遊びましょう?」

 カフカは母を見上げた。細い金の髪が潮風に軽やかになびいて、太陽に照らされキラキラと光り輝いている。間違いない。天使はきっと母のことだと、カフカは海に向かう母に手を引かれながら彼女の背中を覗き見たが、羽根は生えていなかった。代わりに先ほどまで彼女の頭にはツノが生えていたことなど目を瞑っていたカフカは知らない。

「――う、海は眺めるものだって、さっき父さんが」

 波打ち際、マリアに手を引かれてやって来たカフカは水に浸かるのを躊躇する素振りを見せた。
 そんな息子にマリアは任せなさいとカフカから浮き輪を取り上げ、体で覚えるのよと愛する我が子を海に放り投げた。そしてそれは見事にカフカのトラウマを増やすことと相成った。

「えっ? えっ? ちょっ!? 待って母さん! ふっ、深、苦しっ、吊った、足ぃ」

 ぶくぶくと口から泡を吐き出しながらカフカは沈んでいく。水の中から見上げる太陽はキラキラと反射してとても綺麗だ。なんて思う余裕など彼にはこれっぽっちも存在しない。水を飲んでしまう。しょっぱい。苦しい。鼻に入った水が痛い。
 そのとき、カフカの体がふわっと軽くなる。力強くて大きな腕、それに抱き上げられたカフカは一気に海面へと急浮上した。

「――ゲホッゲホッ……あっ、う、あ、父……さん?」

「ああ、大丈夫か? カフカ」

 クラクラする頭、定まらない視線。カフカは父アンソニーの腕に抱かれてぐったりとしながら、息を落ち着ける。ずっとこのままでも構わないというほどアンソニーの腕の中は心地よく、カフカは安心できた。

「カフカッ! 大丈夫!? 返事をしてカフカ! ねえ! カフカーッ!」

「落ち着けマリア。カフカは死んじゃいない。とりあえず横にしてやろう」

 普段、見かけばかりのカッコよさで頼りないくせに、どうして今の父はこんなにカッコイいのだろう。ズルいなとカフカは思った。
 とても真面目な顔だ。いつも浮かべている軽薄そうな笑みではない。父は今、男の顔をしている。カッコよかったが、それでもやっぱりカフカにはいつも見慣れている父の顔の方が好きだった。綺麗な女の人に鼻の下を伸ばしている父、母に謝っているときの情けない父、とびっきり気の利いた冗談を言ったときのどうだ! という自信満々な顔。
 母が顔を覗き込んでくる。ごめんねと声を震わせながら頭を撫でてくれる。涙を流す母も美しかった。けれど、やっぱり母は笑っている顔の方がずっと素敵だとカフカは思う。そしてその笑顔はいつだって父と自分に向けられるのだ。ずっとずっと、これからもずっと――。

「――着いたぞ。エリオ、キャロ、フェイト。起きてくれ」

 カフカは気持ち良さそうに眠りこけた三人を起こしにかかる。まるで天使のような三人を。そして、家族のような三人を。
 永遠や絶対といったものは存在しない。近づくことはできても、感じることはできても、手に入れることだけは叶わない。永遠に。
 父は死に、母は壊れた。あの夏、自分が絶対だと思っていたものは二度と元には戻らない。それでもカフカは今でも思い出すのだ。永遠や、ずっと、絶対を感じていたエバーグリーンの如き輝きをもっていた日々を。

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あきゅろす。
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