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Sexx Laws
 くたびれた。濃い隈を目の下に浮かべたカフカは、タバコ臭いスーツ片手によれたシャツと緩めたネクタイ姿でマンションの廊下を歩く。
 査察官は、忙しいときには忙しい役職なのだ。張り付き調べて裏を取り、手ぐすね引いてボロを待つ。
 そんな風に約一ヶ月ほど、カフカは大きなヤマをヴェロッサと共に取り組んでいた。そして今日、ブタ箱に一人の横領職員をぶち込んだのだ。
 だから、カフカはとにかく疲れていた。疲れきっていた。さっさとシャワーを浴びて一眠りしたかった。

「おかえりなさいカフカ! フェイトにする? テスタロッサにする? それとも、わ・た・し?」

 けれど、玄関を開けた先にいたフェイトはキラキラと素敵な笑顔を浮かべていながらも、その選択肢を用意しておいてはくれなかった。一択だ。
 カフカは、選択できない選択肢から新たな選択肢をひねり出す。

「………シャワーだ」

「うんうん、まずはシャワーだよね?」

「で、寝る」

「……のではなく?」

「いや、寝る」

「……と、みせかけて?」

 フェイトは、頬をうっすら赤く染めながらつんつんとカフカをつつく。

「ほらほらぁー。わかってるくせにー」

 これはもう、張り倒しても誰にも文句は言われないのではないだろうかとカフカは思った。
 目元を揉みながら、カフカはそんな考えを振り払うかのように頭を振る。
 女に手を上げるなど、そんなことはしてはならない。というか、力関係では彼女に分がある。自分は死にたいのか。

「悪いな、疲れてるんだ。また今度にしてくれ」

 靴を脱ぎ、タバコ臭いスーツをフェイトに放り投げ、ネクタイを緩めながらカフカは逃げるように浴室を目指す。けれど、フェイトが漏らした言葉がその足を止めた。

「……こうやって崩壊していくんだよ。だんだんと冷えていくんだ。いつしか顔を合わせてもひとことも喋ることなく、寂しい食卓でモソモソとごはんを食べ、別室となった寝室で寒い夜を過ごす。そして外には愛人がいて、カフカはめったに家に帰って来なくなる……」

 うわぁっと顔を手で覆って、フェイトはしゃがみこんだ。

―――悪妻を押さえつけることなんて簡単だ。誰にだってできる。ただし、その夫にはできないが。

 不意に、カフカの頭にそんなイギリスの諺が浮かんだ。
 彼女が悪妻かどうか……というか妻ですらないが、間違ってはいないだろう。

「他の女は抱くくせに、わたしは抱けないの!?」

 がじがじと、手に持ったスーツを噛みながらフェイトはじわりと涙を滲ませる。

「アー……、スーツが痛むから止めろ」

「スーツ!? わたしとスーツ、一体どっちが大事なの!?」

 こんなものっ! と、フェイトはスーツを床に叩きつけた。
 すかさず廊下から猫のサロメがやって来て、まるで嫌がらせのようにスーツの上でゴロゴロゴロゴロ。ニオイと毛をたっぷりつけてくれる。
 カフカは、サッとスーツを引っ張り上げてサロメのそれ以上の狼藉を許さない。そして、フェイトの方へと向き直った。

「いいかフェイト? オレは疲れてるんだ。おまけにイライラしてる! 本当なら今すぐお前をひっぱたいて黙らせたいくらいにな!」

「ひっぱたいて! わたしをひっぱたいてカフカ! パンパンして!」

 いつだって彼女は、斜め上をいく。
 潤んだ眼差しですがりついてくるフェイトを、カフカは黙って引き剥がした。けれど、彼女はなおもすがりつく。

「フェイトはいけない子です! お仕置きしてください!」

「わかった。わかったから、そんなデカい声を出してくれるな。隣人に変な目で見られ―――尻をこっちに向けるな……」

 いつだって彼女は、斜め上をいく。
 フェイトは、ぺろんと捲り上げたスカートを渋々下ろした。

「ほら、こいつをクリーニングに出しといてくれ。そいつがお仕置きだ」

 タバコの臭いとフェイトのよだれと猫の毛が付いたスーツを放り投げ、カフカはやれやれとため息を吐き出した。
 けれどフェイトはスーツを握り締めると、ぷんすかぴーっとそれをカフカに放って返す。

「生ぬるいよカフカ! もっとハードにいこうよ!」

 一緒にいるだけでハードなんだと、いい加減彼女も気づいてほしいものだ。
 現に、家に帰って来てたった10分で、仕事をしていた1ヶ月間よりも疲れを感じているのだから。
 カフカは、もう何度目かわからないくらいのため息を吐き出した。

「……もう堪えられない。お前の顔を見るだけでうんざりだ。オレは今、お前以上にムカつく奴が思い浮かびそうにない。わかるか? いや、わかれよ。はっきり言って鬱陶しいのさ!」

 蹴り開けるかのようにして乱暴に玄関の扉を開け、カフカは部屋を出た。
 フェイトにこんなに怒鳴り散らしたのは初めてかもしれない。いや、初めてだろう。彼女は信じられないといった風な顔をしていたのだから。そしてそれは、リビングの方から様子を窺っていたエリオとキャロも同じだったらしい。
 エレベーターを降りたカフカは、車に乗り込んで行く先も決めないままにアクセルを踏んで走り出した。

 階下からするタイヤが地面に擦れる甲高い音を聞きながら、フェイトはハッとしたかのように我に返った。

「ど、ど、どうしよう……カフカ、カフカ怒った……。カフカ怒っちゃった……」

 わなわなと震える口元を押さえ、フェイトは思わずその場にへたれこんでしまう。
 初めてカフカに拒絶の言葉を吐かれたのだ。それも怒りの籠もった。
 自分は、1ヶ月ぶりにまともに顔を見たカフカを癒やしてあげようと思っただけなのにと、言い訳を口にしてみる。

「…………もちろん体で」

 いやんいやんと、フェイトは照れたように頬を押さえて身を捩る。
 けれど、すぐにフェイトは自己嫌悪に陥った。自分はなんていやらしい女なのだと。これでは普段カフカに年中発情してるなど、とてもではないが言えた口ではない。

「でも……しっぽりねっとりぐちょんぐちょんに楽しみたかったな」

 しっぽりねっとりぐちょんぐちょん! しっぽりねっとりぐちょんぐちょん! と、フェイトはまるで音頭をとるかのように手を打ち鳴らして踊ってみた。だが、どうも気分が乗り切らず止めてしまう。それもこれも、しっぽりねっとりぐちょんぐちょんする予定だった相手がいなくなってしまったからだ。
 そしてフェイトは、またしても自己嫌悪に陥った。自分はどれだけいやらしい欲にまみれた女なのだと。

「―――そんな風だから、カフカさんも嫌になったんですよフェイトさん」

 浴びせられた冷たい言葉に、フェイトは恐る恐る後ろを振り返る。

「ほんと、カフカさんも可哀想だなあ。フェイトさんみたいな女の人に捕まっちゃったんですから」

 そこにいたのは、鬼の首を取ったりとでもいった風な、とてもイイ表情をしているキャロだった。
 彼女は、へたり込んでいるフェイトを見下すように腕を組むと、まるで姑が嫁にそうするようにフンッと鼻で笑う。
 フェイトは思わず正座だ。キャロの前で小さくなる。

「大体なんですか? カフカさんはあんなに疲れてたのに、フェイトさんはよっぽど気が利かないんですかね?」

「う、うぅ……だって………」

「だって? なにがだってですか!? そんなに自分の欲を優先したかったんですか!? なんていやらしいんですかフェイトさんは!?」

 真っ赤になった顔で俯くフェイトに、キャロはゾクゾクと背筋を震わせながら、暗い喜びに目覚めてしまったかのようにニッコリと唇を歪めて笑う。

「フェイトにする? テスタロッサにする? それとも、わ・た・し? ………って、なんですかそれ。思わず笑っちゃいましたよ」

 フェイトは、聞かれていたのかと頭を抱えて悶えた。体をくねらせ、うぁーっと苦悶の声を漏らしながら。

「わたしだったら死ねますね。3回死んでもお釣りがくるくらい恥ずかしいですから。……でも、わたしが言えばまだ可愛げがありますね。醜い下心丸出しのフェイトさんと違って」

 突き刺さる言葉の数々に、フェイトは人間を止めて芋虫にでもなったかのように床をむにゅむにゅ這いずり回る。ヒップを上げ、下げ、上げ、下げ。ほっぺがもちょりもちょり。

「そうやって地面を卑しくのた打ち回るのがお好きなんですかフェイトさん?」

 キャロの鋭くて冷たい言葉が芋虫フェイトを突き刺して標本にし、エリオが一人ベッドでガクブルしている頃、カフカはそこにいた。

「―――なんで家に来るんだお前は」

「仕方ないだろう? ロッサはどっか飲みに行っていないんだ」

 門柱に背をもたせ、カフカは言い訳するかのようにクロノに手を振る。
 行き場のないカフカは、フェイトの実家に来ていた。
 一夜を共にする女はいても、カフカには男友達が少ない。選択肢など初めから二つしかないのだ。ヴェロッサか、クロノか。

「だからといって相手の実家に転がり込むのはどうかと思うぞ」

「細かいことは気にするなよ。くたびれた友人に一晩ベッドを貸してくれるだけでいいんだ」

 なんでもないといった風に足を進めたカフカをクロノは止めた。

「フェイトと喧嘩したなら仲直りするんだ。今すぐ」

「喧嘩だって?」

 カフカは、うんざりしたように顔をしかめる。

「喧嘩なんかじゃないさ。オレがアイツにうんざりしただけだ。それも、顔も見たくないくらいにな!」

 ならどうして家に来るんだと、クロノの顔はそんな風に物語っていた。
 けれど、カフカはそれに気づいた風でもなく言葉を続ける。

「オレの優しさは、もう品切れなのさ。だからあんなクソ面倒な女はこれっきりだ!」

 そもそもカフカは、まともに女と付き合ったことがなかった。まるで衣服を替えるかのごとく、日によって違う女と夜を共にしていたのだから。
 そんなカフカにとって、今の生活はストレスが溜まる一方なのだ。
 首輪を付けられ自由を奪われ、あらゆることを管理される。そんなものは耐え難い苦痛に他ならない。

「確かに、結婚には多くの苦痛があるだろう……」

 だが、とクロノは言葉を区切る。

「独身には喜びがない」

 素晴らしい格言だ。金縁の額にでも入れて飾っておいたらいい。そしてその横に“人それぞれ”と書かれた額も飾っておいたなら完璧だろう。
 というかカフカは結婚などしていないし、する予定もない。
 しかし、クロノはそんなことお構いなしに続ける。

「人生は、家族に始まり家族に終わるんだ。いつまでもフラフラと遊びまわっているんじゃなくて、いいかげん大人になったらどうだ」

「そのケツの部分を妹に言って聞かせてくれないか? “いいかげん大人になったらどうだ”ってところだ」

「カフカがフェイトを“大人”にしたんだろう? なら、責任はお前が取るべきだ」

「アー……そうじゃなくてだな、オレが言いたいのはそういうことじゃないんだ」

 カフカは、先ほどマンションで起こった出来事を説明するのも億劫だった。なにせ疲れているのだ。

「考えとくよ色々と。だから、とりあえず今日は寝床を貸してくれ。疲れてるんだ」

 なので、明日やれることは明日にやればいいと考えるカフカは問題を先送り、蓋をして思い出さないように放り投げることにした。

―――これが悲劇の始まりだったのだ。





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