Short Short
Pretty Girls Make Grave
その日、カフカはいつものように仕事帰りに行き着けのパブに寄ってギネスビールを三杯ほどやった。つまみは面白おかしな冗談やくだらないジョークだ。イギリス人は基本的にビールを飲むときに何かを食べるようなことはしない。サッカー観戦しながらゆっくりちまちまとビールを飲む。それだけだ。
タクシーを拾って家に帰って来たカフカは静かに玄関を開け、できるだけ物音を立てないようにして廊下を歩く。エリオとキャロはもう寝ている時間だからだ。
トレンチコートをリビングの椅子に掛けたカフカはネクタイを緩めたところで思い直す、コートは皺にならないようにハンガーに掛けろと、耳にタコができるほどフェイトに言われていたのだ。
「――なんだ。まだ起きてたのか」
寝室の扉を開けたなら、電気スタンドの灯りを頼りにパジャマ姿のフェイトが机に座って何かを書いていた。
日記かとカフカは思い出した。「カフカはだらしないから、日記を付けながらその日一日を反省したほうがいい」と言われ、カフカ自身フェイトと同じものを渡されたのだ。もちろん三日でつけることを止めたが。
「カフカも日記、書いてる? キャロたちはキチンと書いてるみたいだよ? えらいね」
日記帳から顔を上げたフェイトがカフカに視線を寄越す。その顔に意地の悪い笑みを浮かべながら。
分かっているくせに聞く。女というのはどうしてそういう生き物なのだろうかと、カフカはハンガーにコートを掛けながら苦笑いを浮かべた。
仕方がないなあとばかりにわざとらしいため息を吐き出したフェイトは、書き終えた日記帳を棚に戻し立ち上がる。そしてネクタイを緩めているカフカに思い出したように言った。
「あっ、リビングに晩ご飯置いてあるから。今日はムニエル。鱈のムニエルだよ」
「そいつは楽しみだな。なにも腹に入れてこなくてよかった」
「もう、そんなだったら外じゃなくて家で飲んだらいいのに……」
週に一度、カフカはパブに飲みに行くことを許されている。“まっとうなパブ”へだ。仕事仲間と飲みに行くことがほとんどだったが、最近はヴェロッサと二人で行くことが多かった。遠慮や気を使わないでいい彼との関係はとても楽で、カフカとしては良い気晴らしになった。
カフカに付いて寝室を出るときにパジャマの上からカーディガンを羽織ったフェイトは、リビングでカフカの食事の支度に入る。
「今日は、アコース査察官と?」
フェイトはサランラップに包まれた皿をレンジに入れ温めなおす。今日の料理は自信作だったから、出来立てを食べて欲しかったのになとフェイトは苦笑いを浮かべるも、カフカにも付き合いがある以上は仕方がなかった。
フェイトの問い掛けに気の抜けたような返事をしたカフカは欠伸をひとつかみ殺し、見るでもなしに付けたつまらないテレビから視線を外すと、台所で自らの遅い夕食の支度をする彼女を見る。自分のために遅くまで起きていてくれたのだろうと思うと、少し悪い気がした。労いの言葉や感謝の言葉のひとつでも掛けた方が良いのかもしれなかったが、そんなものは今さらだった。だからカフカは言わなくても向こうは察してくれているだろうと、典型的なダメ亭主の思考に落ち着いた。
「そういえばさー、カフカ最近、マンションに帰らなくなったよね?」
そうだった。カフカは気がつけばこちらに帰って来るようになっていた。ヴェロッサとシェアするマンションではなく、三人のいる暖かな家へ。
返事をしないカフカの横顔を覗き見ながら、フェイトは口を尖らせる。欲しい言葉があるのだ。言わせてみたい言葉があるのだ。
「どうしてかな?」
「そうだなー……」
「どうしてかな?」
「うーん……」
「どうしてかな?」
「どうしてだろうな」
そこで時間切れとばかりにピーッと、レンジが音を立てた。
「そこはふつう、『愛してるからだよ』って言うところでしょう……バカフカ」
「そうか。そうだったのか。どうする? やり直すか? 今のB級メロドラマみたいなやり取りを」
小馬鹿にしたような笑みを浮かべるカフカを見て、フェイトの顔が恥ずかしさと悔しさで赤くなる。
「……バカフカ。もう帰ってくるな」
「拗ねるなよ。さあ、早くハードックを持って来てくれ。好物なんだ」
「自分で取りに来て」
それだけ言うと、へそを曲げたフェイトはさっさとリビングを後にしてしまう。
ナイフとフォークを両手に持って待っていたカフカは、肩を竦めると一人寂しく遅い夕食を取り始めた。
「――香水の匂い……女?」
寝室でカフカのコートを手に、フェイトは唇をキツく噛み締める。
パブなどの雑多な所に行けば様々な臭いが染み付く。ふてくされて布団を被り寝る前にいつものようにカフカのコートを消臭しておこうと思ったのだが、どうも香水の匂いが鼻に付いた。女の勘と、カフカを今まで見てきた勘から言わせてもらえば“黒”だった。
「ばかふか、ばかふか、ばかふか……こんども、ぜったいにバイバイキンしてやる。まだわからないみたいだから。わかるまできざみつけよう。うん。それがいい。かふかはばかだから。しあわせ、こわそうとする。せっかくつくったのに。いっしょうけんめい、つくったのに。やっと、できたのに。しあわせなかぞく、できたのに。わたしがいて、かふかがいる。えりおがいて、きゃろがいる。ほかになにがいるの? なにもいらないよね。うん? もうひとりくらいふえてもいいかも、つくろうかな? つくろうかな? ふふっ、きっと、もっとしあわせになれる。かわいいあかちゃん、つくろうかな。だって、かふか、にげちゃうかもしれないから、つないでおかなくちゃ。うん。つなごう。あいしてる。あいしてるよ。さんにんともあいしてる。だから、だから、だいじょうぶ。もっとしあわせになろうね。あぁぞくぞくするぅ」
フェイトはぶるっと背筋を震わせると恍惚とした笑みを浮かべた。そして彼女は暗い色を湛えて沈んだ虚ろな瞳を宙に浮かべたままおもむろに立ち上がると、コートをゴミ箱に投げ捨て棚から再び日記を抜き取り机に向かった――なまえ、かんがなくちゃと嬉しそうに呟きながら。
「――Upon the sand,upon the bay “There is quick and easy way” you say Before you illustrate I'd rather state...」
ご機嫌に歌を口ずさみながらカフカは頭をドライヤーで乾かす。髪が伸びてきたな、なんてことを考えながら。モリッシーはバスルームで熱唱するおっさんのような感じだとか、スミスはファーストアルバムが一番好きなんだよなー、なんてことを考えながら。
「まっ、オレだけだろうな」
ドライヤーを仕舞ったカフカはコキコキと小気味良い音を立てて首を鳴らしながら寝室へ向かう。今夜はぐっすり眠れそうだなんて欠伸をかみ殺しながら。
「――なんだ、まだ起きて……」
寝室に足を踏み入れたカフカは明かりが付いているのを見て反射的にそう口にしたが、どうやらフェイトは机に突っ伏して寝てしまっているらしかった。そんなところで寝ると翌朝にはきっと体がガチガチに固まるだろうにと、溜め息を吐き出したカフカは仕方なしに彼女を抱きかかえベッドに横たえる。
「お前が風邪ひいたら、誰がオレのメシを作ってくれるんだ? まったく」
彼女に毛布をかけると、カフカは付けっぱなしのデスクスタンドを切る――いや、切らなかった。目についてしまった。
「なんだ……日記、だよな……」
恐る恐るそれを手にとったカフカは悪いとは思いながらもそれを捲った。
――あかるい家族けいかく!
そうタイトルが振ってあるその下を見れば、事細かに未来の予定が書き込まれている。なぜか子どもが多い……サッカーチームでも作るつもりなのだろうかと、カフカは微笑ましくなった。可愛いじゃないかと笑ってやりたくもなった。けれど微笑ましいのはそのページまでだった――。
――○月×日 晴れ
カフカと楽しそうに喋る受付の女の子をバイバイキン。ちょろい。カビルンルンレベルだった。けれど腹が立ったので、カフカの夕食のおかずを一品減らす。
――○月△日 曇りのち晴れ
ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう 笑った。あの女、わたしを見て、笑った。あのめすねこめ。ちくしょう。悔しい。ぜったいにバイバイキンしてやる。ぜったいぜったいバイバイキンしてやる。おぼえてろ。かつのはわたし。カフカはわたさない。
――○月□日 雨、たくさん
あはははははははははははは、やった。やったよカフカ。あのめすねこめ。ざまぁみろ。やった。やったよ。今夜はごちそうをつくろう。いい日だ。
――○月×△日 晴れ
その日付を見てカフカは今日のことだと、生唾を飲んだ。けれどページはぐしゃぐしゃで読めない。書き直したのだろうかと、次のページをめ――。
「――みーちゃった。みーちゃった。乙女の秘密をみーちゃった。いーっけないんだ。いけないんだ……」
クスクスと笑いながらフェイトは背後からカフカをキツく抱きしめ首もとに顔を埋める。何度も何度もじゃれつくネコのように頬をなすり付けながら。
カフカは突然の出来事に息が止まりそうになるも、彼女の絹のような髪を撫でつけながら口を開いた。
「……悪い。悪かったフェイト」
「どうしようか。許してほしい? 許してあげようか?」
ああ、とカフカは頷くがしかしフェイトは「ヤダ」と、子どものような返事をして彼のうなじに歯を立てた。どれくらいそうしていただろうか、ようやく満足したのか、フェイトは自分の歯形を嬉しそうに眺めるとペロペロとその部分を舐め出す。ごめんねと笑いながら。
「でも、まだ許してあげたわけじゃないんだよ――見ちゃった以上はわたしに付き合ってもらわなくちゃ」
クスクスと笑うフェイトの、その生暖かい息遣いがカフカの耳をくすぐる。ヌラヌラと蛇のように粘着に舌が耳を這う。ピチャピチャと水っぽい音とを出しながらフェイトは舐める。舐める。舐める。ハッハッと犬のようにだらしのない息をしながら。あるいは毛づくろいをする猫のように執拗に執拗に何度も何度も。そして唐突にその行為を止めたフェイトは小さな声で、しかも震えている。けれど彼女はよく聞こえる声で囁いた。
「――地獄まで、付き合ってもらうから」
歓喜に打ち震えた声だったのかと、カフカは彼女とは逆の意味で震えた。
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