月の蘇る 8 運ばれながら、以前のように死に至るまでの傷ではないと気付いた。 が、何処をどうやられたのか見当もつかないほど傷の数は多く、滴り落ちる程に血が流れているのも分かる。それくらいには意識ははっきりとしていた。 だがそれは時間の問題だし、これから何をされるかにもよる。 血を飲むと言っていた。王の願いの為に。願いとは? 神になるーーそれはつまり、朔夜や皓照のようになること?あの神のような力を持つ事。そんな事が可能なのか。この血を飲む事によって。 否、そんな事があろう筈がない。 悪魔はかつて言っていた。 王様に嘘を吹き込んだ、と。 その嘘とは、これか。 俺の血を飲んで神のような力を得る事が出来ると。 神のような力。それは。 これも悪魔が言っていた。 兄が一番欲しているのは、不死になる事だと。 石の寝台の上に身を置かれる。 足を縄で括られる。少し視線を横に動かせば、逆さ吊りの磔柱が見えた。 準備していたのだろう。悪魔の嘘を聞いてから、この瞬間の為に。 視界の中に喜色を浮かべる兄の顔が入ってきた。 もう何かが壊れている。 外れかけていた箍が、完全に吹き飛んでしまったような。 それでも一縷の望みをかけて、重たい口を開かねばならなかった。 「不死となって…何をなされるのです」 声は届いていたのだろう。一瞬、眉が潜められた。 が、王は配下の者に命じた。 「衣服を剥ぎ取れ。全身の血を絞り出すんだ」 為されるがままに、抵抗する力も無い。 あったとしても、この人の前で抗う事など出来ない。 もう誰の命が懸かっている訳でもないのに。 そう考えて気付いた。 独りになってしまった。 それは、互いにだ。 血を吸う布地が全て取り払われ、傷口という傷口が全て露わになり、逆さに吊られる。 流れる血が口に入り目を覆う。何も見えない。近くに居る気配だけが伝わる。 頭に霞がかかる。何も分からなくなる前に、ここに来た目的を果たさねばならない。 「やがてこの城は落とされます…兄上」 常なら激昂される言葉を吐いても何も返って来ない。 代わりに手首を掴まれ、刃物を当てられる。 鋭い筈の痛み。だがもう鈍くしか感じられない。 傷口に温かなものが触れる。唇、舌。本当に血を飲んでいる。 あれは嘘なのに。 「城が落ちればあなたも危険です。逃げて下さい…。俺はそれだけを言いに来た。あなたに生きて欲しいから」 血を吸う動きが止まった。 表情も見れない。それでも閉じていた瞼を開けると、霞む視界の中にこちらに注がれる視線を感じた。 「不死となって…それであなたが幸福なら、この身などいくらでも捧げます。それであなたが人に戻るのなら」 ぽつり、ぽつりと頭の下で血液が滴り落ちる音だけが響く。それを溜める為に盤が置いてあるのだろう。 間も無くそれは、溜まった液体の中へまた無数の滴が落ちる音に変わる。 「…兄上は本当は良い人でした。それを壊していったのは王位かも知れない。皇太后が運命を操っていたせいかも知れない。…或いは俺のせいでしょう。それらが全て消えたら、あなたは元に戻りますか…?」 顔面を手が覆い、流れる血を拭った。 目を開くと、蒼ざめた顔の下半分を赤く染めて、獣のような人間の顔があった。 どうしたら人に戻るのか、自分の言葉は届いているのか、分からなかった。 「お前は一体、何を望む?」 人の言葉だった。 龍晶はふっと笑んだ。 「この国の人々の幸福です。この国に居る全ての人…あなたを含めて…安らかに、生きる事…」 いよいよ意識が重苦しくなり始めた。 もう呂律も回らない。口を開くのも力が足りない。 瞼は重力に反する事が出来ず閉じられなかった。 だから見えた。 獣となった人の涙が。 声には出せなくとも、心から祈った。 この人に、人として生きて欲しい、と。 血の滴る道を辿って、朔夜はそれが続く扉を体当たりしてぶち破った。 「龍晶!」 叫んで、歯向かってくる雑魚を斬り捨て、蹴り飛ばして、その姿を改めて目に入れた。 一瞬、息をするのも忘れた。 足から吊るされ、人としての色を失いつつある身体。その大部分は、乾き始めどす黒くなった血が覆う。 その下に王が踞り、顔は見えなかった。 そして初めて気が付いた。龍晶には性器が無く、そこには明らかに切り取られた痕がある。 一瞬で全てを理解した。 彼が生きる事を許される為には、その後継を作ってはならなかったのだと。 全てはこの王の地盤を盤石にする為に。 今まさに崩れようとしている地盤を、幻想で固める為の犠牲。 朔夜は我に返って駆け寄り、邪魔な王を蹴飛ばした。 王は壁に身体を打ち付けたが、何の文句を言うでもなく項垂れていた。 その様を見る間も惜しく、血に汚れた身体を支え、縄を切る。 重みが一気に腕の中へ落ちて、一緒に倒れた。 「龍晶…しっかりしろ…生きろよ!」 抱き合って倒れたまま必死に呼び掛ける。意識が無い。でもまだ生きている。 朔夜は咄嗟に気を集中させた。 どの傷を治すかも分からない。ただ全身に覆い被さって、生きろ、と。 それを念じてーーいつかのように。 光。温かな、光が。 何かが壊れる暴力的な音で集中は破られた。 朔夜は思い出した。反乱軍はもうそこまで来ている。 一先ず龍晶の状態を確認する。息をしている。冷え切っていた身体は、少し温度を戻していた。 朔夜が顔を起こすと同時に、後ろから祥朗が龍晶の衣服を持ってきた。彼は義兄の秘密を知っていたのだろう、驚く素振りは無かった。 とりあえず友を祥朗に任せ、朔夜は立ち上がる。 視線の先には、壁に凭れ項垂れたままの戔王が居た。 「逃げろ」 朔夜は言った。 王はゆるゆると視線を上げた。 「龍晶の願いは聞いたろ?あんたが生きてなきゃ意味無いんだよ。もうここは陥落する。逃げろ」 王は重そうに身体を起こし、眠る半弟の顔を見下ろした。 そして何も言わず、踵を返す。 そこへ静寂を破って飛び込んできたのは多くの女官を連れた皇太后だった。 「陛下!陛下!ここにおわしましたか!!野蛮人共が城を荒らしております!お助け下され…もう役立たずばかりで、あなただけが頼りなのですよ!」 王は実母を振り返った。 それこそ屑でも見るような目だった。 「陛下!」 縋る母を王は押し飛ばした。 女官達が皇太后様、と口々に悲鳴を上げて、転がる女の周りを取り囲む。 「何を…」 今起きた事が信じられないと、皇太后が口を開くのを遮って、王は朔夜へ向き直った。 「俺が逃げても悪魔殿は殺しには来ないのか」 「どうしてさ?あんたを生かす為に俺達はここへ来たって言ったろ?早く行けよ、本当に死ぬぞ」 「だが俺は不死になった筈だ…」 「まだそんな馬鹿言ってんのかよ?そんなの嘘に決まってんだろ。悪魔の悪戯なんか真に受けてんじゃねえよ。それにな」 朔夜は有りったけの怒りを込めて告げた。 「あんたがこれから生きる道は、死ぬより何倍も苦しい道だよ。不死ってのはそれを永遠に味わう事だ。覚えとけ」 王ーー否、王の位を既に無くした青年は動き出した。 外へと通じる扉を開けながら、ぼそりと朔夜へ告げた。 「弟が目覚めたら、悪かったと…伝えてくれ」 朔夜は頷いた。そして彼を見送った。 「待って…待って下され陛下!妾を置いて行かないで!」 皇太后が慌てて身を起こし、息子を追い掛ける。 それを見送った時、足元で軽い咳が聞こえた。 「龍晶…!?大丈夫か!?」 目を開き、力の入らぬ身体を起こそうとしている。 支え起こすと、耳元だから聞こえる声で問い掛けられた。 「兄上は…」 「ああ、今逃げた…」 言いながら彼らが行った先に視線を送った時。 群衆が雪崩のように押し寄せて。 居たぞ、と怒鳴り声。王だ、こいつらが元凶だ、と。 殺せ、殺せーーその抗えない流れの渦の中に。 血が舞った。 待て、待ってくれ、龍晶が叫んでいた。 その悲痛な声が、届く筈も無く。 武具に混じって、棒や、鋤や、鍬、そういうものが振り下ろされる。 今やっと人に戻った人に向けて。 それは一瞬だった。 人の塊がいくらか散って、やっとその中央が見えた時には。 かつての王と皇太后、その二人の無残な亡骸が転がるばかりだった。 呆然と龍晶と朔夜は肩を抱き合ったまま、その様を見ていた。 悪い夢だった。 どんな悪夢より、悪い現が、今そこにあった。 龍晶は震える足で、吸い寄せられるように、そこへと向かった。 朔夜も支えながらその場所へ立った。 たった数分前まで生きていた人が、見る影も無い程に顔貌を変えて、血を流して死んでいた。 それを実行した民達は、勝利の声を上げているが、二人の耳には入らなかった。 力を無くした龍晶の身体が、兄の亡骸の横へと崩れる。 躊躇いながら、もう血の通わぬ手を取った。 朔夜は唇を震わせながら龍晶に告げた。 「今…今さっき、この人は、弟に悪かったと伝えてくれって…そう言ったのに…」 驚いた目で見返される。その目に涙が溢れた。 真っ赤な中に、限りなく透明な滴が落ちる。 終わった。全てが終わった。 血で血を洗う、混沌の中に。 「ごめん。王様の言う事を聞いて、悪魔になってた時の記憶が全部蘇ってきた。本当にごめん」 城内の、まだしも落ち着ける部屋へ場所を移して朔夜、龍晶、祥朗、そして混乱の中自分達を発見してくれた宗温が集った。 床の中で龍晶は、本当に憑物が落ちたような虚ろな目をして身を横たえている。 朔夜はまずこれを言わねば気が済まなかった。 全部思い出した。王に吐いた嘘をきっかけに、自分が何をしたか、龍晶を如何にして殺そうとしたか。 「もう許したって言ったろ。謝るな」 芯の無い声で龍晶は突っぱねた。 「うん…」 「殿下…いえ、龍晶様、少しお休みなさいませ。後の事は我々が処理しますので、何も気になさらず」 宗温が言って、朔夜の肩を引いた。 これはここから出ろという事だと察して、朔夜は龍晶の枕元から身を引いた。 「朔夜」 相変わらず力の無い声で呼ばれる。 「ん?」 動きを止めて聞き返す。 「お前は…よくやってくれた。我儘に付き合ってくれて…ありがとな」 それを聞いて、何故だか急に泣きたくなって。 「うん」 さっと外へ出た。 ぼろぼろと涙が出て止まらない。何故自分が泣いているのかも分からない。 宗温が続いて出て来て、肩を叩き言った。 「よく龍晶様をお守り下さった。私からも礼を言います」 「守れなかったよ」 泣きながら朔夜は言葉を返した。 「守れなかったんだよ!誰も死なさないって言ったのに!そう約束してここへ来たのに…!」 「しかし…」 「どうして皆、人を殺して喜んでんだよ!?王様は生きなきゃならなかった!殺しちゃならなかったのに!どうして…!?」 絶叫して、これは龍晶に聴こえてしまったと気付いて、あとの言葉は溜息に変えた。 「俺がこんな事言う資格なんか無いな…」 欄干に凭れ、ずるずると座り込む。 もう全てがどうでも良かった。 龍晶はもっと息詰まる絶望の中に居るだろう。 なのに、あんな事を言う。 お前がちゃんとしておけばこんな事にはならなかったと、詰ってくれた方がまだ良いのに。 「朔夜殿、しかしですね、これで終わったのです…いえ、これは始まりです。漸く始まったのですよ?人を生かす世が」 宗温が横に腰を下ろして柔らかく教えた。 朔夜は欄干を握る手に額を付け、暫し目を閉じて。 小さく息を吐いて、返した。 「そうだな。あいつが望む国を…誰も理不尽に死なない国を、作らなくちゃな」 死んでいった者達の為にも。 宗温は朔夜の背中を軽く叩いて立ち上がった。 「龍晶様の世です。新しい世の幕開けです。まだこの国は立ち直れる。だから、この城に火をかけてはならないと私は命じた。正解でしたよね?」 戯けて見せる宗温を見上げて、朔夜は少し笑った。 「お陰で俺達も灰にならずに済んだよ」 はは、と笑って宗温は階下へと降りていった。 欄干の隙間から、階下で動き回る人々を眺める。 遺体の検分、負傷者の治療、武具の押収。とりあえずの城内の戦後処理は宗温の手配で進んでいる。 桧釐はまだ城までは達していないが、都で起こる混乱を収めていると聞いた。 はたと、もう一人の重要人物の存在を思い出す。 皓照は。 恐らく、城の攻略がこんなにも早かったのは、彼の存在があったからだ。 そう思い至ると同時に、まるで頭の中を読まれたかのように、声が降ってきた。 「朔夜君、無事なようですね」 分かっているが、見上げて、眩い金髪を見て。 何とも言えぬ苦みが心を締め付ける。 矢張り全てこの男の掌の上。 自分達の、この絶望も。 「陛下はどちらに?」 問いに眉根を寄せた。 「陛下?」 王が死んだ事を知らない筈は無いが。 皓照はいつもの小馬鹿にしたような笑みで言い直した。 「龍晶陛下ですよ」 ああ、と呻いて朔夜は立ち上がる。 そして、今更のように呟いた。 「王になるのか…あいつ」 「そうですよ。その為に今まで頑張ってきたのではありませんか!」 情けなく表情を崩して、そして気乗りはせぬが仕方なしに今出た部屋の扉を開けた。 祥朗がきょとんと初めて見る顔を見上げる。 その枕元で、龍晶は祥朗に少し外で待っていてくれと告げていた。 少年は頷いて、二人と入れ違いに出て行く。 扉が閉められた事を受けて、皓照は満面の笑みで龍晶の顔を覗き込んで言った。 「おめでとうございます。晴れてあなたの世が到来しましたね!龍晶陛下、どうぞよろしくお願いしますよ?」 朔夜から龍晶の表情など見えなかったが、どんな顔をしているかは容易に想像出来た。 否、表情など無いだろう。手を取るように分かるのは、その心中だ。 予想通り、龍晶は吐き棄てるように返した。 「やめろ。王になどならぬ」 「これはまた天邪鬼な事を仰る!分かっていますよ、あなたは素直になれないお人ですからね、陛下」 「その呼び方はやめろ!」 叫ぶのも辛い身体だろうに、全身を戦慄かせて怒鳴って、龍晶は荒い息の中で言った。 「俺は王になんかならない。どうせなれない身体でもある。諦めろ。俺はお前の駒にはならない」 皓照は笑みを益々深くして返した。 「何の事を仰っているのか理解し兼ねますが」 「…もう、消えてくれ。お前の相手なんかしてられない…」 泣き声混じりの声に、朔夜は居たたまれず二人に近寄った。 龍晶は頭から布団を被って顔を隠している。 朔夜は皓照を振り返って言った。 「今は休ませてやってよ。俺の治癒も半端なままだし、療養させなきゃ。まだ先の話なんか出来ないよ」 ふーん、と皓照はさも今知ったような声を出して、そしてまた笑った。 「じゃ、朔夜君、もう話が出来ると思ったら私を呼んで下さいね。頼みましたよ?」 苦い顔で皓照を見送る。 絶対に呼んでやらねえからなと心の中で毒付いて、龍晶を振り返った。 その途端、胸の中に飛び込んできた半身を受け止めて。 朔夜の胸に顔を押し当てて、龍晶は嗚咽を噛み殺していた。 祥朗の手前、誰かに縋りたくても出来なかったのだろう。今やっと感情を出せたのだ。 朔夜は頭を腕で包み、肩を抱いて、何となく安堵して。 そして自分も泣いている事に気付いた。 これで良いんだと思った。 ここまで最悪な結末であっても、その悲しみを分かち合える友はまだ、ここに居るのだから。 [*前へ][次へ#] [戻る] |