月の蘇る
7
「こいつが本当に悪魔か?生け捕りすら易しいな」
こうして城に滞在する兵を全て動員して捜索する程の価値があるとは思えない。
生きたままの捕獲は極めて難しい為、殺しても構わないとする命令が出たが、今やその悪魔は生きたまま無数の刀の下で成す術も無く転がっている。
「悪魔ってくらいだから偽者くらい創り出せるんじゃないか?」
「まさか。で、こいつはどうする?」
「本当に悪魔かどうか試せば良いんじゃないか?」
「どうやって」
「本物なら殺しても生き返るんだろう」
「そうか。確かにな」
哄笑して兵の一人が刀を心臓の上に翳す。
悪魔は虚ろな眼でそれを見ていた。
抵抗する気配は無い。不可能だと観念している様だった。
「生き返れなくとも、恨むなよ」
ふざけ半分の言葉をかけて、刀を降ろした。
肉を断つ感触。呆気ないものだと思った、が。
突き立てた筈の刀はあらぬ方向へ倒れた。
一瞬何が起こったか理解しあぐねて、それが自分の腕もろとも地面に叩きつけられるのを目の当たりにして。
悲鳴を上げた瞬間には、下から斬り上げられていた。
「離れろ!!」
蜘蛛の子を散らすように兵達がそれから距離を取る。
腕の無くなった兵をちらりと横目に見、朔夜は悠々と立ち上がった。
その左胸からは血が流れているが、深く入る前に見えぬ刃が兵の腕を断っていた為に心臓まで傷は達していない。
一定の距離を保って、己を中心に円を描くように刀を構える敵を、舐めるように眺め回した。
口許には微かに笑みが浮かんでいる。
――愉しそうだ。
意識はこれ以上無く冴え渡っていた。
「悪魔を捕まえるんだろ?」
一転して、余裕たっぷりの挑発を口にする。
「来いよ」
余りの空気の変わりように兵達は飲み込まれていたが、獲物を前に退き下がるという選択肢は無い。
円が徐々に狭まり、複数が同時に斬りかかる。
が、刃に当たったのは味方の刀で、互いに交差する刀を認めた瞬間には胴と足が引き裂かれていた。
その低い姿勢のまま、朔夜は次なる包囲網へ走り、相手に刀を構える暇も与えぬまま斬り倒す。
降り降ろされた刀を紙一重ながら余裕にも見える動きで躱すと、高く跳躍して敵を斬り倒しながら包囲の背後を取り、不意を突かれた兵達を薙ぎ倒してゆく。
愉しい。こうして圧倒的有利な状況で戦うのは、愉悦以外の何者でもない。
今まで何を心配していたのだろう。自分はこうして力を制御出来ているではないか。
牢の中で霜旋を脅した時も、箪嬰を助けた時も、月を見ずとも力が使えた。即ち破壊の力が自由に使えるようになった証だ。
もう何も恐れる事は無い。
もう誰も、俺を止められる奴は居ない――
辺りがしんとした。
周囲にはもう誰も居ない。屍だけが転がっている。
敵が居ないならこちらから出向いてやろうと思い、足を踏み出したが、その足が崩れた。
倒れ、打ち付けた頭に、もう一つの声が警鐘を鳴らす。
今すべきはそれじゃない、と。
頭の中に二つの声が響き、割れそうな程痛んだ。
何だこれは――経験した事の無い痛みに、頭は混乱する。
何も考える事は出来ない。だがとにかく、この状況で敵に見つかるのは余りに好ましくない。
這いつくばって目立たぬ物影に身を寄せて、呻き声を殺した。
頭の中で二つの意思の声が響く。
『このまま城に戻って憎い敵を皆殺しにしろ』
『まずは梁巴の仲間を安全な場所まで逃がさなければならない』
『憎い繍の奴らに報復するのは積年の望みだろう』
『梁巴の地へ皆で戻ると言ったばかりではないか』
『今を逃せば好機は無い』
『このまま仲間を放っておく気か』
どちらが己の声なのか――己の声ではないとしたら、一体誰の意思なのか。
何が起こっているのか、己の精神は正気なのか、否。
――俺は、誰だ?
何か、真っ黒な、
光の一筋も無い、ただただ闇の、
そんな世界を見、慄いた。
――俺は、俺ではない。
「月神さま」
呼ぶ声。
誰を――何を、呼ぶのだろう。
「月神さま、大丈夫?」
何人かの足音が、闇の向こうから駆け寄ってくる。
咄嗟に、刀を持つ右手を、左手が掴んだ。
斬る。
斬ってはならない。
何故だ?
奴らは俺の邪魔をする人間だろう――?
「来るな!」
怒鳴った。
その声が走り寄っていた少女らを止めさせた。
彼らがどんな顔をしているかなど、見る事は出来なかった。
尤も己を叫ばせたものが何だったか、朔夜自身も判らない。
彼らを排除したいという右手と、それを止める左手。
真っ二つに割れた己の意識の、どちらの声だったか。
否。
己の内に巣食う化物に、彼らを喰わせてはならない。
急に力が抜けた。
体のどこも言う事を聞かない。力を使った後の、いつもの反動だ。
膝立ちだった身体は頭から倒れ、額を泥水に擦り付けた。
そうやって見た、同胞の顔は、己に対して怯えきっていた。
そりゃそうだよなと思う。
はっきりした。己の内にケダモノが居る。
あの、怯えきった顔は、
俺が俺自身を見る顔だ。
荒い息が泥水に泡を立てる。
このまま泥水を啜って死ぬ訳にもいかないだろう。
気力を振り絞って起き上がろうとした。
関節がみしみしと音を発てるようだった。身体中の筋が悲鳴を上げた。
それでも肉体的な痛みが問題にならない程、心は打ちひしがれていた。
時間をかけてそこに起き上がった時、敵の足音を遠くに聞いた。
戦慄が身心を急き立てる。
怖いのは敵ではない。それを見つけた時の己だ。
ゆっくりと、同胞達に顔を向ける。
それぞれが、動く事も出来ずに凍り付いたまま、こちらを凝視している。
「ここを出て、山へ」
掠れた声だが届く程の静寂。
彼らは戸惑った様子で動き兼ねていた。
突如示された自由への道が信じられないのか。否、それを示す者が信じられないのだろう。
朔夜は痛みに顔を顰めて立ち上がる。
「もう大丈夫だ。行こう」
呼び掛けても、まだ戸惑いの空気は消えない。
月を憑けた事をじんわりと後悔しだしたが、あの時他に選択肢は無かったとも思う。
否、選択肢など始めから与えられる筈も無いのだ。
一体、今までに自分で何を選べただろう。
そもそも、この『自分』というものが今や何より不確かな存在となってしまったのだ。
ここに立っているのが確かに己だと、己で確信出来ない。
そんなものを、誰が信じられようか。
「月神さま」
呼び返したのは華耶の母親だった。
「いえ…朔夜と呼ばねばなりませんでしたね。このお姿を見ると、どうも御名をお呼びするのは恐れ多くて。…皆、同じ気持ちでしょう」
それは真っ直ぐに向けられた視線が肯定している。
そこから逃げたいのは、朔夜一人のようだ。
「私達は今更ながら、本当の事を知りました。遅すぎました。今や後戻り出来ないのも解っています。でも、聞かせてください」
朔夜は先を促すつもりで小さく首を傾げる。
本当の事とは何か、何を聞かれるのか。
恐ろしくもあった。
「あなたをこうも苦しめ、傷付けてまで、私達はあなたを頼っても良いのでしょうか?」
え?、と思わず小さく声が出た。
言われた事を理解出来なくて、しかしその言葉を素直に辿ってゆくと、己の世界が傾き、裏返る様だった。
同胞達には、月神の姿はもっと神々しい、超越したものの筈だったのだろう。だが『本当』は違う。
月神は実際には禍々しく、神憑りが解けた後は泥水を啜る程悲惨だ。
そんなものは朔夜の中で当たり前だった。己を使役する、または周囲に居る誰にとっても当たり前の事だと思っていた。
だが梁巴の人々は、初めて実際に目の当たりにした神の姿が、あまりにも悲惨である事に衝撃を受けたらしい。
頼るべきではないとまで思われている。
朔夜は彼らの優しさに済まなく思った。
「ごめん。俺には他に術が無い」
皆を守る、術が。
「これでも、良いなら」
華耶の母親は、寂しげに微笑んだ。
「出来る事なら、私達があなたを守りたいのですが」
そして、闇の向こうを窺って。
「早く行った方が良いですね。もう誰にも見つからないように」
振り返り仲間に頷きかけ、自ら率先して出口へと向かい始めた。
皆がそれに続く。
有り難う、と心の中で頭を下げ、列の最後尾に朔夜もまた続いた。
長く閉じ込められていた門を皆で出た。
「山ならば、私達の味方です」
繁みに入りながら、華耶の母親が力強く言った。
「何せ私達は皆、深い山の中で育ったのですから」
言葉通り、山歩きは皆、達者なものだった。
明かりの無い闇の中だが、朔夜の眼には月明かりだけで十分な視界が開けていた。
闇の中での生活が長かったせいでもあるだろう。
だが、これも力の一種なのかも知れない。
皆を先導して山を登り、程よい所に洞穴を見つけた。
全員が入ってもまだ余裕のある広さがある。神の加護というものがあるとしたら、そうやって現れた場所のように思えた。
それぞれが落ち着き、安堵の息をつく様子を見、朔夜は洞穴の口に立って外を窺った。
山はまだ闇と静けさに守られている。
「華耶の所へ行くのですか?」
後ろから母親が問う。
「ああ」
闇を睨んだまま短く朔夜は答えた。
「親として、感謝しなくてはなりませんね。あなたに命懸けで娘を救って頂けること…。でも、出来る事なら今ここで、私はあなたを止めたい。あの娘に何があろうとも」
「何で…!?」
朔夜は驚きと共に振り返った。
実の親がそんな事を言うとは思わなかった。
彼女は少し微笑み、言った。
「あの娘が…華耶が、望まないと思うからです。あなたが命を削ってまで自分を助ける事を」
「……」
解らなくは無かった。
華耶の優しさは、誰よりもよく知っている。
朔夜もまた、微かに笑んだ。
「心配しないで下さい。俺の命は削りたくとも削れません。それよりも、華耶が辛い思いをしているのを黙って見ている方が、俺には耐えられない」
磨り減ってゆく自分自身を、繋ぎ止めてくれているもの。
「華耶が居なければ、俺は俺で居られない」
一度遠くに目をやって一人呟くように言い、再び母親に視線を戻して笑顔を作った。
「…だから」
だから、行く。
命を削る戦場に。
「朔夜…」
言い淀んで、少年の手を取った。
「ありがとう。ありがとう…本当に…ありがとう…」
繰り返される謝辞に、親の本心を知った。
朔夜の身を案じて止めてはくれるが、本当は誰よりも華耶の事が心配なのだ。誰よりも華耶に助かって欲しいのだ。
当たり前の事。だが自身の肉親の姿にその当たり前が揺らいでいた朔夜にとって、華耶の母親の素直な言葉は彼を安心させるものだった。
家族は、親は、子の無事を想うものであって欲しい。
それを燈陰に求めたい訳ではないし、己のせいで死んでしまった実の母親に求めるのもおこがましい気がするのだが。
それでも、久しい温かさに触れて、萎えていた心にふっと血が通った。
「大丈夫…朝には戻る。華耶と、二人で」
握っていた手をそっと離し、もう一度笑んで。
表情をきっと鋭くして、外を睨んだ。
松明の明かりが、遠く、蠢く。
「隠れていて」
言い残して、音も無く走りだした。
敵の迫るざわめき。
速度を落とさないまま双剣を抜く。
黒々と影を浮かび上がらせる梢の間から、月光が降りる。
樹上を仰ぎ見る。
出来るか?
やるしかない。
煌々と耀く月の姿を眼に入れた。
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