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月の蘇る
  7
 後宮では華耶が楽しくお喋りに興じていた。
 於兎が訪ねて来たのだ。お陰でいつぞやのように十和を含めた三人と赤子の春音との会になっていた。
 そしてもう一人そこに居る。
「男の子ですかねぇ?女の子?」
 大きく膨らんだ於兎の腹を触りながら華耶が訊く。とん、と中から蹴る感触がある。
「さあて、私は男の子だと思うんだけど、うちの人は娘だって言って譲らないわ」
「女の子も良いなぁ。於兎さんに似た子だから絶対に美人になりますよね」
「あらぁ、上手を言うわね華耶ちゃん。でも残念、女の子って父親に似るのよ」
「えっ、そうなんですか?」
「華耶ちゃんのお父さんはさぞかし男前だったんでしょう」
「そう…だったかも。かっこいいお父さんでした」
「ふふ。良いわね。この子が娘だったら父親似の面白い子になるかも」
「楽しみ」
 二人は目を見合わせて笑う。華耶の抱く春音も、機嫌良くきゃっきゃと笑う。
「春音も大きくなったわね。日に日に重くなるでしょ?」
「そうなんです。顔もだいぶはっきりしてきて。誰に似てますかねぇ、この子」
 うん?と産みの母が覗き込む。
「華耶ちゃんじゃない?」
「まさかぁ」
 それは冗談として笑うが、次は案外真面目に於兎は答えた。
「お父さんね。この色白で綺麗な顔。目元の切れ長な所とか、そっくり」
「桧釐さん?」
 桧釐は歳を取るほど父親に似て、色黒のどんぐり目玉をしている。
「いやね、うちの人な訳ないじゃない」
「…やっぱりそう思いますよね!?」
「不思議よねぇ。この子にとっては何よりだわ」
 意見が一致して、十和に向いた。
「十和ともそう話してたんです。この顔は陛下よねって。お婆さまに似たのかしら」
「そうね。お義母さんは妹さんとそっくりだって聞くから、向こうの家系の顔立ちなんだわ」
「ああ、良かったぁ。なんかとっても嬉しい!」
 華耶は赤子を持ち上げてすべすべとした頬に頬擦りした。
 きゃっ、と笑っていたのに、離した途端に泣き出した。
「あ、いけない。繦(むつき)を変えなきゃ」
 さっと十和の手が伸びる。
「お任せ下さい」
「ありがとう。十和」
 二人になって、於兎は華耶に顔を寄せて言った。
「聞いたわよ。仲直りしたらもっと熱々になったの?あなた達」
 えへへと華耶も何とも言えない顔で笑う。
「最近は毎日一緒にお風呂に入ってくれます」
「お風呂だけじゃないんでしょ?」
「それは、もう。前みたいに寝台の上で仕事しなくなりました」
「当たり前じゃない。もう、王様ったら。まあ、ある意味今のも大事なお仕事だわね」
「そうですか?間違いなく私の我儘の為だけにやってくれてるんですよ?」
 それで子を成せるなら仕事とも言えようが。
「王様はどうなの?嫌々って訳じゃないんでしょ?」
「だと良いんですけど。でもね、十和に訊いてたみたい。どうしたら良いかって」
「王様が?ほんと?」
「可愛いでしょ?大真面目に訊くんですって。だから十和も宦官を紹介してあげたりしてて」
「研究者ねえ。真面目な王様らしいわ」
「祥朗とも話したみたい。あ、あの子最近良い娘(こ)ができてお熱なんです。だから話が合うんでしょう」
「男兄弟ねえ。ちょっと前の王様からは信じられない変わりようね。それだけ自分が酷い事をしたって自覚したんだわ」
「それもあるかも知れませんけど」
 華耶の視線が泳いだ。笑みがふと消える。
「何?どうしたの?」
 固い表情で視線を遠くに投げたまま、華耶は言った。
「私たち、ずっと一緒に居るんです。ずーっと、ずっと」
 於兎も察して笑みを凍らせた。
「当たり前じゃない、華耶ちゃん」
「そうですよね」
 すぐに、いつもの朗らかな笑みに戻って。
「何があっても添い遂げたいと思う、そういう人が居るのって、幸せなんですよね」
 於兎は頷いたが、やんわりと避けられた本質に迫るべきか迷った。
 戦の影は一見この後宮を覆えないように見えたが。
「あら、王様」
 龍晶は目を合わせるなり、明らかに顔を顰めた。
「ちょっと何よぉ!何今の顔!?」
「いや、さっき桧釐に言われた事を思い出して顔に出た」
「うちの人なんて言ったの?」
「下世話な旦那をどうにかしてくれ」
 ははーん、と於兎は含み笑いする。
 旦那と同じような視線をやり過ごし、龍晶は真っ直ぐ妻の元へ歩み寄った。
「楽しい時間を邪魔して悪いんだが…」
「お邪魔は私ね。退散するからあとはごゆっくり」
 体が体なのでさっさと、と言う訳にはいかないが女官の手を借りて於兎は席を立った。
「ああ、於兎」
 珍しく向こうから呼ばれる。
「はい?」
「良い子を産めよ」
「あったり前じゃない」
 軽く笑い、手を振って去ってゆく。
 空いた席に龍晶は座った。
「話がある」
「うん」
 華耶の表情は柔らかい。何を告げてもふんわりと受け止めてくれそうだ。
「明日から南部に行く。前線を鼓舞して苴軍を押し返す為だ。戦に近い場所だから危険もあると思うが…一緒に来てくれるか?」
「勿論。あなたの行く所は何処でもついて行きます」
「うん…」
 もう俺はここに帰れないと思う、そこまでは言えなかった。
「ねえ、仲春」
 顔に両手が伸ばされた。たおやかな手で包まれて。
「毎日、私の我儘に付き合ってくれてるけど、嫌ならやめて良いからね?」
「於兎に何か言われたか?」
「ううん。でもあなたが揶揄われて嫌な思いをしてるんじゃないかって」
「別に、桧釐は前からだし。後宮の者達も王の交わりを監視するのが本来の仕事だからな。そういうものなんだ。何でも筒抜けになっちまう」
「嫌じゃない?」
「もう慣れた。子供の頃からそうだったから。体を切り落とされた事も、兄の前でやらされた醜態も、全部見られて人の口に上る。それを思えば今は自分の意思でやってる事だし、それで華耶が喜ぶなら別に俺は何を言われても気にしない」
「本当?」
 答える代わりに唇を引き寄せた。
 舌を絡ませながら、頭を押さえていた手を下におろしてゆく。艶やかな黒髪を指で梳かしながら、首筋から肩へ。そして胸元へ。
 襟の隙間に指を入れ、そこから更に手を滑り込ませて。
 肌に触れた手に手を重ねて、くすりと華耶は笑った。
「上手になったね」
 口の端を引き上げて応え、寝台へと無言で誘う。彼女は応えて立ち上がった。
 歩きながら自ら帯を解き、夕刻の光に肌を晒す。白い肌へほのかに紅色が映えた。
 寝台へ座る夫の膝へ座り、肌を重ねる。
「ねえ、誰か呼びに来たらどうしよう?」
 華耶は開きっぱなしの扉を気にした。
「十和が来たら良いようにしてくれるだろ」
 顔を指先でこちらに直し、耳朶から首筋へ舌を這わせてゆく。華耶は陶然と息を漏らした。
 まだ時間は早いが構わないだろう。自分達には寸暇が惜しい。一瞬たりとも無駄にしたくない。
 終わりはもう、見えてしまった。

 闇夜に水音だけが響く。
 まさかこれが大軍が移動する音だとは敵も思わないだろう。
 先頭を紫闇は真黒の馬に跨って悠々と進む。
 その姿を横目に見ながら、朔夜は馬の綱を引いて自分の足で歩いている。
「代ろうか?」
 上から波瑠沙に問われた。
 頭(こうべ)を巡らせば鞍を挟む白い脚が目の高さにある。
 眩しさにくらくらしながら朔夜は答えた。
「大丈夫。俺が歩くから」
 自分達の馬が居ないので借りているのだが、一頭足りない。
 波瑠沙が体重の軽い二人で乗るから大丈夫と言い出した。お陰で朔夜は一人で川の中を歩いている。
「代わっても良いぞ。その為に袴を破ったんだし」
 それは朔夜が裂いたものだ。
「いや、大丈夫」
「二人で乗れば良いのに」
「馬が可哀想」
「私が重いって?」
「そうじゃないけど」
 知っていて揶揄う。朔夜は、はあーっと胸に蟠(わだかま)る息を吐いた。
 日中、もう一度手合わせした。今度は波瑠沙が勝ったが、朔夜は満足した。
 刀を持って対峙している時は普通に息が出来る。それを言うと、彼女はふふんと鼻で笑った。
 峡谷が開けた。平坦な砂漠が広がる。
 一軍は岸へと上がり、その速度を速めた。
「乗れ、朔夜」
「大丈夫。走れる」
 馬に並走して走っていたら、上から手が伸びてきて首根っこを掴まれた。
 一瞬、首が締まってとてつもなく苦しかったが、すぐに解放された。
 波瑠沙と同じ鞍に乗せられている。後ろから彼女の両腕が手綱を扱(しご)いていて落ちる心配は無い。無いが、別の意味で朔夜は落ちそうだ。
「お前どれだけ緊張してるんだよ。こっちまで心臓の振動が伝わってくるんだけど?」
 それは密着しているから伝わるのであって、朔夜としては隙間が欲しかった。
「済まんな姐さん、お子ちゃまの世話をさせて」
 横から燕雷が並びかけてきて告げた。
「燕雷、大丈夫かなぁこのお子ちゃま。行って役に立つ?」
「手合わせして腕は分かったろ?」
「そうじゃなくて、緊張して目ぇ回してるぞこいつ」
 ははは、と燕雷は笑って。
「大丈夫大丈夫。刀を抜けば正気に戻るから」
「私もそんな気はするけどな」
 正気って何だよ!?と思いつつも口を開けば心臓が先に飛び出そうで言えなかった。
 じゃ、と燕雷は離れてゆく。
「なあ、朔」
 後ろから耳元に低い声で言葉が滑り込んできた。
「聞くだけ聞いておいてくれないか?場合によっては無茶な頼みになるかも知れないから、聞き流してくれても構わない」
「…なに?」
 気持ちの上では、何でもするよと応えたい。
 口が付いて来ないから今は言えないが。
「王宮を警備している兵の中に私の婚約者が居る。名を申丁(シンテイ)と言って、長身痩躯の男だ。顔は色白の狐目をしている。まあ、それだけで見分けろというのも無茶な話だが」
「…会いたいんだ?」
「まあな。会って問い質したい。お前は裏切ったのかと、…いや、私を捨てて立場を守ったのかと、それを問いたい」
 朔夜は少し考え、その言葉の裏にあった出来事を想像した。
「寂しい思いをしたんだな、波瑠沙は」
 素朴な少年の言葉に彼女はふっと笑った。
「探してくれとは言わんが、もし居たら…」
「うん。波瑠沙に会わせるから」
 肩の上で、顎が引かれた。
 頼むとは言えない。これから向かうのは戦場だ。そんな余計な事を考えさせたら命を取られる危険がある。
「大丈夫だよ。きっと上手くいく」
 あどけない励ましに少し勇気を貰って、波瑠沙は前を見据えた。
 都を囲む塀が星明かりの下に黒い塊となって見えてきた。
 外から見ると、なんて小さいのだろうと思う。
 あの中で産まれ育ち、出会い、別れて。
 あの小さな世界が全てだった。
 追い出されては生きていけないから、必死にしがみ付いて。
 そんなの、まやかしでしか無かったけど。
 外の世界を知らないからまともにそう信じてしまった。
 王宮の小さな庭からは出たいと思ったのに。
 そこに戻されるのも嫌で、かと言って外にも出られず、少女には選択肢が無かった。
 何がきっかけだったか分からない。こちらに落ち度の無いいちゃもんだったのかも知れない。
 上官に激しく叱責された上、詫びねば除名すると脅された。
 どう詫びれば良いのかと問うと、体を要求された。多分、最初からそれが目的だったのだろう。
 逃げ道は無かった。無いと思い込んでいた。無理矢理抱かれて、悄然として真夜中の兵舎に戻った。
 申丁が起きていて、どうしたと声をかけた。
 あの時はただの同室のお隣さんだった。
 答えずに居ると、彼は察して上官の名を出した。黙って頷いた。
 そして二人で一計を案じたのだ。
 これで終わりという事は無い。必ず次がある。
 その時、更に上の人間を連れて来て現場を見て貰う。
 軍の上に行けば行く程、当然波瑠沙の出身を知っている。これが知られれば青ざめるだろう。
 だが普通に訴えてもしらを切られるのが落ちで、ならば一部始終を密かに見て貰おうという事になった。
 申丁が上への伝手を持っていた。そこから話を密かに進め、了承を取り付けて。
 その時がやって来るのは早かった。
 まだ話は終わっていないと腕を引っ張られて上官の部屋に連れて行かれた。夕稽古の最中の事で、波瑠沙は申丁に視線を送った。彼は頷いた。
 先日と同じような叱責の後、両腕を掴まれて押し倒し馬乗りになって、男と同じ作りの軍服を乱されて。
 やめろ、と叫んだ。それが契機だった。
 三人の上官と、申丁が中に入ってきて取り囲んだ。
 後は上が処理した。除名されたのは馬鹿な男の方だった。
 あれは十四の時。彼は六つ年上だった。
 兵舎を抜け出して砂漠の砂の上で逢瀬を重ねた。昼間の熱を残す砂が背中に心地よかった。
 好きな男に抱かれるのは全然違うんだと、素朴にそう思った。
 その優しさがまだ肌に残っている。忘れたいのに消えてくれない。十年近く当たり前に横に居たから、彼が背を向ける事も突き放される事も想像していなかった。
 問わねばならない。冷めたのか、嫌われたのか、ただ保身の為か。
 軍勢は遠い砂上の楼閣を前に歩を止めた。
 松明も持っていない。誰もが星明かりだけで闇夜を捉えている。だから敵に気付かれない。
 紫闇がこちらを見て頷く。合図だ。
 波瑠沙が馬に鞭をくれた。
 彼女らを含め五騎が突出して都へ向かう。密かに三方向の門を開く為だ。この危険で重要な任務に彼ら腕の良い使い手が選ばれた。
「怪我しないようにしような」
 波瑠沙の腕の中で朔夜は戯けた調子で言った。
「お前もな」
 言葉は返したが、今度は自分に余裕が無くなっていた。
「守ってやるから」
 少年は言った。
 その表情を見たいと思ったが、この体勢でそれは叶わない。
 だけど心臓の鼓動は先刻よりずっと落ち着いていた。これは頼っても大丈夫だと、そう思えるくらいに。


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