月の蘇る 5 雪が覆う庭園を、馬車が横切ってゆく。 子供達が耕した畑も雪の下で眠っている。代わりに彼らはあちこち綻びた城内を整備して回っている。 皇后を迎える為、特に後宮を中心として、城は急速に美しく整えられつつある。 その為に新たに人も雇った。職人を探し出し、調度品を黄金がふんだんに使われた物から、白木の美しい彫刻のなされた物へと付け替えられようとしている。 黄金の品は売り捌いた。その金で工事の費用を賄う。勿論、雇った人々への給金も。 それでもまだ金は余る。あの謁見の間の大扉だけでも莫大な金に変わった。その金で、龍晶はまた別の事を考えているようだ。 揺れる馬車の中でその考えを巡らせる彼は、ずっと雪の舞う外の景色に目をやっていた。 並び座る朔夜は、一管の横笛を手にしていた。 弄んでいるように見えて、実は余念無く手入れをしている。 馬車は街へと進んだ。冬景色の中でも、人々は活気を失っていない。城の整備は都の物流を刺激し、富を齎している為だ。 朔夜は試しに笛に息を吹き入れた。甲高い音が響く。 「お前、吹けるのか」 突如響いた音に思考を遮られた龍晶が、やや迷惑そうな顔をして訊いた。 「たぶんね。もう何年も触ってなかったけど」 最後に笛を吹いた日は明確に覚えている。 忘れたくとも忘れられない記憶だ。 「お前の生活に楽器を触るような、そんな余裕があったのか?」 尤もな質問に、朔夜は苦く笑って答えた。 「梁巴では皆が吹けるのが当たり前だった。繍に行ってからは…暗殺道具さ」 目的地まではまだ少し余裕がある。罪を吐き出す時間くらい許されるだろう。 「旅の楽士として敵の懐に潜り込み、笛の中に仕込んだ刃で油断した所をぐさりとやる。それを唯一見破ったのが、この刀の持ち主」 言いながら、虎の装飾の懐刀を出した。龍晶もその刀の経緯は知っている。 「ああ…苴の将軍か。お前を養子にすると言った」 「そう。繍の奴らに地の果てまで追われてでも、俺は苴に行こうと決めた。あいつの言う、家族とか、幸せとかいうものに、憧れちまったから。殺すか殺されるかしか無かった俺に、あいつがそんなものを見せて…お前と同じだ。刀を置けと言った」 「それでも刀は置けなかったか」 朔夜は俯く首で頷いた。 「明日には苴に帰れるという晩、宴の中で俺は笛を吹いた。あいつ…千虎に請われて。その曲を、あいつは知っていた。梁巴にしか伝わらない曲だ。それで…俺は、あいつが故郷を滅ぼした仇だと知って…」 虎の彫刻の上に、涙が一滴、落ちた。 「殺す気は無かった…。いや、殺したくは無かった。でも、俺の中に巣食う憎しみの方が勝ったんだろうな…。俺は悪魔でしかないから」 短刀を懐に戻して、朔夜は目元を腕で拭い、無理矢理笑って顔を起こした。 「あれ以来、笛なんかお目にかかる機会も無かったよ。これ、さっき子供達と一緒に倉庫を探ってて見つけたんだ」 「それを勝手に持ち出すなよ。盗人じゃねぇか」 「あ、確かに。じゃあ持ち主さん、これ貰って良い?」 「確信犯かお前は。良いけど、条件がある」 「ん?」 それは思ってもみなかった。 条件は、更に思ってもみない事だった。 「婚儀の中で吹いてくれ。楽士を探し出して雇う余裕が無いからな」 「それは、余裕が無いとかじゃなくてやる気が無いのでは…」 「返して貰おうか」 伸ばされた手から咄嗟に笛を遠ざけて。 「いや、でも、良いのかよ、俺なんかで。大事な儀式だろ!?」 「誰だって良い、別に。それに、こう言いつけでもしないとお前、逃げ出すだろ」 「逃げ出すって…どうして」 「心ここに有らずって、顔に出てる。言っておくが、繍には行かさんからな」 「あ…うん…まだ行かないけど」 「やっぱり行こうと思ってるじゃねぇか」 「そのうちな。ケリは付けたいし…」 違う。繍に行きたい訳ではない。 日に日に悪くなっていくこの国の居心地が問題なのだ。 それも、何かが変わって悪くなっている訳ではない。全て朔夜の心の持ちようだ。 龍晶に、大事な人が出来る。あと数日でやって来る。そうしたら、自分は今までのようにここには居られなくなる。 だから、無くなるであろう居場所が、居心地悪い。 詳細を知らぬ誰もが勘違いをしているが、朔夜は龍晶の側近なのではなく、ただ『側に居る人』でしかない。つまりこの場に居る事に何の責任も無い。 「刀、研いでから行けよな。行くんだったら」 龍晶が独り言のように告げた。 その刀は千虎の刀の事だと朔夜が気付いた時、馬車が止まった。 衛兵が扉を開き、到着を告げる。 朔夜は中から龍晶の身を支え、外の衛兵に渡した。 降り立ったのは、貧民街。 そこに、真新しく白い箱のような建物が建った。 朔夜も馬車から出て、衛兵から龍晶の体を預かり並び立った。 そこにはかつて、二人が出会って最初に訪れた、小さく見窄らしい診療所があった。 火災で見る影も無く煤塵と化した街は、この診療所を中心に人の住める街へと生まれ変わりつつある。 今も周りでは住居の建設が進む。それも、貧民街に住む人々自身の手によって。 何処か体に不自由な所を抱えているか、或いは孤児である住民達が、協力して一つ一つの家を拵えている。元々技術者であった者も居るから、それはさながら一つの大工集団であった。 貧しい彼らの為にその費用を捻出したのは、勿論この若き王だ。 だが、その現場に来たのはこれが初めてで、つまりこの街に来たのは全てが始まるあの日以来の事となる。 毒死させられた屍の山の煙。その下で、己の死を見ていた、あの日。 「入ろう」 煙の消えた、あの時と同じ空を仰いで、龍晶は小さく告げた。 中に入るのは二人だけ。警護の兵らは門前で待つ。 診療所は賑わっていた。患者だけではない。龍晶の訪問を知って、一目会おうと駆け付けた住人で溢れていた。 数々の謝辞と祝辞を掛けられ、二人は笑顔の並ぶ廊下を通った。 中には泣いている者も居る。その男に覚えがあり、思わず龍晶は立ち止まった。 最後にここを訪れたあの日、妻と子を返してくれと泣いた、あの男だった。 「達者だったか」 万感の思いを込めて声を掛ける。男は泣きながら、何度も頭を下げた。 「ああ…陛下…ありがとうございます。ありがとうございます…」 男に周りの者が良かったなあと励まし、背中をさする。ここは皆が家族だった。 診療室へと入る前に、王はそこに集まった人々へ向き合い、出せるだけの声で告げた。 「俺はずっと、この街と共にある。過去に奪ってしまったものを償うまで、やれるだけの事をやらせてくれ」 済まなかった、と王は頭を下げた。 あの事件を未だに悔いているのだと、朔夜は改めて知って衝撃を受けた。 その思いを代弁するかのように、住民達の中から声が上がった。 「陛下は悪くない」 「そうだ。何にも悪くない!」 「龍晶様だけだ、俺たちの事をこんなにも気にかけて下さるのは」 「そうだ。龍晶様はずっと俺たちの味方をして下さった」 「龍晶様が王になって良かった。本当に良かった」 龍晶陛下万歳、と誰かが言い出した。それがあっという間に合唱となって、一人救われなかった彼の胸に届いた。 傍らの老婆が、手を合わせながら涙ながらに言った。 「朱花様がこのお姿を見られたら、どんなに喜ばれたでしょう」 老婆の肩に龍晶は手を置いて、ありがとうと告げ、手を挙げて皆の想いに応えながら診療室へと入っていった。 中では医者先生と、すっかり弟子となった祥朗が待っていた。 「このたびはご即位まことにおめでとうございます。お祝いにも参ずる事が出来ず、ましてこのようにわざわざ足をお運び頂き、恐懼の至りにございます」 先生が頭を床に付けて述べる前へ、龍晶は自ら膝を付いて肩に手をかけ、頭を起こさせた。 「やめて下さい。頭を下げねばならぬのはこちらの方です。先生のお陰で今の俺があるのですから。…お久しぶりです。ご無事で何よりでした」 「それは、あなた様こそ…本当に、ご無事で良かった…」 戦場で死んでくると告げてここを発ってから、三年近い月日が流れた。 その年月でこの国の多くのものは変わった。だが、この人達の芯の部分は何も変わらないのだと朔夜は思った。 「祥朗が世話になります。腕の方は如何ですか」 先生を座らせ、自らも支えられながら椅子に腰かけて、龍晶は訊いた。 その祥朗は、何だか緊張した面持ちで、先生の隣に佇んでいる。 「この子の賢さは陛下もよくご存知でしょう。手先も器用であるし、心強い跡継ぎを得られました」 「ああ、それは良かった。それこそ母上が喜ぶでしょう。出来損ないの兄に代わって、しっかり孝行してくれよ」 向けられた言葉と微笑に、弟はぶんぶんと頭を振った。 そして筆談に言う。 『この街を立派にした兄様にこそ、母さまは喜んでおられます』 渡された紙切れを、龍晶はじっと見詰めた。 「祥朗の言う通りです。朱花様の悲願を、あなた様は王となって真っ先に実現なされた。これ以上の孝行はありません」 先生の言葉にも笑顔を見せず、龍晶は言い訳のようにぽつりと返した。 「罪滅ぼしです」 「龍晶」 堪らなくなって朔夜が割って入り、友の肩を揺すぶった。 「聞いたろ?さっきの皆の声を。誰もお前のせいだとは思ってない。実際そうなんだ。自分を責めて何になるんだよ?ちょっとは素直になれよ」 「だって…帰って来ないだろ。彼の妻や子供は。あの事件で亡くなった人も、俺の起こした戦で亡くなった人も…」 祥朗の言葉に目を落としたまま、龍晶は言った。 「馬っ鹿、お前…」 その痛みは十分に解る。解るからこそ、言ってやらねばならない。 「自分で言ったじゃねえか。失った方を数えるなって。キリが無いって。まるきり同じ事してるなよ」 やっと紙切れから視線を起こして、素直に口を開いた。 「そうだな。悪い」 そして二人に向き直り、龍晶は今日ここに来た目的を告げた。 「実は、灌の姫を后に迎える事となりました。明後日に到着し、式を挙げる予定となっています。祥朗にとっては義理の姉という事になりましょう。家族として共に見届けて貰いたい。なので先生、数日の間、祥朗をお貸し頂きたい」 「それは、勿論の事です。是非とも参列させてあげて下さい」 当の祥朗は驚いた顔をしている。 王の婚儀は世間に触れられていない。だから、市井に生きる彼の耳には入っていなかった。 それは医者先生も同様だ。 「かようなめでたいお話、初耳でございますが…はて、この老人の耳が遠くなったという事でございましょうか」 「いや、俺が口止めをしているせいです」 恥じらいと苦さを混ぜた笑いを口に含ませて、龍晶は明かした。 「知る者は知っていますから…俺に世継ぎが出来る筈が無い事を。騒ぎにならぬよう密かに養子を迎え、反対意見の上がる前に後継にする。だから婚儀も人の知らぬうちに済ませてしまいたいのです。ま、表向きには節約の為にって言い訳もあるんですけど」 「成程。全てこの国の為ですか」 「はい。…俺にはもう、それより他のものは無いから」 口元の笑みは、孤独を諦めた者の寂しい笑みに変わっていた。 「朔夜」 龍晶は振り返り、友を呼んだ。 「先生の治療を受けている間、祥朗の薬作りを手伝ってやってくれないか。いや、下手に手を出すとまずいから、お前は見てるだけで良い」 「素直に出て行けって言えよ」 本音は見え透いていた。笑いながら祥朗を伴って部屋を出る。 「…あいつに嘘が付けなくなって。変ですよね」 朔夜が去った方を見ながら、龍晶は呟いた。 「信頼されておられるのですね」 「信頼と言うのでしょうか、これは。他の誰にも言えない事が、あいつには言える」 「良い事です。一人でもそういう人が居るという事は、あなた様にとっても、この国にとっても、宝となるでしょう」 「あまり重宝がると、失うのが怖くなる」 溜息を吐いて、龍晶は老医師に向き直った。 「先生にこの体を診て頂きたいのですが…。しかし予め言っておくと、治る事は期待していません。恐らく、誰のどんな技量を持ってしても無理です」 「症状は?」 「熱が引きません。それに、臓腑の痛み…。まともに歩けないのはこのせいです。酷い時には起き上がる事も出来ない」 額で熱を確認した手で、目元を開き、老医者は問う。 「寝付けなかったり、お食事もままならぬ事が?」 「それは、痛みが少し引いた時に、やっと」 「痛む箇所を見せて頂けますか」 諸肌を脱いで、かつての傷痕を晒す。 肌は滑らかに蘇っている。しかし、その内側の色は、所々どす黒く変色していた。 「これは…」 「戦中の傷です。いえ…天罰です。天はこの臓腑を掻き混ぜて、皮膚に蓋をした。お陰で即死は免れたが、長い時間をかけて苦しまねばならなくなったのです」 「そんな事が…どうやって…」 「悪魔となった、朔夜の所業です。でもそれは、俺の自業自得です」 変色した箇所に触れると、痛みを堪える唸り声が微かに漏れた。 医師は咄嗟に手を引っ込め、改めて病状を診て溜息を漏らした。 「あなた様の言う通りです。これを治す術は、この時代の何処にも無いと言って良いでしょう」 「…はい」 解ってはいた事だが、希望を絶たれた返事。 「祥朗に、痛み止めや眠り薬を持たせましょう。治癒には繋がらないが、一時安らぐ事は出来ます。…申し訳ありません、そのくらいしか出来ず」 衣を直しながら先生の言葉を聞き、龍晶は頭を振った。 「十分です。ただ、一つだけ訊きたくて」 「何でしょうか」 「俺は、あとどのくらい生きられますか…?」 切実な問いに、言葉を詰まらせる。 暫しの沈黙の後、龍晶はすみません、と小さく呟いた。 「答えられる訳がありませんよね。つい、先生ならばと縋ってしまって」 「神のみぞ知る事です。ただ、よく養生すれば治癒に繋がるかも知れません。陛下は働き過ぎなのでは?」 「生きている間にせねばならぬ事が沢山あって。焦りばかりが募るんです。とにかく、この国が再び腐る事の無いよう作り替えてから死のうと決めているので」 冗談めかして言った後、ふと真顔になって、遠くを見て呟いた。 「これから妻や子を迎えるのに、俺は真っ先に死ぬのかと思うと…申し訳なくて。残された者の悲嘆も苦労もよく知ってるのに」 「決まってはいませんよ」 「いえ。これは定めです。そしてそうでなければならない。だけど、それが何年後の事なのか…知っておけば、仕事の優先順位も付けられるというものです。いずれにせよ、時間が無い」 気丈に言うが、その運命を受け入れられる歳だとは思えなかった。 「不安は体を蝕みます。この老いた耳で良ければ、あなた様の本音を受け止めましょう。口にすれば少しは楽になりますから」 十代の枠を出ない少年は、丸い目をして老人を見た。 他人に甘えようとして甘えた事など無い人生だろう。どうして良いのか分からず戸惑っている。 「それともこの役目、朔夜殿にお頼みした方がよろしいでしょうか」 「そんな事は…」 言い澱んで、詰めていた息を吐き出して。 「そうします。あいつに聞かせられなくなったら、先生の許へお邪魔します」 慈悲深い表情で老人は頷いた。 「辛くなったら躊躇わず体を休めて下さい。無理をして急速に世を変えるより、一日も長い治世を保つ事の方が、この国の為になりましょう」 若き王は頷いた。自分が生きているだけで支えられるものはある。それは理解している。 「…生きていたいんです。少しでも長く、この国を見ていたい。それは、本音です」 ほんの子供の頃から成長を見守ってきた老医師は、ゆっくりと頷いて。 今は亡き彼の母へ、祈った。 [*前へ][次へ#] [戻る] |