月の蘇る 3 後宮という、王族と女、そして宦官しか立ち入る事の出来ぬ秘された場に特例が許されたのは、そこに住むべき主を全て失ったからだろう。 国母は前王に殺され、その前王とその母である皇太后は民に殺された。 そして今、この宮の新たな主となるべき龍晶は、無人となった生家を呆然と見ている。 以前二度もここに忍び込んだ朔夜は、この宮の最初の特例として堂々とこの場に立っている。 皇太后がつい先日まで住んでいた筈なのに、美しかった庭は荒れ、咲き誇っていた花々は枯れていた。 「急ぎ女官を集め、陛下のお世話をさせますのでご心配なく。女官は以前国母様に仕えていた者をなるべく集めましょう。彼女達も龍晶様が後宮にお戻りになったと聞けばきっと馳せ参じますよ」 後宮の境を越えぬ後ろから桧釐が説明し、では、と扉を閉めようとした。 その縁に朔夜は掴み掛かった。 「待てよ!これじゃ幽閉と同じだろ!?こいつの意思の無い戴冠式までここに閉じ込めておくなんざ…お前は一体何を目論んでいる!?」 桧釐は言うことなど無いとばかりに扉を押した。 朔夜は閉めさせてはならじと身体を挟み込んで抵抗する。 「せめて出入りの自由くらい認めろよ!?死ぬかも知れないから鍵掛けて閉じ込めておくなんて、そんな馬鹿な話があるか!」 「朔夜」 必死の朔夜を止めたのは、龍晶の細い声だった。 「もう良い。桧釐に落ち度は無い。思うようにさせてやれ」 「龍晶!」 失意を込めて後ろに怒鳴った途端、身体を突き飛ばされて扉は閉められた。 「…っ糞!何だよ!?言葉で反論しやがれ!」 朔夜は有りったけの罵詈を扉の向こうに吐き捨てて、背後の友を睨んだ。 「良いのか!?このままじゃお前、本当にあいつの操り人形になるぞ!?」 荒廃した花畑に立つ姿は霞の向こうに居るような希薄さだった。 哀しい微かな声で龍晶は言った。 「それで…誰が困る?」 「誰って…」 お前だろう、とは言えず。 言えなかった。その顔を見ていたら。 俯いて地面に向け、彼は呟いた。 「もう良い。疲れた」 悄然と、そこだけ支度のされた御殿に入ってゆく。 中に入り、帳を潜って寝台の前に立つと、まるで糸が切れたようにそこへ倒れ伏した。 朔夜は後ろからその様を見て、そして隣に同じように、自分は仰向けになって飛び込んだ。 そうやって暫く空白の時間を揺蕩う。 徒労と犠牲の果てに辿り着いたこの場所は余りに虚しかった。 何の為に血を流してきたのか。 「ずっと…声が聞こえる。お前は数多の人間を殺し、この国を滅ぼす罪人だと…王墓から怒り責める声が聞こえる…」 「そんな事無いよ。そんな事になる筈が無い。お前が弱気になってるだけ」 伏せた頭を緩く横に振る。 「もう既に流さずとも良い多くの血を流した。きっとまた俺は間違いを犯す。何かを自分の意思で決める事が怖くて堪らない。それでまた誰かを…」 引き攣るように息を鋭く吸って、不意に間を空けて。 まるで別人格のように、低く呟いた。 「もう誰が死んでも同じだ」 たった一人が、死んでしまったのだから。 朔夜は寝台の縁に起き上がり、じっと友を見下ろして。 その絶望を知るからこそ、口を開いた。 「投げるなよ。お前にはまだ、守らなきゃならない人たちが居る」 片側だけ、乾き切った目が覗く。 「終わった事より今からを考えろ。その為に生きてんだろ」 途端に考えられない程の力で頭を殴られ、突き飛ばされて、床に倒れた身体の上に馬乗りになって尚も頬を殴られた。 驚きの余り朔夜は抗う事を忘れた。止める事は簡単だったが、呆然と殴られるに任せた。 悲痛な声だけは聞こえた。 「お前は死ねなかっただけだろう!?俺はお前とは違う!俺は人だから死を選べるんだよ!ここで終わらせて何が悪い!?死にたいんだよ!死にたい…」 ばったりと胸の上に倒れ込んできた友の頭を、朔夜は重たい腕を上げて抱えた。 「分かるよ。お前の言う通りだよ。俺は死ねなかっただけ…。何度試みても、自分は化け物なんだって判っただけ…」 死すら選べない地獄。自らが作り出した累々と横たわる死体の中で、その惨めな死に羨望すら覚えた。 「化け物に人の気持ちなんか分かる訳ないか。ごめん」 はっと、やっと我に返ったかのように龍晶は起き上がり顔を見せた。 蒼白の顔を横に振って、自らの手で付けた朔夜の顔の痣に驚き、ふらふらと立ち上がって彼の上から退けた。 傍らの腰掛けに何とか身を預け、身体を折って項垂れる。 「悪かった…朔夜。本当に…。こんなつもりじゃ…」 呟いて、口を閉ざして。 そして絞り出すように告げた。 「見限ってくれ。もう、俺の事なんか忘れて…灌に帰ってくれて良いから…」 「馬鹿。出来ねぇ事言うな」 朔夜は本気で怒って立ち上がった。 「帰れたらとっくに帰ってるよ!それが出来ないのはお前がしっかりしてくれないからだろ!俺は灌に帰って華耶に、龍晶は元気でやってるよって報告したいんだよ!じゃないと心配するから…」 華耶の名が出た時、初めて上げられた視線の切実さに朔夜はやっと気付いた。 すぐにそれは逸らされた。 「全部俺のせいだな。…悪い」 朔夜は立ち尽くしたまま、問うべき事も問えずに、項垂れる頭を見ていた。 開けたままの扉の影の長さに、秋の日が傾いている事に気付き、やっと朔夜は口を開いた。 「何か持って来ようか?食い物とか…」 龍晶は首を横に振り、しかし少し考え、言った。 「城の医師に頼んでくれるか?芥子の薬をくれと…言えば分かる。用意が出来たら…絶対にお前は煙を吸うなよ。お前には毒だ」 「え?あ…うん。分かった」 薬とはそういうものだろうと、深く考えず朔夜は頷いた。 もう一つ、とか細い声で引き止める。 「この手足を縛っておいてくれるか…?お前の居ない間に死のうとするかも知れないから…」 流石に朔夜もぎょっとして見返す。 「本気か?」 「彼女を落胆させたくないならそうしてくれ」 罪人のように出される両腕。 それを迷いながら手にとって。 「生きようと思ってるって事だよな?」 問いに、表情を見せない頭は頷いた。 朔夜は銀髪を結わう飾り紐を解いて、骨と皮ばかりの両手首に巻き付けながら、微笑んで教えた。 「華耶が作ってくれた物だよ。梁巴の草花で染めた糸で編んでくれた。まだ何も知らなかった頃に…」 お揃いにしようと華耶が言って、以来十年以上、同じ組紐で髪を結っている。 龍晶は紐の結び目を目に入れた。 縛られている筈の手首は、まるで温かな手に包まれているかのようで。 知らず泣いていた。 嗚咽するでもなく、ただ乾いていた目に水が溢れて止まらなかった。 「ああ、そっか」 朔夜が破顔して言った。 「華耶を連れて来れば良いのか。ここに」 龍晶が見開いた目でまともに朔夜を見上げる。 純粋そのものの笑顔に、胸が潰れそうだ。 「だって、お前も好きなんだろ?」 ああ、この大馬鹿野郎は…とは思ったが。 苦虫を噛み締めて、頷くしかなかった。 「どしたのお前」 桧釐と顔を合わせるなり盛大に吹き出して笑われた。 思ってもみなかった顔の痣を笑っているのだが、朔夜は不機嫌に顔を顰めて相手の脛を蹴った。 「痛っ…っ…こいつ…!」 片足で跳ねる敵の横をむっつりと素通りする。 「何だよ!?痴話喧嘩でもしたのかって心配してるだけ…いや何でもない」 後ろからの声に振り向いて二発目をお見舞いしようかという朔夜をどうにか止めて、桧釐は訊いた。 「そんなに荒れてるのか、あの人は」 「誰かさんが閉じ込めて勝手に王に仕立て上げようとしてるからな」 「理由はそこじゃないだろ。あの人も観念してる筈だ。道はそれしかないと」 「はあ!?それはお前の都合だけだろ!」 「他に手が有るか?彼を生かす、その方法が」 分からない、と睨み上げる。 桧釐は溜息混じりに説明した。 「己に役割が有れば生きる人だ。今は無理にでも王にしてそれを自覚させなきゃならない。この国を統べられるのは自分だけだって事実をな。分かってくれ、朔夜。多少強引でも戴冠式はせねばならないんだよ」 彼自身と、この国の民の為に。そう桧釐は言い足して、もう一つ溜息を吐いた。 難しい事はともかく、この人に悪意の無い事は分かった。やりたくてやっている訳ではない、全ては龍晶を生かす為だと。 「王になる事が結局あいつを追い詰めるんじゃないか」 「そうだとしても、他に手が無い。俺たちがどうにかお支えするより」 「あのさ…」 朔夜は怒りの収まった頭を掻き、おずおずと己の案を口にした。 「女官を雇うって言ったろ?俺の友達なんだけど…どうしても雇って欲しい人が居る。あいつの為に」 「お前の友達?女の?」 「じゃなきゃ女官にならねえだろ」 当たり前過ぎる事を念押しして、桧釐の顔を見てたじろいだ。 にやにやと笑う顔に若干の後悔を覚える。 「お前にもそういう考えがあったんだ?いや、良いと思うぞ、俺は」 「何を考えてんだよ!?好きな人の近くに居れば龍晶も少しは幸せかなって思って俺は…!」 顔を赤くして叫んで、自分で言葉を詰まらせた。 「殿下が?見初めた人?」 これを言ってしまうのはまずかったかなと不安に襲われつつ、後の祭りである。 「みそめるって何?」 「惚れたってこと」 頬を赤めて口をひん曲げて眉根を寄せて、とても変な顔になっている。 「あ、でもお前の友達なんだよな」 「そぉだけどぉ…」 「え、お前はさ、ただの友達?」 「そぉだけどぉ…!」 「いや嘘だ。絶対ウソだそれ」 「嘘じゃないっ!!」 地団駄踏んで何を意地張っているのかも自分で分からないまま喚く。 「とにかく、彼女の事を思い出してあいつは少し生きる気になった!だからこれ以上の薬は無いって事だよ!華耶は人を元気にする凄い人なんだからさ!!」 「ほー。そりゃうってつけだな」 桧釐は可笑しさを噛み殺して棒読みに頷いてやる。 「その娘は今どこに居る?」 「灌。連れて来ても良いよな?良いだろ!?」 「お前は今ここから離れない方が良いんじゃないか」 打って変わって真剣な声に、朔夜は思い出した。 縛りつけたままの友の存在を。 目を離せば自ら死を選びかねない、そんな人を何日も放ってはおけない。 「ま、俺が守りをすべきかも知れないが…ちょいとそれには忙し過ぎるしな」 「いや…お前の言う通りだよ。華耶の事は誰かに頼まなきゃ。あ、そうだ。燕雷はまだ北州に居る?」 「さてな。そろそろ於兎がこっちに着く頃だから、訊いてみれば良い」 「あっ、於兎…」 彼女がこの案を聞いたら何を甲高い声で叫ぶのだろうと暗澹としなくもない。 「とにかくこの話は後で。医師って何処に居る?龍晶が薬が欲しいって」 「ああ、医務寮ならそこから外に出て東へ歩いてそれから…」 とても口で言って理解させるのは不可能だと気付いて、抱えていた仕事の束を置きに執務室へと向かった。 「女官もだが、とにかく人手が要るな。政務の出来る人間が」 苦々しく言って、後から付いて来る少年に愚痴を溢す。 「お前は疑ってただろうが、俺は政治なんかしたくないんだよ。権力なんかこれっぽっちも欲しかない。ただ喧嘩がしたいだけの人間だって、お前も分かってるだろ?」 「田舎道場に居座ってた家出の悪餓鬼だもんな?」 「…ま、そうだよ。若さに任せて国を倒すなんて夢物語を騙ってただけだよ。それが不可能だとかそんな事はともかく、腕さえ磨いておけば何とかなると思ってた。刀を振り回してるだけで満足だったのに、な。あの時までは」 「あの時?」 「お前らが道場に来た時」 「ああ…」 やっと荷物を置いて、手ぶらになって出直す。 「王は憎かったし、爺さんを殺した仇は討たなきゃならないと思ってた。だけど現実になるとは思ってなかったんだよ。飲んだくれの戯言に皆を付き合わせてただけだった。それが、現実に…殿下が目の前に現れた」 言わねばならぬ事は決まっていた。戯言を皆の手前、現にする為に。 「分かるだろ?俺は国や王を相手に喧嘩がしたかっただけなんだ。それから後の事なんて考えてもみなかった。それがこのザマだ」 どうかしてるよな、と悪態を付いて歩き続ける。 「皮肉だよな。この国を変えたいと考え続けてきた殿下がこの土壇場で投げ出しちまって、腕っ節しかない俺が走り回る羽目になってる」 「だから無理矢理にでも王にして目を覚まさせようとしてるのか。あいつにやりたい事をやらせる為に」 「綺麗に言えばな。本当は俺にとって面倒なものを引き取って欲しい一心だよ」 城内の入り組んだ路地を歩きながら、桧釐は朔夜へと問うた。 「お前は?今んとこお前はただの居候だけど、好きな女を呼び寄せるくらいだからこの国に居続けて仕事をする気があるんだろ?」 「いや待て違う!俺がじゃなくて、龍晶が…!」 「はいはい、この際どっちでも良い。俺はお前がこの国で役職に着く気があるのかと訊いている」 「いや、それも変だって。化け物を雇わなきゃいけない程、この国に人が居ない訳じゃないだろ」 「ふーん。じゃあお前はいずれここを去るのか」 「まあ…そのうち。龍晶が落ち着けば」 「ふーん」 関心を失った相槌を返して、桧釐は建物の一つを指した。 「着いた。あれだ」 朔夜が扉を叩いて中を覗く。その様を見届けて桧釐は踵を返した。 医師を見つけた朔夜の声が聞こえてきた。 「龍晶が芥子の薬が欲しいって言ってるんだけど」 思わず桧釐は足を止めた。 母が育てていた芥子の花畑を思い出す。 それを飲ませた彼の反応と。 あの時は怒り、そして不安を露わにしていた。 この快楽に溺れる事が怖い、と。 それを今、自ら欲するとは。 「いや…当然か」 口に出して呟く。 快楽の夢でも見ていなければ、生きる事をやめてしまう。ならば自らそれを許すのも、生きる為の足掻きなのだろう。 その薬の正体を自分はよく知らないが、一時的に痛みを和らげ美しいまやかしを見せるものなら、それもまた必要なのだろう。 それにしても、気になるのは朔夜の言う娘の存在だ。 本当に惚れた相手なら、龍晶は何を望むのか。朔夜が思っている程、事は単純ではない。 でも、出来れば。 いつの日か己が語った、全ての事が起こる前の幸せな暮らしを彼に思い出させてやりたい。 愛する人と共に生きる、温かな日々を。 医師に渡された香炉と手燭を持って後宮へと戻る。 灯りも無い部屋で、龍晶は縛られた手足を折り曲げ、寝台の上に小さく横たわっていた。 まるで何かに怯える子供のように。 「寝てる?」 訊くと、首が巡らされて目が合った。 「寝れないか」 自らの言葉を否定して、まず手燭の火を部屋の燭台へと移し、ついでに香炉へも火を入れる。 紫煙が天井へと昇る。 「吸うなよ」 ぼそりと龍晶が釘を刺した。 「ただの香にしか見えないけど」 「良いから…ここに置け」 示された通り枕元の台へ香炉を置いて、空になった手を縛った手首に向けた。 触れる瞬間、びくりと身体が震える。 「解くだけだよ。このままって訳にもいかないだろ」 「でも夜中に何をするか分からんだろ」 「大丈夫だって。ほら」 解いた紐を、今度は右手首だけに巻き付ける。 「お守り。華耶が俺をずっと守ってくれてたから、お前もきっと守ってくれる」 不思議な面持ちで、自由になった手を持ち上げて紐を見ている。 その間に朔夜は足首に巻いていた布を取り払い、自由の身に戻した。 「…お前を絶望の淵から戻したのは、彼女だったんだろ?」 龍晶がぽつりと問うた。 振り返った朔夜は、酷く哀しげな友の顔を見た。 「俺には誰も居ない」 香炉の煙を抱え込むように吸って、束の間の幸せの夢を見た。 [*前へ][次へ#] [戻る] |