月の蘇る
2
橙の朝日が、城の影を濃く長く作り出している。
方角の北に当たるこの場所はいつも暗い。
夜は元より、日中は聳える城郭の影に覆われている。それぞれに暮らす者の立場を示すかの様に。
“彼”に出会った日以来、於兎は初めてここを訪れた。
相変わらず判りにくい家だ。家である事も、その入口も。
地下へ続く通路。何故こんな場所を家に選んだのか、理解に苦しむ。
ふと。
目の端で何かを捉え、確認すべく顔を上げた。
「…あ」
黒い、男。
以前も見た事がある。忘れ難い異様な出で立ち。
「あなた…あの時の!」
「死神に会いに来たのか?やめておけ」
余りに理不尽な言い草に、於兎は向きかけていた足を戻し、足音荒く男に近寄った。
「…何だ?」
表情どころか顔も見えない男を睨みつけ。
「まず、私は朔夜に大事な用が会って会いに来た。あなたにどうこう言われる筋合いは無いわ。次、彼の事をそんな風に呼ばないで。私が居なきゃ自分の名前も忘れる所だったのよ!?最後に、あの時彼がどんな状態か分かってて戦に連れて行ったの!?弓矢の傷が奇跡的に治ったばっかりだったのよ!?あなた達どんな神経してるの!?」
一気にまくし立てた彼女を、黒い面がしげしげと眺めている。
「言いたい事はそれだけか?」
「…な、何それ!?ちゃんと聞いてたの!?」
「言っておくが」
急に高圧的になった声音に、於兎は多少構えた。
「お前があの男の事をどう見ているか知らんが、奴はお前が気安く近付いて良い存在ではない。奴は貴様なぞと同じ人間ではないのだからな」
「…人間は…人間でしょう…!」
言いながらも、頭に過ぎる光景が語気を弱める。
普通ならば致命傷となっている傷を負いながら、敵の一団を斬り伏せてしまう異常な戦闘力。そして、傷を治した、あの光。
人間離れとすら言えない。人の子の為せる業ではない。
「とにかく、女」
於兎の弱気を見て影は言った。
「死にたくないなら近寄るな。お前は我々の世界には相容れぬ者だ」
「それは…私の勝手よ!」
黒衣の男は低く笑って背を向けた。
「警告はした」
次の瞬間には、影は消えていた。
城の間を縫って、朝日が差し込む。
「話、終わってないのに…!」
一人怒るがどうしようもない。
地団駄を踏みながら、再び地下へと向かった。
階段を降りると、以前とは違う光景がそこにあった。
以前には簡単だが木の板で壁が作られ、見えないなりに何とか家として体裁を成そうとしていた。
それが今は、板が取り払われ、鉄柵が剥き出しになっている。開け放されていた扉も固く閉まっていた。
これは、この場所の本来の役目――地下牢そのものだ。
それに気付いて、地下牢という空間の悍ましさを思い出し、於兎は足を竦めた。
「…朔夜?」
恐る恐る、呼び掛ける。
ひょっとして、彼は別の場所に住み始めたから、ここは地下牢に戻されたのではないか――そう考えもしたが、牢の中は以前のままだった。
その中の人物も。
寝台の上に手足を投げ出して転がっている。ぴくりとも動かない。
「朔夜?寝てる?」
寝ているなら不毛な問い掛けだが、応えは返ってきた。
「何しに来た」
冷え切った声音。
別れた、あの時のままの。
於兎はここに来た事を薄く悔いた。
「話があるの。あと、あなたの顔を見なきゃと思って。身体は無事?」
「…ああ。俺はな」
不自然な返答に引っ掛かるものはあったが、それ以上に聞きたい事が先に口をついて出た。
「これ、鍵が掛かっているの?開かないの?」
以前は確かに自由に出入り出来た扉に手をかける。がしゃ、と錠が音を立てた。
「開いたら牢にならないだろ」
当然と言わんばかりの大儀そうな返答。
目もくれない。仰向けに天井を見たまま。
「牢、って…どうしてあなたが閉じ込められなきゃならないの」
「理由ならあり過ぎて説明が面倒だ。まぁ結局、自分で入ったんだけど」
「自分で?牢に?」
「話って何だ」
好奇心を削ぐ様な厳しさで問い返される。仕方なく於兎は続く言葉を溜息一つに変えて、己の話を始めた。
「敦峰の事、聞いた?」
「ああ。…それが何だ」
相変わらず声音は冷たい。
「行かないで」
「…何故」
「私の故郷なの、敦峰は…」
何も言わないままだが、藍の瞳が僅かに於兎を捉えた。
「身の上話を聞いてくれる?」
自嘲混じりの問いに、応えは返らなかったが、構わず彼女は続けた。
「敦峰は辺境の街よ。元々は樊(ハン)の領地だったものを繍が掠め取った。でも繍は優遇してくれてね、街の人達も樊なんかに従い続けなくて良かったって言ってたの。でも、だんだん状況は変わってきた」
戦争に次ぐ戦争に手を染めた国にとり、辺境の地は重要は防衛線であり、補給地だ。
元々の領地ではない敦峰は、戦地に近い事もあり、多大な搾取を受けた。
「街の人達の生活は苦しくなって、それで…少しでも負担を軽くして貰える様に、軍幹部に貢ぎ物を贈った」
「…あんたもその一つなのか」
於兎は頷いた。
「桓梠様に気に入られて、故郷を助けたくて、必死だった」
「だからあの時…」
あんなにも桓梠の元へ帰りたがっていたのか、と。
「でも、勘違いしないで。私は街の為だけじゃなくて、本当にあの方を慕っているの」
「…それは…」
あんたがそう勘違いしていたいんじゃないか、と言いかけて、やめた。
言った所で無駄だ。何より自分には関係無い。
「お願い。私はあの街を守りたいの。敦峰には行かないで」
聞く耳を持たぬかの様に、寝返りを打って背を向ける。
「朔夜!聞いてるの!?」
何も返って来ない。自分の声が岩壁に反響するだけ。
「あなたが何を考えて戦ってるか、私には分からない!でも聞いて!敦峰の人達は苴軍とは違う、この国の民なのよ!好きで反乱してる訳じゃないわ!生きる為にやむを得ず蜂起したの!お願い、苴軍と同じ目に合わせないで!!」
やはり何も返答は無い。
聞いているのかいないのか、背中ばかりを見せられて。
「…何とか言ってよ…!」
開かない扉を叩く。
重たい金属音が牢に響く。
その余韻に紛れて。
はっと、於兎は今来た階段を振り返った。
こつり、こつり、と硬質な靴底が音を発てる。
昇った陽により作られていた濃い影が取り払われた時、於兎ははっと鋭く息を吸った。
「桓梠様…」
血の気を感じさせない青白い顔の男は、自分の女を一瞥し、牢の中へ視線を向けた。
「私の贈り物は見たか、月よ」
厳しい面持ちで朔夜は起き上がり、寝台に座したまま視線でそれを示した。
於兎がそれを見て悲鳴を上げる。
暗い牢の隅に転がっていたのは、人の頭。
長い黒髪が闇に紛れ、今まで気付かなかったのだ。
「知った顔だったか?」
桓梠の切れ長の目は細められ、明らかにこの状況を楽しんでいる。
「…だからこんなに大人しくしてやってんだ」
吐く息で朔夜は言った。
「殊勝な事だ。まぁ明日には出してやる。樊との国境線に兵を送るから、それに同道して行くと良い」
「軍部は本当に内乱には触れないんだな…」
「お前の一人舞台を用意してやったんだ。悪くないだろう」
「ああ…そうだな」
於兎が小さく声を上げて朔夜を振り返る。
「だが言っておく。私は乱を起こす不届者を一人残らず始末しない限り、お前の働きは認めん」
「…他国の兵と同じ様に殲滅しろと言うんだな?」
「でなくてどうしてお前を選ぶ」
「軍部とは関係無いと民に思わせたいのかと思った。自国の民を嬲る所なんざ見せたら、兵が集まらなくなるからな」
「…我が軍の士気にも係わる」
「貴様の惰弱な軍なんか知った事か…」
「忘れたのか?その惰弱な軍の飼い犬だ、お前は。…ああ、そうだ。犬にも雌犬が要ると聞いたぞ」
「…何の事だ」
「惚けるな。そうなっては困る女が居るのだろう?」
顎で首だけになった同胞を指し示される。
昨日、華耶を訪ねて行った折に見た顔だ。元々は隣村の顔見知りだった。
「会わせてやろう」
桓梠が入口に顔を向けた。
「…まさか」
「お前の女かどうか、見てみると良い」
震える足で朔夜は寝台を降り、殆ど崩れる様に駆け寄り、鉄柵にしがみついた。
違っていてくれ、と願いながら。
だが期待は虚しく、そこに現れたのは、紛れもなく華耶だった。
身体を縛られ、その縄は影が手にしている。
「…貴様ら…!」
十分に怨嗟の込もった朔夜の眼を嘲笑い、桓梠は華耶に手を伸ばした。
「見直したぞ、月。なかなか良い毛並みの犬ではないか」
頬から唇にかけて親指でなぞられる華耶の顔は蒼ざめている。
「あの様に青黒くなった女の顔など見たくはあるまい?」
「やめろ…!」
「見たくないなら誓え。敦峰の虫けら共を一匹残らず駆除しろ。月夜に血の海に沈めてやれ。お前が出来得る限り、最も残忍な方法で」
俯いたまま、藍の瞳が於兎に向けられた。
彼女は何も言えず、祈るように両手を固く握りしめて、この様を見詰めていた。
「朔夜、お願い」
びくりと身体を震わせたものは、華耶の声。
「そんな事、しないで…ね?お願い。私は大丈夫…だから…」
震える声。
少年は己を立たせていた支えが無くなったかの様に、鉄柵を握ったまま身を沈ませた。
「…分かった…」
睨む眼は、桓梠に。
「貴様すら震え上がる光景を見せてやれば良いんだろう?」
「朔夜…!」
華耶の悲鳴にも動じず、朔夜は憎い男を見上げ続けた。
「よく言った。期待している」
憎しみに彩られた顔を、旨い酒でも飲むかのように見下して、桓梠は踵を返した。
歩きざまに華耶の身体に腕を絡ませ、彼女の小さな悲鳴と朔夜の怒号には構わず、背を向けたままもう一人の女に声をかけた。
「於兎、お前は犬の世話でもしろ。それが望みだろう?」
目も口もいっぱいに開いて、於兎は驚きで急には何も言えない様だった。
「何なら、その身体、化け物の贄にしても構わん」
「…そんな、桓梠様、どうかお考え直しを!!」
女の悲痛な叫びを哄い、華耶そして影を伴って桓梠は去った。
痛い、痛い沈黙に取り残された二人。
於兎は跪き、呆然として、涙すら出ない。
朔夜は手に通う血が止まる程強く鉄柵を握り締めていた。
光の差し込む地上への穴を睨みつけたまま。
重く、口を開いた。
「俺は…お前の故郷を、潰す」
驚きと恨みを込めて上げられた視線。
刺さる痛みを感じながら、朔夜は続けた。
「分かっただろ…俺にも守らなきゃならないものがある…。お前が何を言っても変わらない。…選べる訳ないだろ…」
「じゃあせめて私も敦峰で葬ってよ!!」
「……馬鹿な事を…」
「私もあなたに斬られて死ぬわ!!贄ってそういう事でしょう!?」
「好きにしろ!!」
怒鳴り付けて、寝台に戻り、荒くそこへ飛び込む。
後ろで関を切った様な泣き声がした。
華耶の方がもっと泣きたいだろうに、そう思うと今聞こえるものが腹立だしくて仕方がない。
何もかも我慢して、彼女は現実を受け入れるだろう。
桓梠の腕の中で震えている様が嫌でも目に浮かぶ。
堪らなかった。
懐の短剣を抜き、石壁に思い切り叩き付ける。
耳をつんざく音に、於兎は塩辛い息を飲んで朔夜に見開いた目を向けた。
「おい」
低く、言う。
「あの男、殺しても良いだろう…!?」
それだけで身を斬られそうな殺気に、悲しみも吹き消されて。
於兎は、頷いていた。
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