月の蘇る
10
胸の上で上下に揺れる銀髪を眺め、千虎は再び紙面に視線を落とした。
蝋燭が静かな唸り声を発てる。時は真夜をとうに過ぎた。
あの凄惨な戦場から帰陣したのは昼過ぎの事だ。繍軍を滅ぼした他の隊と合流しながら、戦の行方を知るに至った。
愚かな策に人員を裂いた繍軍を破るのは、自軍には正に朝飯前だった様だ。戦は苴の完勝に終わった。千虎の狙い通りに。
だが、繍軍の策――千虎の暗殺が紙一重の所で破られたのも事実だ。一つでも何かが間違っていれば、今自身がここに居る事も、苴軍の勝利も、有り得なかっただろう。
全ての命運は、一人の少年が握っていた。
その彼は、あれからずっと眠っている。今は千虎の自室の寝台の上で、全く気持ち良さそうな寝息を立てて。
その様を時折眺めながら、千虎は筆を取っていた。家族への手紙だ。
帰還が近い事、しかしまたすぐに次なる戦場へ出陣せねばならない事、そして何より、家族が一人増える事。
『勝手を言って済まないが、この朔夜という子を、涛虎(トウコ)と共に育てて欲しい。私達の子として』
妻は、否とは言わないだろう。きっと一目でこの子を気に入る筈だ。
息子、涛虎にとっては良い遊び相手となるだろう。父親が居ない家でずっと寂しい思いをしているだろうから。
――朔夜は?
本当にこれで良いと思っているのだろうか――?
否、思っていないとしても、連れて帰らねばならない。ここで手放しては見捨てるも同然だ。
考えに耽っていると、外から扉が叩かれた。
「将軍、孟柤隊が帰陣致しました」
「おう」
部下の声に応え、さて出迎えにでも出ようと筆を置く。と、無遠慮に扉が開いた。
「…今迎えに行こうと思ったんだが」
仏頂面の孟柤が扉枠いっぱいに立ちはだかる。千虎は気まずく頬を掻きながら言い訳した。
そんな事はどうでもいいとばかりに孟柤はずいと中に入る。仕方ないから千虎は一歩下がった。
「どうした、怖い顔して。…あ、元からか」
軽口に一瞥を加え、孟柤は言った。
「この餓鬼、どう処分するつもりだ」
「…処分?」
酷薄な言葉を訝しんで千虎は目を細める。
「しらばくれても無駄だ。こいつがあの悪魔なんだろう。お前がこいつのお陰で死に損なった事は分かっている」
千虎は急には何も言えない様だった。
見開いた目で孟柤の横顔を見ていた。だが余りの衝撃で何も視界に入らない。
あってはならない。
この男に、真実が知られる事など。
「…誰が、そんな事を」
掠れた声で問う。
「お前達が居た場所に立ち寄ったんだ。繍兵の様子がおかしかったからな、何かあると問い詰め、奴らの策を知った。お前の屍でも転がっているかと期待して行けば、もっと酷い事になっている。部下に付近を捜索させて…見付けたんだよ、生存者を」
「繍兵か…?」
「そうだ。もう己の素性も語れぬほど恐怖で気を病んでいたが、一言『月が寝返った』と」
「それで…それでこの子の仕業とはならないだろう!?」
「十分だろう?現にお前の部下は皆、何を訊いても口を閉ざしている。お前が口止めをしたからだ、千虎」
動揺を隠せない千虎に、孟柤は残酷な薄笑いを向けた。
「そこまで隠すくらいだ。無論、お前にはこの悪魔を処分する術があるのだろうな?まさか黙って持ち帰る気ではあるまい?」
「…処分、処分って…この子を…人の命を何だと思っている…」
絞り出した言葉を、孟柤は鼻で笑った。
「その命とやらを刈り取るのが俺達の仕事だ。そもそもこいつは人ではなく、化け物だがな」
言うと、千虎の横で止めていた足を、朔夜に向けた。
歩みながら、腰に提げている短剣を引き抜く。
「やめろ、孟柤!」
制止を嘲笑って孟柤は短剣を朔夜の喉に向けた。
「やめろ!!」
振り下ろす――
「やめた方が良いよ、オッサン」
孟柤は驚愕していた。
短剣は止まった。不可解な力で。
確かに少年の細い手が刃を握っている。が、そんなものは剛腕の孟柤にとって何の意味も無い筈だ。
だが、動かない。
引いても押しても、まるで氷中にあるかの様に。
抜き身の白刃を握る手からは、赤い血が零れて端麗な顔に滴っている。
「悪魔め…」
孟柤の渋面を冷たい目が無感情に捉える。
「あんたの為だ。俺を殺さない方がいい」
声にも、何の感情も無い。
「死ぬ事になるのはそっちだから」
明らかに豪将は、一瞬ぎょっとした表情を見せた。
そして息を詰めて少年を凝視し、短剣を引いた。
「安心しろよ。黙っててくれれば俺は何もしない」
薄く笑んで朔夜は言う。先刻の超然とした存在感は消え、普通の少年の顔で。
孟柤は一度振り向きかけたが、背を見せたまま扉の向こうに消えた。
「…朔夜!」
今度は心配顔の千虎が覆いかぶさる。
「またお前は…無茶をして…!怪我を見せてみろ」
「ん?平気。あんたの手を煩わす事は無いよ」
言って起き上がり、ふらふらとしながら窓際へ行く。
「何を…?」
千虎はぴたりと後を付いて行く。まるで身を投げ出すのを止めようとしているかの様に。
勿論、朔夜はそんなつもりはさらさら無い。窓を開けて血に濡れた手を翳した。
手を透かして、山裾に低く傾く月が見える。
「…俺の血が赤い方が不思議だよな」
闇夜に向けて自嘲しながら朔夜は言った。
「確かに俺は化け物だよ。オッサンの言う事に間違いは無い。…でも」
千虎の怪訝な目の前に、手を戻す。
「化け物には化け物の生き方があるって、放っておいてくれればいいのにな?」
傷は、無くなっていた。
目を見張り、手を掴んで詳しく調べる千虎に朔夜は笑いかけた。
「俺は月なんだよ。赤く染まった月なんだ」
千虎は顔を起こした。
言葉に詰まり、朔夜の顔を驚きの目で見詰める。
少年はただ、哀しく笑った。
帰還を翌日に控え、警備の為残留する者も含め陣に居る全員で宴を行った。
繍から奪った酒や食料がふんだんに振る舞われ、人々は心地好く酔い、騒いだ。
朔夜もまた杯を手にし、兵士達と談笑したりふざけ合ったりと、楽しく過ごしていた。
一見元通りか、それ以上の姿だが、あの場に居た一部の兵達は決して彼に近づかず、冷ややかに周囲を見ていた。
それに気付かぬ程彼は無神経ではない。それとなくやり過ごしながら、諦めを感じていた。
あの姿を見せた以上は。
化け物扱いは仕方ない。もう慣れた。
それ以前に、どれだけ人として親しくなっていても。
何も知らぬ兵が、その彼らの一人を呼んだので、朔夜はそっとその場を離れた。
城門の階段を上り、そこに座る千虎の隣に腰を下ろした。
「楽しんでいるか?」
微笑と共に問われ、迎えられる。
「まぁね」
曖昧に笑って朔夜は応えた。
「十分でしょう?全く、信じられない」
後ろで罵りの声をあげるのは、於兎。
そこに少し冗談の色が混じるくらいには、彼女も一連の出来事に納得し始めていた。
明日には、共に苴都に赴く。
「何よりだ」
満足そうに笑って千虎は言う。
「しかし、別に俺の隊の者に遠慮する事は無いからな」
「別に遠慮してなんか…」
「前と同じに振る舞えば、彼らもいずれ判るさ。お前が普通の子供と変わらない事」
朔夜は口には出さなかったが、それは無理だろうと確信していた。
植え付けた恐怖を忘れる事など、まず不可能だ。
朔夜自身、その事を痛い程知っている。
夜毎襲う悪夢。
「…俺、本当に都へ行って良いのかな」
呟くと、千虎に一笑に付された。
「どうした?苴の人間はお前を取って食ったりはせんぞ」
「その逆の事があったら?」
千虎は答えず、朔夜の頭に手をやった。
「…保証は出来ない。お前の大事な人を、傷付けないとは…」
「俺が守るさ。俺の家族も、お前も」
朔夜は何も言い返せず、足元に視線を落とした。
楽観し過ぎだと指摘した所で、もうどうにもならない。我儘と片付けられるくらいだろう。
千虎の望む様な、平和な暮らしが出来る自信は無い。
――今、ここで消えるか。
何事も無かった様に。互いに元の生活に戻れば、堪えられぬ悲劇を招かずに済む。
「あまり考え過ぎるなよ。お前はただ、普通に、幸せに暮らせばいいんだ。俺が保証してやるさ」
「……」
『幸せ』など、久しく忘れていた。
その意味を思い出せた訳ではない。が、頷いてしまった。
そうでありたいと思ったから。
「笛が聴きたい。頼んで良いか?」
朗らかな千虎の願いに、朔夜は今度は小さく笑って頷いた。
朱塗りの笛を手に取る。
遠い故郷の音色。
星明かりと夜の闇の間に解き放たれる。
いつかも、こんな愉快な宴の中で流れていた曲。
もうすぐ、あの頃が戻ってくる気がした。
「…そうか」
ふと、千虎が呟いた。
「あれは…梁巴か」
不意に調べは止んだ。
驚きを含んで千虎が振り返ると、見開き、こちらを凝視する碧眼があった。
その瞬間、彼は全て理解してしまった。
この眼が見てきた惨劇を。
「…お前、あの村に…」
一度言葉を詰まらせ、更に千虎は渇く口を開いた。
「あの敗戦は…朔夜、お前が居たからか…!?」
少年は口を閉ざしたまま、眼には鋭く冷たい光が宿っていた。
「教えてくれ…。あの戦、お前が関わっていたのか?何故、繍に味方した…?あの時、俺は…いや俺達は…あまりに多くの仲間を失ったんだ…。まさかお前が手を下した訳ではないだろう…?」
「あんた達は俺から梁巴を奪った」
朔夜は一言、吐き捨てる様に言った。
千虎は息を飲んで口を閉ざした。
あの時――あの凄惨な夜の前日、千虎には別の命が下り、単身梁巴を離れた。二度と会う事の叶わなくなった部下や仲間を残して。
ただ、その偶然が無ければ、今頃ここにこうしては居なかったろう。
目前の月に、真っ直ぐに刃を向けられる様が、頭を過ぎった。
その瞬間。
身を切り裂く、鋭い痛み。
迸しる血潮。
驚きは声にならず、視界は地に吸い寄せられた。
仰向けになり、渇いた咳で血を吐き出す。
そして軽く笑った。
目の端で、少年の青ざめ、強張った顔を捉えたからだ。
「…やられたよ」
尚も微笑んで千虎は言った。
感覚の遠くなる指で己の刀を探り、鞘ごと引き抜く。
「持って行け」
朔夜は震える手でそれを受け取った。
「約束…何も出来なくて…悪い、な」
「千虎…」
「行け。逃げろ」
我を忘れて事態を見ていた周囲が、徐々に何が起きたのかを把握し始めた。
怒号が響き、抜かれた刀が篝火を反射して煌めく。
悪魔だ、悪魔を退治しろ、仇を取れ――全ての声が朔夜には遠かった。
誰よりも、目前の現実を受け止められなくて。
「朔夜!!」
於兎が耳元で叫ぶ。
「行かなきゃ!!殺される!!」
怒りに染まる群集は、既に周囲を囲もうとしていた。
朔夜は一度目を瞑り、受け取った刀を握り直した。
開いた目は覚悟を決めていた。
刀を抜く。
敵の刃も届こうとしている。
それらを一閃で薙ぎ払い、一気に階段を駆け降りた。
刀を受け、払い、斬る。
その刃の無い所でも、紅の花が散る。
怒りは、恐怖に気圧される。
道が、開く。
その様を、昏さの増していく世界で見ながら。
「…生きろ」
呟いて、千虎は息を引き取った。
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