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月の蘇る
  8
   たった一人で戦場に立ち、多くの敵を殺害する、その気持ちとはどんなものだろう。
   城へと向かいながら、龍晶はかつて悪魔と呼ばれた繍での朔夜を想像していた。
   あの優しい心根で、他人の命を奪う事を命じられ、その通りにする。
   果たして出来得る事なのだろうか。否、それが出来たからこそ今の朔夜が居るのだが。
   そして記憶を失う前、朔夜は繍を憎んでいた。憎しみを持つに至った直接の理由は分からない。確かに故郷を燃やされた憎しみを語ってはいたが、それも分かっていながら最初は従っていたのだろうか。
   分からない。一体どういう心境で彼は悪魔と化したのだろう。
   そして、今も。
   自分を使役する事を選んだ俺を、いつか繍と同じように恨むのだろうーー
   それを回避しようとは思わない。
   ただ、出来るだけ引き延ばしたい。覚悟しているとは言え、殺されたくはないから。
「…引き返したいと思うのは俺だけですかね」
   桓梠の居る客殿を前に、桧釐がぼやいた。
   聞いて気持ちの良い話ではないのは確かだろう。
「帰りたいなら帰れ。俺は行く」
   邪魔だとばかりに龍晶は返した。
「いえ…殿下にその気が無いなら良いです」
   前言はその気持ちの良くない話を龍晶の耳に入れたくないから言ってみただけだ。
   悪魔を使役する方法は、彼にとって友を操り地獄に落とす方法なのだから。
   だが彼の意思は固かった。
   自分達二人より多くの人を地獄に落としたくない、その気持ちから来る意思なのだと、桧釐は無理矢理にでも理解する事にした。
   使い番に来訪を知らせ、扉が開かれる。
   桓梠は硬質な笑みで二人を迎えた。
   愛想笑いとは言え、どこか偽物染みた表情だと龍晶は思った。
「昨晩は失礼を致しました。今お話を聞かせて頂いても宜しいですか?」
   馬鹿丁寧に龍晶が訪問の意を伝える。
   桧釐が隣で訝しげな顔をしている。そこまで気を遣う意味は無いだろう、と。
   だが龍晶にはそうせねばならぬという意識があった。恐らく、兄は自分と血が繋がっているという事を隠している。ならば客人にとり自分は戔の一家臣に過ぎない。
「どうぞ」
   笑みを崩さぬまま、しかし言葉数は最低限で桓梠は二人を中に入れた。
   無駄口は叩かぬ相手なのだと龍晶は察した。
「昨晩訪うて下さったのは、陛下のお言葉からですか?」
   促されて席に着きながら、龍晶は訊いた。
「ええ。そちらの陛下より言われたので訪ねたまで。ところでお加減は?」
「ご心配ありがとうございます。いつもの事で慣れております」
   ふん、と桓梠は鼻で嘲笑った。
   桧釐の顔が険しくなる。
   龍晶は彼を目で制したが、桓梠は嘲笑を崩さぬまま言い放った。
「これは失敬。飼う者も飼われる者も似た者同士だと思いまして」
「…そうかも知れません」
   桧釐が怒り出すより先に、龍晶が落ち着き払って言った。
「そんなあなたは陛下に似ていらっしゃる。…同じ事をしていたのですか、朔夜に」
「朔夜とは?」
   不意に沈黙が訪れる。
   何故その名を問い返されるのか、龍晶には訳が分からない。
「もしや、悪魔をそう呼んでいる?」
   桓梠が嘲りを口元に広げながら訊いた。
   嫌悪を込めて龍晶は返した。
「彼の名です。知らなかったのですか」
「へぇ。初耳だ。知る必要が無かったものでね」
「あなたは昨日朔夜を月と呼んでいましたね。月とはそちらでは悪魔と同義語と聞いた事がある。あくまで彼を人として見ないと…そういう事でしょうか」
「人として見る?面白い事を仰いますな」
「…成程。繍に居た頃の彼が少し分かりました」
   冷静を装って龍晶は返した。
   桓梠は朔夜を道具としてしか見ていない。それ以外はあり得ないのだろう、況して人として見るなどと。
「そうそう、先程の質問ですがね。飼うならば躾もしましょう。躾られる側にその意味は解らないかも知れないが」
   皮肉に、龍晶は自嘲を浮かべた。
「ええ…解りませんね。解るような人間にはなりたくなかった」
「そうですか。今は理解され始めていると?」
「そうせねばならぬ所まで追い詰められたというだけです。朔夜を悪魔へと変える方法を教えて下さい」
   桧釐が小さく制止を込めて呼んだ。
   てっきりこのまま椅子を蹴って出て行くと思われていただろう。そうせねばならなかったかも知れない。
   だがもう龍晶は選んでいた。
   向こう側の人間になる事を。
「方法、ですか」
「どうやってあなたは、人の子供を悪魔へと変えていたのです。私の場合は二度とも偶然が重なっただけで、あなたの様に操るには程遠い」
「あれは元より悪魔ですよ。難しく考えずとも、戦場に放り込めばそれで良い」
「…本当に?」
   ならば何故壬邑では失敗したのか。
   訝りながら龍晶は訊いた。
「戦場に放り込んでも、それだけでは変わらぬのです。身の危険が迫っていても、あいつは自分が殺されるより他人を殺す事を恐れる。それが悪魔ではない朔夜です」
「さて。私は悪魔しか見て来なかったので、その点は何とも」
   笑う顔は信じていない。
「しかし実際には他人を殺したのでしょう?」
   そうだ。朔夜は自分のした事を恐れてはいるが、現実は多くの命を奪っている。
   否、奪わせたのは自分だ。
「…あいつは俺を守ってくれた。的外れかも知れないが」
   龍晶は呟くように告げた。
「へえ?悪魔に身を守らせたのですか。それは凄い。そしてあなたの為に悪魔は殺したくもない兵を大勢殺したと言うのですね。大した悪魔使いではありませんか」
   龍晶は目を閉じてやり過ごした。
   隣の桧釐の拳の上に掌を置く。彼はきっと怒鳴ろうとしていた。何を言われても仕方が無い、悪いのは俺だという意を込めて。
「…桓梠殿、あなたは一体何をしたのです。あの純朴な子供が、どうやったら復讐の鬼と化すのですか。彼の故郷の事を、一体どのように吹き込んだのです」
   にやりと、桓梠は笑う。
「私がした事はただ一つ。梁巴は苴によって滅ぼされたと教えてやっただけです」
「え…?」
   それだけか、という思い。
   実際には繍も戦に加わっている。だが、それを言わないくらいの嘘は吐くだろう。それは容易に想像できる。
   だが、それだけで朔夜を騙し、悪魔へと変える事が出来るのか。
「私は元々奴が持っていた憎悪を全て苴へと向けただけですよ。あとは勝手に悪魔が出来上がりました。尤も最初は苦労しましたがね」
「苦労…ですか?」
「確かに、奴にはあなたの仰る無用の感情を持ち過ぎていた。戦場で何度も死を選ぼうとしていたようだが…悪魔は自らの死を許さぬようですな」
   幼い朔夜が一人戦場に立つ様を龍晶は想像する。
   自分が何の為に刀を振るうのかも分からなかっただろう。しかし目前には死が迫っている。
   それで良いと思った筈だ。殺されて、全てが終わる。だが、出来ない。
   刀が意に反して動く。そして屍が積み重なる。それは誰の意思だろう。
   生きたいとは、朔夜は微塵も思っていなかったに違いない。
「戦の終わった後、月は自ら喉を掻き切っていた。私達は何度も月を蘇生させましたよ」
   闇夜に紛れて終わらせたかった命。
   龍晶は目元を抑えた。深い絶望を追体験する様だった。
   彼は生死の自由さえ奪われていた。
「次第にそんな事も無くなったが。だが終盤は勝手な行動をする様になって面倒でしたな」
「それは梁巴の滅亡に繍も関わっていると気付いたから」
「或いはそうやも知れませんが、関係ありませんでしたな。その頃には完全に私の物となっていたから」
「…そうとは思えませんが」
   溜息混じりに正論を吐いて、龍晶は頭の中を整理した。
「彼を悪魔にしたものはつまり、憎しみなのですね?梁巴を滅ぼした苴への憎しみが、朔夜の意思など関係無く悪魔を作り出した」
「そう言えるでしょうな」
   確かにそれならば、龍晶の関わる二件の事例も説明出来る。
   守ろうとしたのではない。朔夜は龍晶を殺そうとする敵へ瞬時に憎しみを抱いただけだ。
   長く、息を吐く。
   苴の様に、戔の敵へ憎悪を抱かせるにはどうしたら良いのか。
   また嘘を信じさせるしかないだろうか。
   善人ぶった抵抗感さえ棄てればそれは造作もない事だが。
「解りました…考えてみます。お話、多いに参考になりました。…今一つ、関係の無い事ですが尋ねても?」
「何でしょう?」
   龍晶は仰け反らしていた背を丸め、ぐっと桓梠へ顔を近付けて問うた。
「桓梠殿はどうして戔へいらしたのです?」
   意味深な笑みを向けられる。
「こちらの陛下に呼ばれたから、その返答では不足ですか」
「お疑いにならなかったのですか。繍にとって戔は敵国かも知れない」
「その心配は無用でしょう。どうやら貴方は何も御存知無いらしい」
「何…?」
「昔から、繍はこちらと仲良くさせて頂いていますよ。他国からどう見られていたのかは知らないが」
   衝撃で龍晶は口を閉ざした。
   最初から兄には繍を攻める気など無かったのだ。手に入れる物だけ手に入れて。
   水面下の同盟関係。戔はぎりぎりで繍を滅ぼさせないよう支援しているのだろう。
「しかし、それでは、繍は戔に吸収される事になるのでは?」
「さて?それも良いのではないですか?」
   桓梠は投槍で言っている訳ではない。無責任だが、本心でそう言っている。
   龍晶はますます訳が分からなくて顔を顰めた。
「繍が滅びても良いと?」
「私が滅びる訳ではないでしょう?居なくなるのはせいぜい、使えぬ王家だけだ」
   龍晶は、薄く笑った。
   納得出来た訳ではないが、何と無く理解は出来た。
   これは究極の保身だ。
「…もう一つだけお聞かせ願いたい。もう長居はしませんから」
   桓梠は目で先を促す。
   龍晶は薄く震える唇で問いを口にした。
「朔夜の事にしろ、繍の事にしろ…あなたには良心というものは無いのですか…?」
   結局。
   龍晶を一番苦しめているのは、これなのだ。
   この良心という物さえ棄てれば、何も苦しまずに思いのまま事が運ぶ。
   目の前の男にそれは見えなかった。
   こんな人間が居るのかと、それは何よりの疑問だった。
   桓梠は。
   小馬鹿にした笑いを見せた。
「愚問ですな」
   切って捨てる一言に、龍晶は何かを諦めた。
「そんな軟弱な物を持ち合わせていて、生き残れる世ですかな?我々は悪魔と違い、蘇る事は出来ぬのですぞ」

「全く、厭な野郎でしたな」
   人の耳の無い所まで来て桧釐は罵った。
   陽光が麗らかに庭園を照らす。
「お前を連れて来るんじゃ無かった。心臓に悪過ぎたよ」
   龍晶が呆れ混じりの笑みで従兄弟に言った。
「また、殿下。終始無言に徹していたでしょう?少しは褒めてくださいよ」
「はいはい。よく我慢した」
   棒読み。
「冗談は兎も角、まさか奴の言う事を鵜呑みにされるのではないでしょうね?そうならない為に俺は邪険にされるのを覚悟でここまで来たのですが」
「取って付けるな。何が覚悟だ」
   詰って、肝心な所は返答を避けた。
「殿下?」
   疑いの声音で呼ばれる。
   龍晶は溜息を吐き、答えた。
「彼の言う事は大方真実だろう。悪魔は憎悪で動く」
「それこそ取って付けた理由に聞こえますがね」
「ならお前には別の説明が出来るのか。壬邑では敵に対して感情は無かった。だから悪魔となれなかった…証明されているだろう?」
「では何故朔夜自身にその自覚が無かったのです?」
「…それは…」
   壬邑に行く道すがら、あれだけ自信を見せていた。自分は必ず敵を倒せると言っていた。
   自分が憎しみによって力を使えると分かっていれば、あの様に言い切れはしなかっただろう。
「朔夜はその事を理解していなかった…それだけじゃないか?」
「憎む相手への自覚が無いとでも?」
「母親を憎んではいなかっただろう」
   流石に桧釐は口を閉ざした。
   龍晶も言いたくは無い事実を口にして、早く思考をそこから逸らせたいと続けた。
「多分、それは一つの理由ではあるが…全てそれでは説明出来ないんだろう。だからあいつはその自覚が無かった」
「それでは答えにならぬではないですか」
「だから、例外もあるというだけの話だよ。多分、力を使う事に慣れてからは感情に関係無く、多少は自分の意思で使えていたのだろうしな。でないと桓梠の命令には従えまい」
「自らあんな奴の言う事に従っていたのですか」
「他にやりようが無かったんだよ。俺には解る」
   余計な事を言ってしまったな、と龍晶は桧釐から目を逸らした。
   哀れむような視線が嫌だった。
「かつての朔夜が…今のあなたですよ」
「違う」
「違いません。あなたは自分の意に反して朔夜という刀を振ろうとしている」
「違う…これは俺の意思だ」
「殿下!それは逃げにもなりません!」
   龍晶は真正面から桧釐を睨み付けた。
   桧釐が怯む程に。
「逃げようなどとは思っていない。俺は悪となる。もう決めた事だ。悪となった人間に言われただろう?生き残るには、これしかない」
   桧釐は息を飲んだ。
   この人のこんな表情は、見た事が無い。
「俺が生きる為の選択だ。誰にも否は言わせぬ。無論、お前にも」
「しかし…あなた自身の保身では…無いのでしょう…?」
「黙れ。それはお前などには関係の無い事」
   いよいよ桧釐は口を閉ざさざるを得なかった。
   彼は完璧に心を閉ざしてしまった。そしてその心を棄てると決めてしまった。
   実際にそんな事が出来るとも思えなかった。
   本来の優しい彼と、冷酷に徹しようとしている彼の間に、これから歪みが出て来るのは目に見えている。
   独りで苦しむ気なのだろう。
   己の中の矛盾に言い知れぬ痛みを抱きながら。
   龍晶が動いた。
   ついて来るなと言わんばかりの背中。桧釐は追う事を諦めた。
   但し一つだけ、その背中に声を掛けた。
「俺はあなたを生かすと誓いました。それは変わりません。お忘れ無きよう」
   少しだけ振り返って。
   龍晶は、魔の潜む城の口へと吸い込まれていった。

   牢の錠を開けさせて、龍晶は中へと足を踏み入れた。
   牢と言いながらここは罪人の入る場所ではない。今入っている者も、過去に入れられた者も。
   だが、と龍晶は思い直す。
   俺も、お前も、罪人には違いないな。
   違うのは、あの真っ白な母の存在だけ。
   龍晶は朔夜を見下ろした。
   寝台でぐっすりと眠っている。起きる気配も無い。
   その顔に、涙の跡があった。
   何を思って泣いていたのだろう。否、理由は一つでは無いだろう。
   そっとその顔に手を伸ばし、その跡をなぞって。
   小さく、龍晶は友へと告げた。
「ごめん」
   謝って許される事は無いと分かっている。
   己の巻き添えに修羅の道へと引き摺り込まねばならない。
   嫌だと朔夜は泣き叫ぶだろう。それをさせてやれないからこそのこの涙だろう。
   この透き通った純粋な翡翠の玉に、俺はどんな濁りを入れ、そして疵を付けてゆくのだろう。
   いつか割れるのは、どちらが先だろう。
   お前か、俺か。
   ふっと口許に笑いを浮かべる。
   きっと、俺だな。
   己の弱さなら、誰よりも知っている。
   いつか。
   お前が殺してくれれば良い。それで良いんだ。
   救いようの無いこの俺が行き着くべき結末は、それしか無いのだから。


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