月の蘇る
7
どうして好き好んで戦場に舞い戻ってしまったのだろうと自問せずには居れない。
喉元過ぎれば、とは言うが、熱さを忘れる程の時間は経っていない筈だ。
ならばそもそも、熱さを感じていなかったのかも知れない。知ったふりはしていたが。
安全な場所に押し込めて、怪我すら出来ないようにしてやるーーそう言われてやって来た。
その通りだった。守られている自覚も無いまま、逃げ出していた。
そのまま知らぬ振りで逃げれば良かったのか。
ただ、逃げ場は無い。
行き着く場所は、この戦場より絶望的だ。
戦う相手は居ない。
少しずつ、この首を絞められてゆくだけ。
どの道、息絶える事が分かっているなら、この戦地こそがせめてもの逃げ場だ。
だが。
龍晶はこの地に立って、進むべき道を失っていた。
古城は敵に包囲されている。
ひょっとしたら朔夜の力が働いて、勝利しているか、若しくはかなり有利な状況になっているのではないかと密かな期待を抱いていた。そんな甘い期待はこの光景を見て見事に打ち砕かれた。
だが、あの城の中にはまだ味方が居るのは確かだ。
もしかしたら、朔夜も。
どうにかして包囲を掻い潜って潜入できまいかと、龍晶は敵軍を遠巻きにしながら周囲を探った。
だが城に入れるのは丘の峰に沿う道だけで、無論そこも敵軍に抑えられている。
何か変化があるかも知れないと淡い期待を抱きながら、その丘を眺めつつ一夜を過ごした。
夜明けと共に甘い考えは捨てざるを得なかった。何も状況は変わらない。
ならば、と考えを変えた。
わざわざ包囲している城に丸腰で入ると言う者を、敵も止める理由は無いだろう、と。
乗ってきた馬を放し、徒歩で丘へと向かう。
失う物はもう何も無い。なるようになるだけだ。
処刑台へ向かう心持ちはこんなだろうかと思った。祖父はどうだったのだろう。
否、と思い直す。彼はもっと重たい物を背負って処刑台へと向かった筈だ。
その一つが、この命なのだ。
心の中で、天に向かってごめんなさいと言った。
だけど、引き返す気は無い。ここで命を投げ出したくは無いが、運命はどう転がるか分からない。
祖父は、分かってくれると思う。
そして、守ってくれるとも。
敵兵がこちらに気付いて怪訝な顔をした。
腹は括った。小細工無しに正面から突破する。
『私は戔(セン)の使いの者だ。城に入れさせて貰いたい』
哥(カ)の言葉で兵達に呼び掛ける。
自国語を話す異国の者に彼らは驚いた顔をした。それはそうだろう。この国で哥の言葉を操れる者はそう居ない。
待てと言い残し、一人がその場を去った。
残った兵が槍の切っ先をこちらに向ける。
動じることなく龍晶は道の先を見据えていた。城の中に希望はあるだろうか、と。
程なく、将らしい男が先程の兵と共に現れた。
『城に入りたいだと?』
男の問いに龍晶は頷く。
『包囲している城にわざわざ入れてやれると思っているのか?』
鼻で笑って龍晶は答えた。
『俺が身一つで城に入って、あんた達は何か困る事があるのか?俺一人でこの状況を覆すとでも?そんな非力な軍なのか、あんた達は』
突き付けられる切っ先が増える。槍を持つ兵の目は怒っている。
龍晶が表情一つ動かさずに居ると、将が軽く手を挙げ槍を引かせた。
『魂胆は何だ?』
『心配は無用だ。敗戦処理に来ただけだ。あんた達と話が出来る者が居ないとどうしようも無いだろう。その前に中の者達を説得したい』
相手は口を引き結んで考え始めた。
敗戦は嘘ではない。この場所は捨てられた。故にもう戦い続ける意味が無い。
問題はどう始末を付けるかだ。城の中の兵を救えるならば救いたい。
『良いだろう。ただし』
男は龍晶を値踏みするかのように見、言った。
『明日の日暮れにはここへ出て来い。中に居る連中全員でだ。さもなければ一刻ごとに捕虜の首を城内に投げ入れるぞ』
『捕虜が居るのか!?』
はっとして声を上げた。
戦において当然の事ながら、龍晶は全くその存在を失念していた。
『その中に銀の髪を持つ子供が居ないか!?』
思わず問うていた。
相手がにやりと嗤い、己の落度を知った。
朔夜は敵の手の内に居る。
それも、自分が血相を変えて訊いた事で、只者ではない、使える駒だと割れてしまった。
『…分かった。もういい』
城の中には朔夜は居ない。ならば、城に入って探す必要は無い。
自分の軽はずみな行いのせいで、兵を危険に晒す訳にはいかない。
一歩退いたが、後ろからも刃物を突き付けられた。
『待て。お前は中に入るんだろう?』
『そっちの条件が飲めない。だから入れない』
『お前に選択の権利は無い』
一層、身の周りに並べられた刃が近付く。
『お前は城に入り、明日中の者を連れて出て来るのだ。その子供の屍を見たく無いのならな』
龍晶は絶句した。
間違いなく己が招いた災厄だ。後悔してもし尽くせない。
だが、まだ。
まだ、決まった訳ではない。
『それは出来ない』
言うなり、突き付けられた槍を掴み、己に引き寄せた。
槍を持つ敵が慌てて引っ張るのに逆らい、己の首筋へ近付ける。
「俺一人殺せば良いだろう!?どうせ何も出来ない屑なんだ!」
「殿下!お止め下さい!」
呼び声に力が緩んだ。
槍が手元から抜ける。
宗温が、部下達と共に城の前に出ていた。
指揮官を先頭に、皆武装している。
「殿下、こちらへ」
宗温が城へと招く。咄嗟に龍晶は叫んだ。
「駄目だ!俺がそこに入れば、皆が…!」
「その者に言ってやって下さい。殿下を解放すれば我々は捕虜となっても良いが、もし危害を加えるのなら、双方無事では済まぬと」
「…そんな」
泣き声になった。
あまりに己が情けなくて。それだけではないのだが。
「殿下、お願い致します。私は哥の言葉を話す事が出来ないので」
言われて、そのまま敵将に宗温の言葉を伝えた。
敵将が兵に目配せし、前方の槍が引かれた。
もうどうあっても後戻り出来なかった。
彼らに向かって重い重い足を運ぶ。
最後は腕を引かれて味方の中に引き入れられた。
『明日の夕暮れまでだ。忘れるな!』
敵将が怒鳴り付ける。
それを聞くか聞かぬかで、全員が入った城門は閉められた。
歩く足から力が抜ける。膝が笑いだした。
恐怖を思い出した。同時に安心感と、情けなさと。
支えてくれた兵のお陰で倒れ込みはしなかったが、その場に座り込んだ。
「殿下、大丈夫ですか?」
宗温の気遣いにすぐには応えられなかった。
自分は何をしてしまったか。その事実がじわじわと襲ってくる。
どうして救えると思ってしまったのだろう。この、無力な自分が。
「…済まない」
謝った。そう言わずには居れずに。ただ、何に対して謝ったかは言えなかった。
「…何故戻られたのです」
ぽつりと宗温が問うた。
その言外に、そして他の兵達の視線が、少し責めていた。
「朔夜を探すため」
正直に龍晶は答えた。
「その為に皆を巻き込んでしまった…。申し訳無い」
「奴らは何と言ってきたのです?」
宗温も敵の要求が薄々は分かっても、異国語に堪能ではない。はっきりとした情報が必要だ。
「明日の夕暮れまでに、ここの皆が城を出る事」
「捕虜になれと?」
「恐らくそうだろう。出なければ一刻ごとに捕虜を殺すと」
沈鬱な沈黙が降りた。
龍晶はまだ言葉が足りないとは思っていたが、これ以上言い募る事は出来なかった。
読みの甘さが招いた事態だ。
全ては死にたくない、殺されたくないーー否、それ以上に兄に背きたくない、その一心で。
一人、また一人と冷たい視線だけを残してその場を去る者が居る。
皆の心情は解る。自分は長年戦い抜いてきた戦地に現れた厄介者だ。彼等のこれまでの努力全てをぶち壊してしまった。
言葉にされなくても、その視線に無念さを十分に感じ取る事が出来る。
「…矢張り俺一人投降しよう。俺の過ちで他の誰も犠牲には出来ない」
宗温に告げて立ち上がりかけた。
「早まらないで下さい。向こうがそれで納得するとは思えません」
その通りだろう。だが納得して貰わねばならない。
しかし納得させるその術を龍晶は知らない。
再び沈黙が訪れる。
気付けば広間は二人きりしか居らず、窓からは瞬く星が見えた。
「朔夜殿をお探しなのですよね?」
ふいの問いに龍晶は頷いた。本来の目的はそれだ。
「一人戦いに行かれてから果たしてどうなったのか…。ここに戻って来ないのを見ると、あまり良い想像は出来ませんが」
「十中八九、敵の手に落ちている。奴ら、あいつから殺すと脅してきた」
「ただの脅しという事は考えられませんか?」
龍晶は顔を上げて宗温を見返した。
「…虚言だと?」
「殿下を揺さぶる為の嘘と、そう考えられもしますが」
「じゃあ、あいつはどこに」
宗温は口を引き結んだ。
そうだ。そう考えるのが妥当だろう。
一人で、それも歩くのもままならないような体で、戦いに行くなど自殺行為に等しい。
「…生きている証を出させねば」
それでも、違うと。
絶望的ではある。だが、決定打の無い限り生きていると思いたい。
どうしてそう思うのか、自分でも分からない。死んでいるならそれで済む話だ。状況がそれで好転するわけでも無いし、救出の手間が省けるというものだ。
兄にも死んでいたと報告すれば、責任は問われるだろうが諦めて貰えるだろう。
だが、違うのだ。そんな利害では計れぬ衝動でここまで来たと、龍晶は改めて知った。
己の命と引き換えても良いと思った。
そこに利害など入る隙も無い。
「宗温、ここは任せても良いか?俺が皆に何を言える立場でも無いし、誰も俺の言う事など聞きたくないだろう」
「それは…殿下」
「勝手なのは重々分かっている。だが頼む。どういう結論になっても良い。皆を纏めて欲しい。その代りに俺はこの首を敵にやる」
宗温は我が耳を疑った。
それ程に、当たり前のように、彼は己の命を擲つと宣言した。
「失礼ですが…お気は確かで?」
「ああ、おかしいよな。とても正気とは言えない。だが本気だ。俺はこの目であいつの生死を確かめてくる」
その目は死を前にした人のそれには見えず、また狂人のそれとは掛け離れている。
こんなに生き生きと輝くこの人の顔を、宗温は初めて目の当たりにした気分だった。
「あなた様は自ら敵の捕虜になると仰せなのですね?我々の決定次第では、危険な事になるやも知れぬのに。その決定すら我々に託すと仰せなのですね?」
「ああ。俺の事など気にせず決めてくれ。寧ろ、他の捕虜が助かると思えば皆も決めやすいだろう」
「…そうとは思えませぬが…」
宗温は言葉を濁して黙った。
龍晶はふっと笑って付け足した。
「無論、俺も簡単に晒し首になるつもりは無い。出来得る限りの交渉はする」
「そこまでして…敵陣に朔夜殿が居れば良いのですが」
「的外れだったなら笑い者にしてくれ」
宗温としては笑える話ではないが、龍晶は笑みを見せた。
「不思議なお人ですね、殿下は」
言わずに居れなかった。
「どうしてそこまで…いえ、朔夜殿が特別だと言うのは分かります。ですが、命が惜しくは無いのですか…?」
「あいつが居ないと俺は兄にどんな罰を受けるか分からんからな。どうせ命懸けなら探す事にした」
「しかし陛下はまさか死罪とは言われないでしょう」
「それはどうかな。国の宝物を壊せば死罪でもおかしくはないだろう?兄にとってはそれと同等だ。まぁ、普通は王族なら特赦も有るだろうが…」
自分に限ってはそれは当て嵌まらない。
それよりも、命を助けられる代りに科せられる事の方が怖い。
いつか、己の命一つで済ませておけばと悔いる日が来るような気がしてならないのだ。
故にこちらに来た。死ぬ覚悟で。
「本当に、お前達には済まない事をした。俺の勝手な思いでこんな事態にしてしまって。だから頼む、俺を無視して結論を出してくれ。それで死んでも文句は無い」
「いえ…殿下に罪は無いと、私個人ではそう思います」
それに、と宗温は続けた。
「本当は朔夜殿もお救いしたいのです。これはこの城に居る者の総意です。彼のお陰で我々は今生きているのだから」
「朔夜が一人で戦ったから?」
「ええ。時間を稼いで我々が入城する暇を与えてくれたのです」
「…そうか」
「本当は殿下一人に背負わせる任ではないのですが…朔夜殿を、どうか、お救い下さい」
龍晶は頷いた。
そう言って貰えて、己一人の利己で動くのではない理由が出来た。
宗温が立ち上がり、隣の間に控えていた兵に声を掛けた。
直ぐに戻って龍晶に立つよう手を差し出す。
「食事を用意させますので、どうぞ暫しの間お休み下さい。敵陣に行けば寛ぐ事もままならぬでしょうから」
「城の備蓄に余裕はあるのか?」
「いいえ。しかし、今が使い時ですから」
もう食糧の残りを気にせずとも良いという事は、彼の中で結論は出ているのだろう。
龍晶は宗温の延ばす手を取った。
引かれ、立ち上がる。
「俺に気を遣わなくても良いから、皆にも食わせてやってくれ」
「畏まりました」
龍晶が寝泊まりしていた部屋に向かいながら、宗温がふと尋ねた。
「殿下は哥の言葉をどうしてご存知なのです?」
異民族の言葉が使える者など、この国に数える程しか居ない。
宗温が疑問に思うのも当然だった。
龍晶はふっと表情を和らげて答えた。
「母の英才教育のお陰だ。幼い頃から書物を師に習ってきた」
「母君が…哥の言葉を学べと?」
「直接そう言われた訳ではない。俺自身がいずれ必要になると思ったからな。学び出したのは母の去った後の事だ」
ただ、と龍晶は続けた。
「ずっと言われ続けた事がある。武は人を圧するが、文は人を和する、と」
「我々武人には耳の痛い言葉です」
「そうだな。それはこの言葉が真実だからだろう。普通は誰も耳を貸さない言葉ではあるが」
武が重んじられるこの国では、こんな言葉を大っぴらに口にする事も出来ない。
「こんな形で役に立つとは皮肉な事だが…」
戦の中で初めて、この学を使う事になるとは。
「だが…文の、言葉の持つ力を試したい。朔夜や、皆を救う為に」
「それが、殿下の戦い方なのですね」
「母上は俺が武道に向かぬとよく分かっておられた」
自嘲気味に言って、しかし満更でもない顔付きだった。
扉を前に立ち止まり、龍晶は言った。
「宗温、お前が言葉の通じる将で良かった」
同じ言語を使いながら、言葉の通じない大人が余りにも多過ぎた。
だがこの極地で、言葉の取り交わせる人に出会えた。偶さかだろうが、これは運命に感謝しても良い。
「後の事、頼む」
宗温は頷き、微笑んだ。
「今宵だけでも、ごゆっくりお休み下さい」
明日は、どうなるか分からない。
龍晶は後手に扉を閉めた。
何を想い、考えるべきか分からない。
疲労のせいもある。だが、自分の結論を出した事で、これ以上考えなくても良い開放感が強かった。
もう、悩んでもどうにもならない所に事態は転がっているのだ。
無責任だろう。だがこの命で出来る事は、あまりに少ない。
犠牲が一人でも少なく済むのなら、惜しくはない命だ。
ーーいきなさい。
母に言われた最後の言葉。
牢から自分一人だけ出されようとした時、離れたくないとぐずって。
一度、強く抱き締められた後、突き放されて厳しい口調で言われた。
行きなさい、あの時はそう受け取った。
今は、生きなさいーー耳朶に蘇る声は、そう言っている。
許して貰えるだろうか。
その言葉に背く事を。
誰かの為に、は言い訳に聞こえるだろうか。
答えの出ない自問。
いつしか疲れからかうっすらと眠った。
あの牢の中で朔夜が、こちらにじっと視線を注いで待っている。
そんな夢を見た気がした。
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