月の蘇る
8
出陣に向けて陣中は慌ただしくなってきた。
今夜には出立するという千虎からの指令に、下級兵士も皆準備に追われ、走り回っている。
朔夜は、城門前の高台に腰掛けて、忙しい兵士達を眺めていた。
よく晴れた日を浴びて、何も考えず足をぶらぶらさせて。
焦燥で怒号を飛び交わせている彼らには悪いが、何とも言えず心地好い。
「良いご身分ね」
足元から声がした。
台の下を覗くと、於兎の顔がこちらを見上げていた。
「一人だけ高見の見物なんて」
「だって、俺は苴兵じゃないし、うろちょろしてたら邪魔になるし」
「誰も手伝えなんて言わないわよ」
於兎は朔夜の垂らしている足の、その横に身体を預けた。
「いいの?このまま戦なんてさせて」
責める言葉に、苛立ちはもう無い。
諦めはあったがそれ以上に、あの夜の後、朔夜から一つの真実を聞かされた。
彼の不可思議な能力について。
『俺の側に居ると、月に命を取られるんだ』
於兎の使う天幕。心許ない燭台の灯りに、顔を陰らせて。
『上層部…桓梠を筆頭にした、俺を“使う”奴らはそれを知っている。だから俺の前には姿を現さない。その代わり、何も知らない奴を使って俺に任務を遂行させる…あんたの様に』
俄かに信じられる話では無かった。
子供の法螺話と笑い飛ばしても良かった。
しかし、そうは出来なかった。
目にしていたからだ。あの夜の、森の異様な様子を。
何とは説明出来ない。だが、明らかに何かが起こっていた。朔夜の走り去った向こうで。
季節外れの花弁が、風に乗って目前に落ちてきた――言える事は、それだけなのだが。
『だから…解るだろ。桓梠はあんたが死んでも良いから、俺の元へやった。それでもあの野郎の事、あんな風に言えるか?あんたは人質も同然だぞ?』
何も反論出来なかった。しかし、嘘だとも思った。
結局、何も言えず。
「あんたこそ、何でまだここに居るんだよ?警告してやったのに」
崩れた煉瓦の石を弄びながら朔夜は言った。
「男に振られたから自棄になって死にたいって言うなら止めないけどさ」
「馬鹿な事言わないで」
頭上の少年を睨み付けて、於兎はきっぱり言った。
「こんな山の中でどこへ行けって言うの?一番近くの村に着くまでに、狼に襲われるのがオチよ」
「ふーん。俺、狼よりマシだと思われてんだ」
「少なくとも…私達は同じ国の人間だわ。あなたが私を殺す意味は無いでしょ」
「…そういう問題じゃなくて…」
自らの意思とは関係無いという事、他人にはなかなか理解し難いようだ。
「それより、戦が始まったらどうするの?まさかここに居続けるつもりじゃないでしょうね!?」
え?、ときょとんとした顔で見下ろされる。
「まさか…嘘でしょ!?」
「居たらいけないのか?任務も果たしてないのに繍に帰れるとでも?」
「あなたがさっさと任務を終わらせれば良いだけの話でしょ…!!」
怒りに任せて高い声を出したいのは山々だが、流石に人の耳が多過ぎる。
「それがさぁ…」
だからどっか行ってくれれば良かったのに、と思いながら。
言い淀んでいると、門扉がぎしり、と軋んだ。
開き戸の軌道上に居た朔夜は慌てて高台を飛び降りた。
予想を違わず重い音を発てて扉は開いた。
中から出て来たのは、高い陽光を眩しく照り返す黄金の髪を長く伸ばした男。
美しい髪と釣り合う白面は、切れ長の眼で端麗さと賢さの両方の印象を与える。
歳の頃は二十歳そこそこだろうか。しかしその立ち振る舞いは不思議な落ち着きがある。
当然、今までこの泥臭い陣中で見かけた事すら無い。
その男が下からぽかんと口を開けて見上げている二人に気付き、目を細めて微笑した。
「ここに居ましたか」
は?と返す隙も無く、扉の陰から出て来た千虎が朔夜の姿を認めて、おお、と声を上げた。
「調度良かった。お前を探しに行こうとしていたところだ」
「探すって…何で。この人誰」
「皓照(コウショウ)殿だ。知らないか?」
口を「は?」の形で千虎を見、皓照と紹介された男を凝視する。
知る筈が無い。
千虎は呆れの混じる笑いを浮かべ、言った。
「お前の親父殿の知り合いだそうだ。折角だからお前に会いたいと言われてな」
「えっ…」
間抜けた表情を一変させて顔色を変える。
於兎もあっと小さく声を上げて朔夜を見た。
失踪した父親。
「…関係無い」
低く、朔夜は言った。
詳細を知らぬ千虎は顔を顰めたが、皓照はさっと階段を降り、朔夜の前に立った。
「その様子だと…君は、彼の事を怒っていますね?」
柔らかい口調と表情。まるで子供をあやしているかの様な。
「別に。あんな奴の事、考えるのも無駄だ」
ぞんざいに言い捨てると、皓照は口元だけで笑った。
「これはずいぶんな言われようだ」
朔夜はどうでもいいと言わんばかりに男に背を向ける。階段を跨いでそこに座った。
「あなたは…彼のお父さんが今どこに居るのか知っているの?」
朔夜が訊かないと見て、於兎が代わりに尋ねる。一般的な感覚として、彼はそれを知っておかねばならないと思ったからだ。
当の本人は見向きもしない。
「ええ。私は燈陰(トウイン)が故郷を出た後に知り合い、今同じ組織の一員として活動していますから。彼もいずれ君の前に姿を現すでしょう」
「その時は命の保証はしてやらないと伝えてくれ」
目を逸らしたまま吐き捨てる。
皓照は心底可笑しそうに、歯を見せて笑った。
「ここまで徹底的に嫌われているとは。燈陰もなかなか大変ですねぇ。しかし朔夜君、君の前に現れる人物は総じて、その命を賭けねばならないでしょう?」
漸く碧の瞳がその男を捉えた。
嫌悪と猜疑を露わに、睨みつけて。
構わず皓照は続けた。
「いずれまた会うでしょう。私の存在を覚えておいても、損は無いですよ」
「…命懸けと知って、また現れるのか」
「勿論。君の魔法は、私には効きませんから」
優面の男はゆっくりと頭を下げ、また千虎にも礼を言って、背を向け去って行った。
「魔法って何だ?」
千虎の当然の疑問に舌打ちで応え、逆に訊いた。
「何者だ、あいつ」
悪態を気にする事無く千虎は答えた。
「傭兵だそうだ。組織と言っていたのは所属する傭兵団の事だろう。確か『玄(くろ)の弓』と言っていたな。近頃ちらほら聞く名前ではあるな。この戦で雇ってくれと言ってきたが、あの通り胡散臭いから断った」
千虎の率直な評価に、朔夜は鼻で笑った。
「じゃあ…朔夜のお父さんは傭兵って事?」
於兎が至極当然の考えを口にする。千虎は頷いたが、朔夜は噛み付かんばかりに怒鳴った。
「どうでもいいって言ってるだろ!!あんな奴の事なんかもう聞きたくない!!増してやお前にあれこれ詮索される謂れは無い!!」
あまりの怒りように、於兎は唖然として固まった。
「まあまあ、お姉さんにそんな怒鳴り散らすなよ。お前の事心配して言ってるんだから」
千虎が笑顔で宥める。
於兎がある事に気付いて、あっと小さく声を上げた。
「あ…の、異父姉弟なんです…!」
「大丈夫。分かっているよ」
姉弟という設定に綻びが出ている事に漸く気付いて取り繕ったが、千虎に笑顔でかわされてしまう。
何を『分かって』いるのか分かったものではない。
「朔夜」
千虎が柔らかく呼んだ。肩越しに少しだけ顔を向ける。
「俺はこの戦が終わった後、“玄の弓”を訪ねるつもりだ。お前の親父さんに会う」
「は…!?何の為に!?」
思わず立ち上がる。
「養子に貰うんだ。実の親の了承が必要だろ?当然の礼儀さ」
「必要無いだろ。あんな奴、親でも何でも無い!」
「…何故そこまで嫌う?何かあったのか?いや、お前の様な境遇で何も無いと思う程、呑気じゃないが…」
朔夜はいきり立っていた肩を急に落として、さも体が重そうに、またそこに座り込んだ。千虎から顔を背ける形で。
「あいつは…俺とお袋を見捨てて消えた。村が戦に巻き込まれる、前の晩に」
「何か…事情があったんじゃないの?」
於兎の問いに首を振る。
「家族を見殺しにしてまで…どんな事情だよ?俺は…今でも考えてる…あいつが居れば、お袋も村も、守れたんじゃないかって…。だから、俺が何もかも失って今こうしているのも、全てあいつのせいだ…」
「人間一人で何が出来る訳じゃない。お前の親父さんは確かに強い男だったかも知れないが、だからと言って何もかも責めるのは違うだろう?」
朔夜は応えず、視線を遠くに投げた。
解っている。村が無くなったのも、母が死んだのも、父の責任ではない。
ただ、彼のせいにしなければならないのだ。彼が居れば、確かにあんな事にはならなかった。
あの時、自分を止めて――殺してでも止めてくれさえしたら。
解っている。全てを壊したのは、この手だ。
「お前も行かなきゃならない」
不意に千虎に言われた事が判らず、『え?』と聞き返す。
「玄の弓だよ。お前も行って、親父さんに会わなきゃだろ?どうして居なくなったのか、本当の理由を聞かなきゃな」
「…大きなお世話だよ」
溜息混じりに言って、ふと思った。
「あんたなら…そんな事しないだろ?戦の前に、家族見捨てるなんて事は」
千虎は考える間も置かず断言した。
「しないな。少なくとも俺に選べる権利があれば、絶対に妻子は守る」
「俺、あんたの子に生まれたかったよ」
千虎はふっと笑った。
「今からでも遅くはないさ。だがお前の親父さんには何か理由があったと、俺は信じるよ」
「ま…それは勝手だけどね」
朔夜は立ち上がって伸びをした。
兵士達の慌ただしさが一段落してきた。準備も整いつつあるようだ。
「戦、連れて行ってくれるよな?」
出立の時が近付く陣中を見渡して朔夜は問う。
「駄目だ」
「えぇっ…」
一刀両断にされて悲しげな顔で振り返る。
それで動じる千虎将軍ではない。
「子供の出る幕じゃない。そもそもお前を連れて行く利点も無ければ理由も無いだろう」
「俺が困る!こんな所に一人置いてきぼりにされたら…」
「本当に誰かに襲われかねないって?」
「逆にそいつの息の根を止めちまう…いやそんな事じゃなくて、あんたの息の根を止める機会が無くなるだろ?」
千虎は片方の眉を軽く上げた。
於兎に至っては小さな悲鳴を上げ、その開いた口を手で覆っている。
「それは非常に困るんだよ。俺があんたを殺す気が無いって繍の奴らに宣言しちまう様なもんだ」
「朔夜…あんた何言って…」
「成る程な」
みるみる顔を青くする於兎を他所に、千虎は太い声で笑い出した。
「俺はお前に殺されてやらねばならんな」
朔夜は安堵を表情に混じらせて頷く。
「じゃ、そういう事で」
「何がそういう事よっ!!」
突然の怒声に二人は驚いて於兎を振り返る。
彼女は、至極当然の事だが、青ざめていた顔を今度は赤くして怒っている。
「あんた何考えてんの!?標的に本当の目的べらべら喋って、素人でもそんなヘマはしないわ!!」
「自分が今喋ってんじゃん…」
標的が何も知らなかったとすれば、彼女が決定打を打った事は間違いない。
尤も幸いに、と言うべきか、標的たる千虎はその事を既に百も承知だ。
「お嬢さん、ご安心召されよ。俺は既にこの小さな暗殺者の襲撃を受けた身でね」
於兎は驚いて見開いた目を、キッと朔夜に向けて睨みつけた。
朔夜はぺろっと舌を出す。失敗の反省など勿論無い。
「まぁそう責めてやらないで頂きたい。貴女のお立場が危うくなるやも知れないが…俺としてはこの子に、もう戦の道具にはなって欲しくないのでね。養子として苴に連れ帰るつもりです。何なら貴女も苴に来られてはいかがかな?」
「お断りします!」
宥める口調の千虎の誘いをぴしゃりと断ち切って、於兎は益々朔夜を睨み据える。
「私は他人の口車に乗ってほいほいと敵国に亡命できるような根無し草じゃありません。繍には家族も、大切な人も居る。…あんた、よくも今まで騙してくれたわね!覚えておきなさい!」
後半は朔夜への捨て台詞で、言い捨てると肩を怒らせて去って行った。
「…今、男に振られた事が分かったばっかりだからさ。そのうち目が覚めたら泣き付いてくるよ」
後ろ姿をおっかなそうに見送りながら朔夜が小声で言った。
千虎は軽く笑って応える。
「ま、少なくとも戦が終わるまでは同道して貰おうな」
朔夜は苦笑いで頷く。
日も傾き、出陣の時は刻一刻と迫っていた。
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