月の蘇る
7
浮遊する意識の闇。その向こうから声がする。
朔夜、誰かが名を呼ぶ。長く、長く忘れていた名を。
誰だろう。意識は時を遡り、故郷に帰っていた。
母が呼ぶ声だろうか?否、これは男声だ。
父親?否、そんな筈は無い。
あの人は消えた。俺達を見捨てて。
「おい…朔夜!」
あぁ…思い出した…
「千虎…」
目を閉じたまま囁く。
「おお、気付いたか!大丈夫か!?」
「何でもない…寝てただけ…」
薄く目を開ける。
眩しい光を背に受けて、千虎の顔が陰になっている。
その向こうに木々の梢があると気付いた。あの場所から動いていない。
「…!」
急にがばりと起き上がって、頭を巡らせあるものを探す。無ければいい、夢であればと思いながら。
しかし願いも虚しく、それが、眠る前と変わらずそこにあった。
「…気の毒な事をした」
ぽつりと千虎が言った。
己の部下だった若者の首。
こうなる事は予測出来た。
「仕方ないだろ。…悪いのは、繍だ。他国の人を人と思わない、あの国だ…」
朔夜の言葉に頷いたのか、頭垂れたのか、千虎はしばし瞼を伏せた。
そして上衣を脱ぎ、変色してしまった部下に巻くと、大事に抱き上げた。
「仇は取る」
呟いて、立ち上がる。
「歩けるか?」
朔夜は頷いて、立とうとした。
だが思う様にいかず、前につんのめってたたらを踏んだ。
千虎の片手に助けられる。
「本当に大丈夫か?繍の人間に何かされたんだろう?」
「いや…うん、まぁ…。でも大丈夫」
否定しようとしたが、嘘に変えた。説明を迫られたら面倒だ。
「大した事ないから。それより、変な場所で寝たから身体が痛くてさ」
笑って見せる。笑いながら、身体ではない場所が痛くて堪らない。
千虎はその笑顔の裏側も察していた。
一瞬、じっと朔夜を見詰め、それから同じように笑った。
細い肩に腕を回し、しっかりと抱いて。
「…なぁ」
肩を抱かれたまま歩きながら、朔夜は細い声で言った。
「俺、繍に帰るよ」
千虎はさして驚かず、ふぅんと考える素振りを見せ、問うた。
「何故だ?」
朔夜は気まずく笑った。
「自分の国に帰るのに、理由は要らないだろ?」
「…そうか。それもそうだ」
千虎は納得しているが、言った当人は自分でも気付かぬうちに、酷く哀しい顔をしていた。
こうも簡単に突き放されるとは。
自分の国なんて、無い。本当に帰りたいのは、お前が帰る所だ。
そう言いたかった。
だが、これ以上こうして並んで歩く事は出来ないのだ。
俺はこの人を殺さなければならない。
そう思うと、自らの身が切り裂かれるように、痛い。
自らの意思で殺す事が出来ないとしても、自分はここに居てはならない。
一刻でも早く、離れなければ。
また月の出ずる前に。
「だがな、朔夜。お前に帰られては、当方としてはちと…いや、かなり困る」
千虎はわざととぼけた口調で言う。
朔夜は小さく笑った。
「俺が…噂のバケモンだから?」
「まあ、そういう事だ。わざわざ敵方に秘密兵器を返す訳にはいかんからな」
「じゃあ」
立ち止まると、するりと肩に組まれた腕が抜けた。
見上げる顔は無邪気そのものだった。
「俺を始末する?」
千虎もまた足を止め、少年を見下ろす。
その顔は、もうおどける事を止め、口を引き結んでいた。
更に朔夜は言った。
「俺を今ここで消せば、苴にこれ以上大きな被害は生まれない。あんた達は繍を平らげて、しばらくは安らかに暮らせるだろ?」
じっと、将軍は、少年を見て。
「…まるで、そうして欲しい様な言い草だな」
少年は藍の眼を眩しそうに細めた。
「俺は、苴の将として、お前の言う通りの事をせねばなるまい」
腰の刀に手をかける。
それを認めて、朔夜は朗らかに笑った。
「ああ。…調度良かった。俺も、手ぶらじゃ帰れないから」
「何を。お前に俺を斬る術は無いだろう」
「どうかな?俺は悪魔だ。戦場における死神だ。刀なんか必要無いのさ」
ざわざわと、梢が葉を鳴らした。
きらりと千虎の刃が光って。
彼は、それを、鞘に納めた。
「…悪ふざけが過ぎたな」
二人の間にあった緊張が、一気に解ける。
千虎は大きな手で、朔夜の頭を包み、銀の髪をわしゃわしゃと撫でた。
「ごめん、な」
手を離しながら意外な言葉を吐いた千虎を、朔夜は弾かれたように見上げた。
「なんであんたが謝るんだよ」
そもそもは自分の我が儘のせいだ。
困らせたくなった。甘えたくなった。引き裂かれそうな気持ちを、理解して欲しくて。
「お前を不安にさせちまった。大船に乗らせておけば、そんな事言わせずに済んだのに」
「…そうかな」
「そうだよ。信じられないだろうが、安心しておけば良い。俺が守ってやるから、な?」
少年はしばらく考えて。
うん、と小さく頷いた。
「行こう」
促されて、背中を追う。
千虎の大きな歩幅に、小走りになって付いて行きながら、朔夜は言った。
「でもさ、もし俺があんたを殺す事になったら、その前に斬ってくれよ」
千虎はもう振り返らない。
気配で笑っているのが判る。
「またそんな無茶を言う」
「…本気だよ」
やっと千虎は少し視線をくれた。
朔夜の言っている事が解っているのか、のんびり微笑して。
「分かった」
驚きで足を止めたのは朔夜の方だった。
「お前を繍には戻さない。約束する」
――そうじゃない。繍がどうこうじゃなくて。
誰かの命を奪い続ける俺が、生きてちゃいけない。
「…絶対だよ」
本当の理由は心に封じた。
だが、『約束』してくれた事が、素直に嬉しかった。
この約束があれば、まだ幾許かの時を共に過ごせる。例え、今夜までとなっても。
「もう昼時だな。腹減ったろ?」
「うん。でもそれより眠くてさ」
「飯食ったらゆっくり昼寝するといい。誰も起こしやしないさ」
麗らかな陽光は、また新な戦の狼煙がもうすぐ上がる事を知らぬかの様に。
二人もまた、笑顔の裏の真実を知らず、のんびりと歩いて帰った。
配給を受け取って、座れる場所を探していると、後ろから誰かにぶつかられた。
よろめいて、汁はかなりこぼれてしまった。
「あー…もったいなー…」
地面に吸われてゆく美味い汁に思わず声を上げる。
と、上から思いがけない声が降ってきた。
「ああ、そうだな。だがお前が流した兵の血よりはマシだろう?」
その声、その言葉に、総身が凍り付いた。
「お前が行くべきだったな。和睦の使者とやらに。どうせ帰らねばなるまい?」
ゆるゆると地面から頭上へ、視軸を移す。
声の主、そしてぶつかった相手は、孟柤だった。
「何言って…」
乾いて引っ掛かる舌で、何とか反論しようとした。が、後ろからもっと効果的な、力強い声がした。
「何馬鹿な事言ってんだ。この子は兵でも無ければ、繍に帰る理由も無い。帰る場所は苴だ。俺が連れ帰る」
千虎は並々と注いだ汁椀を朔夜に押し付け、孟柤との間に割って入った。
孟柤は皮肉に口元を歪める。
「ほお?てっきり俺は、そいつが繍の間者かと思った。お前をたぶらかして我々の情報を流しながら、骨抜きにしたお前を良いように操って内側から瓦解させてゆくのかとな」
「だから馬鹿は休み休み言え。何を根拠にそんなくだらない事を」
「使者の首がこの餓鬼に届けられたんだろう?隠しても無駄だ。それが繍と繋がっている何よりの証拠だろう。ただの笛吹きの餓鬼の所へ、そんな物は来ない」
「別に隠しちゃいない。…偶然だ」
「偶然?はっ…偶然か。そりゃ凄い」
相手の嘲笑から顔を背けて、千虎は盛大に溜息を吐いた。
首と共に、一晩行方をくらましていた少年を連れ帰った事は、最早陣中の誰もが知る所だ。
それが何を意味するか――勘繰れば、そういう結論になるのは仕方ない。
突然、後ろで椀の割れる音がした。
驚いて振り返ると、少年は椀の破片が散らばる地面に力無く座り込んで、がたがたと震えている。
「大丈夫か!?」
千虎は慌てて両肩を抱いて立たせ、近くの椅子に座らせた。
「…千虎、どうしよう…あいつら、また来るよ…俺の事襲いに来る…怖い…怖いよ」
俯いたまま、地面に向けて、震える声で訴える。
千虎は背中を摩りながら、孟柤に顔を顰めた。
「繍の連中に襲われたんだ。まだ精神的に落ち着いちゃいない。思い出させるなよ」
孟柤は目を細める。少年の怖がり方は確かに尋常ではない。
「襲われて…首も押し付けられたって言うのか?」
「だから今は黙ってろって!!」
周りの兵達も唖然としてその場に釘付けになっている。彼らの殆どが、幼気な子供を憐れんでいるのは、流石に孟柤にも伝わってきた。
朔夜の呼吸が、荒く、早いものとなる。過呼吸の様だ。
「いかん…ちょっと空けてくれ。城で休ませる」
千虎は少年を抱き上げた。兵の間を割りながら、人混みから遠ざかる。
後ろからざわめきと、孟柤の舌打ちが聞こえた。
人気の無い城内に入る。と、朔夜の苦しげな呼吸がだんだん笑いになった。
「…演技かよ」
半ば本気にしていた千虎は呆れ混じりの苦笑を浮かべる。
「上手いもんだろ?あのおっかないオッサンも騙せたぜ?」
「それはどうだかな」
千虎の自室に入る。
流石にここまで来ればもういいだろうと、重い荷を降ろそうとしたが、荷物の方から注文がついた。
「どうせならあそこに放ってくれよ」
指さしたのは寝台。
初日に寝て、気に入ってしまったらしい。
言われた通り千虎は布団の上に朔夜を放った。多少優しくではあるが。
「それにしても…俺も不可解だと思う。どうして繍はお前に彼の首を渡した?奴らにしても、お前が疑われるのは不利益だろう」
朔夜はもぞもぞと毛布の下に潜り込みながら、何でもない事の様に答えた。
「催促だよ」
「催促?」
もう居心地良く丸くなっている。
「さっさとあんたを片付けないと、関係の無い人間がどんどん死んでいくぞっていう、脅し」
「…成程。俺の代わりに俺の部下が殺されるという事か。やるが良い、だが」
千虎の言葉に怒りが混ざる。
「彼の首の代償は、繍軍一千の首だ。今回の卑劣な行為、必ず後悔させてやる」
「ずいぶん高くつくね」
朔夜は千虎の高ぶりなど関係無いとばかり、欠伸混じりの眠そうな声で言った。
「当然だ。今度こそ完膚無きまでに潰さねばなるまい。…ところで、飯は良いのか?お前」
「んー…」
眠すぎて言葉が不明瞭なのか、元より喋る気が無いのか。
返事らしい返事は返らない。
「後で何か運ばせておくぞ?」
暫し待ったが、とうとう声すら聞こえなかった。
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