月の蘇る
7
日が暮れる頃、太陽より先に沈みきった気分のまま屋敷に戻ってきた朔夜。
が、帰るなり沈んだ気分を吹き飛ばす程に爆笑された。流石にまだ床に入ったままの龍晶にも、声無く笑う祥朗にも。
「な、なに!?」
本人には笑われる訳がさっぱり分からない。
「お前、自分の顔見たのかよ」
言われて。
あーっ!と悲鳴に近い叫び声を上げた。すっかり忘れていた。
十和のしてくれた化粧を落とす事を。
井戸に飛び付いてばさばさと顔を洗う。
服は佐亥の所で着替えたが、化粧まで気が回らなかった。よく考えたら佐亥も何だか可笑しそうだった。
気分が塞ぎきっていたので全く気にしなかったのだが。
「…取れた?」
振り返って龍晶に訊く。
「紅が擦れて恐ろしい事になってるぞ」
最早笑いを通り越して呆れ顔で指摘する。隣の祥朗はまだ腹を抱えて笑っている。
また苦労して何とか化粧を落とし、やっとさっぱりして座敷に上がった。
「だいぶ元気になったな」
人を笑える程に。
「お前の化物顔に病魔の方が逃げたんだろ」
「…そんなに酷い顔だったのか?」
それでは城で見られた全員に変装を見抜かれたのではと本気で不安になって訊き返す。
「そりゃ、二目と見れないくらい酷かったぞ」
言う側から吹き出している。祥朗はまた笑いの発作に襲われている。
真に受けて、そうかまずかったのかと頭を抱えている朔夜を見て、また二人笑い転げている。
「嘘だよ。寧ろ似合い過ぎて怖かった」
「は?嘘?」
鳩が豆鉄砲食らっている。
もう怒って良いのか安心すれば良いのか反応のしようが無い。
「それはそうと、用向きは祥朗から聞いた。首尾はどうだった?」
「ああ…」
一気に顔を曇らせる。何をどう話すべきか。
「失敗したのか?」
「いや…結論から言う。俺達二人で戦地に行けと、王から命令が下った」
「は…?」
全く予想だにしない答えだろう。龍晶は絶句した。
「俺にも何が何だかよく分からない。だが背けば後悔する事になると脅された。行く他は無さそうだ」
「…背こうとは思わない。だが…」
龍晶は言葉を濁す。
隠しきれない不安が顔に出ている。
「戦は初めてなんだよな?」
ああ、と小さく返した。不安に思う気持ちは当然だと、足の擦れる程戦地に赴いた朔夜は慮った。
祥朗もまた不安そうに兄を見ている。
「大丈夫だよ。お前は矢も刀も当たらない所で待ってたら良い。闘うのは俺だ」
俯いていた目が上がる。
「お前は怪我も出来ない所に押し込めてやる。刀を振りたいって駄々こねても絶対出してやらないからな」
「何様だよ、お前」
悪態をつきながらも、ちょっと安心したようだった。
その夜、祥朗はもう暗いから泊まって行けという事になって、夕飯を作ってくれた。
食べてから朔夜は押し入れに籠る。
真暗な闇の中で、考えたくなくとも、今日聞いた事を反芻してしまう。
一族の中で、殺し合い、憎しみ合う運命。
龍晶は全て知ってはいないだろう。
教えるべきだろうか。
知ってしまったら、このままの彼で居られるだろうか。
また彼も、兄や義母を憎まずには居られないのではないか――
闇の中で、くたくたに疲れている筈なのに目が冴え、亡き者と生ける者の怨霊を夢に見た。
夜更け、龍晶もまた、悪夢に魘されて目が覚めた。
まだ見ぬ筈の戦場の夢。
だけど朔夜の記憶を通して見てしまった。
自身がこんな場所に行くのは絶対に御免だと思った側から、まさか現実になろうとは。
不安と恐怖に苛まれて再び眠れる気がしない。膝を抱え、額を膝に押し付ける。
そっと、小さな手が背中を撫でた。
隣に祥朗が寄り添ってくれる。
この温かな手を失いたくないから。
だけど。
怖い。
やり過ごしたばかりの死という魔物の口が、また大きく開かれて待ち受ける。
それぞれに眠れぬ夜は、長く、暗く、心を蝕んでいった。
朝、祥朗は一旦帰っていった。佐亥を手伝って馬の世話をせねばならない。
その数刻後、別の客が訪れた。
藩庸だ。
朔夜はその姿を認めて構えて待ち受けるが、龍晶は床に寝転がったまま「ふうん」と言っただけだった。
憎くは無いのか、少なくとも病に倒れる前はあんなに怒っていたのにと訝る。
まだ怒るだけの力が無いのだろうか。
藩庸は閂を開けて屋敷に入ってきた。勿論取り巻きも一緒に。
「良いのか?病が伝染るぞ?」
皮肉に笑って朔夜が問う。
「おや、治癒されたとお聞きしましたが?」
問いに問いで返され、勝手にしろと朔夜は吐き捨てた。
「さて、お聞き及びの事とは思いますが、これよりお二方には北方の戦地、壬邑(ジンユウ)へ行って頂きます」
「これよりって…まさか今すぐ行けって訳じゃないだろうな?」
「行軍に必要な物をお渡しする為に今、参ったのですが?」
そのまさかだ。今すぐ行けと無茶を言う。
昨日の王の口振りからしても、そんな予感はしていたが。朔夜は龍晶を窺い見た。
自分の爪先辺りにぼんやりと視線を落としている。
処刑を待つ罪人のようだ。
ふと、顔を上げた。
蹄の音が聞こえてきた。
朔夜も外に視線を移す。
佐亥と、黒い大きな馬。玄龍だ。
もう一頭は朔夜が潅から乗ってきた馬。
「…足まで用意したって事か」
龍晶がふらりと立ち上がった。
立ちくらみがして目元を押さえる。朔夜が慌てて駆け寄った。
「無理するな!」
「お前が口を挟む問題じゃない!」
逆に怒られて驚き、何も言えなくなる。
「俺の行動が誰かを巻き込むんだ…分かるだろう。無理だとは言えない」
それでまた誰かが理不尽な目に合う。
王の言っていた事はこれかと朔夜は思った。
「俺は行く」
藩庸にも聞こえるような声で龍晶は宣言して、朔夜に肩を支えられながら外へ出た。
佐亥が玄龍を連れてやって来る。
「済まん。また手数をかけた」
佐亥に向けて言って、玄龍に手を延ばす。
漆黒の馬は大人しく鼻面を撫でられている。
「お前が居ないと俺は何処にも行けぬからな。頼むぞ」
「龍晶様…」
佐亥がおずおずと呼ぶ。本当に大丈夫なのかと問いたいのは皆同じだ。
「佐亥、何も言うな。俺は大丈夫だ」
言葉だけは気丈に言う顔に、笑みは無かった。
喋れない幼子が、困じ果てて親に助けを求めているような、そんな顔に見えた。
「…御武運を…」
いよいよ騎乗した龍晶に、佐亥はそれだけをぼそりと言った。
本当は「御無事で」と言いたかっただろう。
言いたい言葉も曲げてしまう、それが戦なのか。
鬱々とした気分で朔夜も騎乗した。
後ろには藩庸の薄ら笑う顔がある。龍晶が病に倒れた時と同じ顔だ。
何か一言、その顔に投げつけてやりたくて、朔夜は口を開きかけた。が、怒りが先に立って何も言葉が出てこない。
「行くぞ」
淡々と龍晶が声をかけ、動き出した。
何も言えないまま苛立ちだけを抱えて朔夜も後に続く。
横目に、佐亥が深々と頭を垂らす様を見た。
出発してすぐ、龍晶は振り返って朔夜に告げた。
「寄る所がある。少し付き合え」
それが何処かはすぐに分かった。
龍晶はまっすぐ、あの街に向かっている。
救いたくとも何も出来なかった、あの街に。
「龍晶」
朔夜は馬を並走させて呼び掛けた。
「街がどうなったか…誰かに聞いたか?」
龍晶は目を逸らせて、何故か不機嫌に返した。
「聞くより見た方が早いだろう」
「そりゃそうだけど」
「何も言うな。この目で見るまで」
少しでも希望を持っていたいのだろうか。
予想される現実は、そんな希望を打ちのめすものだから。
街に着くまで、そう時間はかからなかった。
細くはなっていたが、青い空に一筋の煙が未だに昇っている。
龍晶は黙ってそれを見上げていた。
街の中に、かつての息を詰めた緊迫感は無かった。
ただ閑散としている。明らかに人の数が減った。
過ぎた嵐の元で、人々はどうしようも無く呆然としている。悲しむ事も忘れて。
痩せこけた男が一人、近付いてきた。
「殿下」
龍晶は馬を止めて男に向き合う。
「頼みます、妻と子を…返してくだされ…」
悲痛な願いに、龍晶は男の肩を撫でた。
「済まん」
何故お前が謝るのだと、朔夜は言いたかった。
本当に謝るべき連中は、この場所を訪れもしないのだろう。
「生きる者には俺のできる事をさせて貰う。だから生きてくれ。俺の頼みだ」
男は地面に崩れ果てて泣いていた。
龍晶は辛そうにその場を離れた。
辿り着いたのは、煙の下。
遺体を焼く炎。周囲は灰で埋もれていた。
馬から降り、黙祷する。
「…俺もここに焼かれるべきだった」
目を閉じたままの呟きに朔夜は驚いた。
「俺のせいでこんな事に…。亡くなった皆に申し訳が立たぬ」
「何言って…」
「俺が居なければこうはならなかっただろう」
断言して、目を開く。
まっすぐ、朔夜を見て。
「全て聞いた。祥朗から」
あの夜の、朔夜と医者の会話を。
脇で聞いていた――聞こえてしまっていた祥朗は、当事者の兄に黙ったままで居れなかったのだろう。
「あいつから聞いて正解だったよ。俺は祥朗の前なら頭に血を上らせる事は出来ないからな。あいつもそれを判ってて教えてくれたんだろ」
筆談で知った事も冷静さを保つ為に良かった。
『病の正体』『毒』『藩庸』それらの単語を書いた紙は、残らないように竈で焼いた。
「お前から聞いていたら駄目だったろうな。止められても殴り付けて藩庸を殺しに行っていた」
ふっと自嘲して視線を炎に戻した。
「…もっと早くそうしていれば良かった」
藩庸を殺そうとした所で、その目的は達せられるとは思えない。どの道捕まって罪に問われ、処刑される。それこそが彼の兄の目的かも知れないが。
後ろから足音がして振り返る。例の医者の姿があった。
「殿下…来られましたか」
「ああ。これが最後だ」
朔夜の方がその言葉に目を見開いてしまう。
「最後…?」
先刻、生きる者には出来る事をすると約束したばかりなのに。
「もう俺自身はここに来る事は無いだろう。その方が良いし…恐らくもう無理だ」
「何で…?」
「また今回のような事に皆を巻き込みたくない」
龍晶はそれを朔夜に言い、医者を振り返って言った。
「戦地に行く事になった。兄から死んで来いという命令だ。…長く世話になった。後は祥朗に任せようと思う。俺に出来る事は何も無いしな」
「そんな事は…。殿下」
「あの時、先生が追い出してくれたお陰で目が覚めたよ。出過ぎた真似をして悪かった」
「龍晶!」
朔夜は怒鳴っていた。ここで怒ってやらねばこいつは解らない。
「お前、先生がどんな思いでお前を追い出したのか解って言ってるのか!?別にお前が非力だろうが何だろうが関係無いんだよ!ただお前を死なす訳にはいかないと思って…!」
「生きる以上何かしたいと思う。それが悪いか?それともただ役にも立たず惰性で生きろと?…俺は耐えられぬ。そんな生き方」
一息にまくし立てて朔夜を黙らせる。
唇を噛んで黒い煙を見上げ、呟いた。
「俺に王の血が無ければ、もう少し何かの役に立つ人間になれただろう。だけどもうそんな恨み言を連ねるのも終わりだ」
朔夜は、龍晶が戦地に行く事を二つ返事で受けた理由がやっと解った。
自分を生かす道はもう戦地にしか無いと解ってしまったのだ。人の役に立つ為には、戦場で死ぬ事しか無いと。
そんな己の生かし方など無いとは思う。
だが、彼の目には、絶望しか映っていない。
何を言っても届かない。
戦場でしか生きられない朔夜の言など、尚更だろう。
「…生きて、お戻り下さい。この街に」
医者が言った。哀しげな声で。
「せっかく死の病から生還されたのです。それをまた擲つなど、死した者への供養にはなりませんぞ。生きて…彼らの魂を救って下され。お願いします」
龍晶は――哀しく微笑んで体を老人に向けた。
「それが叶わぬと思うたから、今日ここに詫びに来たのです。先生――」
守りたかった街に目を移して。
「生ける者を頼みます。俺が頼む事ではないのは解っているけど。…俺は冥府で死せる者へ頭を下げるつもりです。だけどもしそれが叶わなかったら、生きて出来る事を考えます。彼らの為に」
医者は幾ばくか安堵した表情を見せた。
去り際、朔夜に耳打ちした。
「毒は国から配られた、例の雑穀の中に入っておったようです」
貧しい者への援助物資として配られた食料。
それを食した者が次々と病に斃れた為に、流行り病と見えたのだ。
それを毒と知らず持って来たのは龍晶自身だったのだろう。彼には知らさぬよう固く口止めして医者は去った。
暫く殿下から目を離してはならぬと言い添えて。
龍晶も、薄々己が何をしたか察しているのかも知れない。だからこんなにも自棄な言葉が出て来るのだ。
あまりに残酷で巧妙な罠。朔夜は怒りよりも哀しくなった。
その裏に、どんなに大きな恨み合いや憎しみ合いがあろうとも、龍晶や街の人々に罪は無いではないか。
どうしてここまでするのか。
「もう良いんだ」
最後にもう一度煙を見上げ、朔夜に自嘲混じりに微笑みかけた。
「ここに母はもう居なかった」
ぽつり、ぽつりと雨が降りだした。
遺体を焼く火の上に。残された人々の、傷だらけの心の上に。
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