月の蘇る
1
闇の中に、丸い月がぽっかりと浮かんでいる。
星は無い。黒い海の真ん中に、偽物のような光が揺蕩っている。
生きていても、死んでも、結局ここから逃れられない。この、血の色をした月の下から。
朔夜は仰向けに寝転んでそんな月を見るともなく見ている。いつからここでこうしているのか判らない。そんな事を考えるのも馬鹿馬鹿しい。もう死んでいるのだから。
周囲には誰も居ないし何も無い。荒涼とした大地が延々と続いている。地獄というのはこうも殺風景なものらしい。獄卒も針山も無い。何も無い世界に一人だけ。
ただ一つ、手に握っていたもの。
鞘に虎の彫刻がなされた短剣。
それに気付いて、ああ、と思った。俺は千虎に会わなければ、と。
会ってどうするかは思い出せない。何か考えていた気がするが、生きている時の考えだろう。死んだ今は何も思い出せない。否、何も感情が動かない。だから考える事も出来ない。
あの月と同じで、この意識もまた、偽物なのだろう。
月によって作られた偽物の自分。
本物の自分は、とうに死んでいる。
生まれた時、既に。
じゃあ俺は一体誰なんだとも思うが、もう考えるだけ無駄だ。何もかも終わった。
今はただ、この不要になった意識が消える事を待っている。
「また来たか」
頭の上から声がした。本当はこれを待っていた。
「怒りに来た?」
視界に入らない千虎に朔夜は問う。
「怒ったところで無駄だろう?」
朔夜は首をのけ反らせて千虎を視界に入れた。
彼は笑っていた。
「ごめん。あんたの想いを無駄にしたくは無かったけど…生き永らえるのって難しいんだ」
千虎はいよいよ声を出して笑い、朔夜の横に胡座をかいて座った。
朔夜も起きてそこに座る。
大地の果ては霧に霞んでいる。
「お前に難しいなら、常人には至難の技だな。ま、俺が良い証拠か」
「俺は…いつも周りを巻き込んでしまう。憎い奴はまだ生きてるのに」
「じゃ、憎ったらしい桓梠を地獄に叩き落とせば?」
「ここが地獄だろ?」
「違うよ、失礼な」
訝しい顔をして朔夜は千虎を見上げた。
「どうして善良な俺が地獄でお前と話さなきゃならん。まぁ極楽にも行けては無いけどな」
「戦に加担した奴は皆地獄行きだろ、普通に考えて」
「そんな脅しで戦が無くなれば良いがなぁ。どっこい実際は地獄なんぞ無いんだろうな。俺がこんな所でふらふら出来てるって事は」
「…じゃあ、ここは何なんだ?」
「お前の世界だよ」
言いながら千虎は人差し指を上に向ける。
偽物のような赤い月に。
「お前の死にきれない魂が迷い出た世界だ。お前はまだ死んでもいなければ、生きてもいない」
「…嘘だろ。体は焼かれてる筈だし」
「嘘だと思うなら試してみろよ」
今度は前方を指差して千虎は言った。
「あの霧の向こうへ行ってみろ。お前を呼ぶ声が聞こえるから」
「誰が呼ぶって言うんだよ?」
「まだ生きてる人が、さ」
「……」
心当たりが無いとばかりに黙り込む。死んでまで呼んで貰える人は居ない。
千虎はそんな朔夜の背中を押した。
「お前、今回はちゃんと守れたじゃねぇか。無意識とは言え」
「何の話だ」
「それが知りたければ行ってみろ」
霧に目をやる。白の中に光が満ちているように思えた。
「行くしかないんだな」
自分の居場所は向こうにある。
歩き出した朔夜に千虎は言った。
「俺たちが罪人である事は間違い無い」
朔夜は足を止め、振り返る。
「だが俺はお前のお陰で罪を濯げた。お前は生きて償えよ」
だから、また現れてくれたのか。怒りにではなく、笑いながら。
朔夜はそこに納得して、頷いた。
千虎が償えると言うなら、出来そうな気がした。
辺りが光に包まれる。
千虎の姿も、光に霞む。
朔夜、と遠く呼ぶ声がする。
何よりも聞きたい声で。
その瞬間、朔夜は全てを理解した。
守れた――自分にまだ、それが出来た。
そして、まだ、これからも。
また、闇の中。
でも先刻とは違う。赤い月は無いし、何より現実的な感覚がある。
帰ってきた。
生きている、この世界に。
朔夜はしばしその実感だけを噛み締めて暗い天井を見上げていた。
帰ってくる事を望んだだろうか。
否。でも、あの声が聞こえたから。
呼ばれるままに。
その声で、今も呼ぶ。
呼んでくれと願った名を。
華耶は顔を覗き込んで、微笑んだ。
朔夜もまた、微笑み返す。
ここが現世だろうが死後の世界だろうが、どうでも良かった。
ここに二人が居る。それが全て。
また闇が訪れる。華耶の顔が見えなくなる。
それでも、その存在は感じて。
近くに居る、同じ世界に居る、それだけで十分安らげた。
次に目が覚めた時には、辺りは光で満ちていた。
しばらくぼんやりと、白昼の世界を眺める。
普通の座敷に寝かされている。自分の他には誰も居ないが、部屋の外では人の動き回る気配がする。子供の声も聞こえる。
まるで梁巴に居た時のような、穏やかな空気。
否、ここは梁巴だろう。他にどこへ行こうと言うのか。
今までの事は、全て長い長い夢だった。そうに違いない。
そうでなければどうして炎の中に落ちてまだ生きているのだろう。
きっと、川に落ちてからずっと眠っていたのだ。それで見た悪い夢。
戦なんか無かった。村が無くなる事も、たくさんの人を殺す事も、母さんが居なくなる事も。
あの国での悲惨な日々も、全部。
いまに母さんが様子を見にきてくれる。そして美味しいご飯を持ってきてくれて。
華耶が遊びに来てくれる。歩けるようになったら一緒に川へ行く。もう深みには入らないと約束して。
それで、また、村の人たちの病気や傷を治して。
「…馬鹿…」
自分の考えがいい加減虚しくなって、小さく呟いた。
そんな日常が嫌で嫌でたまらなかった。神と呼ばれ、訳の分からない力を使って、村の人々の為に疲れ果てる日々が。
それで良かったのに、と今は思う。
それ以上の幸せは無かった。一体何を望んでいたのだろう。
こんな村無くなればいいなんて、とんでもない事を望んでしまっていた――
全て、俺のせい。
夢だったら、どんなに救われるだろう。
急に引戸が開き、罪悪感めいた驚きで体を震わせた。
怖々目をやれば、燈陰がこちらに入るでも無く様子を見ている。
何よりもまずせり上がる嫌悪感は変わらない。
それが、一連の事が夢では済まない証でもある。
「起きたか」
ぼそりと燈陰が言って、引戸を閉めようとした。
その、たったそれだけの事に怒りが湧いて、自分でも思わぬ言葉を口走っていた。
「永遠に起きない方が良かったんだろ」
燈陰は障子を閉める手を止めた。
ただ、視線は他所に投げている。
「そういう事もあるかもな」
ついに息子と目を合わせる事なく、それだけ言うと障子を閉めた。
「なんだよ…そういう事って…」
村を、家族を、人生を壊した息子など、居ない方が良かっただろう。
全てが夢だったら。
再び引戸が開いた。
朔夜の脳裡から、それまでのごちゃごちゃとした負の感情がすっと消えた。
戸を開けたのは、華耶だった。
彼女は朔夜の目の開いているのを確認すると、微笑んで言った。
「おはよう」
朔夜は――声が詰まって何とも言えなかった。
消えてしまっていたあの頃の日常が、思いがけず今ここにある。
何もかもこの手で消したと思っていた。
でも、華耶は今、目の前に居る。
「朔夜?」
何も言わないせいで心配そうに小首を傾げて呼び掛ける。
やっと朔夜は声を出した。
「華耶、そこ開けてくれる?」
視線で障子窓を示す。
先刻から子供の声がその窓の向こうから聞こえる。
華耶は怪訝な顔一つせず、言われた通りに窓を開けた。
光が差し込む。風が通り抜ける。
確かめたかったその景色を目にして、軽い落胆と、それに対する自嘲が、同時に浮かんだ。
緑の平原と、一面の青い空。
深山の中にある梁巴には無い光景。
全ては夢ではない。判ってはいたけれど。
「良い天気だね」
窓辺に立ち、遊ぶ子供たちに目を細めながら、華耶が言った。
堪らなくなって、応える代わりに朔夜は呟いた。
「…馬鹿な事を考えてた」
華耶の視線を受け止める。
独白に近い呟きを続ける。
「ここは梁巴だと思いたかった。戦が起こる前…子供の頃の、夢の続きだと」
「…そうだね」
華耶は否定せず再び窓の外に目を向けた。
目に染みるほど空が青い。
「ごめん、華耶。何もかも俺のせいだ。謝ったところで何にもならないけど…」
「何を謝るの?」
言葉に詰まる。そんな朔夜を、華耶は笑う。
「全部夢だったんだよ。悪い夢を見てたんでしょ?私は知らないよ、そんなこと」
間抜けに口を開ける顔をまた笑って、華耶は続けた。
「ここが梁巴じゃなくたって、私は朔夜が居るならそれで良い」
しばらく返す言葉を失って、やっと「俺も」とぼそぼそと告げた。
気恥ずかしくて、しかし空の色のように清々しかった。
「朔夜!起きたの!?」
空気をぶち壊す叫び声に、一気に現実へ引き戻される。
振り返れば、声で判ってはいたが、於兔が仁王立ちで立っていた。
「ど、どうしてあんたが出てくるんだよ」
たじたじになりながら至極当然の疑問。
「どうしてですって?誰かさんのせいで私の男運は散々だから、この際とことんまで付き合ってやる事にしたのよ!」
「それってつまり……解るように言えよ!」
「ここまで梁巴の皆が於兔さんにお世話になったのよ、朔夜」
横から華耶が優しく説明する。
「繍からここまで、道案内や宿屋の手配なんかまで、本当にいろいろして下さったんだから。国を捨ててまで私達に付き合って下さるんだから、朔夜も感謝しなくちゃ」
「…繍を捨てて?あんなに有難がってたのに?霜旋は良いのか?」
「あの人はどこかに行っちゃった。もう生きてるかも分からないし、彼も私の事なんてどうでも良かったのよ」
遠い目をしながら於兔は言った。
「私もあんたに梁巴の人を託された以上、放っておけなかったしね…。私もあの日、黙って出て行ったきりだし。二年も経ってるからお互い戻りようも無いしね」
「…二年?」
「そ、二年。あんた、二年も華耶ちゃんを心配させながら待たせたのよ。ちゃんと謝りなさいよ」
「…ほんと?」
目を丸くして華耶を見る。
華耶は微苦笑して頷いた。
「俺、二年も寝てたのか…」
だから、あの日々が夢のように遠く感じるのか。
否、今ここが、あまりにも普通だからだ。
かつての、飽きる程の普通に似通っているから。
でも、違う。
「ここは、どこなんだ?」
「潅って国だって」
華耶の答えにああ、と納得した。
潅。この国ならば、この平穏な空気も頷ける。
燕雷が自分達の避難先にここを選んだのであろう事も。
しかし梁巴の民を連れてここまで旅するのは大変だったろう。女子供の足で、繍の軍部に見つからぬようあの国を抜けねばならぬ上に、自分という大荷物もある。
燕雷、燈陰が指揮したのだろうが、それでも手に余る。
ひょっとすると皓照も手を貸していたのかも知れない。それならばこの難事も切り抜けられる。
そう言えば繍はどうなったのだろう。皓照はどこまで本気であの国を潰すつもりだったのか。
気にはなるが、今それをこの二人に訊くのは憚られた。
自分の事で喜んでくれている顔を、戦の記憶で曇らせたくない。
「良い国だよな。梁巴みたいだ」
思考していて途切らせた会話を戻すと、華耶は笑顔で頷いた。
「梁巴みたいに山の中じゃないけど…何か似てるね」
多分、それはこの穏やかな空気感。
この平穏さが有れば、自分達はどこでも故郷を思い出すのだろう。
記憶の中にしか無い、あの頃を。
「潅の王様がね、ここに皆の住みかを用意して下さったの」
華耶が嬉しそうに言った。
だから梁巴みたいだと言えるのかと、朔夜は納得した。
ならば、本当の梁巴の地はどうなるのか。
「潅の王様は良い人ね。ずっと住んでも良いって」
「帰らないのか?…いや」
反射的に訊いたが、すぐに後悔した。
帰れないのだ。繍がどうなったかは知らないが、まだ梁巴が軍事的に狙われている可能性は多いにある。
「それが良いな。ここを新しい故郷にするのが」
それに――あの地に再び立った時、正気で居られる自信は無い。
この地で、人としてやり直す。
それが一番、幸せな道に思えた。
華耶はにこりと笑って、梁巴の子供達を眺めていた。
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