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月の蘇る
  6
 闇の中、泣いていた。
 あの時流せなかった涙を、今やっと。
 この一事だけではないだろう。
 何度も、何度も、泣くべき時はあった。それは単に悲しみでもあり、贖罪の涙でもある筈だった。
 だが現実は、そんな時間すら与えられなかった。否、時間のせいにしてはならないかも知れない。
 忘れてしまっていた。元々無かったのかも知れない。泣く為に必要な、心というもの。
 誰かの事を考え、悼むなどということが出来なかった。自分の事しか頭には無くて。
 この手にかけてしまった命なら、悼むというのもおこがましい話だが。
 あの子供も――確かに自分が殺したようなものだろう。自分があの場にいなければ。何かが少しでも違っていれば。
 後悔しかない。救いたかったのは本音だ。
 だから涙が止まらない。
 泣く事しか出来ない自分もまた、歯痒い。
 何の為の、力だ。
 悪魔に誰かを救う権利は無いのだろうか。
「月神さま」
 囁く呼び声。
 子供の声だ。
「月神さま、お願い、助けて」
 朔夜は、はっと腕の中に埋めていた顔を起こした。
 仕切りの布の向こうで、己を探す荒い男の声がする。
「おい!悪魔はここに居るんだろう!?出せ!」
 それに対して毅然とした声で華耶の母親が応えた。
「居ません、そんなもの。私達をどう脅したって、悪魔など居ないものは答えようがありません」
 鞭の撓り、叩く音。苦痛に耐えるくぐもった声。
「ここに居るのは解っているんだ!早く出せ!」
 一瞬の内に朔夜は隠れていた洞を出、鞭を持つ兵の一人に斬りかかっていた。
 梁巴の仲間も、残りの敵兵も、誰もが不意を突かれ唖然としているうちに、切り裂かれた身から血飛沫が舞い、月を赤く染めた。
 端麗な顔に血を滴らせながら、残りの敵に目をやる。
 彼らの顔は青ざめ、足は後ろに退いていたが、逃げる暇は与えられなかった。
 一瞬で唯一の退却路である階段に飛び移った朔夜は、上がってきた顔を蹴り上げ、後ろの兵もろともに落とした。
 縺れ合って階段を落ちる二人の兵を上から追い、一人はその胸を踏みつけ、もう一人には刃を向けた。
「望み通り悪魔を呼び出せたな。己の命と引き換えにして」
 足下で、かちかちと歯の鳴る音がする。
 死への恐怖。それはそのまま、朔夜自身に向けられる恐怖と同義だった。
「怖いか?だがそれは悪魔を怒らせた当然の結果だ。俺の同胞を傷付けた罪、償って貰おう」
 刃を浮かせる。だが浮かせたまま、降ろせなくなった。
 厳しい声音が、背中を打ったからだ。
「朔夜君、いけません」
 凛とした、しかし優しい声だった。
 遠い――遠い時を隔てて耳に届いた、それは母の声だった。
「いけません。それはあなた自身を傷付けること」
――お願い、朔夜。自分で自分を傷付ける事はやめて。
 幼いころ、月の光の下、己を斬り付けては治す事を繰り返していた。
 遊びのような気分で、しかし当然愉しいものではなく、ただそうやって他人とは違うという孤独感を紛らわしていたのだろう。
 白い腕にすっと刃を引く、赤い血が溢れ、こぼれ落ちる、それが地面に吸い込まれている間に傷は塞がり、求める痛みは消えてゆく。
 それで、そんな事で、不思議と何かが満たされた。否、満たされないものを誤魔化す事にしかならなかったのは解っている。それでもやめられなかった。
 長じてから、その刃は他人に向いただけ。
 しかしそれは更に傷を深くするだけで、満たされる事は勿論、孤独を紛らわす事にもならない。
 罪と贖罪をひたすらに上塗りしながら、己の精神を見る影も無くぼろぼろに傷付けている。
 一度留まっていた涙が刀を持つ手に落ちた。
 手が濡れる感覚でやっと自分が泣いている事に気付いて朔夜は刀を引いた。
 鞘に納め、その場の階段に座り込む。踞って腕の中に顔を埋めた。
 華耶の母親が、そっと側に近寄り、肩に触れる。
「泣かないで。ご自分を責める事はありませんよ。お母様もきっと解っていらっしゃいます。あなたの痛みを」
 ――朔夜。母さんは怒ってる訳じゃないよ。
 もう謝らないでいいよ。母さんは許してあげるから。
 それより謝らないといけないのは、母さんだね――
 ちがう、あの時そう思った。
 母さんのせいじゃない。俺がした事。悪い事。
 それでも、いま、全て受け止めて許してくれるなら、
 もう己に刃を向ける必要は無いと、そう思える。
 朔夜は顔を上げた。
 母に微笑み、横に視線を移す。
 二人の兵はそこに転がったまま、動くに動けないようだった。
「命拾いしたな」
 不敵に言い放ち、立ち上がると再び刀を抜いた。
「死にたくないなら態度で示せ。…俺が市中へ逃げたと城内で喧伝しろ。市民が危険だと言いふらせ」
「な…何だと?」
「早くしろ。さもなくば、お前達を含め城に居る全員をこの刀の錆にする」
 向けられた切っ先に引きつった声をあげ、二人は立ち上がると我先に開かれた出口へ走り出した。
「月神さま…?」
 敵が去ると、同胞達の疑問と不安の視線が朔夜に集まる。
「大丈夫…皆で梁巴に帰ろう」
 朔夜は言い切る。己にも言い聞かせるように。
 潰れてしまいそうな希望を掴み直したかった。
 娃壬で失ったもの――喪った人はもう取り戻せないが、まだ守らねばならぬ人達がいる。
「月神さま、私達は何があろうとあなた様に従います。どうぞ、御心のままに」
 頭を下げる同胞らに朔夜は首を横に振った。
「従うなんて違う。梁巴に帰りたいのは俺だけなのか?」
「おうち、帰りたいよ」
 女児が大人たちの本音を素直に言い放った。
 それに微笑んで、華耶の母親が朔夜に言った。
「出来る事なら、ふるさとの土をまた踏みたい…これは皆の願いです。その難しさもよく解っています。でも、月神さまに従えば希望もある。皆、覚悟は出来ております」
「…覚悟…」
 己に預けられる命。その覚悟の固さ。重さ。
 俺には無理だと、頭のどこかで警鐘が鳴る。
 そんな事は解っている。でも皆を裏切れない、そんな声も聞こえる。
 結局は踏み出すしかないのだ。逃げ出したいがそれは出来ない。
「この際皆に言っておく。俺は…神なんかじゃない。悪魔とも言われるけど、そんな大した力は無い。だからごめん、本当は皆に頼られる程の人間じゃないんだ、俺は。…それでも、もう一度、梁巴をこの眼で見たいから…皆と見たいから、一緒に来てくれないか…?」
 頷く人がいる。笑みを見せる人がいる。誰からともなく、立ち上がる。
 願いは皆、同じだ。
 今、少しだけ、これまでの戦いが報われた、そんな気がした。
「――行こう」
 一声かけて、出口へと駆け上がる。
 自由への出口へと。


 異変に気付いた見張り番を斬り倒し、朔夜は外へ出た。
 篝火に浮かび上がる闇夜に人影は無い。あの二人の虚言を信じて兵は街へと出て行ったのだろう。
 同胞達を地下から出し、城とは逆方向へ進ませる。
 裏門を突破し、その向こうの山中へ逃げ込めば何とかなると踏んでいる。華耶を救出しているその間、彼らを隠す場所が必要なのだ。
 人数は十数人。戦から生き残り捕らえられた女子供ばかり。これが全てではないが、これ以上の人数は動かせない。
 あの戦の後、梁巴の男たちは見せしめに殺された。燈陰のように逃げた者もいたが、少数だった。
 それ故に朔夜は今、彼女らを一人で守らねばならない。
 一人の手には余る大事だ。それも自身が守られる側の子供と大差は無い。
 不安を押し殺して闇を睨み、駆ける。
 前方に人影。巡回の兵だろう。
 一行の足を止め、自分は気配を殺しながらも速度を保ったまま、姿勢を低くして駆け続けた。
 兵は松明の明かりの外は見えないのだろう。近付く存在に気付かない。
 視界の利く輪の中に突如現れた死神に声も出せぬ程驚いた時には、刃の餌食となっていた。
 声を上げさせぬよう喉笛を掻き斬った、その返り血を浴びる。
 地に落ちた松明は燃え続けていた。
 その眩しさから目を反らし、後方の同胞たちに頷きかけ、歩みを再開させる。
 こんな姿は罪人以外の何者でもなく見えるだろう。望む事ならこんな様は見せたくなかった。
 だがそんなものは贅沢な話に過ぎない。
 裏門に近付くにつれ、兵の数は増えてきた。
 一人や二人ならば闇討ちに出来るのだが、いざ門の前まで来て思わず足を止めた。
 これから街へ悪魔の探索に行くのか、それとも今帰ってきたのか、隊列を組んだ兵達が並び、門を塞いでいる。
 数にして五十は下らないだろう。朔夜は唸り声を喉で殺した。
 普段ならばこの倍近い数の敵を相手にしている。だが、それは何も守るものが無い気楽な戦いだ。
 今は違う。守らねばならぬ人達を率いている。つまり、月を憑ける事は絶対に避けねばならない。己が己のままで、その実力のみで戦う必要がある。
 このまま闇に潜み、敵が去るのを待つべきかと考えたが、この人数で隠れきるのも無理があるだろう。ならばこちらから仕掛けたい。
 同胞達を隠したまま、己のみ突出して囮になろうと考えた。
 踏み出した時、肩にそっと手が延ばされた。
 振り返ると、心配そうな顔がそこにある。
 それが華耶の顔に重なって、無理は駄目だよ――そう声なき声が聞こえた。
 大丈夫だとは言えなかった。
 ただ、小声で、何かあったら逃げてと告げた。
 音を殺して闇を進む。彼らからなるべく離れた場所で姿を現し、囮となるのだ。
 裏門前の広場の、人工の森。木々に身を隠しながら、横手の敵を見据え、なるべく遠くへ。
 途中、拳大の石を拾った。
 兵達が同胞の居る繁みに近い道を歩もうとしている。
 朔夜はその反対側に石を投げた。派手な音が人々の気を引く。
 その隙を突いて刃が走る。たちまち驚嘆と怒号が辺りを駆け巡った。
 朔夜は両手の短剣を振りながら、その不利を思い知った。
 月を憑けぬ己の力では、この数の敵に敵わない。
 いつもは人ならざる力が鎧兜さえ物ともせず敵を仕留めてゆくのだ。それが、鎧の隙を一つ一つ突きながらの攻撃をせねばならない。とても間に合わない。
 最初は突然の悪魔の出現に騒然としていた敵部隊も、それが恐れるに足りぬと判るまで時間はかからなかった。
 目に見えて攻撃の手数が増してゆく。
 孤軍どころか本当に独りきりで、周囲は完全武装の敵に囲まれ、刃の嵐を掻い潜るだけで精一杯となった。
 攻める事は出来ない。それならこのまま城中の目を己に向けられないかと考える。無論、命懸けの防戦を続けながら。
 この戦いの目的は梁巴の人々をこの城から出す事。ならば一時で良い、ここから兵を引き離したい。
 その為にはこの戦線を離脱し、敵を惹き付けながら逃げなければならない。
 しかし現実は刃に踊らされ、自由に動く事もままならなかった。況してやここから逃れる事など。
 ――月を憑けるか。
 それだけはしたくなかった。守るべき仲間を前に、それだけは。
 己の手で彼らを危険に曝す事など、あってはならないし、我慢ならない。全ての意味が無くなる。
 しかしこの状況では隠れている彼らが見つかるのも時間の問題で、更に悪い展開になりかねない。
 ――どうするか。
 いっそ己の意思など関係無しにこの身が悪魔と変じれば余程楽だと思った。
 その瞬間。
 打ち降ろされた斬撃を躱しきれず、まともに短剣で受けた。
 力の差は歴然としている。得物は手から落ち、咄嗟に転けたお陰でそこは腕を軽く斬られただけで済んだが、仰向けに倒れたまま見上げた視界には刀が並んでいた。
 万事休す、そこから反撃に転じようものなら串刺しになるのを覚悟せねばならない。
「殺しても良いんだろう?」
「五体が付いていれば何をしても良いそうだ」
 桓梠は己を一度殺してまた蘇生させる気だと、今にも殺さんとする兵の会話で知った。
 死にたくなかった。死や痛みを怖れる訳ではない。
 梁巴の皆をこのまま放って死にたくはない。
 何より、華耶を救わずにまた敵の手に落ちたくはなかった。
 ――待ってるから――
 華耶の声が。
 翡翠の眼に、白い月輪を浮かばせた。


 


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