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月の蘇る
  5
 泥と自ら仕留めた屍の中に倒れながら、意識は遠く天空へ飛んでいた。
 山々の木立の黒い影、その向こうに満天の星空が見える。
 あれを華耶と数えたのはいつだったろう。
 華耶は星を見ながら朔夜みたい、そう呟いた。
 月と呼ばれ続けてきたから、星に喩えられた事に吃驚して、どうしてと尋ねた。
 華耶は少し考えて、お星さまのきらきらは、優しいからだよ――そう答えた。
 その時、なんだか華耶の表情はとても哀しげで。
 それ以上何も問えなくて、黙って上ばかり見詰めていた。
 今思えばあれは川に溺れた後の事だったかも知れない。彼女は幼なじみの人ならざる部分を目の当たりにしてしまい、激しく戸惑っていたのだろう。
 星のように遠く、儚い存在だと。
 あれは小さな光が今宵の主役とばかりに耀く、新月の夜だった。
 あの晩以来、星など目に入っていただろうか。
 月ならばそれを睨み、頼みにもし、呪う事は常だったが。
 その姿は未だ梢に隠れている。
 まだ見てはならない。否、見たところで憑かれる体力はもう無いだろう。
 殆ど死に近い眠気が襲う。
 闇に溶け同化するように。
「ねぇ!起きてよ!」
 誰かが体を揺すぶる。安寧の闇は逃げた。
 薄く目を開けると、女が必死の形相で覗き込んでいる。
 よくよく見れば、箪嬰に小銭を投げ付けたあの母親だった。
「うちの子を助けてよ!ねぇ!」
 訝しんで目を細める。死にかけた人間に頼む事だろうか。
「助けて欲しいならあんたを寄越せって言われたのよ!ねぇ、行ってよ!」
 朔夜は呻きを混じらせた溜息を吐いた。
 軍は子供を人質に、悪魔を仕留めるか捕らえるつもりらしい。
「分かった…」
 否応ない。身体は動くとは思えないほど痛み、重いが、気力で動くしかない。
 全て己のせいなのだから。
「あんたさえ来なければこんな事にはならなかったのに!」
 叩きつけられた罵声に息を飲んだ。
 自分でそう自認していても、いざそれを巻き込んでしまった人に言われると、胸が痛くてならなかった。
 朔夜はよろめきつつ立ち上がった。
 並ぶ、責める視線。
「…早く逃げなよ。次が来る前に」
 更なる罵声や怒号の返る事を覚悟して言った。
 潰れた声は近くに居た数人にのみ届いた。彼らは目を見合せ、何も言わず足早に去っていった。
 それに倣って人々が動き出す。朔夜の居る場所を避けて大きく空間を開け、その中を彼は逆方向に進んでいった。
 一歩一歩、崩れそうな足を叱りながら歩く。
 その身体を、わざと荷物をぶつけたり、ご丁寧に悪魔だの死神だのと罵ってゆく者。
 折れそうなのは、足以上に、心だった。
 溢れそうになるものを戻すため、思わず空を見上げた。
 月。
 完璧な円を描く、望月。
 どくん、と心臓が鳴った。
 駄目だ、そう思う間も無かった。
 血飛沫が、舞った。
 村人達はつい今の今まで隣を走っていた仲間が、血を噴きながら倒れる様に悲鳴を上げた。
 月を避けて人の波は大きく割れた。
 視界が開ける。
 その先に、刀を向ける相手を見付け、月は駆け出した。
 村人を追ってきた兵が、刀を構えて月の襲撃に備える。
 普通なら膾にされるところだが、月は突き出された刃物の壁を前に、大きく跳躍した。
 不意を突かれた兵がその行方に気付いた時には、見えざる刃が降り下ろされていた。
 着地したところを突いてきた刀を身を低くしてかわし、足を斬り付けその兵を倒し、見えぬ刀がそのとどめを刺す。
 その間も月は次の兵を斬り付け、炎に徐々に近付きながら敵の数を減らしていった。
 その口許に愉悦の表情が浮かぶ。
 迸る人間の血が、本来冷たい月の血を滾らせる。
 これはあの時の続き。
 炎の中、逃げ惑う者と、愚かにも立ち向かってくる者。
 刃を向けてくるならこちらも斬る、それだけの事。
 否、誰でも良い。理屈などどうでも良い。
 皆、この刃の餌食にしてやる。そうすれば――
 燃える村の中に入るまで刃を振るい続け、敵の姿が見えず、目前が炎だけとなって、漸く理性の入り込める隙が出来た。
 違う、と。
 こんな事をする為にここに居るのではない。
 命を奪う為ではない。救う為だ。
 朔夜は片手だけに持っている刀を鞘に戻した。もう刃は何の意味も持たない。
 そして歩きだす。両側に炎の壁のある道を。
 熱さは感じなかった。傷の痛みも無い。いつもの立ち続けていられない様な疲労も感じなかった。
 まだ半分は月に憑かれているのだろう。だが意識ははっきりしていた。
 ちらりと己を疑う。これは本当に自分の意識だろうか、と。
 助けるべき存在を発見した時、自分でも思いもしない事をするのではないだろうか――
 考えても無駄だと、頭を振った。
 もう引き返す事は出来ない。歩いてきた場所は倒れた木材で炎が上がっている。
 元より、引き返す気も無い。
 開けた場所に出た。
 村の中心地なのだろう。広場らしい場所の中央には井戸がある。
 四方は相変わらず炎が上がっていた。
 その、炎の前に。
「…貴様…!」
 一部隊を従えた桓梠が立っていた。
 冷笑に口を歪めて。
「やはり来たな、月」
 朔夜は刀を抜く。
「良いのか?そんな事をしていて」
 朔夜の殺意を前に、桓梠は余裕を崩さない。
 そして視線で背後を示した。
 炎に包まれる建物。その中に。
 小さな人影が見えた。
 炎の燃える轟音に紛れ、泣き叫ぶ声が聞こえる。
「母親に懇願されただろう?お前が助けねば焼け死ぬぞ」
 眼に、込められるだけの憎悪を込めて、その男を睨み付ける。
 逡巡は一瞬だった。
 朔夜は無言のまま抜いた刀を収めた。
 そして燃え盛る建物に向けて歩み出す。桓梠を睨み据えながら。
 横を通り過ぎる時、ふっと迷いが生じた。
 今この瞬間、月を憑ければ、確実にこの男を殺す事が出来る。こんな好機は無い。
 だが、それでは子供を救う事は出来ない。それどころか子供まで巻き添えにしてしまうかも知れない。
 先刻、村人達を殺めてしまった様に。
「どうした?」
 挑発的に、桓梠が口を開いた。
「私を殺したいか?子供を見殺しにして?まぁそうだろうな、正に悪魔の選択だ」
「何を…今更」
 朔夜は刀に手を伸ばしかけた。
 が、耳に「助けて」と叫ぶ声が届き、その手を止めた。
 迷ってはならない選択だった。
 これ以上、自分のせいで誰かに涙を落とさせる訳にはいかない。
 それが例え自分を罵倒し、恩人を傷付けたあの母親であっても。
 そして、華耶の為にも。
 彼女を悲しませる選択は、出来なかった。
 もう桓梠には目もくれず、燃え上がる建物の入口を見据えて。
 重なる光景。火を前にしながら冷汗が落ちる。
 大火は、あの夜を思い出させる。見たくはない。
 それでも見えてしまう。炎に包まれる梁巴の光景が、脳裏に明滅する。
 もう嫌だ、と心が叫ぶ。もう見たくはない、戻りたくはない、と。
「どうした?」
 桓梠の声がせせら笑っている。
「怖くなったか?それとも、懐かしいのか?あの時にそっくりだからな?」
 びくりと、身体が震えた。
 それが恐怖のせいなのか、怒りのせいなのか、朔夜自身判然としなかった。
 ただ、確かな事。
 桓梠は意図的にこの光景を作り出したのだ。
 あの夜を思い出させる為に。
 傷口を再び開く為に。
「私を殺す事も、子供を助ける事も出来ないか?それなら降参するか?また飼ってやっても良いんだぞ?」
 憎い敵の猫撫で声に怒れる刀が震える手を呼んだ。
 しかし手は虚空を切り、体は炎に向けて走り出していた。頭は何も考えては無かった。
 怒りに身を任せてしまうより、この身を燃やした方が良いと、一瞬そう思った。
 炎の中を掻い潜り、しかし行けど行けど行く手を遮る炎。
 子供は目と鼻の先に居る。しかし辿り着けない。
 黒煙が目鼻を刺し、火達磨となった天井が崩れ落ちる。
 炎の壁に囲まれた。
 子供の泣き声が耳につく。助けての声はもう無かった。
 朔夜も殆ど諦めていた。元より生きる事に執着は無く、ただ出来る事なら罪の無い命を救って死にたかった。
 ふと。
 燈陰があの夜、死に急いで敵陣に一人向かった心情とは、このようなものだったのではないかと――朔夜は思った。
 思ったそばからこんな時に何を、と己を殴りたい気分だったが、以前のような嫌悪感は薄らいでいた。
 己を殺して、誰かを――それは燈陰にとって妻だろうが、救いたかったのだ。救えるなら自分の命などどうでも良いと考えた。どうせ罪深い命だ。
 ――燈陰の罪は、俺だ。
 朔夜は眼前の炎を見据えた。
 あの男が結局成し得なかった事を、やってやろうと思った。
 燈陰は死に損なって救いたい人を死なしてしまった。
 俺は、そんな半端はしない。してやるものか。
 この炎の向こうに居るのは、
 あの時救えなかった、――…
 炎の中に飛び込む。
 熱さは感じなかった。何も感じなかった。
 お陰で、あまりにも呆気なくその壁を越えていた。
 子供が目を丸くしてこちらを見上げている。
 その目に涙を留めているだけで、もう泣いてはいない。余程驚いたのだろう。
 火傷よりその視線の方が朔夜には痛かった。
 異形のものを見る目。
 今はまだ純粋に驚いているだけでも、いつか、異質なものとして排除しようと考えるのだろう。
 否、こんなものがあってはならない、そう思うのは己自身同じだった筈だ。
 それでも、拒絶される事は辛い。
 こんな所だけ人間染みていて、どうして全て化物にしてくれなかったのだろうと、神を恨んだ。
「…母さん、心配してるぞ」
 子供に何か言わねばと思い、出てきた言葉は的外れだったかも知れない。
 母親を思い出した事で、彼は再びわっと泣き出した。
 ここから出す事を考えねばならない。
 朔夜は通ってきた炎の道を振り返った。
 火の勢いは止まる事を知らず、しかし先刻より状況が悪化する事も無い。燃えるものはもう全て燃え上がっている。
 あと、問題は。
 自身の手に目を落とす。
 矢が刺さったままの掌。
 ちらりと子供に目をやる。
 抱えて行かねばならないだろう。
 仕方ない、と諦めた。
 折れた矢尻を掴む。
 自己治癒力は鏑を噛んだまま傷を塞ごうとしていた。またそれを引きちぎって出さねばならない。
 一つ息をして歯を食い縛り、思いきり引っ張った。
 流石に痛かった。炎の熱さもそれによる痛みも感じないのは、この矢のお陰で感覚か麻痺していただけだと思い知った。
 悲鳴を歯と歯の間で噛み殺し、あとは荒い息をしながら朦朧となる頭を振った。
 血に濡れた矢を投げ捨てれば、たちまち赤い火に嘗められる。
 掌から止めどなく血が流れる。身体中の血が流れ出てもおかしくないと思った。
 少なくともこのままでは数分と持たない。
 倒れる前に子供をここから逃さねばならなかった。
 子供の顔は恐怖に引き釣っていた。火への恐怖ではなく、己への恐怖だと朔夜は自覚せざるを得なかった。
 歳は五つも違わないだろう。しかしこれまで生きた世界が違い過ぎる。
 血の流れる手を伸ばされて、子供は仰け反るように引いた。
 朔夜は苛立った。
「焼け死にたいのか!」
 一喝されて子供は固まった。
 そして眼からみるみる涙が溢れてきた。
「…生きて母さんの所に戻るんだ。俺がここから出してやる」
 優しく言ってやれば、子供は深く頷いた。
 朔夜も頷き、再び手を伸ばしてその身を抱える。身長はさほど違わないから殆ど覆い被さるようになった。
「熱いが辛抱しろよ」
 言って、火の中に飛び込んだ。
 無我夢中で駆け抜ける。その風に火の方から避けてくれた。
 最後は倒れ込みながら灼熱地獄から抜け出た。
「ほら、行け」
 子供を抱えていた腕を解く。
 涙をいっぱいに浮かべた顔が振り返る。
 大した怪我は無いようだった。それに安堵しながらもう一度朔夜は言った。
「東の街道で母さんは待ってる。早く行けよ」
「お兄ちゃんは一緒に来てくれないの?」
 意外な問いに、咄嗟に何も答えられなかった。
 化物の同行など望まれる筈が無かったから。
 赦された。この、たった一人に。
 それだけで十分だった。
「行け」
 優しく笑んで、力の入らない手で背中を叩く。
 子供はそれで解ってくれた。
 立ち上がり、走り出す。
 せめて、その背を見送ろうと頭を巡らせた時。
 細い足ががくりと折れ、小さな身体が地面に吸い寄せられる様に倒れた。
 その背中に、今しがた押したばかりの背中に、矢が突き立っていた。
 朔夜は転がったまま、声を失い、目を見開く事しかできなかった。
 あまりにも、呆気なく。
 救いたかった命は、消えた。
 耳元で、土を踏む音がした。
「大人しく私の言う事を聞いていればこんな事にはならなかったのにな。お前が殺したも同然だ」
 笑いを含んだ桓梠の声。しかし怒りすら沸かなかった。
 仇を取る事はおろか、動く事も、何故と問う事も出来ないまま、子供の亡骸だけを凝視していた。
 真っ暗な絶望だけが、目の前に垂れ込めて。
 そのまま、意識も闇に飲まれていった。






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