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月の蘇る
  4
「俺は言われた通り逃げたよ。山一つ向こうの村まで、誰にも会わずに」
 箪嬰は疲れた顔で語り終えた。
 逃げる事しか出来なかった。手負いの子供に大切なものを託して。
 軍が去り、熱(ほとぼ)りが冷めたと判断して村に帰る途中だ。帰ってもまた何も出来ないだろう。
「朔は…完全に嵌められたんだな」
 燕雷が複雑な面持ちで呟いた。
 朔夜が自ら村を襲ったのではない安堵はある。ただ、事態は全く喜べない。
「死んじまったかな」
 ずっと気にかかっていた事を、箪嬰は口にした。
 否、気にかかっていたなどと軽いものではない。殆ど思考を支配し、胸を塞いでいたと言ってもいい。
 救うつもりが殺してしまったのでは、あまりに後生が悪い。例えそれが悪魔と呼ばれる存在でも。
 身を挺して己を救ってくれたのは事実なのだ。
 その傷を抱えながら、みすみす炎の中に行かせてしまった。どうして止めもしなかったのか、後悔ばかりが募る。
「…死んだならまだ良い」
 吐き捨てるように燈陰が言った。
 当然、驚いた顔で箪嬰は彼を見上げる。次いで出るであろう非難を止める様に、燈陰は続けた。
「だが、あいつは死ねない。いくら死を願って、命懸けで見ず知らずの人間を救おうとしてもな」
 思わず声が漏れそうになった。
 ずっと不可解だったあの行動の裏に、そんな意味があったとは。
「…言い過ぎだよ、燈陰。朔はそこまで考えてない。ただ、誰かを救わなきゃ自分も救われないだけだ」
 燕雷が穏やかに否定した。その裏に、己の実感が透けていた。
「それよりも今あいつがどうなっているか…。俺も死んだとは思えない。そうなると…」
 燈陰の鋭い眼が向けられる。
 悪い予感しかしないのは同じなのだろう。
「どこかに逃げたと…思いたいがねぇ」
 敢えて楽観的な可能性を口にした。
 燈陰の視線が刺さる。そんな無責任な言は許さぬとばかりに。
 解っているが、箪嬰を前にそんな事は言えなかった。
 殺されたか、敵の手に落ちているか、などとは。
 殺されても恐らく蘇る筈で、それならば結果的に敵に囚われているのと変わりない。
「それは何日前の話だ?」
 箪嬰に問うと、暫し指を折りながら考えていた。
 時も日も無く、それらの止まった日々を過ごしてきたのだろう。
 彼はようやく答えた。
「五日だ。五日前の事だ」
「五日…」
 いち早く燈陰が動いた。さっと馬に跨がり、止めていた歩みを再開させる。
 燕雷もそれに倣う前に、草臥れた男に言ってやった。
「あいつは生きてるよ。このごたごたが終わったら、必ずあんたの元に連れて来て礼を言わせるから」
 箪嬰は驚いた顔を上げた。
「それまで元通り行商をして暮らした方がいい。出来れば国境を越えろと言いたいが…」
「燕雷」
 燈陰が名を呼んで急かした。
 急かすだけでは無かっただろう。それ以上はこの男自身が決める事だと、燈陰は言いたかったに違いない。
「達者で居ろよ。巻き込んで悪かったな」
 じゃあ、と別れを告げて燕雷は騎乗した。
「なぁ」
 去ろうとしたところを、箪嬰の声が追いかけてきた。
「俺、そのごたごたが終わった頃に、あの村に戻って、同じ場所に小屋建てて待ってるから…」
 燕雷は笑って頷いた。
「分かった。あいつに伝えて必ず行く」
 手を挙げ、それぞれ反対方向へ歩みだした。
「急ぐぞ」
 待ち受けていた燈陰に追い付くと、言わずもがなの事を言われた。
 油を売り過ぎたとは思う。後悔はしていないが。
 朔夜が敵に囚われているとして、今どうなっているか――いずれにせよ急がねばならない。
「朔は生きているだろうか」
 燕雷は問う。
 軍の目的が朔夜を始末する事だったのだから、簡単には死なないとしても、その可能性は大いにある。
「さてな…。大事な戦力を易々と手放すとも思えんが」
「繍はまだ朔を戦力と見ているのか?」
「でなければわざわざこんな強引な方法で引きずり戻したりしないだろう」
「そうか?国を脅かされるから始末したかったと、俺にはそう見えるんだが」
「どっちでも良いだろう。とにかく野放しにしておきたくなかったんだろうよ。また使えるなら使う、使えないなら殺す、そのつもりで」
「…あいつの事だ。反発するだろう」
「華耶が居る」
「そうか…!」
 華耶が居るから朔夜は死ぬ事は無い。だがそれは。
「二人共地獄を見る事になるだろうがな」
「…ああ…」
「敦峰の二の舞になる前に救い出さなきゃならん。華耶だけでも」
「全くだ…」
 また更なる悲劇を生む前に。
 二人は道を急いだ。


 押し寄せる記憶の残像に目が眩む。
 堪らず額を押さえ目を瞑りながら、目的の場所に滑り込んだ。
 手探りで階段を降りる。下から月神さま、と呼ぶ声がする。
 梁巴の人々が囚われている地下壕。今まで華耶に会いに来ていた場所。
 今、その声は無い。
「月神さま、大丈夫?」
 自分よりいくらか年下の女の子が近寄って声をかけてくれる。
 頷いて、その場に座った。
「日が暮れるまで匿って欲しい。暮れたら…」
 これは、賭けだ。だがこうするしかない。
「皆、ここを逃げよう」
 小さな驚きの声がそこここで上がる。
 だが反対の声は出ない。皆が自分を――正確には『神』を、信じているからだ。
 それに報いる自信は、無いのだが。
「皆を城外に逃がしたら、俺は華耶を助けに行く」
「月神さま…」
 間近で声がした。
 薄く目を開ける。声の主は、華耶の母親だ。
「あの娘を助ける為に、私達を逃がして下さるのですね?」
 朔夜は小さく頷いた。
 華耶を力尽くでも取り戻す。それは決定的な反逆だ。
 自分が勝手な行動を取れば、この人達に累が及ぶ。
 だから華耶を救うには、まずこの同郷の人々を救わねばならない。
 華耶の母親は言った。
「あなた様はあなた様の思う通りのことをなさってください。私共の事はお気になさらず」
 ありがとう、と小さく礼を返して。
「でも華耶を悲しませる事は出来ないし、俺ももう梁巴の皆を失いたくは無いんです。必ず皆の行く道は開きます。そして華耶を助けに行きます」
 温かな手が、頬を包む。
 帰って来ないいつかを思い出させる手。
「ありがとうございます。でも、何より御身を、大切になさってください」
「俺は…どうなっても治る身だから」
 冗談交じりの口調で自嘲を込めて言うと、真剣な表情で否定された。
「そういう事ではありません、月神さま…いえ、朔夜君」
 名を呼ばれた事に目を丸くする。
 華耶の母親は、悲しい、小さな笑みを口許に浮かべて言った。
「勝手で申し訳無いけど…私はあなたのお母さまから、あなたの事を預かっているつもりで居ます」
 丸く開く目に、涙が滲んだ。
「そんな事を言って、何ができる訳でもないけどせめて、小言くらい言わせてください。母親として」
 首を横に振る。
 そして、微笑んだ。
「そう言ってくれるだけで十分です」
 あとは言葉にならず、俯いた。
 まだ残っている。このぬくもり。己の守るべきもの。己を信じてくれている人々。
 失ったと思っていた梁巴は、ここにある。
「…少し休みます。奴らが探しに来たら起こしてください」
 言って、階段下の死角にこっそり掘っていた横穴に入った。
 見張りの目を逃れて華耶と会う為に作っておいた場所だ。
 踞れば入れるくらいの大きさで、外側から土と同じ色の布をかけて貰う。殆ど灯りの無いこの場所で、外から来た兵の目には見えない。
 その闇の中でうつらうつらと眠りに向かいながら、母親の背中に手を伸ばしていた。
 振り向く事は無かった。その顔を見てはいけない気もした。その資格は無いのだから。
 そして気が付けば、先程から甦っていた記憶の、その場所――娃壬に立っていた。

 炎が密集した村の建物全体に回っている。
 既に日は落ちているのだが、それに気が付けぬ程に豪々と燃えている。灼熱の夕焼は終わりを見せない。
 駆け付けた時、火に気付いた者達は既に屋外に出て右往左往していた。
 消火に当たろうとする者も居たが、火の勢いは人間の手に負えないものとなっていた。
 山に逃げろと促しながら自らその先導に務めた。先刻の事もある。山の中に敵は潜んでいる。
 最初、敵の目的は自分一人だと思っていた。だから村の人々とはなるべく離れて相手の姿を探していた。
 箪嬰のように巻き添えにしたくは無かった。
 尤も朔夜が離れようと務めなくとも、片手に矢を貫通させたまま血を流し、もう片手に抜き身の刀を持つ人間を村の人達は不気味がって逃げていったが。
 時に放火犯と思われて石を投げられつつも、必死に逃げ道を示せば大方は言う事を聞いてくれた。
 問題は、敵の姿が見えない事だ。
 火だけが踊る。大火に目を奪われ、本来立ち向かわねばならぬ者を煙に巻いている。
 嫌な予感がした。
 はっとして、周囲に視線を巡らせる。
 火が、多い。
 最初は村の中心部を嘗めていた炎が、いつの間にか村の四方から迫っている。
 敵が山を焼いている。
 逃げ道が、無くなる。
「東の街道を行けー!こっちだー!」
 誰かが叫んで逃げ惑う人々を導いている。
 その声につられて一方に集まる群衆。それを茫然と見やって。
 まずい!と思った。
 敵の目的は確かに自分一人だ。だがそれだけの為に払う犠牲を、敵は犠牲と見なしていない。
 村ごと――村の人々全員と一緒に、己を滅ぼそうとしている。
 朔夜は走った。逃げ惑う人々を掻き分けながら、その先頭に向けて。
 その間、ずっと制止の声を張り上げていたが、聞く者も無く、混乱に掻き消される。
 気ばかりが急いて、流石に無理を通してきた体が付いて来なくなり、ついに足が縺れて膝が地に付いた。
 押し寄せる人波に踏まれ、蹴られ、叫んでも声は届かず、道から這い出て息をついた。
 視界が赤く、回る。
 額を切ったせいだ。全身の痛みのお陰でそれと気付かなかったが。
 ただでさえ足りない血液が、どんどん流れ出て、目が回っている。
 もう良い。もう俺にはどうしようも無い。
 そう投げ槍な気になって、無抵抗の安楽に身を沈めようとした。
 意識が混濁する。痛みも何もかも、不快な現実は遠退く。
 悲鳴が聞こえた。
 それが己の責任を思い出させた。
 手足に力を込めて起き上がる。
 全身が痛い。視界は気持ち悪く回り続けている。
 それでも駆け出した。何度も躓き、手足を付き、その度に掌に刺さる矢に肉を抉られ呻きながら、それでも。
 月を探そうと上空を見ようとする己を叱る。
 憑かれれば自我は無くなる。この痛みも苦しみも一時忘れられる。その上、力は今の比にならない。
 だが確実に周囲の人を巻き込む。
 流したくはない血を、流してはならない。
 箪嬰の言葉だけ、胸に念じ続けていた。
――俺の村なんだ。故郷なんだ、ここが――
 それを聞いて、確かに己の目は、梁巴を見ていた。
 かつて守れなかった故郷。
 再びそれを前にして、無責任に放り出せる訳は無かった。
 救いたい。自分にその力が無いとしても。
 悲鳴の上がる、その場所が見えた。
 武装した兵が、無抵抗の村人を惨殺している。
 片っ端から村人を殺し、夜が開けた後にその中に居る悪魔の骸を探す気だろうか。
 すっ、と。
 急に血の気が引いた。
 怒りは、普段のそれとは逆に、頭を冷した様だった。
 周囲が明瞭に見える。
 痛みも目眩も消えた。
 ただ、冷徹に。
 人を殺す算段を立てていた。
「おい、あれを見ろ――!!」
 走りながら跳躍する。凡そ人には跳ぶ事の出来ない高さで、道の脇にある崖の上へ。
 その場所から矢を番えていた敵軍に襲い掛かる。相手は狼狽しており、数こそ多いが片手で十分だった。
 弓矢隊を片付けると再び飛び降りる。
 狙いは村人を刀で襲っている兵。着地しながら斬り下ろした。
 そのまま弧を描いて横の敵の脇腹に刀を滑らせ、降り下ろされた敵の刃を掻い潜り、下からその相手を斬り上げる。
 多量の返り血を浴びながら横に刃を走らせる。斬っている相手に視線もくれず、前に居る敵を睨む。
 それまでの様に硬直している兵達を、横一閃に銀色の軌道を描いて纏めて斬り捨てた。
 辺りがしんとなる。
 この場所の敵は取り敢えず殲滅したらしい。
 朔夜は屍の中に突っ立って目を閉じ、身体の痛みを待っていた。
 月の意識と、本来の自我が、頭の中で綱を引いている。
 このまま月に意識を乗っ取られる訳にはいかない。
 後ろには固唾を飲んでこの様を見ている大勢の力無き人々が居る。
 月に意識をやれば、彼らがこの刃の餌食となる。
 まだ今なら抑制出来る。
 じりじりと。
 掌に焼けるような痛みが戻ってきた。
 ほっと息を吐いた途端、足に力が入らなくなった。
 膝が地に着く。そして肩から倒れた。



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