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月の蘇る
  3
 王府の別邸だという屋敷を出る。
 裏口から出ると、すぐに崖になっており、その下は砂浜だった。
「わあ…!」
 初めて視界いっぱいに開けた海の光景に朔夜は声を上げた。
「良い天気だな。良かった」
 肩を支える波瑠沙が言い、少し覗き込むように伴侶の目を見る。
「今日の海はお前と同じ色だ」
「え?」
「綺麗な緑青。お前の目の色」
 朔夜ははにかんで、瞠っていた目を細めた。
 こうして光のある場に出ると朔夜の瞳は緑色を帯びる。暗い所だと藍色だが。
 不思議な宝石のようで波瑠沙は見ていて飽きない。眠っている間はこれが見れなくて物足りなかった。
「崖は危ないからおぶってやる」
 それには素直に従って、波瑠沙の背中に乗った。
 こうして全身で感じる体温が嬉しい。どんな甘え方が良いって、これが一番好きだ。
 腕を体に回せないから、彼女の腕の方がしっかりと支えてくれた。
 崖に作られた急な階段を下る。岩を荒く削って作られたものだ。
 波の音が近付く。
「凄いなあ…」
 近付く程に感嘆する。その広さ、雄大さ、穏やかさ、優しさに。
 白い波が砂を洗う所まで来て、波瑠沙は朔夜を降ろした。
 そこに座り込んで、寄せてきた波に手を入れる。
 小さな泡が指の上で弾けた。
「波って生き物みたいだな。なんでこうなるんだろ。不思議」
 波瑠沙は笑って横に屈んだ。
「分かんねえ事っていっぱいあるよな、世の中って」
「なんで波瑠沙は俺の事好きなんだろうとか」
「なんだよ、それが分からない?」
「ずっと不思議だったよ」
「惚れさせたのはお前だろ」
「何やったの、俺?」
「体張って守って貰えたらどんな女でも惚れるもんだよ。覚えとけ」
「…ん?」
 そんな事あったっけ、という顔。
「ったくもう、ど天然の餓鬼が!」
「惚れたのにその言いよう!?」
 けらけらと彼女は笑った。
 朔夜も擽ったそうに笑って、彼女に訊いた。
「足だけ浸かっていい?」
 好奇心に満ちた少年の顔で訊かれると、頷くより無い。
「良いぞ」
「やった」
 皮鞋(かわぐつ)を脱いで裸足になる。細袴の裾もたくって波瑠沙に縛って貰う。
 立ち上がって進むと、白波が足を洗って行った。
「気持ち良い!」
 満面の笑みで報告。
「こけるなよ」
「うん!」
 辿々しい足取りながら一人で歩いて行く。
 波瑠沙は波打ち際で見ている。笑みを浮かべて。
 こうして見ると、十代の少年のまま。
 時間は彼の頭の上で空転している。
 それで良かった。
 二人で永遠を共有出来るなんて、罪な程に幸せだ。
「おいおい、それ以上は」
「駄目?」
「戻って来い」
 膝まで浸かりそうな所で呼び戻す。
「早く泳ぎたいなー」
 ぼやきながら海原に背を向けた所へ。
 大きめの波が襲ってきた。
 思ってもみなかった自然の攻撃に、弱った足はたちまち攫われて均衡を崩し、前のめりに倒れた。
 水飛沫が上がる。顔面を砂に打ち付けた。
「あーあ。言わんこっちゃない」
 ちっとも心配しない波瑠沙の手が伸びて、引っ張り上げて起こされる。
 その場に座って、なんとも言えない顔をして。
「しょっぱい…」
 口から砂を吐いている。
 波瑠沙は指差してげらげら笑って、砂まみれの顔を払ってやった。
「しょうがねえな」
 笑いながら言って、海水と砂に塗れた朔夜の服を脱がす。
 自分の服も脱いで、乾いた砂の上に放った。
「波瑠沙?」
 何をする気かと問う。
 決まってるだろとばかりに。
 裸の身を寄せ合い、支えて、そして担ぎ上げて。
「波瑠沙っ!?」
 沖へと走り出す。たちまち体が浮いた。
「泳ぐんだろ?」
 にやっと悪戯に笑って。
 海中に放り込まれた。
「…!!」
 水を飲み込まない事で必死だった。
 足と左手で必死に水を掻く。浮上しようにも手の力が足りない。
 藻掻いていると、脇の下に腕が差し込まれて引き上げられた。
 海面に顔を出して息を吸う。
 左手で肩に縋り付いて、そこに顎も置いて、どうにか息を整えて。
「ひどいよぉ」
 けけけと波瑠沙は笑う。
「なんだこれ、滅茶苦茶目が痛い。滲みる」
「そりゃ海水だからな」
「しょっぱいから?でも涙だってしょっぱいのに」
「こっちのがもっと塩辛いだろ。だからじゃない?」
「これじゃあ目が開けられないよ」
「そのうち慣れるよ」
「そうかなあ」
 彼女に身を委ねて浮いていると、波は上下にのんびりと体を揺らした。
 不思議な心地よい浮遊感。
「ちょっとこのまま居たいな…」
「良いぞ。悪戯の詫びに、気が済むまでこうしててやる」
「うん…」
 動きを止めた二人の横を、小魚がするすると泳いで行く。
 あんな風に自在に泳げるようになったら楽しいだろうなと思いつつ、目で追う。
 何せこんなに広くて何も無いのだ。
 どこまでも潜っていける。
 そして上を見上げたら、きっと綺麗だろう。水の青と、空の青が一面に広がって。
 波に揺られながら、夢見心地で。
 寝息に気付いて波瑠沙は肩の上の頭に目をやった。
 そして苦笑いする。
「ったくもう」
 砂浜へと引き返す。起こさぬよう、仰向けに浮かせて支えながら。
 水深が浅くなった所で抱き上げて、砂浜に寝かせた。
 急激に体力を使って疲れたのだろう。
 それにしても気持ち良さそうな寝顔だ。
 鼻を摘んでやりたいが、それは後でも良いかと思い直して。
 暫く穏やかな日差しを全身に浴びる事にした。

 素振りをしても音が鳴らないなんて久しぶり過ぎて唖然としてしまった。
 左手一本、それも弱り切った細い腕からでは振った木刀の重みに耐えるのが精一杯だ。
 こんな事は刀を持ち始めた子供の頃以来。一度死んで二年寝こけていた時もここまで酷くは無かった。尤もあの時は両腕が使えたけれど。
「木刀じゃなくて竹刀にするか?それも、短いやつで」
 横から波瑠沙に問われる。
 相当悔しいが頷かざるを得ない。
「でも片手だけなら長刀を使えるようにしたい」
「焦るなよ。徐々に、だ」
 波瑠沙が言いながら竹刀を選んで渡す。
 受け取って、振ってみる。
 矢張り音は鳴らない。それどころか、勢いに体の方が引っ張られる。
「長い道のりになるぞ、これは…」
 苦くぼやく。
 漸く自力で立って歩けるようになってきた。そうすると、自然に次は刀だと思って屋敷内の練兵場に来てみたのだ。
「やっぱ意地張ってないで右腕を付けて貰えって」
「焦るなって言ったじゃん。今からだよ、今から。左手一本で前くらいになってやる」
「強がりは良いがそりゃ無理ってもんだ」
「無理じゃない!」
「無理だよ。お前のその華奢な体の為に親父さんは双剣を持たせたんだろ?更に細くなってんのに腕一本じゃどうにもならないだろうが」
「どうにかなるーっ!」
「気持ちだけか」
 呆れつつぼやき、もう好きにしろとばかりに波瑠沙は自分の刀を取った。
 この国を建てた大刀。元の持ち主に預けた愛刀は、約束通り明紫安から受け取った。
 虚空を斬る。空気を震わせて、その振動は朔夜の頬を撫でた。
 びっくりして凝視する。
「すげえ」
 それしか言葉が出ない。
「お前が寝てた十年の間、他にする事も無かったからな。良い目標も出来たし」
「目標?」
「暗枝阿陛下がこの刀を振る音を聞いた。それに近付きたい」
「あいつが?この刀を?」
「元々はこの刀で戦っておられたそうだ。それで哥は成ったと聞いた。お前もいつか聞かせて貰えよ、素振りの音。凄いぞ」
「…まずは自分!」
 叫んで、素振りを再開する。
 悔しいのだろう。自分だけ全く力が無く、置いてけぼりで。
 ちょっと笑って、波瑠沙も素振りを始めた。
「またお前と打ち合いたいな!」
 朔夜が手を動かしながら言う。
「また私が勝ち続ける事になるぞ?」
「だからとりあえず、お前に一勝するのが目標!」
「十年前の真剣勝負でも勝てなかった癖に」
「あれは勝ててた!ちょっと遠慮しただけ!」
「またまた強がっちゃって」
「本当だよ!分かってる癖に!あれは、お前が…」
「何?」
「…お前が死ぬ気なんだって、分かったから」
 誤魔化すように手を動かし続ける。
 波瑠沙は手を止めてその横顔を見ていた。
 まだ悔いている顔。
「当たり前じゃん。あんな奴の子を孕んで、生きてられる訳が無い」
 淡々と波瑠沙は言った。
 朔夜は肘までの右腕で目元を拭った。
「何を悔いてんだよ、これは私の問題だ」
「…でも」
「何だよ?」
「本当は子供が欲しかったんじゃないかって」
「お前の子じゃないのに?有り得ない」
「誰のでも良いよ、俺は無理だから。だから…守れなかった事、後悔してる」
 どういう心境なんだろう、と。
 何か払拭しようと振るい続ける太刀筋を見ながら。
「波瑠沙が産んでくれる子供なら絶対可愛いんだ。決まってる」
「でも、不死になっちまったからな」
「ごめん」
 ついに竹刀の先は床を向いた。
「俺のせいだ。ごめん」
 波瑠沙は大きく溜息を吐いて、抜き身の太刀を鞘に納めた。
 朔夜に寄り、その頭を抱えてやる。
「馬鹿。謝る事じゃない」
 腕の中で緩く首を振られた。
「俺は自分の為だけに、お前を不死にした…」
「私の為だろ。そうしてくれて良かったよ」
「そう言ってくれる?」
「当然だ。私はお前との永遠を望んでた」
「…ありがとう」
 離れて、痛々しい笑みで。
「この腕はあの時の代償なんだ。だから付けられない。罰を覚えておかないと、また繰り返したらいけないから」
「そういう事?」
 頷いて、そのまま俯いて。
「勿論、化け物になるのが怖いのは本音だよ。どっちも理由だ。だから、このままで良い」
 力無く垂れ下がる袖。
 溜息と共に波瑠沙は言った。
「分かったよ。お前の体だし、好きにしたら良い。私はそれに付き合うよ」
「お前に勝てるまでどれだけかかるか分からないけど」
「それは一生追い付けないだろうな」
「なっ…!百年も二百年もやってたら一回くらい勝てるだろ!?」
「いいや、無理だね。その分私も腕を上げるんだから。今こーんだけ離れてるものが、追い付く訳が無い」
 言いながら目一杯腕を広げる。
「こーんなにじゃない!せめてこのくらい!」
 朔夜の腕の幅は広げても波瑠沙に勝てない。それも片腕分だ。随分幅は狭まる。
 逆手に取って波瑠沙は言ってやった。
「ちっけえな、お前」
「うるさい!」
 地団駄踏みながら素振りに戻った。
 ははっと笑って波瑠沙も刀を再び抜いた。
「素振りに飽きたら泳ぎに行こうぜ。そっちのが体力は戻るんだろ?」
「そうしよう!片手で泳げるようにもならなきゃ」
「溺れちゃならんから余り泳ぎ回るなよ」
「大丈夫だよ。大波が来ない限り溺れるなんて事無いから」
「まーた根拠の無い自信だな」
「言うのは自由!」
 波瑠沙は高らかに笑って返した。
 呼応するように刀から高く鋭い音が鳴る。
 朔夜の竹刀が空気を斬れるようになるまで、それから数日かかった。

 華耶は冷めた後悔を覚えつつ屍を見ていた。
 灌皇后、燿蘭(ヨウラン)の死体。
 それを取り囲む人々は痛ましい顔こそすれ、誰も泣いていない。
 他の妃などは黒い薄絹の下に薄笑いまで浮かべている。
 可哀想な人だった。
 報せを受けたのは例によって王に抱かれている時だった。そして例によって王は嘘を疑って動かなかった。
 本当だった。今回だけは。
 高熱で倒れ、そのまま衰弱して、亡き人となった。
 そんな哀れな最期を誘った自分への、冷めた後悔だ。
 自業自得だとも思っている。
 誰も愛さなかったから、誰にも愛されない。
 ではそう言う自分は?
「もっと母上にお会いしておけば良かったのかな」
 隣に立つ青年が呟く。
 この手で養育した次期国王、鵬崇(ホウスウ)。
 無邪気な少年はその純粋さを残したまま二十歳の大人になっていた。
 その彼でさえ泣いていない。
 そういう母親だったのだ。彼女は。
「後悔すれば切りがありません。問題は王子がこれからどう生きるかでしょう。それを母上様にご覧になって頂くのです」
 諭す言葉に彼は素直に頷いた。
 そして微笑む。
「華耶が居てくれて良かった。華耶は歳を取らないから、ずっと近くに居てくれるよね?」
 微笑み返す。彼と同じように、混じり気の無い笑みで。
「勿論です。お許しを頂ける限り、華耶はお側に居ります」
 見た目には二十歳の青年と十代の少女。
 この二人こそ夫婦のように見える。
 実際は母子のような関係。
 春音は――否。
 思い出しかけた面影を消した。
 まだ小さいままの記憶。
 あの子は、私が母で居ない方が良かった子。
 血縁なんて無いのだから、互いに忘れた方が良い。きっと向こうは幼い頃の記憶など残っていないのだし。
 自分はと言えば。
 本当に愛した人の面影を今更思い出すのが、辛い。


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