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月の蘇る
  10
 一人、華耶の居室を訪れた。
 影は居ない。もう監視の必要は無いと思われたのだろう。案外ちょろい男だったなとほくそ笑んで。
 扉を開ける。ふた月余り前ここで初めて顔を合わせた時より、血色が格段に戻っている。
「波瑠沙さん」
 軽く手を挙げて応えながら入る。
 青ざめているのはこっちかも知れないなと思いながら。
 隣に片膝を立てて座った。
「灌から報せがあった。お前を引き取ったら兵を退くとよ」
「…そうですか」
 外では朔夜が襲撃を繰り返している。
 その度に各国の動揺は広がる。早く退きたいのが本音だろう。
「そろそろ、こんな茶番は終わりにしようと思うんだ。出来ればお前の居るうちに」
 少し見開いた目で問われる。
「出来るの?」
「うん…やるんだ」
 どこか遠い視線。己に言い聞かせるように。
「波瑠沙さんも朔夜も無事に終われる?」
 縋るように華耶は訊く。
 波瑠沙は答えなかった。
「ねえ、波瑠沙さん」
 華耶は肩に手を置いて答えを求めた。
 ぎこちなく、彼女は笑った。
「私、朔に恨まれたままだからさ」
「誤解でしょ」
「どうかなあ。最初はそのつもりだったけど」
 どういう事かと、目で問われる。
 遠い視線のまま、彼女は答えた。
「子供が出来たっぽい」
 横で、鋭く息を吸う音がした。
 華耶はそのまま絶句した。
 力無く笑って、波瑠沙は続けた。
「ま、誰の子かは分からないよ?朔の可能性だって無くはない」
 有り得ない、華耶はそう思ったが、黙っておいた。
 そうだ。確証は無い。不死の人間が子供を作れないなんて。そう言われているだけで。
 その可能性を残しておかねば、救われない。
「産むの?」
 訊かれて、可笑しい事のように笑いながら。
「産んでやらなきゃしょうがねえよなあ。子供に罪は無いし」
 笑いの余韻を残しながら。
「どっちかだよな。産むか、一緒に死んでやるか、どっちか」
「やめて」
 思わず華耶は腕に縋った。
「朔夜の子供だよ、絶対。あんなに仲が良かったんだもん。私、見たいな。また小っちゃい朔夜に会えるなら」
 波瑠沙は縋られる逆の手で、ゆっくり華耶の頭を撫でた。
「うん…そうだな」
 一つの嘘が、積み重なって。
 どうにもならない所まで来ている。
 終わらせるのだ。
 もう、続けるのは無理だから。
「朔になんて言おうか」
 空虚な口調で波瑠沙は言った。
「何言ってももう、無理な気はするけど。でも、教えてやらなきゃならないし」
「朔夜はあなたを信じて戦ってるんでしょ?今も」
「信じてる?それは無いなあ。それだけは無いや。仕方なく私に従ってるから」
 華耶は精一杯首を横に振って言った。
「嘘だって教えてあげてよ!本当はまだ愛してるんだって」
 城門の外の喧騒は、耳を澄ませばここまで聞こえる。
 何万の大軍に一人で立ち向かって。
 無意味な戦いだった。
 彼の中で戦う理由は一つだけ。自分がそうしろと言ったから。
 その一つの理由だけに彼もまた縋って、命を懸けている。
 己を削り、消し去りながら。
「それも、信じないよ」
 自嘲して波瑠沙は言った。
「これは桓梠の子だよ。あいつは分かるから」
「やめて…」
「だから終わらせるんだ。全部全部、終わらせる。なあ、華耶」
 撫でていた頭から顔へと手を滑らせ、両手で包んで。
「お前は生きろ。一人になっても生き残れ。必ず龍晶は迎えに来てくれるから」
 掌の中に涙は吸い込まれてゆく。
 じっと、華耶は波瑠沙を見ていた。
「朔を生かせたら、お前の所に行かせるよ」
 緩く首を横に振る。
「朔夜はあなたのものだよ」
「うん…違いない」
 顔を上に向けて、笑って。
「だから、言う事聞かせるよ。生きろって。お前は華耶と生きろって、そう言って聞かせるから」

 苴戔は撤退を始めた。
 互いに無益な戦だった。何も得られる物は無い。犠牲ばかりで。
 朔夜はその喧騒を地下牢の中で聞いていた。
 何も無い空間の隅で膝を抱えて蹲っている。
 疲れ切っていた。連日のように己を悪魔に変えながらの戦い。ここに戻れば一寸も動く気になれない。
 頭の中には何も無い。何を考えても無駄で、苦しいだけ。
 胸の痛みだけは感じる。最初と一緒で。
 ぼんやりとあいつの事を考えてしまうと、息苦しくて、胸が詰まる。
 虚しく打ち消すと、頭の中には何も残らない。
 地上に繋がる階段を降りる音。
 足音だけで誰かは分かる。
 期待と拒絶が同時に胸の中に湧き起こる。これも最初と同じ。
 ただ、どちらも虚しいだけになったけど。
「朔」
 影を伴って彼女はやって来た。
 流石に二人きりで会う事は許されない。今まで一度も。
 だから肝心な事は何も言えないで居る。
「戦はとりあえず終わった。ご苦労だったな」
 茫漠とした視線だけくれる。
 鉄格子の向こうに彼女は立った。
「褒美をやりたい所だが、報告があってな」
 波瑠沙は非情な笑みを湛えながら言った。
「子を身籠った。もうお前を抱いてやる事は出来ない」
 見開いた目は、しかし一瞬だった。
 すぐに感情を失った、翡翠の玉に戻る。
「もう一つ。お前に新たな命令が出された」
 戦う者としての目が向けられる。
 例えその理由が如何に空虚であろうと、自分が自分であるには刀を握るより無い。
「王の暗殺だ」
 睨み据える目。
 にっこりと笑って受けて、波瑠沙は言った。
「やってくれよ、朔。お前の手で私を王妃に据えてくれ」
「断る」
 厳しく、叩きつけるように。
「なんで?」
 意外だと物語る顔で彼女は返す。
「お前が一番知ってんだろ」
「あ、苴王を殺した時の事があるから?あの時はボロボロだったなお前。私に擦り寄ってきて甘えて、可愛かったよな」
「黙れよ!」
 怒鳴って、膝の中に頭を入れて、耳を塞いだ。
「なあ朔、分かってるか?私に従わないって事は、それで終わりなんだよ」
 猫撫で声のような優しい声音。
「言ったろ?私が孕んだって事は、お前の猶予期間も終わりだ。あとはお前が自分が有用だと示し続けるしかない。それが出来なければ、桓梠はお前を殺す。その不死の力を得る為に」
「…殺せば良いだろ。好きにしろ」
「良いのかあ?本当に、それで」
 笑いを含みながら。
「なあ、お前がそのつもりなら、賭けをしようよ」
「賭け…?」
「私と斬り合いの勝負をしよう。前みたいにさ。腹がでかくなって動けなくなる前に、お前と勝負を付けておきたい」
「そんな事して何になる…」
「だから賭けなんだよ。お前が勝てばお望み通り、桓梠はお前を殺すよ。だけど私が勝ったら王を暗殺して貰う。その場で。天覧試合さ。面白いだろ。華耶にも見に来て貰おうぜ」
 朔夜は顔を上げていた。
 一緒に生きるか、一緒に死ぬか。
 それを実現する提案だった。
 でも。
「俺にお前を殺せって…?」
「出来るだろ?させないけど」
 溺れるような苦しい顔。
 だがそれも消えた。
「俺が勝つと思う」
「いいや。まだ私の方が強い」
 視線がぶつかる。甘さの無い、本気の視線が。
「また影に迎えに来させる。それまでせいぜい鍛えておけよ」
 地下牢を出ると、影が呟くように訊いた。
「大丈夫なのか」
 波瑠沙は高らかに笑う。
「心配してくれるのか?」
「桓梠様のお子の心配をしている」
「大丈夫だろ。ま、これも賭けだけどさ。私は強運らしいから」
 仮面がこちらに向けられる。その下の目が、ひたと。
 こいつも人間なんだなと思った。
「安心しろ。あいつに私は殺せない」
 無理だ、と続けて呟いた。
 勝とうが負けようが、もうどちらでも良かったのだけど。

 子供の頃に前王を殺した、あの時以来の王宮だった。
 また同じ目的でこの場所に居る。
 否。同じにさせる気は無い。
 勝つ。そのつもりで居る。
「来たな」
 桓梠の横に居た波瑠沙がにんまりと笑って迎えた。
 近頃着ていた女の装束ではなく、以前のように動き易さを重視した剣士の格好だった。
 違うのはその得物だ。大刀ではなく、普通の刀を差している。
 それで勝てると確信した。あの大刀は敵に回すと厄介だが、普通の刀なら。
 桓梠が念押しとばかりに口を出した。
「月、私の妻子を傷物にすればただではおかぬからな。心しておけ」
 睨む目だけで応える。
 無視同然に背中を向けると。
「朔夜!」
 華耶に抱きつかれた。
 灌へと連れて行かれる、あの時以来の再会だった。
「お願い…無事で居て」
 耳元に落とされる切実な声。
 それ以上は何も言えないのだろう。
「華耶」
 体を押し返して、正面に向き、微笑んで。
「梁巴は変わってなかった」
 きょとんと見返される。
「いつか一緒に帰ろう。な?」
 それが願いに対する答えなのだと気付いて、彼女は頷いた。
「うん。帰ろう。楽しみにしてるね」
 あの頃の笑顔そのままに。
 きっと帰れる。あの時の梁巴に。龍晶も誘ってやろう。
 その場に居た重臣、将軍達が跪いた。王が入ってきたのだ。
 玉座に着くなり言った。
「桓梠、今宵は戦勝祝いに面白い趣向があると聞いた」
 彼は頷き、立ち上がって説明した。
「これなる我らが悪魔と、この女剣士――北方民族で一番強いと言われる女の対決でございます。真剣で斬り結びます故、どちらも死力を尽くしての試合となります。どうぞお楽しみ下さいませ」
 それが己を屠る為の茶番とも知らず、王は頷く。
「それは興味深い。見せてくれ」
 王に対する態度として跪いていた波瑠沙は一礼して立ち上がった。
 礼儀など必要無い朔夜は立ったままその場を睨んでいた。
 広場の中央が空けられる。
 その中央で、間を取って、二人は向き合った。
 何度も繰り返してきた対峙。
 刀を抜く前に、波瑠沙は言った。
「何も気にせずに来いよ」
 にやりと笑って。
「殺し合おうぜ、朔」
 その言葉を受けて、双剣を抜いた。
 飛び掛かる。出せる最大限の速さで。
 だが、波瑠沙の目は既にそれを見慣れていた。僅かな動きだけで躱し、鼻先に刃を掠めさせて、やっと刀を抜いた。
 抜きながら払った。大刀と違い僅かな動きで振れる。朔夜はその計算を違えていた。
 まだ初手の反動から戻っていなかった身を斬られる。どうにか躱して深手にはならずに済んだが。
 衣服と共に斬られた横腹から血が滲む。
 だが構ってなど居られなかった。返した刀で彼女の刃を封じ、もう一方の刀を突き刺しに掛かる。
 波瑠沙は退いた。大きく飛び退いて間合いを取る。が、振られた刀の軌道は躱し切れなかった。
 胸を軽く切っていた。躱さねば心臓をひと突きされていた。
 波瑠沙は笑みを浮かべる。朔夜の冷たい目を見て。
「初めて本気になったな」
 何度も手合わせしてきた。だが、本気で斬る素振りは一度も見せなかったし、怪我をした事も無かった。
 危なければすぐに謝ってきた。そうならないように細心の注意を払いながら刀を振るっている事は知っていた。
 大事に、大事に切り結んできた。こっちは勢い余って何度か怪我させたけど。
 それは、愛されている確認だった。
 だから繰り返した。何度も。お互い楽しくて仕方なかったから。
 同じ高みを目指しながら、鋼で語り合う。
 それが自分達の愛の形だった。
「良いよ、朔。その調子だ。来い」
 再び朔夜が構え、駆けた。
 弧を描くように寄って来る。横か――否、正面。
 見失った。上?
 ――背後。
 振り返りながら高い金属音を響かせる。
 右手は防げた。だが。
 左手の短刀が。
 振り下ろされて。
「…出来ない」
 小さな呟きと。
 子供のような泣き顔と。
 波瑠沙は交わっていた刀を弾き、左の短刀へ力の限り刀を振った。
 手から刃が離れる。凄まじい勢いでそれは観衆の中へと飛んで行った。
 それで上がった悲鳴など関係無かった。
 弾かれた朔夜の刀が反動から戻って来る。
 その全身の重みを掛けた斬撃。波瑠沙は片手でそれを迎えた。
「軽いんだよ、お前は!」
 叫んで。
 刀越しに押し返し、その身を倒した。
 朔夜は目前に突きつけられた刃を見た。
 勝てていた。勝てていたけど、勝てなかった。だって相手が波瑠沙だから。
 斬れる訳が無かった。頭で考えるより先に刀の方が己の本音を知っていた。
 俺は斬りたいんじゃない。斬られたいんだ。
「…私の勝ちだ」
 刀を離さぬまま波瑠沙が告げた。
「見事だ!面白い試合だった!」
 王が立ち上がって賛辞を送る。
 波瑠沙は目で合図した。朔夜は小さく頷いた。
 波瑠沙が刀を引く、と同時に。
 白銀の月は高く宙に舞い上がっていた。
 王の頭上で刀を振り上げて。
 その身へと真っ直ぐ振り下ろした。
 一瞬の出来事。
 諸侯が事態に追い付き始めるまで時があった。
 その隙を突いて、桓梠が叫んだ。
「愚王は討ち取った!今日よりこの桓梠がこの国を治める!私を王と呼べ!」
 人々は唖然としながら、逆らう術を知らなかった。
 三人を除いて。
 桓梠の後ろに居た華耶が、己の髪を纏めていた簪を解いた。その髪飾りの先は鋭く尖っている。
 それを、憎い男の背中に突き刺していた。
「貴様っ!」
 不意打ちを喰らった桓梠は背中から血を流しつつも振り向いた。致命傷にはならない。
「華耶!」
 朔夜が叫んだ。が、遠い。影が華耶を殺しに動いている。間に合わない。
 だが、刀と刀がぶつかる金属音が響き渡った。
「殺させるかよ!」
 波瑠沙が吠える。その片腕にしっかりと華耶を抱えて。
 朔夜にしたのと同じように片手だけの力で影を押し返した。影がよろめく。だが、その間に。
 桓梠が刀を抜き、華耶へと向けていた。
 その間に割って入るように、朔夜が宙から降りてきた。落下の力を利用して己の体重以上の力を刀に込め、桓梠の刀へぶつける。
 憎い相手の得物は床へ落ちた。朔夜もまた着地しながら刀を振り上げた。
 裂かれた身から血が吹き上がる。
 桓梠が、倒れた。
 朔夜は尚も刀を構えつつその顔を睨んだ。
「ここまでだ」
 死に行く相手へと告げる。
 桓梠は血を吐き汚れた口で笑った。
「お前如きが私を殺すか…。悪魔め。私は神となる男だぞ」
「まだ寝言言ってんのかよ」
 その口を、踏んだ。
「てめえは悪魔にも劣る畜生だろ。死した後も自分が殺した魂に呪われるんだ。永遠に地獄に堕ちろ。そのうち俺も――」
 刀を振り上げて。
「同じ地獄に行ってやる」
 首を斬った。
 転がった頭は、己の死をまだ信じていない顔で。
 死んだ。憎い、憎くて仕方なかった仇が。
 己の全てを懸けて殺すと誓った男が。
 今、呆気なく首だけに。
「…終わった…」
 呟いて。
 ふっと、意識が遠退いた。
「朔夜!」
「朔!」
 二人の女が同時にその身を抱え、支えた。
 三つの体が重なって。
 誰からともなく笑った。
 その場から余計な人間は消えていた。皆逃げ出したのだろう。
 三人の笑い声だけが響いた。
 もう何も言葉は要らない。可笑しくて可笑しくて仕方ないという笑い。
 ただただ、開放感と。
 生きている安堵と。
「いやあ、見事な仇討ちでした!」
 急に割って入った声に笑いは消えた。
「お見事お見事。龍晶陛下もこれで浮かばれるでしょう」
 満面の笑みの皓照が近寄って来る。
 朔夜は二人の腕を押し返して、その足で立った。
 体が震えている。
 それでも相手を睨んで。
「…俺を殺しに来たのか」
「ええ。でも君にとっては残っている仇を討つ好機ですよ?龍晶陛下は、私の計画の上で死んだのですから」
 目を見開いて。
 だが、すぐに納得した顔になった。
「やっぱり…そうだったか」
 刀を構える。
「華耶、波瑠沙…ごめんな」
 背中の二人に言った。
「お前達のこと、死んでも忘れないから」
 動いた。もう、そこに我は無かった。
 皓照の見えぬ刃を同じ刃で受け止め、返しつつ、実物の刃を下から振り上げた。
 空を切る。皓照の身は横に滑り、背後を取られた。
 舌打ちする。まだ死ねない。一撃くらい喰らわせねば。
 が、予測されていた反撃はこちらに向かなかった。
 代わりに身を斬る音が。
 誰が?
 誰を?
「波瑠沙っ!」
 皓照の背後から斬りかかっていた彼女が反撃を喰らったのだ。
 朔夜は構え直した刀を皓照に振り下ろした。
 見えぬ刃で止められる。更にもう一つ繰り出されたそれに身を斬られ、倒れた。
 致命傷ではない。膝と手で体を支えて。
 彼女へ視線を投げる。
 皓照はまず波瑠沙の留めを刺そうと刀を持ち直していた。
「やめ…」
 懇願しかけて。
 黒い影が、その刀を身で止めたのを見た。
「おや」
 皓照は少し驚きを含んだ声を出して、己の刀の先を見る。
 その隠密は、仮面の下から血を流しながら。
 嗤っていた。
「影…」
 小さく、波瑠沙は呼んだ。
 仮面が取れた。顔に走った傷から、血を吐いていた。
 その顔で振り返って。
 笑う口で、彼は言った。
「お前は…人間扱いしてくれた…俺を」
 ありがとう、と。
 名の無い彼は言って、事切れた。
 朔夜は動いた。千切れそうな身を起こして、皓照に死力を尽くして斬り掛かっていた。
 刀と刀でぶつかった。
 思わず笑みが溢れる。
 その瞬間に、見えぬ刃を皓照の身に。
「っ――!」
 金髪が切れていた。
 その先の肩から、血が滲む。
 その代償に朔夜は吹っ飛ばされた。
 全身から血が吹き出していた。地雷の時の比ではない。一つ一つが身を抉っている。
 床に叩き付けられる。その感覚が遠い。
 思い切り口から血を吐いた。
 拙い。筋を一つ一つ斬られている。動けない。
 その上に肺を抉られている。
 死ぬ。――否。
 皓照は改めて波瑠沙を見下ろしていた。
「死ぬ気だったのでしょう?仇の子を孕んで」
 彼女は倒れたまま、その男を睨んでいた。
「安心して下さい。一瞬ですから」
 留めを刺す。心臓の上に切先が。
「やめて!」
 華耶が叫んでいた。その声に応えるように。
 波瑠沙は皓照の足を狙って刀を凪いだ。
 皓照が均衡を崩す。その背中に。
 朔夜は見えぬ刃を放った。
 それは確かに相手の身を抉っていた。
 だが。
 斬られながら、皓照の刀は波瑠沙の心臓を突いていた。
 華耶の悲鳴。
 朔夜は手を伸ばした。それが、限界だった。
 届かない。
 彼女の所まで、届かない。
 あんなに愛していたのに。近くに居たのに。
 同じ体だと、そういう所まで。
 叫ぶ。声も届かない。
 何も意味が無い。血を吐きながら。
「皓照…!」
 呼んだ。
 これしか無かった。
「俺を殺せ…。その代わり、彼女を…」
 泣きながら、懇願する。
「波瑠沙を、不死にして…」
 肩越しに振り返った皓照の背中の傷は既に消えていた。
 死にかけている朔夜から、視線を上げて扉の向こうへ呼び掛ける。
「涛虎、出番ですよ」
 少年が姿を現した。
 冷たい目で、床に転がる仇を見下す。
「殺す前に、その腕をこちらに下さい」
 涛虎は頷き、口元を笑みのような形に歪めて、朔夜の伸ばす腕を取った。
 涙を流しながらも朦朧とした目が向けられる。己の手と、恩人の子の手。
 涛虎は刀を抜き、躊躇い無く肘から先を切断した。
 血が吹き出す。華耶がまた悲鳴を上げた。
 その腕を、皓照に渡す。
「冥土の土産に教えてあげますね。蘇生させ不死にする方法を」
 朔夜の腕を、波瑠沙の上に掲げて。
 傷口を傾ける。大量の血液が溢れた。
「こうやって、死んだ直後の傷口に不死の血を流し混ぜるんです。華耶さんが不死になったのは、君と同じ矢で貫かれて自然にそれが出来たから」
 華耶が己の口元を両手で押さえた。
 朔夜は夢の中のようにそれを聞き、見ていた。
 波瑠沙の体が、静かに光りだした。
「これで完了です。簡単でしょう?」
 ただの肉片と化した腕をそこに放って。
「もう良いですよ、涛虎。父上の仇を取りなさい」
 少年は頷いて刀を構え直した。
 刃を下に向け、真っ直ぐ心臓の上に。
「父の仇、覚悟」
――千虎…後悔するって、こういう事か…
 夢の中の言葉を思い出しながら。
 心臓を貫かれた。
「涛虎、首を取って下さい。それで悪魔は永遠に葬れます」
「やめて!」
 華耶が走り、倒れている朔夜の体に縋った。
「もうやめて下さい!お願い!」
 涛虎の刀が迷う。女をどうすべきか。
 皓照は笑った。
「では、こちらから始末しましょうか。この状態で死ねば、蘇生は不可能です」
 発光する波瑠沙の体の上を刃が舐める。
 華耶は目を見開き、叫びかけた。
「やめ…」
 その時、一陣の黒い風が巻き起こった。
 皓照の刀は弾かれた。そればかりか、その身が仰け反る程の打撃を喰らっていた。
 どうにか均衡を保ち直して、身を屈めつつ彼は上目遣いに笑った。
「軍神のお出ましですか…」
 暗枝阿は波瑠沙の身を抱え上げていた。
「死ぬか?皓照」
「いいえ…涛虎」
 笑いながら。
「さっさと始末を付けて去りましょう」
 涛虎は頷く。庇う女に構わず刀を振り上げた。
 華耶は固く目を瞑る。一緒に死ねるならそれで良いと信じて。
 だが、縋った体が動いた。
 え、と小さく声を上げて。
 その瞬間、血飛沫を浴びた。
 声も無く見上げた。
 朔夜が立つ。その身の前に光の刃が浮かんでいた。
 涛虎の右の二の腕を斬った。握る刀ごと。
 かと思うとそこに既に姿は無く、皓照の前に在った。
「ついに正体を現しましたね!?」
 笑いながら皓照が叫んだ。似つかわしく無い余裕の無い笑いで。
 朔夜はすっと刀を動かしていた。皓照の身から血が舞った。
 斬られながら逃げる。そして華耶の身を人質に取った。
 そのまま、窓から闇の中に飛び降りた。
 代わりに扉から燕雷、そして宗温と賛比が。
「朔!」
 燕雷が叫ぶ。それに振り返ったかどうか。
 意識を失って倒れた――否。
「朔っ!!」
 抱き起こし、揺らしても。
 息が無く、脈も無い。斬られた腕から流れる血も無くなっていた。
「我々は華耶様を」
 宗温は言い、外へと踵を返す。
 それに頷いて、朔夜に再び目を落とす。
 今にも目覚めそうな寝顔。
「起きろ、朔」
 揺さぶる手を止める事は出来ない。
「燕雷、諦めろ」
 無情な声を聞いた。
「そいつは無理だ。死んでいる」
 暗枝阿を見上げる。
 絶望の目で。
「だがまだ終わりではない」
 波瑠沙を抱えながら暗枝阿は横に跪き、朔夜へ手を伸ばした。
 額に触れる。不思議な光が一瞬、現れたような気がした。
「まだ根源は生きている。先刻こいつを動かしていたものが」
「それって一体…?」
「さあな、俺に訊くなよ。…確かなのは」
 見据えられた目。その奥に、僅かな恐怖が混じった。
「こいつはとんでもない化物だ。俺も皓照も及ばぬ程の」
 冷たい体。成長出来ず、小さなままの。
 その中に隠された秘密。
 否定など出来なかった。あの皓照が焦り、斬られる様を見ている。
 それほどの大きな力。
 世界を丸ごと飲み込み、無に帰すような。
 それが存在し続ける事が恐怖だ。人類の脅威だ。
 今はまだ、何も知らぬ顔で眠っている。
 それで良い。眠る子を起こしてはならない。
 このまま。
 未来永劫に、このまま。


 遠い背中を走って追う。
 でも、最初に比べたら随分と近くなった。
 遠くなるばかりだったから。
 逝くなって、どれだけ願っても。
 霞の向こうのその姿。並んで歩きたかった。会いたかった。
 足を止めてくれた。
「龍晶!」
 呼んで。
 笑って。
 やっと、一緒に行ける。
 ずっとずっと行きたかった場所に。
 二人で行ける。
 それぞれに待っている人も居るだろう。
 みんなに会える。
「龍晶!」
 もう一度呼んで、まだ遠い距離を詰めようと足を速めた。


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