月の蘇る 8 どうしようもない後悔も、悲しみも全て一緒に抱えられて、彼女の腕の中で眠る。 俺が居なければという思いはずっと変わらない。 居なければ、失わずに済んだ命があった。 今も、昔も。たくさん。 それでどうして死ぬ事が許されないのか。 それは誰も教えてくれない。 ただ、今は彼女の為に生きている。 この温もりが、今の俺の全て。 温もりを失った頃の酷い記憶。 四肢も頭も痺れて動かないのに、体だけは戦場に連れて来られた。 梁巴以来で目にする戦。 頭の中の霧が更に濃くなる。直視すればあの時に放り込まれる。正気が消える。 正気なんてもう無いのかも知れないが、それでも僅かに残っている自分に縋っていた。 それをも打ち砕くように。 「ここに居る全員を殺せと桓梠様は仰せだ。味方を手にかけても構わぬそうだ。とにかく殺せ」 項垂れたまま、殺せと命じられたその対象を見る事もせずに。 「聞いているのか?月」 影に胸ぐらを掴まれる。軽い体が浮く。 僅かに開くだけの目は何も捉えていない。何を見るのも嫌だった。 影は鼻を鳴らし、自分がその戦場へと目を向けた。 崖のすぐ下で敵軍が犇いている。今から繍軍の脇を突くのだろう。 「是非は無い。行って来い」 影は告げて、持ち上げたままの体を。 崖の下に落とした。 落下し、急坂を転がってゆく体。 止める意思は無い。恐怖も無い。これで死ねると思った。 落ちる所まで落ちて、泥濘の中に転がって、泥水の中で息をしながら。 苴兵は突如現れた子供に驚きつつ、崖の上を見たが影の姿は既に消えている。全く不可解な事態。 が、今はそれどころではない。 子供などに構わず戦地へと走る。倒れている体など後ろの者は気付かず、蹴られ、踏まれて、更に泥水の中に埋められて。 痛みなどもう麻痺していた。死ねる嬉しさで泣いていた。もう何も見なくて良い。もう息をしなくて良い。嬉しかった。 既に遠くなっていた意識の中で。 声が聞こえた。 「なんだってこんな所に餓鬼が居るんだ」 「誰かの慰みものが紛れたんじゃないか?」 「だとしたら可哀想な事をしたな。もう死んでるぞ、これ」 腕が伸びてきて、泥の中から引き上げられる。 体は空気を求めて大きく息を吸った。意思とは裏腹に。 「…生きてる」 驚きを含んだ声で言われ、次の瞬間には下卑た声音が混ざった。 「誰のものか知らんが、拾った以上は俺の物だ」 殆ど意識の無い体を仰向けに寝かされる。 「おいおい。今ここでか?」 「良いだろ別に。誰も見てない」 ぐっしょりと濡れた布で顔を拭われる。それが自分の着ていた衣だとも気付かずに。 「ほら、泥を洗えば綺麗なもんだ。やっぱり誰かの小姓か奴隷だろう」 「それでこんな刀を持つかな。双剣だぞ?」 「知った事かよ」 体を撫ぜられる感触。 頭よりも先に、体が拒んだ。 馬乗りになっていた体が消えた。 それは刃の勢いのままに後ろへと倒れて。 「なっ…!?」 横に立っていた男が引き攣った声を上げる。 が、それ以上は何も言わせず、同じように体から血が噴き出た。 みんな殺せば良いんだろ? 冷え冷えとした月の目は、戦地の騒乱へと向けられた。 そのままの姿で駆ける。 戦乱はすぐに、阿鼻叫喚の地獄へと変わった。 「まーた魘されてんぞ、お前」 起こされて、顔を顰めて。 どうにか現在地を把握して、横にある波瑠沙の顔を見た。 もう辺りは明るい。 「なんか、ぼーっとしてるな」 言いながら彼女の手が頬を撫でる。 そのまま額まで手を滑らせて、顔を顰めた。 「熱っぽいぞ?」 「うん…大丈夫」 体を起こしたが、すぐに引き倒された。 「まだ早朝だ。もう少し寝とけ」 抗えずに。 もう一度温もりの中で意識を溶かす。 寝ても覚めても思い出したくない過去ばかりを見るから、出来れば未来を動かしたかったのだが。 血の海の中に島のように屍が浮かぶ。 それが自分で作り出した光景だと気付くまで、暫くかかった。 そんな事よりも、戻された自分の意識に絶望していた。 まだ生きている。 まだ、この自分を保って。 どうせなら、狂ったまま戻らないで良かった。 ふらふらと立ち上がる。 足も、腕も、体中、動いているのが信じられない痛みが走る。 腫れて痣だらけの体。崖から落ちた時既に何ヶ所も骨は折れていただろう。それを踏みつけられ、滅茶苦茶になって。 その筈なのに、もう殆ど治っている。 動いているのがその証。 そしてまた己の体に絶望する。 どうして治る。治ってしまう? このまま滅茶苦茶に、バラバラになって、死んでおけば良かったのに。 何も考えられない頭で血の海を脱する。 俺が一人死ねば良かったのに。 こんなにたくさん人を死なさずに済んだ筈。 覚束ない足取りで歩き続ける。 母さんの所へ行きたかった。 戻りたかった。故郷へ。 全てが滅んで無くなっていた筈の場所へ。 あの時、一緒に死ねていれば。 何かに躓いて、転んだ。 見れば、矢張り屍だった。 最初に殺した二人。 その手から溢れている物に目を向ける。 桓梠から押し付けられた、双剣。 その一つに手を伸ばす。 初めて、刃を抜いて見た。 鏡のような刀身が、虚無の碧眼を映す。 これで楽になれる。 なれる筈なんだ。だって。 あの時、そうし損ねたから。 今度こそ。 己の首筋に当てて。 込められる力を全て手に込めて、引いた。 熱っぽい体は馬上に乗せた。 進まねばならなかった。未来を変える為に。 一刻でも早く、この地獄を脱したい。 その意思だけで、意地の込もった目で、前を睨む。 「そう怖い顔すんなって」 波瑠沙に揶揄われて、もっと険しい顔になる。 「お怒りはご尤もだけどな。でもほら、今は私しか居ないんだぞ?私に怒ってもな?ま、八つ当たりされたら返り討ちにするけど」 戯けられて、朔夜は自分の顔の力を抜こうと手で眉間の辺りを揉んだ。 「悪い。どうも…夢見も悪くて」 「んな事いつもだろ」 「まあね…」 「今は何の夢を見てるんだよ?母さんの事か?」 ずいと正面から斬り込んできた。 彼女の力技を受け止めるのは厳しいけれど、小細工抜きの好もしさは自然と笑みが溢れる。 「いや、梁巴の事は終わって、今は繍のこと」 「夢なのに、そんなに整然と時系列で見るものなのか」 「なんなんだろうね。芋蔓式に色々思い出すみたいだ」 ついでに体を蝕む毒を吐き出す事にした。 「あの頃がずっと悪夢みたいなものだったから。全部覚えてたら頭がぶっ壊れるから自然に抜けて行ったんだと思う。それが今になって夢に出て来るのは、きっと桓梠を殺す理由を自分で探してるんだろう」 「この上まだ理由が要るのか」 「全部思い出して殺したいんだよ、きっと」 他人事のように言う。 「そんな事言って、お前が苦しんでいるだけにしか見えないけどね」 尤もな波瑠沙の一撃。 朔夜からは溜息が漏れる。 「俺はお前のように強くないから」 「そんな事ないぞ?互角だろ、本気でやれば」 「いや、刀じゃなくって」 苦笑いで返して。 「人を殺そうと思ったら、いくつも理由が要る。じゃないと自分が耐えられない。それを振り切ろうと思ったら、悪魔になるしか無かった」 「…それって…」 「無意識だけど、ある程度は自分からやってたって事だ。結局、こんな自分でも可愛いんだ。何処かで守ろうとして、それで意識を別のものにして。醒めて、自己嫌悪に陥る。こんな自分居なくなれば良いのにって。だから死ぬんだけど…また目が覚めて。その繰り返しで」 遠い視線。 「今そういう夢を見てる。なんで死ねないんだろうって、ずっと思いながら」 「今もか?」 彼女の顔をまともに正面から見た。 厳しくも、優しい表情で。 「今も死にたいか?」 朔夜も表情を和らげた。 「今は波瑠沙が居るならどっちでも良い。お前の居る所に、一緒に居たい」 にやりと、いつもの笑みで彼女は笑う。 「じゃあ、私は生きていたいから、お前を生かすぞ。良いな?」 「うん。…ありがとう」 目の奥に悲しみを秘めて笑う。 本当は逝きたいのだと、波瑠沙は知っている。 母の所へ、友の所へ。今すぐにでも走って行きたいのだと。 だけど許されない。不可能なのだ。だから、自分と共にここに居る。 だから、自分だけは置いては逝かない。 この命ある限り――否、この命を引き延ばしたって、共に居てやる。 そう決めた。 「現実問題を話しても良いか?」 「あ、はい」 波瑠沙は打って変わって深刻な顔で告げた。 「食い物が足りない」 真顔で二人、見合わせる。 当然と言えば当然だ。梁巴から持ってきた携行食しかない。 金はあるからこちらで賄えると思っていたものが、どこに行っても死んだような街の有様で店が見当たりもしない。 「…狩りでもする?」 「良いけど、一日じゅう山の中をほっつき回ってても良いのか?」 「えっ、いや、でも、背に腹は変えられないし」 「腹が減っては戦は出来んしな」 波瑠沙は長刀と一緒に背中へ弓矢を負っている。 「じゃあ俺、鹿が良い。鹿肉食いたい」 「は?注文つけるんかい」 「注文じゃなくて、これは期待だよ」 「贅沢言わずに獲れたものを食え!」 「それは分かってるけど」 「いやお前は草で良いや。その辺の草でも食っとけ」 「それは嫌だぁ」 波瑠沙は弓を取って朔夜に向かって空撃ちする。 うわぁ、とやられたふり。 そして声を合わせて笑う。けらけらと、心底から可笑しく。 笑い声を吸い込む空の色は何処に行っても変わらない。 二人で居る限り、何処でも。 目が覚めると、見慣れた景色。 鉄格子が整然と冷たく己を見下ろす。 期待していた光景ではない。 こんな所に母さんは居ない。 重い腕を動かして、斬った筈の首を触る。 少しの腫れだけ。 それにまた絶望して。 「目覚めたか、月」 闇からの声に、何かを諦めた。 「何を血迷ったか知らんが、こんな面倒な真似は二度とするな」 その姿を目に入れる気も起きなかった。 どうせ闇の中に溶ける影など見えない。 「俺は死ねなかったの?」 天井に目を向けたまま問う。 「死なないようにしてやったんだ。この私が。借りは返せ」 「…どうやって」 どうしたら死なないように出来るのか、そちらの方法を知りたかったのだが。 「桓梠様の命に従う事より他に、貴様に出来る事があるのか」 そうやって借りを返せという話だ。 もう一つ何かを諦めて、やっと鉄格子の外へ首を向けた。 「次は誰を殺すの」 問いは鼻で笑われた。 「分かってきたな」 前回、押し返した苴軍をまた更に祖国へと押し返してやれ、と。 そういう指令を受けて、外に出た。 昼間なのに、何も見えない。 進むべき道だけは教えられて、見えなくとも勝手に足は進んだ。 麗らかな日和。小さな村の中で、子供達が遊んでいる。 ぼろぼろの球が足元に転がってきた。 「投げてくれ!」 自分とそう歳の変わらなそうな子供が大きく手を振って呼び掛ける。 思い切り投げても、背格好も筋力も足りないから相手の所まで届かない。 「下手くそ!」 親切心を罵って、少年は走って拾いに来る。 呆然とそれを見ていた。 「なんだよお前、見ない顔だな。変な髪」 周囲に居る子供も指差して笑う。変なの、変な奴が居る、と。 そのくらいの事は梁巴の村の中で日常茶飯事で、なんて事無かったのに。 寧ろ、石を投げられたり手を挙げられないだけマシで、言葉だけの攻撃なんて聞き流せば良いと頭で分かっているのに。 くしゃりと顔を顰めて。 「うわっ、そのくらいで泣くか!?泣き虫!」 弱虫!臆病者!虫けら! 背中に向けて、罵り声が追いかけてくる。 袖で顔を拭きながら歩く。とぼとぼと。泣き声を垂れ流しながら。 「どっか行け!」 「消えろ!」 「もう帰って来るな!」 背中に石が飛んできた。 痛みにすらならなかった。 泣くほどの心の痛みが、現実の痛みを何もかも麻痺させていた。 首を切っても、痛いと思えなかったのだから。 消えたかった。帰ってきたくなかった。 逝きたかった。 なのに。 涙の乾いた目が、戦場を捉える。 もう一回、試してみよう。 試してみる価値はある筈だ。 それで、終われるのなら。 「すげえ!さすが波瑠沙様だ!天才!」 大きな鹿が横たわる前ではしゃぎまくる。 「ま、この私にかかればな?」 一日山の中を駆け回った野生児な彼女は鼻高々に戦果を見下ろす。 「じゃ、後はよろしく」 「え」 「なんだよ。働かざる者食うべからずだろ。捌いて食えるようにしろ」 「え」 やった事が無い。 「え、これ、バラバラにするの?かわいそう…」 「はあぁ!?阿呆かお前!鹿肉が食いたいって抜かしたのは何処のどいつだ!?それとも草を食うか!?」 首を絞められる。締めるのは人でなくて獲物にして欲しい。 「わわわわかった…ごごめん、やってみるる…」 やっと腕の力を緩めて貰い、脱出して、鹿を前にして。 ごめんなさい、と丁寧に頭を下げて。 短刀を抜いて、まずは頭を切る。 次は背骨に沿って背中を割いていく。赤い肉が美味そうに見えてきた。 そうなるともう食料でしかなくて、肉を一切れ取って波瑠沙に見せる。 「これ、めっちゃくちゃ贅沢だよな!?」 もう浮き浮きとしている。 「そのまま焼いて食うか?」 「うわぁ…そんな事したこと無い」 「美味いぞ。固いけど」 波瑠沙は火を起こして、朔夜から受け取った肉の塊を刀の峰で叩き、傷を付けていく。 「そっちは薄く切って燻してくれ。暫くそれで食い繋げるだろ」 「はーい」 余った肉を言われた通りに切っていく。 他の部分も解体しようとして。 腹を裂いて、内臓を出す。 手が止まってしまった。 「朔」 呼ばれて、やっと息を吸った。 「ごめん。サボってた訳じゃないんだけど」 「代わるよ。焼き加減を見ててくれ」 退かされて、火の前に座った。 波瑠沙はちらりと横顔に目をやって、作業を続けた。 ふとした瞬間、どうしてもちらつく影がある。 影が大きな闇になって呑まれる前に。 「なあ、波瑠沙」 「ん?」 「俺の代わりにどれだけ死んだのかな…」 自分の口走った事にはっとした顔で、すぐに照れた笑い顔になって。 「なんでもない。独り言」 手を伸ばして、銀髪を手荒く撫でる。 ただ、その手。 「あ、そうだ。血だらけだった」 「ほっ!?」 鹿の血に塗れた手をわざわざ広げて見せてにやっと笑う。 「わーるい。お前の頭に擦り付けちまった」 「はあぁ!?」 すぐに自分で確認する。銀髪が固まって血生臭い。 怒ろうにも、記憶が蘇って吹いてしまった。 尤も前は、逆の立場だったけれど。 「可笑しいか?」 笑う朔夜に訝しげに波瑠沙が問う。 「俺は同じ事して龍晶に飯粒付けた。いや、飯粒を舐めた手で触って滅茶苦茶怒られたんだった」 「そりゃそうなるわ」 「おっかしかったな、あの時。そのまま追いかけっこしたんだよ。あいつがあんまり嫌がるから面白くて」 「うわぁ。嫌がらせも良いとこだな」 「そこの村の人たちが風呂焚いてくれてさ。洗ってやろうか?って聞いたら、湯をぶっかけられた。ま、今思えば当然だけど」 一頻り笑って、焼けた鹿肉の串を取って。 「あ、良い感じ?」 「食い頃だな」 「これ食ったら頭洗ってよ」 「良いぞ。そこに水場があったし」 熱いとか美味いとか忙しく口を動かしながら肉に齧り付く。 当たり前に少年の顔で笑う。 それが可愛くて、永遠に見ていられるのだ。 なんでもないこういう瞬間が、一番幸せだった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |