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月の蘇る
  1
 目覚めてから三日が経った。
 あれから朔夜は燈陰と口を利いていない。目を合わせる事すらしていない。
 燈陰は燈陰で、朔夜に近寄らない様にしている風にも見えた。
 身体は大分動くようになった。
 本調子とは言えないが、立ってふらつく事は無くなった。最低限動けると言ったところだ。
 潅の平穏さは現実を忘れさせる。
 お陰で身体の回復は早いが、朔夜はそれに微かな恐怖を感じていた。
 燕雷が部屋に入ってくる。
 何の反応も示さず、朔夜はただ窓から見える緑を眺めていた。
 繍には無かった景色。
「おい、飯」
 燕雷は机の上に皿の乗った盆を置く。
 気だるく朔夜は振り向いた。
「お前、もう動けるんだから自分で食堂行けよな」
 応えず、頭を窓枠に預けて視線を再び外に投げる。
「だんまりかよ。何だよ、今度は精神的に病んでるのか?一歩もここから出ないし、飯もあんまり食ってないだろ」
「…バレてたか」
 自嘲気味に笑って朔夜は立った。
 燕雷が御親切にも運んでくれる食事は、少し口に入れただけで窓から外に捨てている。
「あんたが口喧しいからさ。親みたいに」
 言い訳して食事の前に座った。
「俺って思春期のガキの世話してやる程、お人好しになっちまったのか…。我ながら悲劇だな」
 燕雷は言いながらもまんざらではなさそうだ。
「で、今度はちゃんと食うんだろうな?」
 見張りそうな勢いで訊いてくる。
 仕方ないから朔夜は頷いた。
「出来るだけは」
「よし」
 犬でも躾るような言い方だ。
「悪い。甘ったれて」
 ぽつりと朔夜は言う。
 燕雷は目を見張る。
「なんだ、自覚あるのかよ…」
 朔夜は苦しそうに頷いた。
「親があれだからさ、あんたに甘える事になっちまう。悪いなとは思ってるんだよ?でも…」
「…なんだ?」
「どうしたら良いのか分からない」
 手は箸を持ちながら動いていない。
 俯き、視線は自分の膝ばかりを凝視していた。
 なにも見えなかった。
「…え?」
「動ける様になったからには華耶を助けなきゃならないとは思う。でも…駄目なんだ。怖い」
「何が?」
「あいつの目を見るのが」
「あいつって…華耶ちゃんの?」
 朔夜は頷いた。箸を握る指先が白くなっていた。
「ここに居ると…戦う事の怖さを思い出す。今まで忘れてたのに…。繍に戻りたくない。逃げたい。あいつからも。…そう、思ってしまうから…」
「…そうか」
「燕雷、俺、どうするべきだろう?」
 見上げられた縋る目。
 この三日間、自問し続けて見つけた本心なのだろう。
 漸く、言葉に出来たのだ。
 そして、漸く、手を延べられたのだ。
 燕雷は優しく笑い、しかしすぐ表情を険しくして、問うた。
「華耶ちゃんの目が見れない理由、それだけか?」
 朔夜は一瞬、言葉に詰まった。
 そして、噛み締めた歯と歯の間からやっと絞り出す様に、恐々と言った。
「また、殺してしまう…」
「え?誰を」
 かちかちと、噛み締めている筈の歯が鳴る。
「母さんを…殺した、俺が…」
「朔」
 震える肩に手をやれば、びくりと大仰なほどに震えた。
「ごめん…なさい…全部俺が悪いんだ…俺が、殺してしまったから」
「朔夜!落ち着け!今は華耶ちゃんの事だろ!」
 耳元で怒鳴ると、恐怖によって押し出されていた贖罪の言葉が止まった。代わりに、荒い呼吸が耳に入る。
「お前が…」
 言いかけて、やめた。
 お前があんなにもあの時の話を怖がるのは、それが理由か、と。
 問う意味は無いと思った。これ以上思い出させても話は進まない。
 だが、いつか向き合わねばならない時が来るだろう。
 本当に母親を殺しているのか、それならば罪を直視せねばならない時が来るだろうし、そもそも真実を確かめねばならないだろう。
 あの時の事は、彼の幼かった心の中で、過酷な現実を受け入れられず混乱した果てに、今も塞がらない傷となって彼を蝕んでいる。
 決着を着けねばならない。
 それを躊躇いつつも焦る燈陰の気も、漸く少し解った。
 燕雷は朔夜を落ち着かせようと、背中を擦りながら訊いた。
「まさか、お前が華耶ちゃんを殺す訳じゃないだろ?」
 背中はまだ小刻みに震える。
「…そうなるかも知れない」
「何だって?」
「俺はそういう悪魔なんだよ、燕雷」
 回り込んで座り、沈む目を捉える。
「俺はまたやってしまう。母さんの時の様に」
 朔夜は言った。痛みに泣きそうな顔で。
「燈陰の話を聞いて思い出した。あの時…」
 それ以上は言葉にならなかった。
 酷い震えが襲う。歯の根が合わない。
「判った…判ったからもういい、何も言うな。休め、ほら」
 燕雷は朔夜を抱えて寝台に戻した。
 布団の中で、噛み締めた嗚咽が聞こえる。
 燕雷は眉間に皺を寄せて傍らに座った。
「だが…朔夜、それは真実なのか?抜け落ちた記憶がそう簡単に戻るとも思えない。況してやお前はいつも悪夢に魘されている。悪い夢が真実に取って変わったとは考えられないか?」
 燕雷はあの日の事は直接には知らない。話に聞くだけだ。
 真実など知った様に語れる立場ではない。
 だが、朔夜は母親を手にかけてはいない。そんな気がするのだ。何の根拠も無いが。
 朔夜を慰め、立ち直させる為のただの方便でもあった。
 方便も必要だ。このままでは壊れてしまう。
 ただでさえぎりぎりで張り詰めている神経なのだ。
「お前は大丈夫だよ。そんな事はしていないし、これからもしない。しっかりしろよ、華耶ちゃんはお前を待っているんだ。お前が行かなきゃならないんだ」
 嗚咽の中で切れ切れに、叫ぶような声がした。
 そんな事は朔夜とて判っているのだ。
 だからこそ、こうも苦しんでいるのだ。
 燕雷はそこに思い当たって、背中のあるあたりの布団をぽんぽんと軽く叩いた。
「大丈夫だ。俺達が助けてやる。最悪の事態は起こさせない、安心しろ」
 大丈夫だ、と繰り返す。呪文のように。
 いつしか嗚咽が止まり、静かな呼吸が聞こえてくるまで。
 燕雷はそうしながら、自分の子供をあやしていた遠い日の事を思い出していた。
 何もかも変わってしまった。
 でもこうしていると、あの時と地続きの時が流れている気がする。
 悪戯に過ぎ行く歳月は、あの頃を思い出として遠ざけてゆく。
 こうして思い出させてくれるこの一瞬を、心の内で感謝した。
 その相手は何も知らず眠ってしまったようだ。
 燕雷は微かに自嘲して煙草に手を伸ばした。
 誰彼構わず我が子の幻影を見る。女々しい限りだ。
 でも、自他に嘲笑われようと、どれだけ時間が過ぎようと、願うことは変わりそうにない。
 あの瞬間に、戻れたら。
「おう」
 扉が開き、燈陰が低く挨拶代わりの声を掛けてきた。
「どうした?姫はお眠りになったぞ?」
「皓照が話があるからここに居てくれ、と。自分は少し後で行くから待っていてくれとよ。良い御身分だな、全く」
 燈陰が毒づくのは、この国での地にも置かない皓照の扱いだ。
 王以上、と言っても良いぐらいの異常な待遇である。その意味が分からない燈陰には、気持ちが悪いだけだろう。
 燕雷はその辺りの事情を熟知しているから、苦笑いして流した。
「なぁ、燈陰」
 自分の煙草を差し出して勧めながら、彼は言った。
「少しは自分の子供に情は湧いたか?」
 燈陰は無言のまま煙草を受け取って、火を付け、一服してもまだ何も返さなかった。
 燕雷もまた何も言わず、二人分の煙だけが立ち昇る。
 灰皿に煙草を棄てる頃、漸く燕雷が口を開いた。
「悪い。俺は勝手な事を考えてた」
「勝手な事?」
 頷いて、またあの自嘲を浮かべて。
「お前より俺の方が、こいつの親らしいんじゃないかって」
「…大いに結構だ。事実だしな。謝る意味は無い」
「いや、思い上がりだ。済まない。ただ、こいつが本当に心を許せる人間は誰か居るんだろうかって考えちまった」
「…居るかよ、そんなもの」
 吐き捨てるように燈陰は言った。
 燕雷はそんな彼を不思議そうに見返す。
「居ないだろ。こいつが人間じゃない、別のものなんだ。人間と解り合えることなんざ無いのが道理だろ」
「…俺もか?」
「それは…」
「そう思うのはさ、燈陰、お前自身が誰も信じないからだろ?」
 燈陰は口を引き結んで、煙草を揉み消し、荒く椅子に座った。
「なんだよ、今日は。喧嘩売りたいのか?」
「まっさか。思ったことは言わずに居れない、俺の悪い癖だ。悪かった」
「悪かったで済む事なら良いんだけどな」
 ちらりと横目に燕雷を見る。
 いつも飄々としているこの男の、何かが今日は足りない。
「 …言っただろ?俺達を見てて昔を思い出すなら、俺は消えてやる」
 心外とばかりに燕雷は目を見開いた。
「それが嫌だとは俺は言ってない筈だ。寧ろ…」
 静かに上下する布団の高みに目を落として。
「寧ろ、感謝している。あの時の記憶が、傷みじゃなく思い出になる気がするから。こいつと居るとな」
「臭いな。似合わない臭さだ」
「放っとけ」
 燈陰が鼻で笑う。燕雷もまた、はっ、と笑って煙草を咥えた。
 扉の向こうから足音が近付く。
 現れたのは、予想に違わず皓照だった。
「お待たせしました」
 相変わらずの優美な笑みで言って、部屋に入る。
「眠ってましたか。まぁ良いでしょう」
 寝台の上を一瞥して、燈陰の横に座った。
「なんだ、話って」
 不機嫌に燈陰が問う。
 簡潔に皓照は答えた。
「繍の滅ぼし方についてです」
 あまりにあっさりと、とんでもない事を言い出すので、燈陰ですら一瞬言葉に詰まった。
「…そうか、一国を創り出す御身分なら、滅ぼす事なんざ朝飯前か」
 皮肉を込めて燈陰はそう返した。
 皓照は皮肉とも受け取らず、にっこり笑って謙遜した…つもりで言った。
「朝飯前は無理ですよ。私は朔君と違って昼型なんです。夜はもう眠くて」
「年寄りだもんな、俺ら」
「そんな事はどうでもいい」
 無用の呆けは即座に切り捨て。
「何故繍を滅ぼすなんて話になる?」
「異論が?貴方は賛同してくれると信じていましたが」
「俺は朔夜とは違う。故郷を奪った国を憎んで済むほど餓鬼じゃない。復讐なんざ馬鹿らしい」
「本当に?」
 向けられた澄んだ碧眼。
 見透かされる――それは、心を抉るような強引な方法で。
「…滅んでも良い国ではある」
 仕方なく、燈陰は本心を吐き捨てた。
 皓照はにこりと笑い、一つ手を打った。
「決まりました。玄の弓はこれより、繍を引き倒しにかかります。燕雷も当然、異存はありませんね?」
 燕雷は応じず、燈陰を横目に見た。
「まだ俺は納得してないぞ」
 皓照を睨んで燈陰が言う。
「どうして玄の弓が一国の存亡を左右する?何様のつもりだ、貴様は」
 皓照は一瞬、虚をつかれた顔で燈陰をしげしげと眺めていたが、やがていつもの笑みを戻して言った。
「我々の義務ですよ。私達には力がある。すなわち、世界の調和を司る義務があるんです」
「貴様の独断で世界を変えても良いと?」
「ええ。それは私が一番、世界を良い方向へと導く事ができるから。年の功、というやつですね」
 燈陰はしばし反論を考え、己の生きてきた年月が相手には敵わないと判ると、舌打ちして椅子に凭れ掛かった。
「…で?どうする気だ?」
 言葉少なに燕雷が具体的な方法を訊く。
「今から私は周辺諸国を訪ね、一斉に繍へ攻め混む段取りを付けます」
「だが、理由も何も無しに戦はできないだろ?繍を攻める大義はどうする」
「繍に潅を攻めて貰えば良いんですよ」
「…何だって?」
 燕雷ですら耳を疑った。燈陰は無関心を決め込んで閉じた瞼を再び開いた。
「潅に攻め入る為には苴を通らねばならない。そうすればこちらの思う壺です。苴と潅の連合軍で行く手を塞ぎ、後方を諸国が同時に攻める。潅を守るという名目の実は、繍の包囲網です。面白いでしょう?」
「どうやって繍を釣る気だ?」
「あるじゃないですか、切り札が」
 そう言って皓照が視線で示した先に、燈陰は明らかに顔をしかめた。
「貴様が朔を救った理由はそれか」
 皓照は朔夜で繍を釣ろうと言うのだ。
「人聞き悪いですねぇ。たまたま、ですよ。あの時は貴方達がどうしても彼を助けると言うから、乗っかっただけですよ。それで今、使える駒になるなら上等じゃないですか」
「皓照、燈陰が殺気立ってるぞ」
 燈陰が席を蹴る前に、燕雷が告げた。教えねば気付かない事は熟知している。
「すみません、言葉が過ぎました」
 燈陰は大きな溜息一つで流して、更なる疑問点を述べた。
「繍は乗るのか?一度殺す気だった相手をわざわざ取り戻しに来るとは思えんが」
「貴国と同じ方法で、貴国を攻めますよ、と言えばどうでしょうか?」
「…朔を、繍攻めの兵器にする気か?」
「実際そうするかはともかく。脅しですよ。彼の力はあの国が一番よく知っている。今ならまだ力が弱っているから、取り戻すなり始末するには潅まで行けば良い、そう伝えるんです」
「そうして苴に侵入した事を口実に攻め滅ぼす、か。だが…」
「まだ何か?」
「罪の無い少女を一人見殺しにしてまで実行する作戦じゃないな、それは」
 燕雷は明らかに何か気付いたように目を見開いた。
 一方、皓照は訝しげに目を細めて燈陰を見た。
「記憶にすら無い、か。まぁ、それも仕方ないな」
 皓照の表情を見、軽蔑した口調で燈陰は言い捨てる。
「…よく判りませんが…。とりあえず一人二人の犠牲は目を瞑って頂かなくては。事が事ですから」
「そうやって自分の都合の良いように人を使い捨てていくのか、貴様は」
 喧嘩腰に燈陰が皓照を睨みつけた時。
 叫び声。
 扉の向こうから。少し遠い。
 次いですぐ近くからあるか無いかの物音がした。
「…なんだ?」
 燕雷が扉に向かおうと立った時。
 外側から扉が開いた。
「申し上げます!」
 若い守備兵が息せききって告げる。
「繍の隠密が脱走しました!今この部屋の外に居たのを発見され、城外へと逃げております!」










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