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月の蘇る
  4
 朝の冷たい空気が背中を撫ぜて目が覚めた。
 背中は冷え切っているのに、胸から腹にかけて汗をかく程熱い。
 痺れるような体の感覚が戻ってきた。でも彼女の頭に敷かれた左手は全く感覚が遠い。
 右手は背中に回したまま。それを気怠く持ち上げて、足元にどうにか掛かっている毛布を引き上げようとしたが、手が届かない。
 波瑠沙の手は己の頭を包んでいた。そして何より体は繋がったまま。それらを全て引き離さないと目的が果たせない。
 離れようか考えて、もう少し我慢しようと決めた。
 毛布よりも温かなもので包まれているのだから、別に良いかと考え直して。

 まだ宴会の残骸が散らばる座敷に立って、龍晶は昨晩のまま鼾をかいている従兄の頭を軽く蹴った。
 桧釐だけではない。その辺に酔い潰れた男がごろごろ寝ている。
「んが…なんですか、もう…」
 不満たらたらに桧釐は眠い目を擦る。
「何の為にここに来たんだ、お前」
 鋭い問いに顔を顰めて、二日酔いの頭を叩いて。
「春音を返しに来たって言いましたよ…それ以外に…」
「このまま腑抜けの好々爺に成り下がる気か」
 訝しげな顔を向ける。
「奴もそこで寝ている。悪巧みをするなら今だ」
 龍晶の視線の先で韋星もまた酔い潰れて寝ている。燕雷が悪ふざけに飲ませまくっていた。
「その気があるんですか」
 完全に戸惑い顔の腹心を鼻で笑って、龍晶は答えた。
「それを決める判断材料が欲しい。戔の現状を教えてくれ」
 二人は隣の長屋に移動した。土間で華耶が朝食を作っている。
「二日酔いに効く熱々の味噌汁を一つお願いしても宜しいでしょうか」
 前の皇后にこんなお願いをするなど僭越も良い所だが、誰もそれを咎める空気などここには無い。
「分かりました。ちょっと待ってて下さいね」
 華耶は笑顔で応えて、十和と共に楽しそうに喋りながら調理を再開した。
 座敷に上がって龍晶は壁を背に片膝立てて座った。その正面に桧釐は胡座をかく。
「…実際、鵬岷陛下はただ玉座に居るだけという体(てい)ですよ。そういう意味ではあなたの決めた事に近いかも知れませんが」
 そう桧釐は語り始めた。
「しかし代わりに一人の男が全てを取り仕切っている。碑未(ヒミ)という灌から来た男です。明らかに奴は灌王の意を受けて動いている」
「そんな事だろうと思った。そいつは何をしてくれた?」
「まず鵬岷陛下自身の王命を覆しました。灌から来た者が多過ぎる故に国に帰すと命じたのですが、奴に握り潰された」
「既に王も言いなりか」
「未だ子供だからと軽く扱われていますね。それに誰も疑問を持たない。尤も今や城内の半数が灌から来た輩だからどうにもならないが…」
「元々戔の臣だった者は反発しないのか」
「数的に圧倒的に不利です。その上、金を掴まされれば黙る者が多い。気骨のある輩はそうは居ません。宗温が一人で頑張っては居ますが、あいつは軍事面でしか自由が効かない。その軍事を縛る法も今やあの男のやりたい放題ですよ」
「国外に憂慮すべき点は今無い。軍事が必要と言えば専ら国内だろう。つまり、鵬岷に反発する民か」
「ええ。反発する民を力で抑え付ける法が罷り通ってしまった。これから内乱が増えるでしょうよ」
「宗温が苦労する羽目になるな」
「それでもあいつならあなたの意志を通してくれると思いますがね」
 龍晶は頷いた。宗温ならば、兵を出しながら民に対して手心を加えてくれると思う。
 だが板挟みは免れないだろう。恐らく彼の本音は蜂起する民の方に近いのではないか。
「あなたが定めた、平民からの人材登用の法も奴は覆した。尤も、葬ったのは俺自身ですが」
 息を吐き出し、瞼を伏せながら龍晶は言った。
「あの書状のせいか」
「どうして許したのです、あれを」
 唇を噛んでいる。血の味がした。
 体は震えていた。未だに、まだ、死ぬほど悔しい。
「あんなものは蹴って俺は死ぬべきだった」
 華耶に聞こえないよう低く抑えた声で言った。
「それは分かります。何故署名を許したのです」
「彼女を死なせられなかった。それだけだ。済まん」
 桧釐は黙って視線を土間へと逃した。
 不幸をすっかり取り去った女の明るい声が聞こえている。
「…責任は取りたい。お前が再び蜂起する気があるのならこの身を如何ようにも使ってくれ。もう反発はしない」
「馬鹿な…」
「ああ、馬鹿だよ。分かってるよ。だけどこのままじゃ終われないだろ」
 使えと言いながらけしかけている。以前とは逆だ。
「そうなれば鵬岷陛下はどうするのです」
 熱を取り払うように。
「また繰り返すのですか」
 龍晶は床を睨む目を見開いていた。
 兄を死に追いやったように、義理とは言え己の子を。
 蜂起すれば、必ずそうなる。民の怒りは他国の王族でありながら国を支配する王に向いているのだから。
「諦めましょう。もうあなたが国の為に壊れていく様を見たくはない」
 きっぱりと桧釐は言った。
 荒い息を吐きながら、それでも龍晶は首を横に振った。
「俺なんかどうでも良い。もう壊れ切っている。だが、戔を壊す訳には…」
「壊れるなら壊れても良いでしょう。国はいずれ立ち直る。ですがその役回りはもうあなたではない。俺でもない。未来の、別の誰かです」
 床板に、悔し涙が落ちた。
 優しく従弟の肩に手をかける。
「あなたはもう、王家の血を忘れて良いんです。一人の人間として、ここで幸せを享受して下さい。その為に俺達は奔走したんです。無駄にしたら怒りますからね?」
 それでも我儘を言う幼子のように首を振って、従兄の腕に縋った。
「戔に帰りたい…」
 それが心の底に隠す本音なのだろう。
 何もかも壊しても良いから、故国の土となりたい。
「いつか、迎えに来ますよ」
 明るい声音で桧釐は言った。
「いつかは帰れます。今は我慢の時です。いえ、そのうちここも離れ難い故郷となるのではないですか?住めば都と言いますから」
「そういう問題じゃない。分かってる癖に」
「はいはい。でもまあ、舎毘奈(シャビナ)の件もあるじゃないですか。あれくらい長生きすれば、故国に帰ってくれという人も現れますよ」
 その当人は、微かに声を出して笑った。
「居るかな。そんな奇特な奴が」
「生きてれば出会う事もあるでしょう。あと五十年生きて下さい」
「無茶言うな」
 苦笑いで返して、目元を荒く擦った。
「桧釐」
「はい?」
「…楽しかった。ありがとう」
 分かってはいたが。
 呆然と、主を見返す。
 もう覚悟を決めた目だ。
 全てを諦める覚悟を。
 五十年とは言わない。せめてあと、二十年、いや十年でも良い。
 ただただ笑っていて欲しい。傷の痛みを忘れて。
「桧釐さん、出来ましたよ」
 華耶が湯気の立ち昇る椀を二つ手にして入ってきた。
 一つは桧釐に、もう一つは夫に。
「おお、有難い。早速頂きます」
 一口飲んで、目を見開いて頷く。
「美味い。いや本当に、二日酔いが吹っ飛ぶ美味さだ」
「ふふ。それは良かったです。どうぞごゆっくり」
 華耶は笑って土間に戻っていった。飯の炊ける匂いがしてきた。
「幸せじゃあないですか。こんなに美味いものが毎日食えるなんて羨ましい」
「言っとくけどな、漸く毎日食えるようになったんだよ。ここまで苦労した。俺以外の皆が」
「なんですか、それ」
「俺は寝込んでるだけで何も出来ないんだよ。その代わりに生活資金や食糧を皆して掻き集めてきてくれる。これは辛いぞ。そうやって食わされる飯が喉も通らないとなると尚更な」
 桧釐は苦笑いで汁を飲み込んだ。
 龍晶もまた椀に口を付けた。手が震えるので、予め華耶は中身を半分も入れていない。溢れて火傷をさせたくないのだろう。
「仕送りならいくらでもしますよ。俺は北州の長ですから」
 椀の中を空にして桧釐は申し出た。
「頼んで良いか」
 意外に素直に受け入れられた。それだけ困窮には参っていたのだろう。
「勿論。金で済む問題なんて寧ろ幸せじゃないですか。そうじゃない方が今まで多過ぎた」
「確かにな」
 苦笑いで頷く。命懸けの問題の方が普通になってしまっていた。
「学舎はどうなってる?」
 金の問題で思い出した。これも資金難で課題は多かったが、これだけはと思いながら推し進めた事業だ。
「碑未の野郎は国家で成す事業ではないと切り捨てやがりました。だから俺が拾いました。北州と都だけですけどね、俺の金で何とか回してます。子供も増えましたよ」
「苦労をかけるな」
「いえ。ああ、金山で一発当てましてね。あなたが自由に掘れと言ったからですよ。ですから今は実入りが多いんです。国に渡す分をちょろまかしてます。いい気味でしょ?」
「やってる事が親父と一緒だよ、お前。別に良いけどさ」
「分かっててやってるんですよ。コツは知ってますからね」
「ったく、敵わんな」
 笑っていると春音が起きてきた。自分の指定席とばかりに父の懐に早速収まる。
「とーと、ごはん」
 せがまれて、龍晶は妻を呼んだ。
「春音が飯を食わせろってよ」
「そんな言い方しないでよぉ。変に言葉を覚えちゃうでしょ」
 笑いながら苦言を呈される。肩を竦めて従兄に問う。
「お前もこうやって怒られる?」
「しょっちゅうですよ。て言うか、華耶様のは怒ってるうちに入りませんからね?うちのはほんと、怖いですよ」
「だろうな。くわばらくわばら。早く帰ってくれ」
「酷いなあ」
 華耶が春音の柔らかな飯を持って来た。食べさせようと持った匙を龍晶が受け取った。
「忙しいだろ?やっとくよ」
「ほんと?大丈夫?」
「うん。今ちょっとマシだから」
 手の震えは中身を溢す程ではない。それに少し添えて支えておくだけで、小さな手が鷲掴みにして自分で口に運んでくれる。
 夫婦は我が子の様を見て微笑み合う。華耶は安心してまた土間へ戻った。今度は客人達の朝兼昼食を準備せねばならない。
 春音は懐の中で旺盛に食べ続ける。自分と違って世話の掛からない子だなと思いながら。
 小さな口からはみ出た米粒を指先で掬って自然に自分の口へ運ぶ。それを見て思わず桧釐は笑った。
「あなたがそんなに子煩悩なんて知りませんでした」
「俺もだけどさ、そんなの」
 ちょっと視線を上げて。
「自分や朔夜や、お前の親父の失敗を見てるからな。出来る事はしておきたい」
「良い子になりますな、春音は」
「かーり、めっ」
 急に怒られて実父は目を剥いた。
 龍晶は笑いを堪えて説明してやる。
「俺とお前が喋ってるのが気に入らないんだ。焼き餅だよ」
「早過ぎません!?」
「それだけお前が嫌いなんだよ。全く良い子だよな、春音は」
 大笑いする父と一緒に幼子も笑っている。
 苦笑いで桧釐は二人を見遣る。
 少年の夢を断ち切らせたのは間違いではない筈だ。大人となった彼はその夢以上の幸せを掴んでいるのだから。

 その翌日、桧釐夫妻は帰り支度を始めた。
「またすぐ来るからね!?春音の顔も華耶ちゃんの顔も見たいもの!」
 於兎は声を張り上げながら荷物を纏めている。一月後にはまた現れそうな勢いだ。
「不便があったら何でも言ってよ!?すぐに送らせるから!ううん、すぐに届けに来るわ!」
「ありがとうございます。お気持ちだけで十分嬉しいです」
 華耶までちょっと苦笑いだ。
 春音は朔夜が抱えている。その横に龍晶が立つ。幼子を支える力がその腕に残っていないからだ。
 いくら幼なくとも見送りはさせたい。実の親なのだから。
「さくー、あれ、とって」
 小さな手が指差す方向を見上げれば、熟れた柿の実が一つ枝に付いていた。
「あれ?ちょっと待てよ」
 春音を抱き抱えたままでは難しい。手を伸ばして分かったが、そもそも身長が足りない。
「お前はどう?」
「どうかな。微妙だな」
 龍晶に振ったが、やっぱり掌一つ分上にある。
 その上から、大きな手が柿を取った。
 振り返ると、桧釐が柿を息子に差し出していた。
 小さな手がそれを受け取る。
「あんがと」
 素直に礼を言って、物珍しげに眺めている。
「お、泣かれなかった」
「最後に良かったな」
 従弟の言葉に照れ笑いを見せて、桧釐は言った。
「次に会ったらまた泣かれますよ。どうせ」
「忘れられないうちにまた来いよ」
「そんなに暇じゃないんですよ」
 二人の間に割って入って於兎が吠えた。
「暇じゃなくても来るのよ!決まってるでしょ!」
 そして問答無用で朔夜の手から息子を奪い取る。
「良い子にしてるのよ春音。華耶ちゃんを困らせちゃ駄目よ?分かった?」
 無理に頬擦りしながら於兎は言い聞かせる。幼子は大きな目をぱちくりしながら大人しくしている。
「春音、まーまーは好き?」
「しゅき」
「なら良し。じゃあね」
 朔夜の手に息子を戻して、潔く馬車へ乗り込んだ。
「じゃあ」
「ああ。…桧釐、皆によろしく」
「ええ。龍晶様が元気だと伝えれば、歓喜する奴が片手じゃ余る程居ますからね」
「片手だけかよ」
 笑って従兄は背中を向けたまま手を振って馬車に乗り込んだ。
 あれに乗ったら帰れるのかと頭の何処かで考えたが、すぐに掻き消した。
 いつかは帰れる。その言葉を信じよう。
「じゃあねぇ!皆元気で!」
「お二人も気をつけて」
 手を振り合って別れる。
 馬車は坂道を降りてゆき、やがて遠く消えた。
「とーと、まーまーは?」
 朔夜の懐から手を伸ばして、龍晶の袖を掴む小さな手。
 それを逆の手で包んで、父は教えた。
「ちょっとの間お別れだ。またすぐ来るよ」
 うん、と可愛らしく頷く。
「えっ、ちょっと待って。もう行った!?」
 縁側から波瑠沙が焦って出て来た。
「ああ。どした?」
 朔夜が問うと。
「花音忘れてるぞ、あいつら!」
「えっ、え、ええーっ!?」
 絶叫が秋空にこだました。


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