月の蘇る 8 燈陰と皓照に挟まれて、影は緑の芝生の上に黒々と蟠っていた。 朔夜は燕雷に肩を支えられて外光の下へ出る。 近寄れば近寄るほど、座らされている影は小さく、しかし不気味に見えた。 「…影」 あと数歩のところまで近寄って、小さく呟く。 下を向いていた黒い仮面がゆっくりと起き上がり、小さな二つの穴が朔夜を捉えた。 「無事目覚めたな、月。何よりだ」 影の言葉には応えず、朔夜は何よりも重要な事を訊いた。 「華耶は無事なのか?」 影は間を空け、勿体振って言った。 「何を持って無事と言うかによるな」 詰め寄ろうとしたが、腕を燕雷に握られた。 怒りを露に振り向くも、彼は冷静に言った。 「やめておけ。お前が傷付くだけだ」 じっと、見返して。 「…生きては…いるんだな…?」 視線を燕雷から外さないまま、影に問うた。 「まだ、な。だが時間の問題だ」 弾かれた様に影に視線を戻す。 「俺がこうなった事が知れれば、あの方がどういう裁定を下すか…分かるだろう?」 「桓梠は俺を押さえる為に華耶を人質に取ってるんだ…。お前が捕まっても関係は無い筈だ」 「それはどうだろうな月。現にあの方はお前など恐れてはいない」 朔夜は眉間に皺を寄せて黙り込んだ。 影が捕まった事は、朔夜が桓梠の命令に背いた事を意味する。その報せが繍に届けば、華耶の命が危ないのは確かだ。 「安心して下さい。その前にこちらから手を打ちます。そんな事より、私は貴方の顔が見たいのですが?」 「そうだ。何の為にわざわざここに連れて来たと思っている?」 皓照と燈陰が口々に言って、朔夜もまた本来の目的を思い出した。 影は仮面に手をかけながら、尚も言った。 「本当に良いんだな?」 無気味な程に朔夜を見据えての問い。 彼が否も応も言えないうちに、皓照が刀を抜いた。 「無意味な焦らしは命取りですよ」 影は鼻で笑って、無言のまま、仮面を取った―― 「――!」 額から、真っ直ぐ縦に顔を裂く、傷痕。 それにより醜く歪められた目鼻は、元の顔立ちを全く窺わせない。 特に鼻はもう無いに等しかった。穴だけが空いている。 皆がその壮絶な傷痕に息を飲む中、朔夜は。 立っていられない程の悪寒と吐き気に襲われ、その場に倒れ込んだ。 「おい…!大丈夫か!?」 燕雷が覗き込んだ顔は酷く青白い。 「だから言っただろう?」 嘲笑う影の声。 ――この声。 あの、傷。 知っている。俺は。知っている―― 「もう良いよな皓照!?おい、立てるか朔…?」 燕雷に支えられて、何とかあの男の前から去った。 城の中。大きな扉がしまる。 壁に凭れかかって座る。詰まった呼吸を必死で繰り返す。 瞼の裏に、失われた記憶の残像が押し寄せ、稲光の点滅でも見る様に眼前の景色は白んだ。 闇の中で戦う人々。その黒々とした影。閃く刃。 火。燃え盛る家々。月夜を更に黒く染める煙。 舞い降りてきた、一ひらの桜の花弁。 朔夜が息を呑んで現実に戻ってきたのと、横の大きな扉が閉まったのは、同時だった。 入ってきた燈陰と目が合う。 「…おい…」 燕雷は気まずく彼を押し留め、遠ざけようとしたが、燈陰は動かなかった。 「…何だよ」 仕方なく朔夜は苦しい声を振り絞った。 父親の目は、真っ直ぐ彼の目を捉えている。 「悪かった」 出てきたのは、意外にも謝辞だった。 「こんな事になるとは思わず、奴の正体を暴く事を急いだ俺が悪かった。許してくれ」 朔夜は唇を引き結んで父親を睨み上げている。 隣で燕雷が口を挟んだ。 「でもよ、誰も…お前もこうなるとは思ってなかったろ?どうしたんだよ?確かに見て気持ちの良い面じゃなかったけどさ」 朔夜はじっと同じ一点を睨み据えて黙っていたが、やっと覚悟を決めて口を開いた。 「あれは、俺の仕業だ」 「…え…!?」 燕雷は素直に驚いた顔をしたが、燈陰の顔色は変わらなかった。 「燈陰、あんたのせいだ。あれは…あの男は、梁巴で…」 せり上がる吐き気に邪魔されて、それ以上は言えなかった。 「梁巴でお前に斬られた男か」 燈陰が冷たい声音で言葉を引き継いだ。 朔夜は荒い呼吸をしながら頷き、言った。 「全部あんたのせいだ。あんたが逃げたから…」 「俺が逃げたから梁巴は消えた、か」 「何他人事みたいな言い方してんだよ…!?」 瞳に怒りの色を燃やして、再び顔を起こした。 「あんたが居れば、梁巴も俺もこうはならなかった!!あんたが俺を殺してでも止めていてくれたら、梁巴が壊れる事も無かったし、俺は母さんと一緒に死ねたんだ…!!」 咳込む。苦しさに紛れ、涙が出てきた。 燕雷が背中をさすってくれた。 「お節介だろうが…一度ゆっくり話す時じゃないか?」 呆然と立ち尽くす燈陰に燕雷は言った。 何も返せないでいると、燕雷はぐったりと凭れる朔夜を抱き上げ、燈陰に差し出した。 「もう、逃げるなよ」 燈陰は燕雷の真意を窺う様に見、その視線を息子に向ける。 かろうじて意識は保っているが、もう抵抗する気力は無くした様だった。 渡されるまま、腕の中に収める。 小柄な体格は幼い頃のままで、年月の隔たりを感じさせなかった。 燕雷は燈陰がしっかり子供を抱いた事を確認すると、元居た部屋に向け歩き出す。燈陰もそれに従った。 顔を乗せた肩の辺りに、温かな雫が染みた。 「…朔」 反応は無い。 「泣いてるのか」 相変わらず何も返っては来ないが、衣服を濡らす温かさは、少しずつ、広がっていった。 部屋に入り、寝台に下ろすと、間髪入れず頭から布団を被った。泣き顔を見せる訳にはいかなかったのだろう。 「あとは、頼む」 燕雷にそう告げて踵を返そうとしたが、制止の声がかかった。 「まぁ待てって。別に急ぎの用も無いだろ?」 「だが…」 「ここで一人坊っちゃんの番をするのも暇だからさ。たまには付き合えや」 躊躇って扉の前に立ち尽くす。と、燕雷の方が先に動いた。 「酒でも持って来るよ。素面じゃ居られないだろ」 「朔は」 「このまま眠るさ。心配するなって」 燕雷は燈陰の肩を軽く叩いて出ていった。 二人きりになった室内。 何年ぶりだろう。昔ならこんな状況はよくある事だった。 妻に頼まれて寝かしつける事も度々で、調度今のように遠巻きに見ているだけの子守りだった。 子供への愛情など無かった。分からなかった。そんなものが当たり前にあると思われているから、周囲の目を誤魔化しながら距離を取ってきた。 今も、それは同じだろう。 愛情が生まれたとは思わない。 しかし、守らねばならないとは思う様になった。 ただの理屈として、彼女が守りたかったものを、自分が、代わりに。 恐らく彼女は、我が子の事だけが未練として死んでいっただろうから。だから、これは他の誰でもなく、彼女の為の手向けだ。 彼女の子を、守る。 父親としてではなく、彼女を愛する夫として。 いつかそれで、この子に殺される事があるとすれば、 それが、定めなのだろう。 「待たせたな」 両手に酒瓶を二三本ずつ持って、燕雷が戻ってきた。 「何だよ、ずっと立ってたのか?まるでいつでも避難できる態勢、って感じだな」 「別にそんなこと…」 「まぁ座れよ。椅子、適当に使え」 否応なしに円卓を囲む木の椅子を引き寄せる。 「ほら」 卓越しに瓶を一本渡される。 栓を抜き、とろりとした酒の香を空気中に放つ。 「舌が回る程度には飲めよ」 燕雷が言う意味を問うべく、訝しい目で見返すと。 当然の様に彼は言った。 「言わなきゃならない事がいろいろあるだろ?今日こそはさ」 「…酔った口で言っても信じないだろうがな」 「じゃ、それは俺が貰おうか?」 「馬鹿言え。お前一人で飲ませるか」 燕雷は笑って、瓶ごと煽った。 燈陰も喉を湿らす。 「寝たかな」 動かなくなった布団の盛り上がりを窺って、燕雷が言った。 警戒する人物が横に居ながら寝れるほど、彼は無防備ではないだろう。だから寝たと言うより意識が落ちたのだろうと、燈陰は思った。 それほどに、あの時の記憶を甦らせるのは、消耗する事なのだ。 「…別に、苦しさや屈辱で泣いてた訳じゃないと思うぜ?」 静かに、燕雷が言った。 「あれはさ、純粋に…嬉しかったんだよ。こいつは今でもお前の事、親父だと思いたいんだ」 「…そうかな」 心身の苦痛や、憎い父親に子供扱いされる屈辱、また長い間封じ込めていた心情を叫び、思い余った為の涙、それだけではないのだろうか。 燈陰には『嬉しかった』のだろうとは、到底思えない。 しかし、燕雷は確信的に頷いた。 「そうなんだよ。朔だって無意識だろうけどさ。でもこれで気付いたんじゃないか?自分でもお前と、本当は歩み寄りたいって思ってるって」 燈陰は何も言わず、瓶に口を付けた。 脳裏に浮かぶ、昔の光景。 躊躇無く伸ばされる小さな手。 見て見ぬ振りをしていた。 そうやって、何から逃げていたのだろう。 本当にこの小さな命を、化物として恐れていた訳ではない。気味が悪いのは確かだったが。 「せっかく命拾いしたのに、また逃げるのか?」 燕雷の言葉が少し責めだした。 「いざとなったらやっぱり"お前は俺の子供なんかじゃない"って言うのかよ?あの洞窟で言った事、忘れたのか?」 燈陰は落ち着き払って酒の瓶を置き、静かな口調で言った。 「何とでも言えば良い。今更俺は良い父親になれるとは思っちゃいない。ただ、朔の命だけは守りたい。そう思うだけだ」 「命だけ…かよ」 「それ以上は無理だ。俺なんかには。…お前には随分虫の良い話に聞こえるんだろうがな」 今度は燕雷が一瞬言葉に詰まった。 責めたいのは、子供の命さえ救えなかった、自分なのだ。 「…俺達を見ていて苛立つなら、俺が消えるよ」 燈陰が机に目を落として、ぽつりと言った。 途切れた会話。それで耳に届いた、魘される声。 布団の下からくぐもった、言葉にならない小さな叫び。 有り余る程の痛みを、誰にも伝えられないでいる。 「…いつもこうだよ」 燕雷は言った。 「お前が見てない間、あいつは悪夢の中にずっと生きてんだ。…今も」 「俺が居ても同じだったろうよ。全て、あの力が引き起こした事だ。俺はただの人間だ、止める術は無かった」 「そんな事は朔も解ってるよ」 強く言い切った燕雷に、燈陰は眉を上げた。 「解ってても"止めて欲しかった"って言ってんだ。あいつはあの時、お前に見捨てられたと思ってんだよ。誰よりも頼りにしていた、お前に」 「…見捨てたのは事実だ。何も弁解出来ないし、するつもりもない」 「そうじゃないだろ!?」 怒鳴って、肩を掴んで。 「聞こえないのか、あの声が。お前には届かないのか…?」 誰かに救ってほしくて。 でも誰も居なくて。 自分からは近寄れない。また誰かを傷付けるから。 それでも待っている。"誰か"を。 ずっとずっと待ち続けている、その一人を。 「…あの声を聞き届けるのは、燈陰、お前しか居ないんだ」 眩しそうに見上げてくる幼い顔。 あんなに近くに居ながら、お互いにずっと、遠かった。 親が逃げている事を解っていて、この子は、敢えて追おうとはしなかった。 優しさから、それが出来なかったのだ。 そうやって、子供に甘えていた。 「じゃあ…俺は何をすれば良い?今更、何を」 許されはしないと解っていながら。 「判ってるだろ、自分で」 燕雷はそう言って手を離した。 「良い大人の世話まで見てやれねぇよ」 笑って、酒に手を伸ばす。 「ま、俺からしたらお前も子供同然の歳だけどさ」 「それを言ったらお前には誰も彼も子供になる」 「そうだな。いや、同世代の爺さん達は別だぞ」 燈陰もまた苦笑して瓶を手にした。 「そうか、爺さんか…。だからそんなに口喧しいんだな」 「いま人を爺ぃ扱いしたか?」 「そうさせてんのは誰だ」 互いに目を合わせ、鼻で笑った。 「歳を取ってる実感は無いんだ、実際」 ひとしきり笑って燕雷が言った。 「時間ばかりが過ぎている。肉体が老化すればまだ実感も湧くのかも知れんが」 「それはこっちが遠慮したいところだな。よぼよぼの爺をいつもいつも見ていたくはない」 「そりゃそうだ」 正真正銘の苦笑いを見せて燕雷は頷いた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |