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月の蘇る
  10
 戔を発つ前に、龍晶の立て直した街に寄った。
 救民街。白い住居が並ぶ様は前に見た通りだが、更に街の中央に水路が出来ていた。
 沼地だった入り口は滔々と水を湛えた池になっており、その街を更に美しく見せている。
 貧民街と言われた面影はすっかり消えた。
 この街の抱える悲劇と共に。
 それでも、遺体を焼く煙を二人で見上げていたあの日を忘れる事は無いと思う。
 あの絶望を共有してから、何もかもが二人のものになった。
 生かしたい。
 己の片割れを。
「綺麗な街だな。ここに居るのは誰だ?」
 隣で馬を操る波瑠沙の言葉で、やっと朔夜は目的を口にした。
「あいつの弟」
「弟?」
「血は繋がってないけど。小さい頃から一緒に育ってきたんだって」
「ふーん。王子様の兄弟みたいな?」
 鵬岷と春音の事だ。偶然にも、血の繋がらない兄弟関係が二代続いている事に朔夜も初めて気付いた。
 ただ龍晶の場合は、半分の繋がりがある兄の存在が余りに大き過ぎた。
 その呪縛か、もしくは喪失感から、果たしてあいつは立ち直れていただろうかと思い返す。
 戴冠からこっち、無理をして記憶を封じていたような節もあって。
 忘れると決めたと言っていたが、それは不可能だろう。
 そんな事を考えてしまうのは、同じような存在を自分も亡くしたからかも知れない。
 憎んでいたのか、愛していたのか、どちらとも言い切れない、ただただ大きな存在。
「ああ、ここだ」
 朔夜は見覚えのある建物の前に馬を止めた。
 診療所。今や街で一番大きな建物になっている。
 扉を潜ってすぐ出会った女性に、祥朗(ショウロウ)に会いに来た旨を伝えると、彼女は奥に向かって小走りになりながら「あなた、お客さまよ」と伝えた。
 あれ?と思う間もなく。
「おや、朔夜君ではないですか」
「あっ、先生!」
 老先生は微笑んで手招いた。
 応接室に通され、波瑠沙と共に長椅子に座る。
 同時に祥朗が部屋にやって来た。すっかり医者の格好で、白衣がよく似合う。
 彼を呼びに行った女性も共にそこへ座った。
 彼女は声の出ない祥朗に代わって説明した。
「この人の妻となりました、夲椀(ホンワン)と申します。元々は後宮で働いていましたが、夫婦となってこの人を手伝う為にこちらへお世話になっています」
 二人揃って頭を下げ、微笑む。
 こうなると同じ事をせねばならない。
 朔夜は考え考え、夲椀に分かって貰えるように言葉を選んだ。
「俺は朔夜で、彼女は波瑠沙。龍晶とは友達で、祥朗にも色々と世話になった。今まで哥に行ってて、そこで知り合った彼女を紹介しようと思って戔に帰ったんだけど、…こんな事になってて」
 祥朗と老先生に視線を置いて、朔夜は言った。
「今からあいつの所に行こうと思う。苴へ」
 祥朗は縋るような目で身を乗り出した。伸ばされた手を取ると、深々と頭を下げて。
 必ず助ける、とは。
 言えなかった。以前のようには。
 あの時だって言った事を後悔した。出来ない事を口走って。でも成す術は無くて。
 結果的に毒を消す事が出来たから良かったものの。
 幸運は二度続かないんじゃないかと、そう思った。
「どうしてこんな事になったのか…。お止めする機会があれば良かったものの…それも言い訳ですがね」
 老先生は深い溜息と共に言った。
「あいつ、何も言って無かった?」
「私は言葉を交わす機会に恵まれませんでした。最後は川に入水された時に診察したくらいで、その時は陛下はずっとお眠りになっていたので。祥朗はずっと付き添っていたと思うのですが」
 名前を出された彼は小さくかぶりを振った。
 そして妻に言いたい事を伝え、夲椀がそれを声に出した。
「入水事件の前、陛下はずっと死を望んでおられたようです。養子の件で疲れ果て、孤独になって、絶望しておられて。だからこの決断をする事に迷いが無かったのだと思います」
「…馬鹿…」
 そう言うしか無かった。
 震えていた。悔しさと悲しみで。
 鵬岷の件の裏側に、矢張りあいつは気付いていた。だが、どうしようも無かったのだろう。
 灌からの申し出は断れない。病は悪化し、戦は迫っている。己の死期に不安を覚えるなら春音には王位を譲れない。だが、桧釐夫婦や華耶は春音が跡を継ぐと信じている。
 だから誰にも相談出来ず、板挟みになって。
 そこに自分が居てやれたら、何の事は無い問題だっただろうに。
 お前が生きてりゃ良いんだって、そう言ってやれていたら。
「祥朗…済まなかった。肝心な時に俺は役に立たない」
 彼は首を振って、懐から紙包みを出した。
「薬?」
 頷く。
「分かった。必ず届けるよ」
 お願いします、と声無き声で。
「朔夜君、この国の民は敗戦と政情不安で荒れています。道中、くれぐれも気をつけて」
 老先生の言葉に頷くが、その中身に唇を噛んだ。
「せっかく、あいつが建て直したのにな…」
 龍晶が直していたのは、荒みきった人々の心だ。
「一時的な事だと信じましょう」
 力強い先生の言葉に頷いて。
「行ってくる」
 自分も強く言って、街を後にした。

 道は山野を抜ける最短距離を取った。
 孟逸らの細作が使う道を教えて貰った。人目に付かず、早く辿り着ける。
 苴の都に至った後は孟逸の友である範厳を頼る事で話が通してある。無論、先方の返事を待つ余裕は無かったが、断られはしないと孟逸は言っていた。
「考えても仕方ない後悔は必要無いからな」
 波瑠沙に言われて顔を上げる。
 いつの間にか、知らない山道は影が濃くなってきている。
 どれだけ黙り込んだまま馬を駆っていたか。彼女に済まなく思って朔夜は言った。
「波瑠沙の好きな場所で夜営しよう」
 うん、と彼女は頷いて、くんくんと鼻を動かしながら首を巡らす。
「向こうに水辺があるな」
「野生動物並み…」
 唖然として呟くと、拳が飛んできた。
 獣道を抜けると清水が湧く小川を見つけた。
 更に水の行方を辿ると、湧水の溜まった手頃な池を見つけた。
「ここ。最高だろ?」
 早速馬を降りて繋ぎ、準備に取り掛かる。
 残照は山影に消えようとしていた。
 火を焚くと、辺りは既に闇に包まれていた事に気付く。
 波瑠沙は馬に括り付けていた荷物を取り外し、中から食料を取り出して朔夜に渡した。
 火を前に、二人並んで食べる。
「…死にたい気持ちは分かるんだ。分かり過ぎて…だから、迷う」
 朔夜は道中感じていた事をぽつりと言葉にした。
「死なせてやった方が優しさだって?そんな事あるかよ」
「うん…無いよな。ある訳ない。あいつを待つ皆の事を考えたら…」
 そんなに当たり前の事をここまで思い悩む必要は無い。
 波瑠沙は問うた。
「そんなに重い病なのか、戔王は」
「不治の病だって」
 これだけでは説明が足りない。何も言っていないのと同じだ。
 己の罪に向き合わねば。
「俺がこの手でそうしてしまった。体を切り刻んで、表面だけ治して…。だから、その時の傷はあいつの内側でずっと臓腑を蝕んでいる。耐えられない程痛いんだと思う。俺がそうしてしまったんだけど…記憶が無い」
「…悪魔になった時の所業って事か」
 朔夜は頷いた。そのまま顔を両手で覆った。
「それだけでも万死に値するのに、あいつはずっとそれを隠してくれて。死にかけて錯乱状態になった時にやっと口走った言葉で知ったんだ。だけど、まだあいつは庇ってくれる。お前のした事じゃないって」
「優しい友だな」
「…知ってて。俺の傍(そば)に居たら、そういう目に遭うかも知れない事」
「ああ。分かった」
 躊躇なく波瑠沙は応えた。
 意外そうに上げられた視線に、にっと笑って見せて。
「私が強いから惚れたんだろ?お前は」
 何度か瞬きして、ちょっと笑って。
「うん。そうだ」
「じゃあ大人しく斬られてやらねえよ」
「そうだな。…良かった」
 肩を寄せ合って、焚火だけではない温もりを感じながら。
 自分の死を願う気持ちは今は何処かに行っている。完全に波瑠沙のお陰だ。
 それで良かった。そうじゃないと、友を引っ張り上げられない。
 お互いにそうやって、手を引き合いながら走って来た五年。
 一度取り零してしまった手を、もう一度伸ばさないと。
 あいつはきっとこの手を取り直してくれる。
 そう信じている。

 久しぶりに座敷牢を訪れた。
 どうにも断れない任務で都を離れていた。部下に薬だけは毎日届けるように命じていたが、飲んでいる形跡が無いと言う。
 直接行って飲ませてやろうと思い、器を手に鉄格子の前へ立った。
 戸を潜って近付いて、異変に気付いた。
 口に猿轡が噛ませてある。
「なんだよこれは…!」
 跪いて毛布を捲ると、明らかに他人の手で無造作に着せたような衣は肩を覆っておらず、その先の腕は後ろ手に縛られていた。
 目は閉じられている。まさか眠っている訳ではないだろう。
 急いで口に含ませてある布を取り払う。血が滲んでいる。
「おい…しっかりしろ」
 息はある。揺さぶると僅かに瞼が開いた。
 虚ろな目は、何かを見る意思を感じさせない。
 腕を縛っていた縄も取り払い、仰向けに寝かせてもう一度呼び掛けた。
「おい。俺だ。薬を持って来た。飲むだろ?」
 目が動いた。
 頷いて、上体を起こし、器を見せてやる。
 ぼうっとその器を見た後。
 ちがう、と口が動いた。
「本物だぞ?戔から送られてきた薬だ」
「違う!」
 急に喚いて、突き飛ばされた。器は転がり、中身は床にぶち撒けられた。
「その薬じゃない!あれが欲しい!無いなら殺せ!殺せ!殺せよ!」
 殺せと叫び続けながら、酔ったような足取りでふらふらと移動して。
 鉄格子にぶつかって、それを掴みながら、ずるりと体を落とす。
 もう何も叫べず、全身で息をしていた。
「なんなんだ…一体」
 常軌を逸している。
 以前は少しの希望を持っていたのに。
 これは絶望故か――否。
「何が欲しいって…?」
 肩越しに振り返った口元が、歪んだ。
「薬。快楽の薬。知らないのか?」
 床を這って戻ってきて、胸倉に手を伸ばす。
「嘘だろ。早く寄越せよ。なんでもしてやるから」
 胸元の顔は青白く、見返されているようで、違う方向を見ている。
 ――壊れている。
 胸元を掴んでいた手が離れて、体は床に転がった。
 手足が痙攣した。それが収まると、ぐったりと動かなくなって。
「お前…麻薬を吸わされたのか…?一体誰に」
 口だけが笑って、答えた。
「みんなやらせるだろ?」
「…は…?」
「お前もそうだろ?俺を壊して弄びたいんだ。こういう体で、女みたいに鳴くから愉しいんだって。試してみれば?その代わり薬をくれ」
 範厳は鉄格子の外に立つ番兵へ怒鳴った。
「どういう事だ!?誰がこいつを!?」
 事務的に兵は答えた。
「王子からのお召しです。主には第三王子、泰袁様からのものです」
 続く言葉を失った。
 王家が関わっているのなら、一武官たる自分に口出しは出来ない。
 足元から、笑い声が聞こえた。
 この世の全てを、何よりも自分自身を、嘲笑う笑い。
 笑いながら、そして泣きながら、叫ぶ。
「早く殺さねえからだろ!さっさと取れよ、こんな、ぶっ壊れた頭なんて!落とせば何もかも終わりなのに!殺せよ!早く!殺してくれ…」
 叫びの反響が消えると、嗚咽だけが残った。
 壊れ切れない感情で、泣いている。
 範厳はもう一度傍らに跪き、懐から紙片を出した。
「お前に手紙が来ている」
 伏せている頭の横に開いて見せて。
「朔夜って、お前の友人なんだろ?ほら」
 初めて、意志を持った目が向けられた。
 紙いっぱいの汚い字。付け足されたように小さく書かれた名前。
 そう言えば、あいつの字なんて見た事無かった。
 でも、だからこそ分かる。
 これは本物だ。あいつ自身だ。
 大らかに何もかも包んでくれる、あいつの笑顔そのもの。
「…待てば会えるのか?」
 問うと、範厳は大きく頷いた。
「こっちに来るそうだ。いずれ会える」
「無理だよ」
 範厳の目が見開いた。
「何故だ?お前の処刑はまだ決まってない。先延ばしになっている。待っていれば会えるぞ」
「なんで延ばす…」
「それは上の都合だ。俺には分からない。でも好都合じゃないか」
 首を横に振る。目には絶望の色があった。
「何故だ…?」
「会える訳ねえだろ。…あいつとの約束を破った、こんなぶっ壊れた姿で」
 範厳の手から紙片を奪い取り、握り締めて、胸に抱いて。
「もう無理だよ。手遅れだ。早く処刑を決めてくれ」
 会いたい。
 苦しいほどに会いたいと、願っているのに。
 そのまま意識を失って、夜中にまた薬を吸わされた。
 朦朧としながら生きる為の糧を体に入れる。それで生きてしまっている。体と心が反対方向を向いたまま。
 この体は、知らない誰かのもの。
 心も何処かに飛ばして一夜を過ごす。もう正気に戻らねば良いと願いながら。
 会いたいという感情も、邪魔でしかない。


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