月の蘇る
6
かつてこの街で、初めての戦を前に気鬱になる龍晶を誘って散歩に出た。
同じ道を波瑠沙と辿る。
あの時は長雨の後の青空。今日は抜けるような青い夏空を仰ぎながら。
あの時と変わらない鶴嘴(つるはし)の音。でも心なしか以前より楽しげに聞こえた。
きつい金山の仕事を、事故の恐怖に怯えつつ王の提示した採掘量に圧迫されながら採掘していた音とは違う筈だ。
龍晶は以前、言っていた。母はこの音を楽しそうに聴いていた、と。
きっとこれは、その時と同じ音。
耳を澄ませば、歌声も聴こえてきそうだ。
あいつが変えた事の一つ。
でも、どうしても考えてしまう。
この金山が狙われる事で、あいつを追い詰めた。
悪いのは人々の欲望だ。分かってはいるが。
無ければ良かったのに。
この恵み自体が。
「何の音?」
波瑠沙に問われて、久しぶりに口を開いた。
「金を掘る音」
「ああ、これが…」
彼女も表情に複雑さを過ぎらせた。
瀉冨摩はこの金山を盗ろうと兵を挙げた。その結果、企み自体は失敗に終わったものの、香奈多は帰らぬ人となった。
いくつもの運命を狂わせる、欲望の対象。
「悪い事ばかりじゃない筈なんだけどさ。龍晶はここの人達に直接、金を掘るように頼んでたから。その為の協力は惜しまないって言って」
「そりゃそうだろ。この山があるから戔は国として保ってるんだから。他に産物が無いんだろ?」
「そういう事も知ってるの?」
「陛下…明紫安様と香奈多さんが相談してるのを聞いたんだよ。戔に産物を作る為の、戔王への贈り物を考えてたんだ。私も色々見せて貰った。絹を作る蚕に決まったんだろ?」
「ああ、あの時の」
戴冠式の後で香奈多が持ってきた数々の贈り物。
「あれからどうなったんだ?」
「それは俺も知らない。多分、龍晶は大事に育てさせてるんじゃないかな。あ、一緒に貰った高黍(こうきび)は子供達に植えさせてたよ。沢山増やして土地の貧しい所に配るんだって」
「ふーん。良い王様っぷりじゃねえか。貧しい者へ目を向けている」
「そうだよ。いっつもそうだった。貧しさのあまり自分を襲ってきた連中にだって、あいつはちゃんと事情を聞いて、救ってやる手立てを考えるんだ。そういう奴だから…。危なっかしくて放っておけないけど」
「身を守る方としてはな。それは凄く分かる」
「哥の王様はそんな無茶はしないと思うけど」
「だけど肝心な時に振られたからさ」
「確かに。同類だ」
「だから仲が良いんだよ、あの二人」
知ったように言っているが片方は知らない。
だけどもう他人である気がしない。
「良い奴だよな?…死ぬ必要無いよな?」
自分の影を見ながら朔夜は問うた。
「当たり前だろ。別に王だからどうこうって事は無い。お前の友人だから私も救いたいと思う。それだけだ」
「…ありがと」
角を曲がって、坂道を登って。
これで、三度目。
「ここは?」
そこまで来て波瑠沙はここが目的地だと察した。
墓地。
「祈るしかないなら、一番聞いてくれそうな人に祈ろうと思って」
朔夜はそう答えた。
「俺には神様は居ないから。あいつにはどうだか知らないけど」
白い墓石の間を縫って奥地へと進む。
その、一段高い場所に。
「女神?」
「ううん。あいつの母さん」
一見、神像としか見えないが。
よく見ると人間らしい、慈愛に満ちた笑みを浮かべている。
「…美しいな」
「そっくりなんだ。あいつに」
建立して一年は経つだろうに、汚れ一つ無い真っ白なままだった。きっと大事にされているのだろう。
「きっとご本人にも似てるんだろう。俺は骨にしか会えなかったけど」
訝しげに見返す視線を受けて、朔夜は諦観を笑みにした。
「…あいつが母さんに会いたいって言うなら止められない。俺にはその気持ちがよく分かる」
「そういうものか」
「波瑠沙は思わない?」
「顔も知らないからなぁ。でも、香奈多さんの事があるから分からないではない」
「そっか。そうだよな」
寂しげに笑って。
「でも駄目なんだ。…頼むよ。まだ龍晶を連れて行かないで」
朔夜は女神となった彼の母親へ言った。
「気持ちは分かるけど…俺はまだ何処かで許せないんだ。俺は母さんに絶対会えないから。あいつだけ狡いって思ってしまう」
「同じ所に居るのな、お前達は」
「ああ。そうなんだ。だから置いて行かれたくない」
「…そうか」
波瑠沙は跪いて祈りを捧げた。
朔夜の方がその行動に目を丸くしている。自分がそうするつもりで来たのに。
そして気付いた。自分は祈り方を知らないのだと。
「御子息を無事に帰してくれるようお願いした。お前の泣き顔を見たくないから」
波瑠沙はそう説明して立ち上がった。
「きっと聞き届けてくれるだろう。母親なら、こんな形での再会は望まないだろうから」
「…うん」
もう泣きそうな顔を、乱暴に撫でて上げさせて。
「お前も言っとけ。まだ友は俺のもんだって」
「そんな言い方で良いの?」
「叫んどけ。その方がよく聞こえるだろ」
言いながら指を上に向ける。
真っ白な像と、青い空。
朔夜は息を吸った。
「龍晶とまだまだ一緒に居たい!まだ話し足りないし、喧嘩もしなきゃならないし、一緒に海に行きたい!」
波瑠沙を振り返って。
「良いよな?龍晶も華耶も一緒に、四人で行こう?」
彼女は愉快そうに笑った。
「望む所だ。国王にそんな時間があるかは謎だが」
「そっか。じゃああいつが隠居するまでに二人で下見に行って、暇になったら四人で行こう」
「そうするか」
「そうしよう」
青空と同じように、抜けるような笑顔で頷く。
この笑顔を曇らせたら承知しないぞ、と。
波瑠沙は内心で念を押した。
漸く、義父への目通りが叶った。
燕雷と二人、指定された部屋で待っていると、灌王は供も連れずに現れた。
突然の事に慌てて跪く。灌王は笑って首を振った。
「婿殿と同じようにやろうと思うてな。良い良い。儀礼は良いから座ってくれ」
円卓の椅子に座る。
「面会がここまで遅くなった事、済まぬと思うておる。おぬしの要求は分かっておったからな、生半可な返事は出来ぬだろうと調整しておった。だがしかし、自国の事では無いのでな。思うように事は運ばぬが許せよ」
「…矢張り無理でしょうか」
気落ちを見せながら華耶は声を振り絞った。
「難しいな。苴は要求を飲んで撤兵したのであろう?その上に身柄を返すよう要求したのでは、何の為の取引か分からぬではないか」
「そう…ですけど」
「代わりに領地を分けてやると言うのなら苴は喜んで飲むだろう。そうだな、征服する筈だった南部地域、戔の半分を差し出すか」
「いや、いくら何でも、それは」
苦笑いして燕雷が否む。
南部地域を差し出せば、苴国内で穀物を取れる場所が激減する。北部は鉱物を取れる岩場はあるが、他は殆ど乾いていて食糧が出来ない。
他国を頼らねば食えない国というのは今も同じだが、それがますます深刻化する。
「ならば金山を差し出すか?それが苴の一番欲しいものであろうが」
「それは…彼の意に沿うかどうか」
華耶は俯きながら言った。
「そうであろう?他に差し出せる物が無いから婿殿は己を差し出したのではないのか」
「ええ。その通りです」
俯く顔からぽたぽたと涙が落ちる。
「おお、泣くな泣くな。泣きつかれても儂は何も出来ぬ」
「ごめんなさい、そんなつもりではないんです。勝手に…」
涙を拭う華耶の横で、燕雷は口を出した。
「王様、あんたの娘は辛いんだよ。辛くて辛くて、何かせずには居れないからここまで来たんだ。人の情があるなら苴に向けて書状の一つでも送ってくれ。その効果なんかより、あんたの行動一つが重要なんだ」
他国の臣となっても、灌の国産みに加担した燕雷の言葉は変わらない。
「燕雷殿がそこまで言われるのなら、無駄と知りつつ書状でも書くかな」
苦笑いしながら灌王は応じた。
「あんた、龍晶の事どう思ってんだよ?」
双眸も鋭く燕雷は問う。
何食わぬ顔で相手は答えた。
「可愛い婿殿だ」
「本当に?」
「疑うのか」
「鵬岷を戔に捻じ込む為に利用しただけなんじゃないのか?」
「心外だな」
言う顔は穏やかに笑っている。意外だという表情ではない。
「燕雷殿、あまり言われると儂も臍を曲げるぞ?書状を書く手が止まる」
これ以上追及するなと言う。つまり、そういう事なのだ。
「燿蘭も臍を曲げておったぞ。せっかく母娘で対面したのに、お前では話にならぬと言われて席を立たれた、と」
「申し訳ございません。しかしそのような事を言ってはいません」
華耶は健気に頭を下げるが、燕雷は大きな溜息と共に吐き捨てた。
「あんたが正室の事をよく見てないからだろ」
「ご不満か?」
「昔から言ってやってただろ。女はもう大概にしとけって」
「若い頃は先達に習おうという気もあったが…」
「今は好きにさせてくれって?ったく…この先どうなっても知らんぞ。苴の次代なんて悲惨だからな。同じようになるかも知れんな」
「それは聞き捨てならんな」
「灌の為を思って言ってやってんだよ」
「燕雷さん…」
不安げに華耶に袖を引かれて、燕雷は矛先を丸めた。
「本当に臍を曲げられちゃならんから、このくらいにしておくけど」
「それにしても龍晶殿が今頃、苴の王子達の餌食になっておらねば良いがな」
明らかな仕返しとばかりに灌王が言った言葉で、華耶は目を見開いた。
「どういう事ですか?」
「酒色に溺れ、諫言する邪魔者は消すという者達だ。あの容姿に目を付けられれば厄介だぞ」
「おい、言わでもの事を吹き込むなよ」
苦りきった燕雷の言葉は無視して、灌王は義理の娘に問うた。
「命さえ助かれば良いのだろう?」
頷きかけて、首を横に振った。
「彼が生きていて良かったと思えるようにしてあげたいんです。だから命さえという訳では。我儘を言えばもう一度会いたい。でも何も叶わぬのなら、私は彼と同じ時に死にます」
「華耶ちゃん…それは」
口元には笑みがあるが、目は強いまま。
本気なのだと燕雷は知った。
「朔夜を独りぼっちにするのは心苦しいけど」
「あいつは…」
言葉が続かない。それを知った朔夜の絶望を思えば、どうあっても止めねばならない。
「義父上、我儘ばかりの娘ですみません。どうか一筆、お願いして宜しいでしょうか?私がそれを苴に届けますから」
「お前が自ら?」
「ええ。どの道行こうと思っていたんです。少しでも近くに居たいので」
「危険だぞ」
「承知の上です。怖くはありません」
灌王は考える素振りを見せ、探るように燕雷に視線を送った。
「非礼だと思われたなら詫びるよ。この娘の言うようにさせてやってくれ」
折れて見せると、王は頷いた。
「儂も行こう」
え、と二人は声にならぬ声で返した。
「なに、苴王とはもう何年も顔を合わせておらん。そろそろ直に話をしても良い頃じゃと思うてな。向こうには今、皓照殿も居る。ちょうど良かろう」
絶句する二人を笑って、灌王は席を立った。
母はこんな気分だったのかと、染みた天井を眺めながら思う。
病んだ体を座敷牢に寝かせて、独り。
範厳は姿を見せなくなった。当然の事ではある。代わりに煎じた薬だけは届けられた。
いくら戔から送られたものだと聞かされていても、飲む気にならなかった。
本物かどうかも疑わしい。誰の手を通っているか分からない以上、毒を混ぜている可能性もある。
死にたいのにそれを危惧する自分が可笑しくはあるが。
ただ、母と同じなのはその点だ。
会いたい人が居るから、自ら死のうという気にならない。
待っても会えるとは限らない。寧ろ。
白骨化した遺体が脳裏に蘇る。
そこまで待たせた。俺は。
だから生きようとした所で無駄なのだとは知っている。
だけど。
だけど、願わくば。
人の気配が近付き、牢が開かれた。
小さく溜息を吐く。ここで望みが潰えるならそれも仕方ない。
「泰袁(タイエン)様がお召しである。来い」
横に跪いた兵がそう言うなり、頭を起こして麻布の袋を被せた。
強制的に立たされ、駕籠のようなものに入れられる。何も見えないまま闇の中を運ばれて行く。
泰袁。聞いた事の無い名だが、王と同じ泰の字を持つという事は。
少なくともこのまま処刑場に運ばれはしないだろう。まだ生かすのかとうんざりもする。
生きていたいのか、終わりにしたいのか。
自分でも分からない。半端に治りつつある体と同じく、心も中途半端になりつつある。
だから甘いんだよなと自嘲して。
でもそれを選べるのは自分ではない。だから自分の望みなんて関係無い。される事を受け入れるだけ。
何の感情もそこには無かった。
無かった筈なのに。
行き着いた先の薄暗い部屋。そこに立ち込める香り。
拙いと思った。思ったが、それも束の間で意思は流された。
目隠しが取られる。匂いは一段と強くなり、過去の記憶が眼前に明滅した。
何者かに髪を掴まれ、顔を上げさせられる。
薬に侵された視界の中で、その男の顔はぼやけていた。
兄の顔にも見えた。藩庸の顔にも変わった。これまで殴り、嬲ってきた無数の大人達の顔にも。
「お前がこれを好むと聞いてな」
男の手には、一輪の花。
「…誰から」
現実に抗おうと掠れた声で問う。
「お前の兄だよ。それなりに交流はあったんでね」
そういう事か、と。
諦めた。何もかも。もう抗う事なんて出来ない。
俺は、あの人に、ずっと。
「父はお前を高潔だと評していたが、実際はそうじゃない。この薬さえあれば何でもするって?酒や女よりずっとタチが悪い堕ち方だな」
肌の上を手が這ってゆく。ぞくぞくとした感触は、悪寒なのか、それとも。
「良いんじゃないか?どうせ死ぬなら今は快楽に溺れるのも悪くないだろ?」
そうか、死ぬのか。
ならばもう、この頭を完全に壊したって。
今は喘ぐしかない口の、歯の根が噛み合うようになったら、舌を噛み切ろうと決めて。
幻惑の中に身を委ねた。
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