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月の蘇る
  5
 その日のうちに陣を片付け、退却の流れとなった。
 軍事に関わる者なら誰でも知る事だが、退却戦が一番難しい。その殿軍とあらば死の覚悟を決めて務めねばならない。
 敵は容易ならざる相手だ。そもそもどう動くか予想すらつかない。それもあって宗温は退く事を渋っていたのだろう。
 もう一つ、龍晶との約束もあったと聞かされた。
 壬邑は敵に譲っても、峯旦の構えを解いてはならないと龍晶は言ったようだ。北州を戦場にしたくないからこその言葉だろう。
 普通の戦ならそれも解る。だがもう、そういう次元の問題では無くなっている。
 敵は既に国を持たない。賊徒と化して食糧と人の命を奪う事を目的としている。
 そんな者達を放っておく訳にはいかない。奴らはいずれ南下して北州を荒らし始めるだろう。
 尤もそんな未来の予測より、朔夜には奴らを殲滅させる理由が既に立っている。
「戦はしないって龍晶は言った。俺達はあの子達を戦場に立たせない事だけを目指していたのに」
 波瑠沙は戔兵に紛れて荷駄を引きながら、後ろを押す朔夜の嘆きとも怒りともつかぬ言葉を聞いていた。
「こうなった以上は応戦しなきゃ仕方ないのも分かってる。あいつが最後まで子供達を戦場に立たせない為に後方に回した努力も分かるよ。でもそれを狙うなんて…」
「悪いのは向こうだろ」
 あっさりとした波瑠沙の結論に頷いて、それでも悔しそうに歯噛みした。
「一度は救った命なのに。だから余計に悔しい。結局、誰も守れなかったなんて」
「戦だからなあ。でもまあ、少なくともお前が自分を責める事は無い。どうにもならなかっただろ」
「龍晶にも同じ事言われた」
「ほお?」
「仕方なかった、って…。その子は敵方に操られて俺を殺しに来た。それを逆に俺が殺してしまったんだけど」
 肩越しに振り返ってその表情を確かめる。
 夜行だ。暗さの中に感情も同化してしまっている。
「生かしたかった。あいつを背負って運びながら、初めて戦がある事をあんなに呪った。いや、梁巴が攻められた時からずっとそれを始めた奴らを呪ってはいたけど。初めて戦そのものが怖いと思った」
「怖いのか」
「ああ、怖い。誰もが自分の意志を無くして殺し合ってる。俺は月に憑かれるから意志を無くすけど、普通の人間の誰もがそれを当たり前にやっている。兵じゃなくて、農民や女子供までもが。それが、怖い」
「…私もそうなると思うが」
「波瑠沙は強いから大丈夫。自分の意思で戦ってるって分かるから」
「そういうものか」
「うん。…脆いのは寧ろ、俺の方だと思う」
「何故?」
「波瑠沙と違って俺は、自分のやってる事が正しいって思えた事が無いから」
「自信が無いのか」
「無い。大きな間違いを何度も犯してきたし、そもそも俺が刀を握る事自体が間違いなんだ。龍晶はずっとやめろって言ってくれた。俺も出来る事ならそうしたかったけど…悪魔からは逃げられなくて結局、大きな罪を犯した。だから国外追放になったんだけど」
「戔王に再会したらもう一度言って欲しいのか。もう止めろって」
「そうかも知れない。俺よりあいつの方が本当の俺の事を解っててくれるから。…でも、無理なんだよな。俺は戦場でしか生きられない。暗枝阿のように」
「黙って姿を消すなんて事はしてくれるなよ。私は地の果てまで探しに行くけどな」
「波瑠沙なら逃げられそうにないや。うん…黙って消える事はしない。俺にそれが選べれば」
「頼むよ。ま、お互い飽きて別れるなら深追いしないけどな」
「俺はそんな事無いと思う」
「どうかな。初めての女はいつかは捨てられるものだからな」
「はじめて……いや!無いから!絶対無い!俺からは!」
「今は何とでも言えるよ」
 くつくつと意地悪く笑う。後ろはしゅんとして言った。
「波瑠沙に飽きられたら俺、悲しいけど諦める」
「おいおい。そんな事言ったか?」
「言った」
「そういう意味じゃないって。お互いに、って付けただろ」
「俺はそんな事無いから、可能性あるなら波瑠沙からだろ?」
「まあ、それは有り得るかも知れないけど」
「ほらぁ」
「私には経験があるから未来を安請け合い出来ないってだけ。お前のこと見てて飽きるとは思えない」
「飽きない?」
「子犬みたいだもんな」
「今度は犬かよ」
 なかなか人間になれない。
 結局惚気てしまう恋人同士の会話はともかく、行軍は淡々と進んだ。
 順調過ぎた。だからこそ朔夜は確信を深めていた。
 敵は組織立って襲ってくる、と。
 決して自軍のものではない蹄音を遠くに聞いた。
「波瑠沙」
「来たか」
「荷駄兵を先に行かせて。俺はここで食い止める」
「分かった。後で迎えに行く」
「うん…ありがと」
 空に近い荷車をそこに置かせて、波瑠沙は兵らを誘って先を急いだ。
 朔夜は長剣を抜いた。
 双剣では騎乗した相手に届かない。出来れば罪の無い馬たちを傷付けずに敵を倒したいのだ。
 動物は子供と同じだ。守ってやりたい相手。
 甘いだろうか。否、そうやって戦ってこそ意味がある。
 今回は、特に。
 蹄音が迫った。もう闇の中に姿が見える。
 二百騎ほどのものだろう。ひょっとしたら別の場所で奇襲をかける一団が居るのかも知れないが、敗戦を聞いて自国へ逃げた者が殆どだと思う。
 ならば今ここに向かって来ているのは、最後まで戔に害をなそうとしている相手だ。
 知らず、口元には不敵な笑みが浮かぶ。
 容赦せずとも良い相手。救ってやりたいとか、そんな感情が不要であればやり易い。
 一人の少年など目に入っておらぬかのように一群は迫ってきた。
 轢かれる寸前で、朔夜は跳んだ。
 馬の背より高く、その空中で刀を振り上げ、乗っている者に振り下ろす。
 脳天を割られて兵は落ちた。その空いた鞍に身を収めて。
 しかし跨る事はせず、鞍の上に立ち、横へ刀を薙ぎ払った。
 徐々に周囲が異変に気付き始める。進軍の足が鈍った。
 その事に対してにやりと笑う。
「俺が相手だ!」
 言葉は通じないが、意は通じた。相手とてそうせざるを得ないからだ。
 朔夜は乗っている馬の背から跳び上がりながら次の相手へと刀を突き立てた。蹴落として、振るわれた槍を手綱を操って躱す。
 振り向きざまに次の手を繰り出そうとしていた相手の首が飛んだ。それに悲鳴を上げた横の兵を斬り倒した。
 見えぬ刃が次々に振るわれる。空馬ばかりが増えてゆき、まだ息のある者を踏み蹴った。
 もっと相手が多ければ良いのにと、不満にさえ思う。
 尋常ではない攻撃に敵は怯んでいた。逃げる者も居たが、見えぬ刃が追ってその背中を抉った。
 愉悦の笑みが浮かんでいる。
 悪いのはお前らだろう?当然の報いだ。子供達の無念を思い知れば良い。
 この刃は正義だ。
 生きる人間は居なくなった。
 主を失った馬が悲しげに嘶く。
 跨っていた馬の手綱を引いて、その様を眺めた。
「…何が正義だよ…」
 己に向けて呟く。
 この刃に正しさなど無い。あった事が無い。
 意志を無くす?これは自らやった事。
 戦が怖い?この身そのものが戦だ。
 間違っている。何もかもが間違いだ。正しい事なんて、何も。
 刀の血糊を振り落として鞘に収めた。
 馬の首筋を撫でて、味方が行った方へと向けて馬腹を蹴る。
 何も考えてはならないと思った。
 やるべき事をやった。それだけだ。
 だから俺は道具なんだ。
 いつまでも人間になれない。ただの道具。
 頭が霞み、体の感覚が遠くなる。
 揺れる鬣に顔を埋めた。
 牧草の匂い。懐かしい、故郷の匂い。
 あそこで終わっておけば。
「朔」
 横から呼ぶ声に視線を上げた。
 本隊から馬を借りてきたのだろう。騎乗した波瑠沙が隣に並んでいた。
 手を伸ばして、鬣の中に埋まる銀髪を撫でた。
「よくやった」
 褒めてくれるんだ、と。
 意外に思った。だけど素直に嬉しくて、微笑み頷き返す。
「怪我は無いか?」
「たぶん。…分からないや。眠くって」
「だろうな。見れば分かる」
 彼女の笑い声で初めて全てが正しく思える。
 救われる。罪に塗れた身が。
「手綱を貸せ。曵いてやる」
 言われた通り綱を渡して、安心して目を閉じた。
 主を殺した敵を、馬は素直に運んでくれた。

 目覚めた場所に見覚えがあった。
 天井の装飾。窓の形。内装。そこまで視線を下ろして、波瑠沙の存在に気付く。
 この場所に彼女が居る事に、何だか擽ったいような違和感を感じた。
 彼女は難しい顔をして書物を読んでいた。気になって、そっと寝台を抜け出て後ろから覗く。
「う、わ。びっくりしたぁ」
「何読んでんのかと思って」
 彼女は慌てて書物を閉じた。
 何の事は無い。子供向けの読み物だ。
「あ、そうか。文字が読めないから」
「勉強だよ!今更だけどさ」
「いや、偉いと思う」
 嫌味なく笑って、横の椅子に座った。
「ここ、州長の家だな」
「よく知らないけど、この街で一番でかい家っぽい」
「うん。龍晶のお母さんの実家だよ」
「そうなのか?そう言えば出迎えてくれた人がやたら美人なご婦人だったな」
「だろ?美人の一族だよ」
 その美人の一族の娘に言い寄られた自覚も記憶も無いのが朔夜の残念な所だ。
「その王様を、お前はどうする気だ?」
 溜息と共に天井を仰ぐ。
 次はそれを考えねばならない。
「苴に、どうにかして潜り込めないか…」
「協力はしてやるぞ」
「うん…ありがとう」
 扉が叩かれて思考は一旦横に置いた。
 入ってきたのは宗温と賛比、そして屋敷の主である黄花(オウカ)。
「声が聞こえたのでお目覚めではないかと思いまして」
 微笑みながら彼女は言った。
「またお邪魔してます。気付いたらここに居たんだけど」
 頭を下げて朔夜は悪戯っぽく笑った。
「娘共々、あなたは命を救ってくれた恩人ですから。北州にいらっしゃると聞いて是非ともお世話させて貰えればと思って」
「大袈裟だよ。俺は桧釐に頼まれただけ」
 笑って、その笑みが凍る。
 桧釐の存在を忘れていた。恐らくきっと多分、都に帰ったら怒られる。滅茶苦茶怒られる。寧ろ怒られるだけで済めば幸運だ。
「桧釐…最近帰ってきた?」
 近況を少しでも知っておきたい。どういう状況に立たされているのか、それを知っておくだけでも違う。
「いいえ。でも手紙は来ました。子が産まれたそうですよ。国が落ち着いたら顔を見せに帰る、と」
「え、春音じゃなくて?」
「女の子だそうです」
「うっそ!」
 素直に驚いている。何も知らなかった。
「女の子って…於兎がもう一人増えるのか…」
 それには頭を抱えた。その手を波瑠沙が横からつんつんとつつく。
「おい、素直に祝ってやれよ。誰か知らんが」
「会えば分かる…うわ、そうか、あいつにも会わなきゃいけないのか…」
 波瑠沙を紹介したら何と言われるか、分かったものではない。
「まあまあ、於兎は良い嫁ですよ。桧釐にはぴったりでした。よく尻を叩いてくれています」
「叩くのは桧釐だけにして欲しいんだよぉ」
 その辺は分かっているようで、黄花夫人は高い声で笑った。
「母さま、お茶を」
 湯呑みの乗る盆を手に入ってきたのは朱怜(シュレイ)だ。
 彼女は客人達の前に湯呑みを置きながら、朔夜に問うた。
「朔夜さんにも良い人が出来たんですね」
「えっ…と」
 良い人の意味が咄嗟に分からなかった。
 彼女は笑って首を振った。
「いえ、焼き餅で言ってる訳ではないんです。私も婿を取りました。この家を継ぐ事になっています。兄さまは帰って来れないもの」
「あ、そっか。そうだよな」
 適当に相槌を打つ。横で波瑠沙が白い目で見ている。
 朱怜は全員の湯呑みを置くと、盆を抱えて俯き気味に言った。
「でも、陛下にはもう一度会いたいと思っています」
「これ、朱怜」
 母が嗜めるが、それを聞く娘ではない。
「一族として、です。こんな形でお別れなんて、辛過ぎる…」
 朔夜は頷いた。
「別れにはさせない。何とかするから」
「お願いします…!」
 娘と共に、母も頭を下げた。
 二人が部屋から出て行くと、宗温が口を開いた。
「まずは…無事に退却が出来た事、礼を言います。またも君に助けられた」
「皆無事だった?」
「ええ。不意を突いてきた敵は居ましたが、死人を出す事なく片付けられました」
「そっか。なら良かった」
 心から笑えないのは、母娘の切実な願いを考えねばならぬから。
 当然それは、朔夜自身の願いでもある。
「戦はこれで全て終結しました」
 宗温が告げて、改めてそれを知った。
「終わったからこそ…あいつを取り戻さなきゃ」
「問題はそれが可能か否かです」
「不可能なんて事があるか?俺は何だってする」
「それを陛下が望むでしょうか」
 言葉を詰まらせて宗温を見返した。
「朔夜君、酷なようですが…これは君の力を借りるべき問題ではないのです。政で解決せねばならない」
「また戦になるから…?」
 宗温は頷いた。
「陛下の御遺志の、逆の事となってしまえば私は合わせる顔もありません」
 朔夜は絶句して顔を伏せ、そして自嘲を浮かべた。
「…そうだよな。俺は所詮悪魔だ。あいつを救おうなんて思い上がりだ…」
「しかし朔夜君、陛下の御心を救えるのは、君だけではないかと思います」
 目を丸くして顔を上げる。
 宗温は説明した。
「恐らくこの計画は、陛下が川に入水して一命を取り止めた時に決断なされたのだと思うのです。そしてその原因こそ、苴から齎(もたら)された悪魔の死の一報」
 驚くべき事が多いのに、初めて知った気がしない。
 知っていた。生死を彷徨う夢の中で、龍晶が言っていた。
「故に、何としてでも君の無事を陛下にお知らせしたいのです。それさえあれば…」
 生きる気を取り戻すのではないか。
 実際に身柄を救えるのは政治的な駆け引きでも、本人に生きる気が無ければ救えない。
「都に帰ったら孟逸殿を加えてその方法を考えましょう。ここは明日、発ちます」
 言うだけの事を言って宗温は立った。
 賛比は上官に付いて行かず、朔夜の前にやって来て。
「朔兄…ありがとう。皆の仇を取ってくれて」
 それが言いたかったようだ。
 朔夜は笑って応えようとしたが、出来なかった。
 項垂れて、返した。
「悪い…。俺は皆を死なさない為に戦うべきだったのに」
「それは仕方ないよ」
 首を横に振る。
 同じ事を言われ続けて、誰もかも失っている。
 この先も、そう。
「この前は生意気な事言ってごめんなさい。青惇の事に必死で、俺は何も分かってなかった」
 賛比は頭を下げて、踵を返して出て行った。
 残されて、俯いた視線を上げられないまま。
 己の無力さを噛み締めるしかない。
 殺す事しか能の無い、愚かな身で。
「せっかく淹れて貰ったんだし、茶は飲んだら?」
 波瑠沙の言葉でやっと目を動かした。彼女は言葉通り湯呑みを持ち上げている。
 倣って朱怜の茶を口に含む。苦い。
 目が覚める程の苦さに波瑠沙は苦笑した。
「気付けの一杯だな、これは」
 朔夜は唐突に立ち上がった。
「おい、お嬢さんに文句は言うなよ?」
「そうじゃない。…ちょっと出てくる」
「一人で?」
 真っ直ぐ扉に向かおうとした足を止めて。
 気弱に振り向く。
「どっちでも良いけど」
「じゃあ行く。お前の寝顔見てたら何処にも行けなくてな。折角異国に来たってのに」
「悪かったな」
 波瑠沙は笑い声をあげて銀髪を撫で回し、自分の方が先に扉を開けた。
 お互いにもう、踏み込んではいけない場所は無いのだと知った。
 後悔に塗れた心の内を、彼女は笑い飛ばして肯定してくれる。龍晶は共感したり否定したりと、とにかく真剣に向き合ってくれたけど。
 どっちも必要だった。そしてどっちも失いたくない。


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