月の蘇る 10 死にかけた体を引き摺られていつもの辻へと運ばれる。 どうして死ねないのだろうと未だ生きている頭で思考する。 病み衰えた体はいつ動きを止めてもおかしくない。なのに、何故まだ生きてしまうのか。 分からなかった。朦朧とし続ける意識の中、いつも一縷の望みを持って目を閉じる。 もう二度と目覚めねば良い、と。 夢か現か分からぬ中、人々の声が聞こえた。 「可哀想に、まだ子供じゃないか」 「子供だから何も知らないまま悪い大人に唆されたのかねぇ」 「それで一人だけこうして磔にされるのか。哀れだなあ」 歪まされる事実にも、哀れまれる視線にも、もう反感を覚えなくなった。 風の音と同じように言葉は耳に入って流れてゆく。 だけど風向きが変わったのは感じ取っていた。これまで怨嗟の声しか聞こえなかったのに。 「黒幕は北方に居るらしいぞ」 別の声が言った。 「北方?哥か?」 「そうだ。どうやら哥の大臣が、南部の国同士で仲間割れをさせて攻め取り易くする為の策略らしい。今は戔を攻めているが、次はこの苴に来るだろう」 「本当か!?そんな恐ろしい事が行われているなんて…」 声は離れていった。 ただの風の音ではなくなった。これはどういう事か考えねばならなくなった。 嘘。誰かの作り話が噂となっている。それは間違いない。 それ以上は闇の中。考えても答えの出ない闇。 その中にまた、意識は呑まれた。 気付くと牢の中に転がされている。誰かが覗き込んでいる気配がある。 胸の辺りに硬い感触があった。 「いけませんな。肺を病んでおられる。このままでは数日中に獄死されるでしょう」 「どうすれば?」 問う声は範厳だ。医者を連れて来たのか。 「生かそうと思うのなら、まず環境を変えねば。風通しの良い清潔な場所に移すのです。それと、食事。まずは何かを口に入れさせる事」 「成程。まずは身を清めて場所を移させよう」 「薬を飲ませれば良いが、そこまでする意味があるだろうか」 「意味はある」 「ほう?では薬代は?」 「大丈夫だ。その心配は要らない。お前が薬を作る必要は無いからな」 「ならばもう何も申しますまい」 医師が牢を出て去ってゆく。 何を無意味な事を、と龍晶自身が感じていた。 どうせ殺す身を治して、お前は何をしたいのか、と。 「目覚めたか」 薄く開いていた目に気付き、今度は範厳が視界に入った。 「どいつもこいつも、金が目当てでうんざりするな。お前なら分かると思うんだが」 金を目当てに国を攻められる王なら分かるという事か。 虚ろな中にも混じる責める視線を感じ取って、範厳は言った。 「済まんが、もう少し頑張ってくれ。お前を病死させる訳にはいかないんだ」 小さく首を横に振る。 もう嫌だ。楽になりたい。 「頼むよ。ここで死なれたら俺は孟逸に顔向け出来ない」 何故孟逸が?身を案じてくれているのは分かるが。 瞼が重くなる。意識が続かない。もういっそ刀をもって途切れさせてくれれば良いものを、何故生かそうとする。 「お前を生かせるかも知れないとあいつが書いて寄越してきたから…」 言葉が遠くなる。 それで? それであの噂なのか? 顔に水をぶち撒けられて意識が戻った。 「あ、こいつ目が覚めたみたいだぜ?」 髪を掴んで顔を引き起こされ、視界いっぱいに下卑た男の顔を見ねばならなかった。 出立ちは下級兵士ですらない。下人、否、この牢の中に居る罪人だろう。 比較的罪の軽い者に動けぬ者の世話をさせる。よくある事だ。 「おい、服を剥げ。全身を洗えって命令だ」 足元の方から声がした。二人がかりの作業なのか。 それにしても恐ろしい命令だった。 ずっと腕に巻かれていた縄が無くなっている。ならば起き上がって逃げる事も可能ではないかと思い試みたが、地面を這う事しか出来ない。 「おい、逃げるなよ」 笑いを含んだ男の声が落とされる。 「抑えてろ」 足を掴まれ、もう一人が体を跨いで衣に手をかけた。 子供の頃の感覚に戻されて、諦めた。 結局、あの地獄から這い上がれずに終わるとは。 血と汗で汚れきった衣が脱がされた。その瞬間、耳を塞ぎたい笑い声が響いた。 「おい、何だよこれ!」 笑いながら男が手術痕に手を伸ばす。 弄られて体が震える。抑える事の出来ない声が漏れた。 男達の目の色が変わった。 やめろ、と声にならぬ声で訴える。 だけどもう、どうでもよかった。 あの頃の続きと思えば。そしてそのまま死ねるのだと思えば。 幼い己の望みをそうやって叶えてやれる。 死んだ方がマシだと感じて死ねるのだから、それで良いだろう。 感触に体だけは拒むように強張り震えた。 「おい!何をしている!」 怒鳴り声でそれは離れた。 「戻れ!貴様らは鞭打ちだ!」 兵が入ってきて二人を引っ立てた。 範厳は傍に膝を付き、震える体に衣を掛けた。 「悪かったな。俺が護衛の担当を外されてしまった故の不備だ」 己の仕事ではないのにここに来たという事だ。もしかしたらそれは、今に始まった事ではないのかも知れない。 孟逸との関係を考えれば、この男は自分に近付ける筈が無い。軍部はそれが当然の判断だ。 それで良いのに。 「どうして殺してくれない…」 心からの悲鳴は掠れた声になった。 力尽きて目を閉じる。 もう何も見たくないのに。 まだ、世界は続いていた。 牢ではあるが、場所は変わっていた。光と風の入る板の間で、布団が敷かれている。 座敷牢。 ここに戻された。 全てが終わり、始まった場所。 どういう冗談だと心の内でせせら笑う。 実際は少しも笑えない。 真新しい衣を着せられ、毛布が掛けられている。今更人間らしく扱われても嬉しくも何ともない。 「皓照殿の力添えでここに移れたよ」 範厳の声がした。 まだ居たのか、と。 「実際、上の連中は半端にお前に死なれると困るんだろうな。皓照殿が一声かけたらとんとん拍子で事が進んだ」 それは俺に理由は無く、ただあの男を恐れているだけだろう、と。 思ったが伝える気は無い。どうでも良かった。 「ほら」 範厳が視界に現れて、器を差し出した。 「薬だ。飲め」 緩く首を横に振る。 祥朗の作る薬以外は飲まない。その誓いの為に。 「おいおい、勘違いするな。これは戔から送られてきた薬だぞ?」 瞼を持ち上げてその器と、男を見た。 「お前の后がこれを飲ませてくれと、わざわざ送ってきたんだ。あ、あと刀を送った礼もあった。必ず持ち主に返すから、そう伝えてくれと書かれていた」 華耶。 その名の余韻を思い出すように、薄く目を閉じる。 閉じた瞼から温かな雫が溢れた。 「飲むよな?」 問いに頷いて、身を助け起こされる。 泣きながら喉を動かした。祥朗の作ったもので間違い無かった。あいつも今、どういう思いで過ごしているのか。 申し訳なかった。彼らの存在に目を瞑ってここに来た事が。 戔の都が恋しかった。皆が待つ、その場所が。 「まだ、諦めずに居てくれるな?」 再び寝かされて、問われる。 頷く事は出来なかった。でも、小さく、笑った。 灌に向かう支度を進めている時、思わぬ人の帰りが告げられた。 侍女からその名を聞いた途端、華耶は走った。真っ直ぐに表へ。 「燕雷さん!」 広間でその姿を見つけ、頼りたい胸の中に飛び込んだ。 そのまま泣き崩れる。 「ちょ、お、華耶ちゃん…」 これは流石にまずい。 だがそこらの家臣も下男も侍女も、皆が皆心得て見て見ぬ振りだ。 がりがりと頭を掻いて、その肩を叩いた。 「大体の話は灌で聞いたよ。俺達は間に合わなかったんだな」 燕雷の腹辺りで華耶は頷く。崩れた身体を支える手が無いので膝立ちになっている。 「陛下は…」 共に帰ってきた舎毘奈が顔を青くさせた。 「まだ生きてるよ。そうすぐに死なせる訳が無い」 燕雷は強く言って、やっと華耶に手を伸ばして立たせた。 「そうだろ?向こうは何も言って来ないよな?」 華耶は頷く。 「孟逸さんの伝手で薬を送りました。突き返される事は無かったので、飲んでくれていると信じてます」 「よしよし。それだけ知れれば十分だ」 「私、今から灌に行きます。義父上に直接訴えるつもりです」 「ああ。俺も行こう」 華耶は涙の溜まった目を丸くした。 「燕雷さん、今帰ったばかりなのに」 「じっとしてられない性分なんだよ。それに華耶ちゃん一人を行かせるには、あの城は城で真っ黒だからな、気が進まねぇ」 「真っ黒…?」 苦笑いで燕雷は教えた。 「女の争いは怖いな」 灌王の別れ際の姿を思い出す。納得した。 「母上」 鵬岷が多くの臣を連れて近付いてきた。 さながらその姿は既に王である。龍晶はそういう所に人手を割かなかった分、義息の方が余程高貴に見えた。 何故、夫のやり方を倣わなかったのかと華耶は苦く思っている。 灌王の存在がそこに透けて見えるのだ。 「私も灌に戻って父に訴えたいのですが、それが叶いませぬ。なので、書状をしたためました。お渡し頂ければ幸いです」 受け取りながら、華耶は嗜めた。 「あなた様の父は、我が夫です」 「申し訳ありません。つい…」 華耶は首を横に振った。 「いえ。本物の母になれぬ私が悪いのですよね」 微笑んで、強い目に直って告げた。 「あなたの父を必ず取り戻します。だから鵬岷、即位は少し待って下さい。戔を統べるのは、やはりまだ彼でなくては」 夜。 篝火が眩しい程に焚かれている。軍勢と軍勢が向き合っていた。 その様を見ながら二人は間道を進む。 敵本陣の裏手に回る為だ。裏から入り、香奈多を探す。 「上手くいくかな」 朔夜は不安そうにごちた。 「いくさ。私とお前が組んで、出来ない事は無い」 あまり根拠の無い強気に、笑って。 「波瑠沙のそういう所、好き」 「なんだよお前、そういう所って」 「うん、大まかでざっくばらんな所」 「言わんでいい」 声を忍ばせて笑う頭を上から掴む。 痛たた、と笑いながら逃れて。 「香奈多と暗枝阿もこういう関係だったのかな。想像つかないけど」 半笑いのままの言葉に、波瑠沙は苦笑いした。 「皆が皆こんな馬鹿やってる訳じゃない」 「仕掛けてるのは波瑠沙だよ」 「お前に合わせてやってんだ!私だって前の奴とは……まあいい」 思い出す方が馬鹿馬鹿しい。 「私は香奈多さんの話を聞くだけだが、本当に好きだったんだろうなとは感じる。それが突然失踪されて…早く再会して貰いたい」 「うん、本当に」 香奈多は自信無さげに否定していたが、暗枝阿は本気だったのだと思う。 そうでなければ、朔夜に対して頼むとまで言わない。 「あれだよな、波瑠沙の言ってた、そーしそーあい」 「うわぁ…お前が言うと馬鹿っぽい」 「はいっ!?」 まるで緊張感が無い。 「でもどうして香奈多はここまで連れて来られたんだろ」 「ああ、他にも数人こっちに連れて来られてる。まあ…」 戦地での慰みものだとは言えず。 「…美人だからな、香奈多さんは」 「そっかあ。俺よく分かんないけど」 「おい、男の美人は分かるのに女は分からないのかよ。どういう目だ」 真っ先に龍晶の事を綺麗だと紹介した前科がある。 「え。それは、あいつはみんながそう言うから、そういうもんなんだとおもって」 だんだん喋り方がぎこちなくなる。 「で、女の人はあんまり見た事無いからよく分からない」 「はーん。そういう言い訳か」 「本当だって」 「疑ってる訳じゃないけど、多分それ、お前の好みの問題だと思うぞ?」 「好み?」 「香奈多さんは見た目が幼くて可愛いから、多分お前の目に入ってないんだと思う」 「…うーん?」 「お前は私みたいな高身長のすらりとした美人が好きなんだよ、きっと。じゃないと子供扱いして貰えないし?」 さらっと自分で言ってしまう。それが彼女の強みだ。 朔夜は崖下を指差した。 「あ、あれじゃね?」 「おいなんか言え」 逃げるように朔夜は崖を走って降りだした。 遠目にも幔幕で仕切られた四角い陣形が判る。 あの中の何処かに無事であって欲しい人が居る。 朔夜は目の届く所で止まって振り向いた。何処か楽しげな笑みのまま。 こんな状況でも、一緒に居られる事が嬉しいんだと、その顔が伝えている。 呆れて笑いつつ後を追う。調子は狂うが、多分一人では重圧に負けていただろう。 一瞬後でさえどうなるか分からない。だからこそ今この瞬間を楽しんでいたいのだと。 数々の悲しみを掻い潜ってきた笑顔が、そう言っている気がした。 [*前へ] [戻る] |