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月の蘇る
  9
 子供が投げた小石が顔に当たった。
 やめなさい、と親が叱る。だって、と子供は口を尖らせる。
 こいつ悪い奴なんだろ、と言って。
 親子はそそくさと去って行った。
 見張りの兵は咎めもせずそこに立っているだけだ。
 尤も、こいつらが一番殴ってくるんだからな、と龍晶は考え直した。
 都の辻で縛られて晒されている。
 生きたまま民の怨嗟を受け止めさせ、その上で処刑するらしい。
 何を言われても暴力を振るわれても、心まで届くものは無い。だからこれを考えた連中には悪いが龍晶にとっては罰にはならない。
 苴の民を宥める効果はあるのかも知れないが。
 戦が終わった事に対する不満は聞かない。民の目的は戦自体には無いのだから当然だろう。
 こうして憎悪の対象が目の前に居て、思う存分それをぶつけられるのだから、彼らの目が戔に向かないのは当然だ。
 それで良いと、心の内でほくそ笑みながら。
 しかし肉体は限界だった。昨日は旅の疲れもあり熱があったが、今日は熱を出す体力も無い。
 暑気に当てられ、水も満足に与えられず、夜には僅かな粥が出されたが喉を通らなかった。
 このままでは首を打たれる前に死ぬ。
 別にどうだって良いのだけど。
 咳込み血を吐いて、暫し意識を失った。
 気付くと、後手に縛られたまま牢に放り込まれていた。
 体の痛みは遠い。それを感じられる体力すら無いのだろう。目を開いても、瞼が重い。
 喉が乾いていた。吐いた血が口の中で固まって嫌な感覚を覚える。とにかく水を口にしたい。
 折よく、牢を何者かが覗く気配があった。
 みず、と言ったつもりだったが声にはならなかった。
 相手が何者なのかも分からない。体を動かす事は勿論、目を開けて視線を巡らす力も無い。
 錠を開く音が響いた。牢が開いた。
 強い力で肩を抱き起こされた。
「飲めるか?」
 声で分かった。範厳だ。
 器が口に当てられる。水の清い気配に救われる思いだ。殆どが口に入らず溢れ、最後には咽せたが、いくらか生気が戻った。
 目を開けばまだ世界は見えている。安堵した。
「済まんな。美麗の貴人となると虐めたくなる男が多くてな」
 こんな時に下衆な冗談を吐くなと言いたい所だが、冗談ではないからこうなっているのだろう。
 軍部の連中は敵国の王の情けない様を愉しんでいるに違いない。
 気を失っている間に着衣は乱されていた。何があったかなんて考えたくもないが。
「まだ声は出るか?」
 その下衣をさりげなく直しながら、範厳は問う。
「…ああ。どうして?」
 掠れているが潰れてはいない。喋る体力が惜しいだけだ。
「お前に会おうという御仁が居る」
 誰だ、と視線を牢の外へ投げる。
 牢屋の中だというのに眩しい金髪を見て、怒りと諦めの混じった息を吐き出した。
 皓照は範厳に問うた。
「まだ生きてます?」
「生きてますよ」
 範厳は肩越しに振り返って答え、抱えていた龍晶の体を少し動かして壁に持たせかけた。
 皓照は牢の扉を潜ると、龍晶の横に何処からか持ってきた箱を置いてそこに腰掛けた。準備が良過ぎる。
 床も龍晶自身の体も、血反吐と体液で汚れている。鼻の感覚が戻ってくると、気温の高さで異臭が漂っている事にも気付く。
 それに構わず抱えてくれたのだから、範厳はただの任務でもなく良い人で片付けられるような人間でもないのだろう。孟逸と通じる所はある。
 ならば自身を汚さないように振る舞う皓照のほうが人として当然かと思い直して横に居る男の言葉を待った。
「何故こうなったのか、自覚はお有りですか」
 わざわざそれを問いに来たのかと、ゆっくりと視線を上げた。
 睨む目にまだ鋭さはある。
「後悔させてから殺そうって?無駄だ」
「まあまあ。反省せねば次に繋がらないではないですか」
「次、って…」
 頭を起こし続ける体力も無い。がくりと首を落として、倒れる間際で範厳の手が支えた。
「尤も、あなたが終わらせる気ならそれでも良いのですがね」
 俺じゃなくてお前だろう、と頭の中で反論する。
 お前が俺を終わらせようとしたからこうなったんだろ?
「朔夜君ですよ」
「…は?」
 短い反撥は口から出せた。
「あなたは朔夜君の事になると見境が無くなりますからね。だから正気も失うというものです。そんな狂った危険人物を王に留めておく訳にはいきません。まあ、私の責任でもあるので自分で蒔いた種はきちんと刈り取らねばね。しかしお陰で計画が随分狂いましたよ」
「計画だと…?」
「知っているでしょう?私はあなたが母上のお腹に居る時…否その前から王にしようと考えていた。朱花様の御子なら間違いないと思ってね。それが間違いだったようです」
 もう問う気力も無かった。苦しさに紛れた涙が一滴、足に落ちた。
「向こうで悔いて下さい。あなたの罪は、悪魔を愛し過ぎた事です」
 皓照は立ち上がった。
 呼び止めたいのに、まだ問いたい事も言い返したい事もあるのに、もう声は出なかった。
 がくりと体が落ちた。床に体を打ち付ける痛みを覚悟したが、その前に支えてくれる手があった。
 範厳の手で、ゆっくりと横たえられる。
「友を想って首を打たれる…か。ちょっと他人事じゃなくてな」
 孟逸の事を探られれば、この男も痛い事があるのだろう。
「お前が最初から恐れる風が無かったのは、悪魔が助けに来ると踏んでいたからか?」
 龍晶は首を横に振った。可能なら怒鳴って返す所だった。
 そんなもの、毛頭期待などしていない。寧ろ、俺はあいつに刀を置いて欲しい。
 俺が居なくなることで、それが実現するのなら。
「そうか。残念だな。ちょっと会いたかったのに」
 意外な言葉に、薄く笑った。
 会いたかった。それは俺の台詞だ。
 最期にあいつと笑いあえたら、どんなに良かったか。
 夢の中でそれを叶えようと、霞がかった意識を手放した。

 目覚めると既に身は馬上にあった。
 首を捻って後ろを見る。波瑠沙はにやりと笑って言った。
「おはよう。よく寝たな?」
「そんなに寝てた?」
「何しても起きなかったぞ。仕方ないから皆でここに押し上げて貰った」
「うわぁ…なんか、悪いな」
「安心しろ。治癒能力を受けたり見てた連中が感動して、お前の事は地にも置かぬ扱いになっている。ちょっと頼めば皆快く手を貸してくれた」
「そうなのか?なんか、喜んでいいのかよく分からないけど」
「神に近い者は崇められるからな、この国では」
「またか…」
 心底嫌そうに顔を歪める。
「何処でも同じか。お前の能力なら」
「いや、それなら悪魔なんて呼ばれてないけどさ。でも俺は神より悪魔の方が良いんだ」
「なんで?」
「そんなに良い事してきてないから」
 波瑠沙はちょっと黙って言葉を噛み砕いているようだったが、ふうんと鼻にかかったような声を出した。
「ま、分からんでもないかな。神より悪魔の方が可愛げがある」
「かわいげ?」
 なんだか違う気もするが、肯定された事自体は嬉しいのでそのままにしておいた。
「それより大丈夫なのか。いくら何でも寝過ぎだ。何処か悪い所でもあるんじゃないか」
「治癒したのはまだ昨日の事なんだろ?」
「ああ。丸一日寝てたぞ」
「普通だよ。いつもなら二日くらい平気で寝れる。今は寧ろ寝不足状態」
「そうなのか?毎日のように力を使ってはぶっ倒れてるから、疲労が積み重なってるって事?」
「うん。そういう事」
「それならまだ寝てて良いぞと言ってやりたい所だが、敵がかなりこっちに出張って来てるらしい。いつ何があるか分からないから用心しろってさ」
「戔の戦に貼り付く兵を削れたって事か。それは良かった」
「向こうは相当苦戦しているようだ。戔国内が主戦場になってるらしい」
「北州にまで行ってなきゃ良いけど」
「よく知らんが、お前の友は胃の痛い日々を過ごしているだろうな」
「早く行って助けてやらないと。燕雷はもう着いたかな」
「そろそろじゃないか?」
 明紫安が助かり暗枝阿が兵を率いて戔軍を救援すると知れば、龍晶も希望が持てるだろう。
「最近、しょっちゅうあいつの夢を見る。ずっと呼ばれてる気がするんだ。まあ俺もあいつに会いたいからだろうけど」
「ほー。相思相愛なんだな」
「…どういう事?」
「お互い愛し合ってるって事だよ。全く、妬かせるな」
「なんで!おかしいだろ!て言うか華耶と同じ事言う!!」
「じゃあやっぱそうなんだよ。皇后に妬かせるほど王がお前のこと好きなんだ」
「…そうなのかな」
「あ、認めた」
 ぶるぶると犬みたいに頭を振る。でも本当は客観的にそう言われるとちょっと嬉しい。
「男の友情は純で可愛いなぁ。私も早く戔王に会いたくなった」
「俺も早く会わせたい。あいつがなんて言うか楽しみ」
「案外落胆するかも知れんぞ?お前が自分だけのものじゃなくなったら」
「だから、そういうのじゃない」
 言いながら上を向く。
 異質な音が耳に入って。
 反射的に長刀を抜いていた。
「敵襲だ!」
 叫ぶと同時に前方から矢が降ってくる。
 刀で防ぎ、叩き落として、波瑠沙を振り返った。
「怪我は?」
「無い!突っ込むか!?」
「行こう!」
 馬に鞭をくれて敵の居る方向へ突出する。
 同じ考えを持った者が何騎も並んだ。
 弓矢の射程内に入ってしまったら、退くより攻めた方が良い。
 なだらかな砂の丘の向こうに敵は並んでいた。
 矢の雨が再び降ってくる。
 波瑠沙は上手く馬を御し、矢を躱していった。
 いよいよ人の壁が目前に迫る。
 馬は屈んでいる弓兵を飛び越えた。
 同時に朔夜は飛び降りていた。着地と同時に敵を斬り、身を低くしたまま弓兵を薙ぎ払った。
 波瑠沙は馬上で長剣を振るっている。同じように突出してきた味方もどんどん弓兵を蹴散らした。
 こうなると役に立たぬ弓兵は逃走しだした。攻勢を緩めようとした時、横手から騎兵がどっと流れ込んだ。
 同時に味方本隊もどっと攻め込んで、様相は騎馬戦となった。
 馬の無い朔夜はこうなると味方の存在すら危険でしかない。
「朔!」
 波瑠沙が一声叫んで駆け戻ってきた。
 手綱を一旦離し、身を乗り出して朔夜の身を抱き上げた。
 小脇に抱えられる形で、戦線を離脱する。
 喧騒から少し離れた場所で朔夜は放るように手放された。
 着地と呼べるかどうか、ころころと地面を転がって止まる。
 波瑠沙も速度を緩めていた馬を止めた。
「よく片手で抱えられるな…さすが」
 起き上がりながら彼女の腕力を褒める。
「お前が軽いんだよ」
 満更でもなく返す。
 そして馬上から戦況を仰ぎ見て、口の端を上げて言った。
「あれじゃあ私達の出る幕は無いな。今日は休むか」
「そうする?」
「お子ちゃまは働き過ぎだからな」
「…まあ、そうなんだけど」
 もう腹も立たなくなってきた。
 しかしこうも近くで味方が戦っているというのに、見るだけというのも所在無い。
 落ち着かずうろうろと動きながら戦況を見ている朔夜に波瑠沙は言った。
「残党狩りでもする?」
「逃げる奴を殺すのか?」
 明らかに嫌そうに朔夜は返す。
「逃げれば本隊に合流するだろ?明日の敵を少しでも減らしといた方が良いんじゃないか?」
「ああ…」
 頷きながらも体は動かない。
「何だよ。戦う時はあれだけ容赦無いのに、逃げる奴を斬るのは抵抗あるのか」
 朔夜は黙っていた。何を言っても言い訳にもならないと思った。
 出来れば殺したくないなんて悪魔の言を、誰が信じるだろう?
 止(や)めたいなら止めろ、そう言った友の声。
 根底から理解してくれるのは、あいつだけなのだろうか。否。
「暗枝阿にも言われたけど、俺は悪魔として半端なんだ。出来れば誰も殺したくない」
 この人には、理解して欲しい。
 そんなの、我欲でしかないけど。
「そんな事言ってたら死ぬのは自分だぞ」
 戦場の掟。波瑠沙にとっては当然の理論だろう。
 朔夜は苦く笑って、溜息を長く吐いて、言った。
「もう何度も死んだから、分かってる。俺は数多の屍を踏んで生きるしかないって」
 地面に大きな穴が空いて引き摺り込まれるような感覚。足の力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。
 月に憑かれた後の光景を目にした時の絶望感。思い出す度にこうなる。慣れない。
「…俺は強くはないよ、波瑠沙。全然…」
 顔も見れず、頭を抱えた。
「自分の罪に怯えて何度もこの喉を掻き切ってきた。その度に誰かの手で生き返らされて。それでもまだ死にたくなる。今も」
 嫌ってくれても良い。その方が良いのだろう。後の事を考えれば。
「そういう、弱い奴だよ、俺は」
 でも、汚れた手を伸ばしていたい。
 それを取ってくれるかどうかは、彼女の判断だ。それを受け入れるだけ。
 龍晶にだってここまでは言わなかった。だけどあいつと共に居る事で学んだ。
 好きな人には、心から共に居たいと思う人には、こうやって震える手を伸ばさねばならないと。
 彼女は解ってくれるだろうか。
 ふわりと、肩を抱かれた。
「知ってたよ。優しいお前の矛盾を考えれば、壊れてしまうのも解る」
 固く瞑っていた目を開き、覆っていた両手を離す。
 それでもまだ地面を見ながら、問うた。
「嫌いにならない?」
「ならない。大丈夫。…て言うか今更だな」
 笑う声に顔を上げる。
 悪戯っぽく、驚きで薄く開いた唇に指を突き
付けて。
「そうやってまたお前は私を好きにさせる魂胆だろ?」
「魂胆って…」
「天然だって事は知ってるよ。お前は全部が素だからな、怖い怖い」
「こわ…?」
 やっぱり波瑠沙の言葉は理解を超えてくる。
 でもそうやって笑って受け止めてくれるから、好きだ。
 この感情自体が罪なのだろうけど。
 まだきちんと言葉にして伝えてなかったと気付き、向き直って朔夜は言った。
「波瑠沙…好きだ」
 他に言い方を知らなくて直球しか投げれない。
 そんな事は百も承知とばかりに、彼女もそのまま打ち返した。
「私もだよ」
「ずっと一緒に居てくれる?」
「ああ。嫌いになるまで居てやる…」
 ゆっくりと顔を寄せて。
 触れそうになった時、小動物のようにぴっと顔が上げられて口は逃げた。
「あ、終わった」
 つんのめりながら波瑠沙も振り返る。
 敵が白旗を掲げて投降していた。
「おま…わざわざ言う事かよ!?分かってた事だろ!?」
「え、なんで怒ってるの?」
「っあー!もう!餓鬼っ!!」
「餓鬼に昇格した」
 それは昇格と言うべきか降格と言うべきではないのか、とにかく分かってない餓鬼を足蹴にして波瑠沙は立ち上がった。
「なんで…?滅茶苦茶怒ってる…」
「帰るぞ!!」
 怒鳴りつけて一人で馬に乗る。蹴り転がされて起き上がる朔夜を待たずに馬腹を蹴った。


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