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月の蘇る
  8
 戔の陣は引き払われた。
 南部出身で自衛の為に自主的に陣容に加わった者だけが残り、都から来た兵は列を為して戻っていった。
 華耶もまた、逗留していた屋敷を出て都に帰る。
 支度は全て整った。が、華耶は寝所から出られずに居る。
 残り香を抱いて。
「皇后陛下」
 宗温がやって来て、平伏した。
「これが、苴の陣から送られてきました」
 木箱を差し出す。
 鋭く息を吸って、その息を吐き出せず、恐る恐る問うた。
「中身は、何?」
 自身の過去を思い出したのだ。
 桓梠によってこの耳を切られ、朔夜に送られた過去を。
 同じ凶刃が夫を襲った事を恐れた。
 宗温は顔色を変えず答えた。
「刀です」
「刀?」
 華耶はその箱を受け取った。
 開くと、見覚えのある短刀が。
「…朔夜に返してって事ね」
 この刀がここにあるのは夫の意思だろう。
 想像よりも彼が丁寧な扱いを受けている事を窺わせて少し安堵した。
「宗温さん」
 穏やかな呼びかけに顔を上げる。
「一瞬でもあなたを疑った事、許してください。彼が自分の意思でこの選択をした事、よく分かりました」
 言いながら、懐から書状を出した。
「彼が書き残していた手紙です。ここにありました。私宛のものと、子供達、あと朔夜にも」
 ふっと笑って。
「ここではずっと一緒に居たつもりだったけど、一体いつ書いてたのかしら」
 口元は笑ったまま、涙が落ちた。
「誰も悪くない、誰も恨むなって…そう書いてありました。これ、彼のお母様が彼に書き残した事と同じ。こうやって意志は受け継がれるのね」
 胸元にある珊瑚の飾りを握った。
 あの手紙と共に、義母が遺したもの。彼に請われてずっと身につけていたもの。
「私、灌に行きます。それが駄目なら、ここでずっと帰りを待ちます」
 宗温は再び伏して言った。
「勿論、皇后様には灌に行って頂きたく存じます。私からもお願い致します。陛下を救って頂きたい」
 華耶は頷いた。
「まずは都へ帰ります。そして、灌へ」
 甘く苦い昨日までの過去を振り切るようにそこを出て。
 自分の足で進まねばならない。強くならねば、救う事など叶わぬのだから。

 敵本隊まで随分近付いてきた。
 もう二日も馬を駆れば壬邑に接する戦地に着くという。
 その前に一軍は一つの村で休息を取った。
 村長が暗枝阿に従う証として、一晩もてなしたいのだと言う。
 酒宴が始まり、女達が歌い舞う。一大決戦を前に兵達は英気を養った。
 その喧騒から少し離れて、朔夜は刀の手入れをしている。
 隣に波瑠沙が酒を持って座った。
「お前も飲むか?」
「嫌だ。もう絶対飲まない」
 二日酔いの様子を思い出して彼女は高らかに笑う。もう既に結構飲んでいる。
「飲まなきゃお子ちゃまから脱出出来ないぞ?」
「いいよもう。あんなにしんどい思いをするくらいなら、波瑠沙に子供扱いされた方が良い」
「そんな事言って、その方が居心地良いって気付いたんだろ」
「そんな訳ないじゃん!」
「撫でたら喉鳴らして喜んでる癖に」
「俺は猫じゃないっ!」
 けらけら笑って酒を口に流し込む。例によって瓶子(へいし)ごと。
 目の前を兵の一人が女を連れて歩いて行った。二人は物陰に入りそこで何やら始めたようだった。
 ぽかんと口を開けてそれを目で追っていた朔夜の肩を、ぐいと寄せて波瑠沙は囁いた。
「次はお前から押し倒してくれたら大人と認めてやらんでもないけど?」
 まだ、ぽかんは続いていたが、徐々にその意味を解したらしく顔が赤くなっていく。
「お前酔ってるだろ!」
 けけけ、と喉で笑って朔夜の鼻先に瓶子を寄せる。酒の甘い匂いが鼻腔を掠める。
「飲めば良いのに」
「嫌だ」
「二日酔いになったら介抱してやるぞ?」
「そういう自分は大丈夫なのかよ?」
「私は鉄壁だからな」
 よく分からない言はともかく。
「これ皆大丈夫なのか?いざ戦になって動けないなんて事ないよな?」
「そんな情けない事が起こるかよ。哥人を侮るな」
「哥の人はみんな酒に強いって?」
「ああ。大体な」
「ふうん…」
 とりあえず信じるしかない。
 波瑠沙が人影に顔を上げ、急に顔色を変えたかと思うとそこに平伏した。
 暗枝阿だ。彼は二人の前に腰を下ろした。
「お前らに任務を与える」
 顔を上げた波瑠沙と目を合わせる。
「任務?」
「お前が戦で他の者と同じ動きをしても意味が無いだろ」
 朔夜の鼻先を煙管で指して言う。
「まあ…そうだけど。何をすれば良い?」
「香奈多の救出だ」
 即座に納得して頷く。
「分かった」
「彼女は恐らく敵本陣の中心に居るだろう。頼んだぞ」
「ああ」
 返事はしたが、似合わない台詞だなと思った。
 頼んだ、なんて殊勝な言葉を吐くような御仁だろうか。
 それが顔に出ていたのか、立ち上がりながら彼は言った。
「自分の女をお前に託すんだ。その為に連れて来た。その辺解っておけ」
「あ…、はい」
 普通に部下のような返事。
 なんだか意外で。
 暗枝阿が去ると、幾分酔いが冷めた波瑠沙が眉間に皺を寄せて言った。
「敵の中心まで二人だけで切り込めって事か?香奈多さんを助けたいのは私もだけど、無茶な」
「俺一人で行くよ」
「ばーか。させるか」
 罵りに真面目な顔で見返して。
「この前ので分かったんじゃないのか?俺は一人で動いた方が良い」
「じゃあどうして暗枝阿様が私にまで話をするんだよ?考えてもみろ。お前は戦ってる時は強いが、その後が脆い」
 ぐうの音も出ない。敵を殲滅させるからあまり問題にならないが、そこを狙われた経験は皆無ではない。
「おんぶで離脱させてやるから安心しろ」
「そーゆー言い方するな…」
 彼女は酔うと意地が悪くなる。肝に銘じた。
「さてと。飯は食ったのかお前」
「うん、もうとっくに。いつまで続くんだこの騒ぎ」
「それぞれ好きな時に寝るさ。こっちもやる事やって寝るか」
「蜥蜴は食べないよ」
「そうじゃない。刀は片付けとけ」
 素直に手入れを終えた刃を仕舞う。
 と。
「うわわわ!?」
 押し倒されて馬乗りに乗られて、混乱しているうちにさらりと波瑠沙は衣を脱ぐ。
「ちょ、待て、待って…」
 肩から落ちかけた下衣を押さえて朔夜はなんとか彼女を止めた。
「なんだよ?駄目なのか」
「こんな所じゃ人から見えるだろ!?」
「ここも物陰だけどもうちょい奥に行く?みんなその辺でやってるけど」
「そうじゃなくて…!」
 はたと。
 朔夜の顔色が変わった。
「どうした?」
 顔の前に指を立てて黙らせ、地面に耳を付ける。
 不穏な足音。
「…敵だ」
「暗枝阿様に」
 頷くと、彼女はさっと立ち上がって走った。
 そこに纏めて置いた武器から双剣だけをひったくり、朔夜も立ち上がって駆ける。
 この村は丘陵の狭間にある。狙われるなら上だ。防衛的に余りに弱い。
 丘を登ろうとしてすぐ、岩陰に隠れる不穏な人影を見つけた。
 朔夜が飛びかかったのとその人影が刀を抜いたのは同時だった。
 まず一撃を躱し、背後に回りながら剣を抜いて肩に刃を滑らす。
 相手は刀を落とした。その首筋に背後から刃を突き付けて、朔夜は問うた。
「瀉冨摩の兵か?」
 言葉は通じぬが、その名前は通じたらしい。男は頷いた。
 その瞬間、身を翻そうとしたが朔夜は許さず、そのまま首を掻き切った。
 村の中で怒鳴るように呼ばわる声が響いた。盤を叩くような高い金属音も。
 ざざっ、と上からも音がした。見ると、無数の弓矢が構えられている。
「波瑠沙」
 無意識に、守るべき人の名を呟いていた。
 弓が放たれた。岩陰に身を潜めてその雨をやり過ごすより無い。
 眼下で悲鳴が上がった。女のものが高く響き、男の断末魔の叫びも混じる。半端に途切れる声。
 一度止んだ雨の合間に朔夜は走った。崖を跳んで駆け上り、そこに居た弓兵が慄くのに目もくれず見えぬ刃で薙ぎ払った。
 弓兵の後ろに控えていた歩兵が纏めて斬り掛かってきた。
 朔夜は身を翻し、回転するように刃を躱しながら己の剣を振った。波瑠沙の剣技を何度も頭の中で反芻していたら自然とそうなった。得物の長さの違いはあるが、これは敵に的を絞らせ辛い。
 次々と敵を仕留めてゆく。だがその間にも、弓兵が次の矢を番(つがえ)ている。
 これを止めねば彼女が危ない。
 天空に目をやった。
 異国の月は繍のそれと変わらず煌々と輝いている。
 ざっ、と。
 見えぬ刃が走るように、並ぶ弓兵を次々と薙ぎ倒していった。
 血飛沫の波が立つ。
 歩兵達もそれを見てぎょっと動きを止めた。
 その一瞬も朔夜の刃は敵を斬ってゆく。
 血腥(ちなまぐさ)く華麗な剣舞。
 赤い裳裾を翻すかのように。
 崖下から雄叫びが上がり、こちらを目指してくる無数の足音が響いた。
 同時に別の丘から下へ敵が雪崩れ込んでいた。
 村の中は混戦模様となった。
 そこの敵をあらかた片付けた朔夜は動きを止め、今度は下へと走った。
 登ってきた味方兵が目を丸くする。
「波瑠沙は!?」
 怒鳴るように問うと、下を指差した。その指の方向へまた走る。
 もう上に敵は居ないと察した彼らもついて来た。
 村の中では敵も味方も入り乱れて戦っていた。
 敵は鎧を着、完全な装備だ。対して味方兵は軽装の者が多い。裸の者も結構目につく。夜襲の結果だ。
 ただ、敵の見分けが付きやすいのは朔夜にとって有難い。
 群衆の中で小回りの効く体を活かして敵に刃を突き立ててゆく。
 その間、ずっと波瑠沙の名を呼んでいた。
 月を憑けた筈なのに不思議ではあった。その戦闘力を維持しながら、頭の中はずっと彼女の事を考えて意識を保っている。
 叫び続けねば悪魔に変わる危機感は何処かに持っていた。だから名を呼び続けた。
「朔!」
 応える声があった。
 安堵しつつ敵の脇腹に刀を突き立てる。
 波瑠沙も長刀を振り下ろして敵の鎧ごとぶった斬り、くるりと回転しながら背後の敵を突いた。
 襲う刃の間を縫って、二人は手を取った。
「無事だった?」
「そっちも?」
 短い会話で満足して、背中合わせになり刀を構える。
 地面を蹴った。もう恐れるものは無い。

 村長は瀉冨摩に手引きしたと自白した。
 この村に招き入れ、酒を飲ませた所に夜襲をかけさせる計画だったと。
 暗枝阿からそう聞かされて、朔夜は頬を膨らませて言い返した。
「それでこの村の人に何の良い事があるんだよ?一緒に矢にかけられてさ」
 無差別に降り注いだ弓矢はこの村の人々も随分と殺している。
「生き残った者で報酬を山分けする腹積りだったんだろ。戔から金を盗ってくる予定だからな、瀉冨摩は」
 暗枝阿は煙管の煙と共にそう吐き出した。
「女の人をあれだけ死なせて…目的は金なんて」
 村人で犠牲になったのは何も知らぬまま兵と共に寝ていた女達が大半だった。
「最低だな…」
 足元の小石を蹴って立ち上がる。
「あまり女に拘(こだわ)るな。動きが鈍るぞ」
 半笑いで暗枝阿は警告した。
「どういう意味だ」
 顔を顰めて朔夜は振り返る。
 鼻で笑って相手は答えた。
「お前は今、自分の女しか見えてないだろ?戦う目的も忘れてな。そんな奴は足手纏いだ」
「そんな事無い」
「明紫安の救出を優先させなかったろ?」
 それを言われると黙るしかない。あの時見られていたのかと苦く思いながら。
「香奈多で同じ事を繰り返すなよ?邪魔なら一人で行って帰って来い」
「そうしたいけど」
 波瑠沙は怒るだろうなとも思う。
 それに矢張り、行くのは良いが帰るのは至難の業(わざ)だ。敵の中央部で香奈多を庇いながら逃れる術が思い当たらない。自分の体力だって持たないのに。
 暗枝阿は溜息と共に一挙に煙を吐き出した。
「香奈多の為に未完成の化物を使わなきゃならない俺も俺だな」
 何も言えずに睨むしかない。否、直接睨む気力も削がれて足元に視線を落としていた。
 俺達は化物か、と。
 問う勇気は無かった。
「行け。明日朝には出立する。それまでに出来るだけ負傷者を治せ」
 頷きもせず踵を返す。幔幕を潜ると波瑠沙が待っていた。
「邪魔なら離れとくぞ?」
 問われて首を横に振った。暗枝阿はわざと彼女に会話を聞かせていたのだろう。
「しかし大丈夫か?今でもふらふらしてるのに。またぶっ倒れたら香奈多さんの救出なんて出来ないだろ」
「やるしかないんだ」
 俯きながら朔夜は言った。
「やらなきゃ、ここに来た意味が無い」
「意味ねえ」
 今にも倒れそうに重心を失っている体を捕まえて、支えながら引き寄せる。
「これが終わったら二人で戔に行くんだ。それだけで十分意味はあるだろ?」
 腕と胸に挟まれて、きょとんと見上げる顔。
 結果がどうであれ、ここに来た意味が無いなんて言わせない、と。
 波瑠沙は肩を抱える逆の手で鼻を摘んでやった。
「ふぎゃ」
 するりと体が抜ける。
 げらげらと笑って背中を叩いた。
「さあ治してやれ。そしたら朝までたっぷり寝て良いからな、お子ちゃま」
「もー…」
 子供扱いを容認したので反論も出来ない。
 自軍の負傷者は意外に少なかった。朔夜の早い気付きが役に立ったのだと波瑠沙は言ってくれたが、本当は暗枝阿の方が先に気付いていた。
 密かに向かいの丘へ赴き、敵兵を自ら殲滅し挟撃を防いでいたという。
 負傷者が少ないのもその為だ。全員を油断させていた訳ではない。
 罠に掛かったように見せかけて敵を誘い込み、圧倒する。
 敵わないと思った。一人で刀を振るうより無い朔夜には、軍の動かし方が分からない。
 だからって、あの男の言うことを全て聞くのは癪だが。
「波瑠沙」
「何だ?」
 振り返れば、にこりと笑ってくれる。
 意地悪もされるけど、この安心感には変えられない。
「次も一緒に戦ってくれる?」
 深く頷いて、頭に手を伸ばす。
「勿論。お前がそう望むなら」
 わしゃわしゃと撫でられながら、うん、と小さく頷いた。


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