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月の蘇る
  1
 灰の舞う街を歩く。
 都の半分が焼けていた。火をかけたのは大臣の軍だった。奪われる都を焼いて逃げたのだ。
 街のあちこちで炭となった家を掘り起こす人が見られ、嘆き、啜り泣く声がする。
「…どうしていつもこうなるんだろ」
 暗い目をして朔夜が呟く。
 悪夢から覚めても、まだその目は戦火で焼かれた故郷を見ている。
 隣を行く波瑠沙は黙ってその肩を抱いた。
 眠りから覚めた朔夜は半強制的に闇枝阿に連れて行かれた。囚われていた女官達の怪我を治せと言われて。
 それ自体は心やすいものだったろう。だが実際にその場へ行くと、それは地獄絵図だった。
 共にその場を踏んだ波瑠沙でさえそう思ったのだから、朔夜の目にはどう映ったのか。
 女達は悉く身包みを剥がされて玩具として扱われていた。体の至る所から血を流し、泣いている者も居ればもう動かない者も居た。
 何かが違っていれば自分もこの中の一人だったのだと波瑠沙は自覚し、一人だけ逃れた責任感から口を開いた。
「暗枝阿様、まずは私が皆を診ます。服を着させて、重傷者を後で朔夜に治させては?」
 威圧的な存在である暗枝阿に楯突くように必死に進言した。朔夜の前に立ち、その視界を塞ぎながら。
 朔夜の足は止まっていた。心もまた同様のようだった。焦点を結ばぬ目で惨状を見ていた。
「時が惜しい。俺が発見してから既に二人死んでいる」
 暗枝阿はそれだけ言って朔夜を睨み、そこから去った。
 朔夜は波瑠沙の横を擦り抜け、ふらふらと彼女らに吸い寄せられていった。
「無理するな。昨日の今日だろ」
 小さく首を振ってその場に座り込み、血を流す女の体に触れた。
 黙々と彼女らを治癒してゆく。まるで贖罪のように。
 全て終えて朔夜は再び意識を失った。その体を波瑠沙は背負ってまた寝台に運んでやった。
 よほど疲れたのか、今度は魘される事なく眠っていた。
 丸一日眠って、やっと外の景色をその目で見ている。
「梁巴(リョウハ)も燃やされた。その後の事は記憶が無いけど、きっとこんなだったんだろうな」
 それが彼の故郷の名だと、訊かずとも分かった。
 人型の炭となったものが道に転がっている。一つではない。あちこちに。
 それがかつての住民だったのか味方なのか、はたまた火をかけた敵なのかすら判別出来ない。
 そのまま何もかも砂塵に帰すのだろう。
 朔夜は足を縺れさせて転んだ。地面に倒れたまま、動かなかった。
「大丈夫か」
 頷いたが、視線は空へ吸い込まれていた。
 憎々しい程に晴れた空。
「何度も同じような所を見てきたのに慣れない」
 自嘲して彼は言った。
「だからいつも空ばっかり見てる。空には何も無いから」
 地上にあるものは全て苦しく悲しいものだ。
 そこから逃げようと思えば、こうして何も無い青に心を染めるしかない。
「歩き疲れたなら背負ってやるぞ」
 波瑠沙の提案に少し笑って。
「そうしようかな」
 延ばされた手を、躊躇なく取った。
 目的地はそう遠くない。都の中心に大きな天幕が建てられ、負傷者が収容されていた。
「どっちが負傷者だか分からんな」
「ほんとだ」
 運び入れて下ろしてやる。朔夜は当然のように重傷者に手を伸ばした。
 怪我の重い者から、一度に五人まで。あまり力を使うとまた気を失うからだが、今の体力では五人も怪しい。
 全身火傷を負った子供。次に敵兵に斬られた女性。二人とも傷が深い事もあり、手こずった末、そこがもう限界だった。
 天幕の隅に転がる。人々が痛みに喘ぎ苦しむ声を聞きながら。
 波瑠沙が水を出してくれた。重い体を持ち上げて口に含み、目を丸くした。
「甘い」
 ふふっと自慢げに彼女は笑う。
「明紫安様が海の向こうから取り寄せた砂糖が入っている。疲れた時はこれが一番だ」
「へえぇ」
 ぐびぐびと飲む。
「あ、でも後でちゃんと真水で口を濯げよ。じゃないと虫歯になるからな」
 ある意味で虫歯は不治の病だ。歯を抜くまで痛みに苦しむ事になる。
 自分は経験が無いが、梁巴に居る時にそういう人が居たような。治してくれと言われて困った覚えがある。
「分かった。覚えとく」
 真顔で言って、しげしげと珍しく水を見て。
 無論、見た目はただの水なのだが。
「波瑠沙は海を見た事がある?」
「あるよ」
「えっ本当!?」
 ものすごくびっくりしている。
「明紫安様の荷を受け取る、その警護でさ。哥の西の極みに海があるんだ。ずっと川を下っていったら辿り着ける。あの時は十日かかったかなぁ」
「海って何色?ほんとに水ばっかりなの?」
「青いよ。青くって、ずっと白い波が寄せてきてる。水ばっかり…まあ、そうかな。次の陸地まではずっと水だ。それも、塩水。かなりしょっぱい」
「へえぇ…」
「行ってみれば良いのに。連れて行こうか?」
「ほんと!?」
 にこりと笑って、頷く。
「お互い手が空いたら行ってみよう。約束だ」
「うん!」
 すっかり陰の消えた顔で頷き返す。
 その無邪気さが可笑しくて可愛くてならない。少し伸びた銀髪をわさわさと撫で回す。
 朔夜は擽ったそうに笑って、やめろよーと口だけで抵抗してみている。
 彼の心の中に燻っていた火を消したのは、甘い砂糖水だった。

 その翌日、明紫安と暗枝阿は民の前に並び立ち、王権の復興を宣言した。
 双子を禁忌とするこの国で二人の関係は明言されなかった。多くの者が夫婦だと勘違いしただろう。
 とりあえず波瑠沙の言う、女の蔑ろにされるこの国の改善の一歩だと思って朔夜は見た。
 誰もが暗枝阿と共に明紫安に頭を下げている。それで良いと思った。
 同時に大臣瀉冨摩を謀反の大罪人とし、東の戔との国境に集まる彼の軍と共に討ち果たす事が宣言された。
 産まれた時から戦う事を生きる目的とする哥の民は沸き立った。それが自分達に直接利のある戦でなくても、士気は非常に高い。
 一人浮かない顔をしているのは朔夜だけだ。
「どうした?」
 波瑠沙に問われて、一時的に暮らすようになった王宮へ戻った。
 その道々、朔夜は語った。
「龍晶の事を思い出してた」
「戔王を?ああ、燕雷に置いて行かれたのが今更堪えてるのか」
 燕雷は朔夜が寝ているうちに帰途へ着いていた。起きてからそれを聞かされた。
「それは仕方ないよ。仕方ないけど…帰りたかった。帰ってあいつに会いたかった」
 波瑠沙は苦笑いを浮かべて頭を小突いた。
「お前な。そうなると私に会えなくなるって分かって言ってるのか?」
「波瑠沙を二人に会わせたいんだ。龍晶も華耶も喜んでくれると思う」
「私も一緒に戔へ行けって?」
「うん。駄目かな。二人に言われてたんだよ」
「なんて?」
 立ち止まって、視線をあちこちに彷徨わせて。
 言おうとして、やめて、だけどまた息を吸って、吐いて。
「おい、何だよ」
 何となく察して半笑いで波瑠沙は問うた。
「やっぱ良いや。波瑠沙には婚約者が居るんだし」
 すたすたと歩き出して追い抜いていく。
「は?あいつはもう死んでるよ。知らないけど、多分」
 屍を見ていないので断定は出来ないが、生きていようが死んでいようがもうどうでも良い。
「大体、あの男の事を思い出すだけで虫唾が走る。もう婚約者なんて言ってくれるな」
「嫌いになったんだ」
「ああそうだな。思い出したくもないくらい嫌いになった。て言うか、お前さ」
「なに?」
 自覚が無い。装っているのではなく、本当に分かっていない。
「ここまで散々、自分に気を惹かせておいて今更それは無いだろ」
「俺なんかしたっけ?」
「し…て、ない」
 した、と言おうとして考えると言えなくなった。
 守ろうと刀を振るったのも傷を治したのも、全部自然な行動だ。だから自覚が無い。
「してきたのは波瑠沙じゃん、全部」
「あーそうだな。そういう事にしとこうか」
 何故かむくれられて、また苦笑いで受け入れる。
 仕方ないから自分で言った。
「私はお前が好きだから、こうして傍(そば)に居るんだけど?」
 また足が止まった。
 もう顔が赤い。
「戔に行ってやろうか?戔王になんて紹介してくれるんだい?」
 にやにやと笑いながら弄(いじ)る。
「…好きな人が出来たら連れて来いって、二人が言うから」
 それだけ言うと走り出した。
「おい」
 笑いながら呼び掛けるが、もう足は止まらなかった。
 やれやれ、とのんびり追う。
 この戦が終わったら、戔に行き、そして海まで旅しよう。
 互いに何かに押し流されるような人生だったけれど、たまにはそういう自分達だけの、必要に迫られない旅も良いんじゃないか。
 伴侶として何処へだって行きたい。
 あいつが笑っている顔を見るのが好きだから。

 頭の中が粉々に砕かれたような。
 思考が纏まらない。甘さも苦さも辛さも、全部煮詰めて味わっているようだ。
 誰かを好きになるなんて、そんな事絶対に有り得ないと思っていた。勿論ずっと華耶は好きだったけど、それ以上は無いと言うか。
 華耶は幸せになってくれればそれで良かった。だから龍晶にそれを実現して貰った。それで二人が幸せそうにしているから、それ以上望むものは無かった。
 自分の手でどうこうしよう、なんて。
 望んではならないし、望める筈も無い。俺は人じゃないのだから。
 これだけ罪を犯した手で、誰よりも守りたかった人を殺した手で、誰かを求めてはいけない。
 自分が幸せであって良い筈が無い。龍晶にもそう言ったけれど。
 お前を救う方法を考えておく、とあいつは答えた。
 その方法を自分から持って行けばあいつは喜ぶだろう。勿論、華耶も。
 そういう建前だと思えば、二人に喜んで貰える為の手段だと思えば良いのだろうか。
 違う気がする。その嘘に意味は無い。何より、嘘にならない。
 龍晶に会いたい。会って全部話してしまいたい。あいつがなんて返すのか、それが聞きたい。
 答えは分かりきっている。きっと俺は肯定して欲しいだけだ。この感情を。
 恐ろしい未来から目を背けて。
 波瑠沙は強い。強いけれど、自分が手をかけない証明にはならない。
 早く戦場に行かねばならない。自分が悪魔であると自覚する為に。
 こんな事許されないって、自他に知らしめる為に。
 また息が出来ない苦しさに襲われる。もう分かった。これは欲望と理性のせめぎ合いだ。
 悪魔が頭の中で囁く。
 自分を止める必要は無いだろ?向こうもそれを望んでいるぜ?
 駄目だ、と首を横に振る。そうだとしても、それは今だけの気の迷いだ。彼女は別の人を選べる筈だから。俺なんか選ばなくったって。
 良いのかよ、と悪魔はせせら笑う。
 他の男に抱かれてもお前は文句無いんだな?あの哀れな女官達のような目に遭っていても、そういうものだって自分に言い聞かせながら淡々と治癒してやるんだな?
「やめろ…」
 あの時の感情を悪魔に言葉にされ、まだ新しい記憶が掘り起こされる。早く蓋をしてしまいたかったのに。
 あの中に波瑠沙が居たら?
 きっと全力で救い出す。他の誰もを放っておいて、彼女だけはと思う。
 淡々となんて出来ない。それは認めてやる。無理だ。
 けらけらと悪魔が高笑いしだした。
 じゃあお前の欲望は一つだろ。あの女達を犯して嬲った奴らと同じ事をするんだ。当然だよな、お前は人じゃないんだから。
 堕ちた人間どもよりタチが悪いのは当然だろ?
 お前は悪魔だ。
 欲望のままに人を殺す、悪魔なんだから。
 お前の母親だって――
「やめてくれ!」
 叫んだ。
 力の限り耳を塞いで、目を瞑って。
 そんなもの意味は無いけど。全て自分の中のものだけど。
 外を。外の世界へ出なければ、悪魔は消えない。
 ゆるゆると目を開けた。
 隠れている茂みががさがさと動いて、波瑠沙が顔を出した。
「みーつけた。こんな所に居たのか」
 茂みの中にうずくまって、子供の隠れんぼにしか見えない。
「ほら、観念して早く出て来いよ。見つかったらお前が鬼なんだぞ」
「俺は悪魔だよ」
 蹲って俯いたまま朔夜は言った。
「誰でも殺し傷つけてしまう悪魔だ。離れてた方が良い」
 だんだん、悲鳴のように。
「いや、頼む。離れてくれ!一緒には居られない。これ以上は…!」
 突然、天地がひっくり返った。
 背中が地面に付いている。強い力で引き倒されたのだと理解する前に、熱いような温度を持つもので言葉を塞がれた。
 離した口で、波瑠沙は言った。
「面倒臭い」
 え、と顔を顰める。どういう意味だ。
「面倒臭いよお前。好きなんだろ?なら別にそれで良いじゃん」
 よ、く、な、い!と頭の中は全力否定しているのだが、口は再び塞がれて何も言えない。
 空いている手で相手の背中を叩いて降参の意を示すが、どうにも伝わらない。
 これは無視だと気付いて抵抗は諦めた。
 今だけ。今だけなら良いかという、甘い諦観だ。
 悪魔の高笑いが聞こえた。
 この声は、己の欲望の権化なんだと気付いた。もしかしたら、悪魔よりもより人間らしさを保っている己なのかも知れない。
「怖い?」
 波瑠沙が訊いた。
 迷って、首を横に振る。
 全く怖くないと言えば、嘘になるけど。
「大丈夫だよ。知らないものはみんな怖い。海みたいなもんだ。最初は広すぎてどうしようもなくて、恐ろしいものだと見えるけど。慣れれば綺麗に見える。また行きたいって私も思ってる」
 見渡す限り青い水面の揺蕩う場所を想像する。
 きっと潜れば何処までも行けるのだろう。梁巴の川と違って、青い世界が何処までも続くのだろう。
 その分、流される力も強いのかも知れない。今度こそ木端微塵になるのかも。
 それでも良いか、って。
 そこまで行けたら。
「一緒に行こうな?」
 頷いた。二人でそこに居る事より他に、もう考える事は無かった。


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