月の蘇る 9 もしこの変事が起きなければ、近い将来都の中にある小さな家で家庭を築いていただろう。 それなりに出世した申丁は兵舎を出て家を持った。つい最近の話だ。 これで人目を忍ばずに会えるんだと、彼は言った。波瑠沙は嬉しくて頷いた。 明紫安と香奈多も喜び祝ってくれた。彼の家に行くと言うと、いくらでも泊まっていらっしゃいと送り出してくれた。 幸せだった。この日々がずっと続いていく事が、何より嬉しかった。 それが、間もなく崩れ去った。 明紫安はこの事を予見して、いち早く波瑠沙に言った。彼の家に避難していなさい、と。 そして、何か動きたいと思う時はこれを開きなさい、そう言って密命の書かれた紙を渡された。旦沙那の存在はそこで初めて知った。 別れ際にも明紫安は言った。 あなたの好きな方を選びなさい、と。 その時はまだ何が起こるのか知らなかった。これから起こる事を知っていれば、片時も王の傍を離れなかった。例えそれで死ぬ事になったとしても。 変事の全容は己の役割を果たした後の申丁から聞かされた。 もうここには居れないと思った。だが、この家を離れても彼から離れるのは難しく、二日後の夜中に街中でまた会おうという事になった。 家を出た波瑠沙はまず旦沙那を探し、事情を説明した上でその家に身を置かせて貰いながら情報収集した。 彼に会うのはその一環だと己に言い聞かせていた。 夜中、互いを見つけるなり、走り寄って抱き合った。こうしていると立場などどうでも良くなってしまう。 そうやってまた人目を忍ぶ逢瀬を数度経て。 彼の裏切りに遭った。 『生きてたんだな、波瑠沙』 それ以来の彼の言葉は、嘲笑を含んでいた。 『結構な人数がそっちに行ったろ?流石のお前でも無理だと思っていたが』 『知っていたのか。私が来たと』 『ここまで来るならお前しか居ないと思っていた』 ふっと彼女は笑った。 『自分の見えない所で死んでいて欲しかったんだな』 『まあな。妻になる筈の女に目の前で死なれたら後味が悪いだろう』 『じゃあ…どうする?』 申丁の後ろから数人の兵が出て来て、二人を取り囲んだ。 朔夜は双剣を抜いて波瑠沙と背中合わせで構えた。 『そういう事か』 悲しく笑って波瑠沙は言う。申丁は嘲笑を浮かべたまま返した。 『せっかくここまで来たんだ。最期はこの手で仕留めてやろう。…ところで、その餓鬼は?』 にやりと強気に笑って返した。 『新しい恋人だが、何か?』 男の虚を突かれた顔を笑って、波瑠沙は刀を抜き振り下ろした。同時に朔夜も動いた。 人数は多くない。二人にかかれば一瞬だった。 残った男を、波瑠沙と朔夜が挟む。 「どうする?もう話はついたのか?」 朔夜が敵越しに訊いた。 「いや、やっと落ち着いて話が出来る所だ。ちょっと待っててくれ」 「分かった」 「何なら、先に行って陛下をお助けしていて欲しい」 「この先まだ敵は居るのかな?」 同じ事を波瑠沙は申丁に訊いた。 聞き出した答えを朔夜に教える。 「自分達で最後だそうだ。新手が来るならここを通るだろう」 「じゃあ待っとく。先に行っても迷子になりそうだし」 「はは、確かにな」 優しく笑って返し、かつての恋人へ向き直った。 『まだ何を話すと言うんだ』 申丁は開き直った調子で問う。 『そうだなあ。ずっとお前が本当に裏切ったのかどうか知りたいと思っていたが、それを問うのも今更だよな』 男は鼻で笑った。 『俺は当然の事をしたまでだ。我々に不利な動きをするお前を消す必要があった』 『軍人としてはそれで正しいよ、確かに。でも人としてのお前はどうだったんだろうと思って』 『自分の女を陥れて?それで俺が苦悩したとでも?』 『しないか。迷いなんか無いよな』 『つけ上がるなよ。体が目的の女を捨てたとしてどうという事は無い』 はっきりと言葉にされてしまうと、残していた希望に代わって虚しさだけが残った。 『そっか。最初からそうだったか』 『そうだな。皆が考えていた事を俺一人が実行してお前を手に入れたってだけだ』 『そっか…』 呟きながら、刀を一閃させて振り下ろした。 が、男に刃は届かなかった。代わりに高い金属音が響き渡った。 朔夜が交叉させた双剣で刀を止めていた。 「朔…」 呆然と名を呟く。 「分かんねーけど、それはいけない。後が死ぬ程辛いから。好きなんだろ?」 刀を引いて、波瑠沙は首を横に振った。 「もう良いんだよ、朔。この男は体が目当てだってはっきり言った。それだけの関係だ。もう敵でしかない」 納得しない顔で朔夜は男を振り返った。 「波瑠沙のこと、大事にする気が無かったのか?」 言葉は通じない。波瑠沙はあくまで翻訳として同じ事を問うた。 『大事にするってどういう事だ。お前はそれが出来るのか』 逆に問われた。そのまま朔夜に教えると、うーん、と考えて。 「俺は悪魔だから好きな人のそばに居られないんだ。近くに居ると殺してしまうから。戦場でしか生きていけない。それだと大事にするって事は出来ないだろ?だから、俺には出来ない」 嘘偽り無い表情で男に説明する。 波瑠沙は、翻訳を忘れて暫しその意味を考えていた。 朔夜が不思議そうに振り返った。 「あ、俺が月夜の悪魔だって知られない方が良いか」 「いや、そういう事じゃない」 否定して、刀を収めるとその長さの分だけ離れていた距離を詰めて。 そっと肩を抱いて、唇を重ねた。 「ははは波瑠沙っ!?」 すぐさま朔夜の方から離れた。顔を真っ赤にして。 笑いながら、彼女は元の男に言ってやった。 『お前よりよっぽど大事にしてくれるってよ』 『子供じゃねえか』 『普段はね。だけどこれほど頼り甲斐のある男は他に居ない。私にうってつけだ』 『好きにしろ』 どさりと、そこに胡座をかいて座る。 『斬れ』 『それは出来ないな。また止められるから』 忌々しげに少年を見上げて、舌打ちする。 「なんか俺、嫌われた?」 肩を抱かれたまま不可解そうに問う。 『行けば?もうここに居ても仕方ないだろ。後から来る奴に斬られるよ、多分』 波瑠沙に言われて、体も重そうに申丁は立ち上がった。 『じゃあな。もう会う事は無いだろう』 女の言葉に軽く手を上げて、男は去った。 「…良かったの?」 純粋な目に見上げられて問われる。 「ああ。お前のお陰だ」 「俺は何もしてない…って言うか、あんな事して大丈夫だったのか!?その、婚約者って人の前で!!」 唾も散る勢いで問われて、波瑠沙は離れた。 「嫌だった?」 「嫌…じゃないけどっ!!」 「なら良いや」 ぽふぽふと頭を叩いて先へと進む。 「ほら、行こうぜお子ちゃま」 朔夜は頭を抱えて後ろをついて来た。 回廊を進み、見覚えのある空間へ出る。その頃には外から聞こえる争乱の音が激しくなっていた。 時折火の粉が飛んでくる。夜の空は赤く染まった。 「都に住んでた人は大丈夫なのかな」 朔夜の問いに、口を引き結んで波瑠沙は頷いた。 恐らく多くが無事ではあるまい。何の罪咎も無い女子供から焼け出されてゆく。 「あっ、この庭!」 朔夜が走った。大きな紅葉の木が聳えて出迎えてくれる。 葉の無い枝の先には、赤く染まった故国の空があった。 「…ここに陛下はいらっしゃる」 そこにある扉を波瑠沙は押した。勿論、びくとも動かない。 「前に龍晶と泊めて貰った部屋だ。ちょっと良い?」 朔夜は扉に掌を当てた。今度はそう時間はかからなかった。 今度は砂になる事もなく、小さな欠片となってそこに崩れた。 中は暗い。 「陛下。明紫安様。波瑠沙です」 中へ呼び掛ける。返事は無い。 朔夜は躊躇なく中へ入っていった。外で燃え盛る炎の明るさで彼の目には事足りた。 その後をついて入る。不安に足が鈍った。 「…波瑠沙!」 呼ぶ声が悲鳴に近い。彼女は声の方へ走った。 寝台の横に朔夜は立っていた。その空間を隔てる紗幕を潜って。 波瑠沙もまた短く悲鳴を上げた。そして立ち尽くしている朔夜の顔を手で覆った。 寝台の上にあったのは、男達に思うさま乱暴された後の女の体だった。 「陛下…!」 はるさ、と掠れた声で名を呼ばれた。 生きている。死に遠い人だとは知っていたけど、安堵のあまり涙が溢れた。 ひとまず朔夜に顔を背けさせ、己の上衣を脱いで体に掛ける。 「とりあえず良いぞ。傷を見てくれ」 朔夜は振り返れぬまま震えていた。 「朔?」 肩を叩いて促そうとする波瑠沙に、明紫安は弱々しく微笑んで告げた。 「無理しなくとも、私は勝手に治りますから」 「しかし、陛下…」 彼女の心配は置いておいて、明紫安は朔夜へ言った。 「あなたの傷を抉ってしまう姿ですみません。離れても良いですよ」 びくりと、体が震えた。 傷。治らない傷。あの光景。 「…見てたの?」 明紫安は微かに頷いた。 その瞬間、朔夜は駆け出していた。 「朔!」 外から叫び声が聞こえた。 言葉にならない、悲痛な叫び声だった。 波瑠沙は名を呼んだまま、呆然とその声を聞いていた。 「…波瑠沙」 主人の声にはっと我に帰る。 跪いて、顔に耳を寄せた。 明紫安は言った。 「あなたがあの子を愛するのなら、知っていてあげて。あの子のお母様は、戦の中でこうして乱暴されてしまったんです。あの子の目の前で」 「…そうなのですか」 引っ掛かる声音で返す。だがいろいろ腑に落ちた。 「そして戦の終わりと共に亡くなってしまった。加害した兵と共に自分が手をかけたとそう思い込んで、それをずっとあの子は抱えながら生きています。たくさん、心から血を流しながら」 波瑠沙は俯いて顔を手で覆った。 その頭を、育ててくれた母が優しく撫でてくれた。 「あなたと出会ってあの子は変われるかも知れない。もう少しずつ変わって来ているでしょう?傷を治してあげるのは波瑠沙、あなたの役目かも知れません」 叫び声は潰れて、聞こえなくなった。 「行ってあげて」 頷いて、瞬時に動く。 外の光景を見て、あっと声を上げた。 朔夜は刃を己に向けていた。 「待てっ…!」 庭の中に転び出て、背中を覆うようにかぶさって、刀の降ろされた首に腕を回した。 肉を切って、刃は止まった。 二人の荒い息が重なる。 腕を斬られた痛みも忘れて、両腕で肩を抱き締め、その背中に額を付けた。 「大丈夫だよ、朔夜」 背中に向けて唱えるように囁く。 「大丈夫…」 呼吸に合わせて上下する背中。 そこに、別の動きが加わった。 ぎこちなく手を動かして、波瑠沙の腕に刺さったままだった刀を引き抜いた。 熱を持った血が朔夜の体に流れ落ちる。 刀を傍らに落として、両手でその傷口を包んだ。 波瑠沙の腕に、ぽたぽたと温かな雫が落ちる。 彼女は息を吐いて、少し微笑むと、頭を起こして頬に頬を擦り寄せた。 その耳元で言ってやる。 「お前は好きな人を殺しやしないよ。大丈夫。私は生きてる」 「でも傷付けた」 「これくらい何とも無いし、ほら」 朔夜の手の中に、優しい光が溢れていた。 痛みは無くなった。 「治してくれるだろ?お前は」 光が消え、ぐったりと体を預けてきた。 もう限界なのだろう。この前は一度治癒の力を使っただけで寝こけたのに、今日はもう三度目だ。 体をずらして胸の上に頭を乗せてやる。その目に光は無く、焦点が合っていない。 「寝て良いよ」 顔を撫でて瞼を閉じてやる。 最後に残っていた力が抜けた。 頬を撫でて、そっと額に口付けして。 寝顔を見て、やっぱり子供みたいだと小さく笑った。 守ってやりたいと思った。 彼自身が抱えきれない、見えない痛みから。 ふわりと、隣に明紫安が座った。 既に自分の衣を身につけている。波瑠沙の上衣を、眠る朔夜の体に掛けた。 「みんな死んでしまいましたね」 庭の植物たち。己の生気を分ける事で過酷な環境でも生かされ咲き誇った花々。 今は茶色く枯れてその痕跡を残すのみだ。 明紫安は上へと視線を投じた。 紅葉の木に、空に映し出された炎の葉が、赤々と。 「これからどうなってしまうんでしょうか」 波瑠沙はその光景の不安のままに問うた。 「灰の中からでも、新たな芽は出ましょう」 歌うように明紫安は答えた。 「あなたもそう。傷ついた心から、新たな感情はちゃんと芽生えますから。臆する事なくこの子を愛してあげれば良いのです」 振り返った顔に、また涙が溢れた。 明紫安は娘の頭を撫でた。 「この子はあなたを裏切りはしない。大丈夫」 深く頷く。それは波瑠沙にも想像出来なかった。 自分がして貰ったように、傷口を急速に塞ぐ事は出来ないだろう。 見えなくて、深過ぎる傷口。 ゆっくりと、時間をかけて癒やしてやれば良い。 それまでは、共に居られるという事だ。 都の炎が消えるのと、夜明けが訪れるのは、殆ど同時だった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |