月の蘇る
8
闇の向こうから人の声がする。
こんな時間に有り得ないと思いつつ、念の為横の仲間に無言で顎を振って注意を向けさせ、いつでも槍を振れるように持ち替えた。
暗がりの中から人の形がぼんやりと現れる。
どうやら女と子供のようだが、そんな組み合わせの二人組がこの真夜中に平然と歩いて来る事がおかしい。
表情が篝火に照らされる位置まで寄ってきた。若い女と少年。親子では無さそうだ。姉弟でもない。血縁関係が無いのはその容姿で知れる。
『こんな時間に何をしている!?』
威圧を込めて問うと、女は不敵に笑った。
次の瞬間、女は背中にあった刀を抜いていた。そこに刀がある事さえ気付かなかった。驚嘆し後悔した時にはもう遅かった。
血飛沫の舞った横で、朔夜は別の兵の首筋に刀を当てていた。
絶対絶命の状況で、兵は波瑠沙を見て声を戦慄(わなな)かせている。
「貴様…この、裏切り者…!」
軍で共に過ごした者だと波瑠沙は気付き、返り血の滴る顔で微笑みかけて問う。
「裏切ったとは心外だな。私は陛下に忠誠を尽くしている。これのどこが裏切りなのか教えろ」
「その陛下は偽物だとお前は知らないのか!?国の力を弱らせ、南方に売ろうとする売国女だ。そんな奴に従うお前も同罪だ」
波瑠沙は真顔に直って刀を構えた。
「待て待て、ここで斬ったら俺も膾になっちまう」
男の後ろから刃を当てている朔夜は慌てて止めた。
「じゃあちょっと退けてくれ」
「まだ殺しちゃ駄目だってば」
釘を刺して、男に言う。
「門を開けろ」
男は荒く息を吐いて、三度扉を叩いた。
中から閂が外される音がした。
「どうした」
言いながら覗いた兵を波瑠沙が斬った。
声を上げようとしたもう一人も返す刀で斬って、振り返る。
朔夜は肩を竦めて脅していた男から離れた。
「待てっ――」
命乞いも間に合わず、刀に胸を突かれて死んだ。
二人は都の中へと入る。
「さて、行くか」
今ごろ同じように別の門は開かれているだろう。その頃合いを見計らって、本隊がやって来る手筈になっている。
その前に城へと走らねばならない。騒ぎにならないうちに、まずは王の無事を確保せねば。
「大臣は酷いこと言って兵を騙してるんだな」
走りながら朔夜が言った。
波瑠沙はすぐには何も言わなかった。聞いた直後は怒りを覚えたが、よくよく思い返せば事はそう単純ではない。
「兵達は逆に騙されたと思ったんだろう。だから大臣と一緒になって反旗を翻した」
「なんで?王様が騙したって言うのか?何を」
「民は皆、王は男だと信じている」
それは以前聞いていた。本来なら暗枝阿が担う筈だった王の役目を、彼は密かに姉に譲って失踪した。
「あまり自国の人間を悪く言いたくないが、どうあっても女に頭を下げられないのがこの国の男だ。女は己の世話をする奴隷と同じだと思い込んでいる」
「波瑠沙はそれに怒ってるんだ」
「まあな。自分の事ならともかく、陛下までそんな目で見られるとなると…」
彼女は口を噤んだ。
悔しさが滲み出ている。
「そんな国、変えちまえば?」
ぽんと朔夜は言った。
「は?私に哥を捨てろと?」
「違うよ。この国を変えるんだよ。王様が堂々と姿を現して、民は従うようにすれば良い。ちょっと違うけど龍晶だって戔を変えたんだ。出来ると思う」
「…簡単に言うな」
「簡単じゃなかったよ。大変だった。今も大変だろうけど」
波瑠沙とて戔の変わりようを全く知らない訳ではない。それは主人の戔王への執心ぶりを見ても分かる。そんなに好青年なのかと訝りつつ、微笑ましくもある。
「分かった。この騒ぎが終わったら是非お前から陛下に提言してみてくれ」
「え、俺?」
「言い出したのはお前だろ」
きょとんとした顔を鼻で笑い、前を見据える。
王城の壁が見えてきた。
「どこから入る?」
朔夜の問いに、己が先導となって道を示す。
壁になるべく近寄らないように城の裏手へと回る。壁に近寄れば当然、見張りがうろうろとしているからだ。
そうやって暫く行くと、壁の向こうに巨木が生えているのに気が付いた。見覚えのある、三百年生きた紅葉の木。
葉が殆ど残っていないのは、まだ新芽が出ていないからか、それとも生きる糧を失ってしまったからか。
波瑠沙も足を止めてその木を見上げていた。
「ここから入れれば一番近道なんだが」
囁く。道の向こうに人の気配がある。
「行くか?」
腰の得物に手をかけて朔夜は囁き返す。
「問題は人より壁なんだが…」
壁はここからでも見える。当然ながら人の手の届くような高さではない。
「壊しても良い?」
「は?無理だろ」
人の手で壊れるような簡単な作りではない。砂を固めて築き上げている。それも相当な厚さだ。
「試してみても良いだろ?」
言うが早いか、朔夜は走り出した。
手近に居た兵を声を出させる暇も無く首を掻っ切り、その奥に居た兵の元へ瞬時に距離を詰めると下から斬り上げた。
波瑠沙は駆け寄って反対方向に居た兵を斬った。その場に居た兵はそれだけだが、同じ路上に松明がいくつも蠢(うごめ)いている。
遠くで異変に気付いた者が火をこちらに向けてきた。
横目で窺えば、朔夜は壁に手を当てている。
「無理だろ?」
早くせねば見つかる。早く諦めさせようと袖を引く。
「ちょっと時間稼いで」
有り得ない言葉に思い切り顔を顰めて振り返った。が、相手は真面目な顔で壁を睨んでいる。
松明が寄ってきた。その向こうで仲間を呼ぶ声もする。腹を括るより無い。
「無理でも壊せ」
無茶を言い置いて踏み出しながら刀を振り上げた。
一人の断末魔と同時に、仲間を呼ぶ声が激しい叫び声になる。通りの向こうからわらわらと敵が走って来る。
波瑠沙は舞うように長剣を振り回した。敵が多い時は刀の重さに逆らわず己が回転して遠心力を利用する。刃が長いので隙が出来ず、攻撃範囲も広い。
戦いながら朔夜を窺い見る。
相変わらず壁に手を当てている。そんな事で崩れる筈が無いのに、諦める様子も無い。
波瑠沙の刃が届かなかった敵が朔夜へ踊り掛かった。壁ばかり睨んでいて刀を抜く気配も無い。
「朔!」
思わず叫んだが、その瞬間だった。
兵は一人でに体から血を噴いて倒れた。
思わず動きが止まった。周囲に居た兵も同様だった。それを見なかった者だけが斬りかかってきたが、その兵も同じように首から血を噴いて息絶えた。
『悪魔だ』
誰からともなく呟く。
その一言で恐怖は伝播した。刀を捨てて逃げ出す者まで居た。多くの者は刀を握ったままじりじりと後退してゆく。
波瑠沙もまた、動けなかった。今、攻めねばならないと頭では分かっているのだが、体が強張ってしまった。
悪魔だと聞かされていた。知っていた筈なのだが、実際にその超人的な力を目にすると混乱した。これまでの姿とかけ離れているが故に。
周囲のそんな視線を他所に朔夜は壁と向き合い続けていた。壁と手の間に閃光が走り、それは罅(ひび)となって壁を覆って。
壁は元の砂となって周囲を覆った。
敵は有り得ぬ光景に完全に混乱した。わっと逃げ出す者が大半だったが、腰を抜かしたり気を失った者まで居た。
混乱を引き起こした本人は砂を吸い込んだ上に目の中に入って泣きながら咽せている。
それを見て波瑠沙はやっと縛めが解けた。
やっぱり妙に間が抜けた少年がそこに居る。
「大丈夫か」
ふげぇ、と変な声を出しながら目をごしごしやって。
「擦るなよ。目を傷めるぞ」
「なんでこうなるんだよぉ…!」
「それを問いたいのはお前より周りの人間だと思うぞ」
朔夜は泣きながら、ふぇふぇふぇと変な笑い声を出した。
「びっくりした?」
やっと目が開けるようになって、睫毛を涙で濡らした顔で悪戯っぽく笑う。
「そういう事が出来るなら説明しておいてほしかった」
「あ、たしかに。ごめん」
「成功したから許す。さて、せっかくだから入るか」
足を踏み入れた時、都中に激しく打ち鳴らされる鐘の音が響き渡った。
姿は見えないが、多くの人間が走り回る気配が伝わってくる。
「俺達かな」
「いや、外だ」
漸く都に迫り来る大軍の存在に気付いたのだろう。という事は、もうかなり近くまで来ている。
「急ぐぞ」
波瑠沙は勝手知ったる王宮の中を走った。
配備されている兵と、物音に様子を見に来た兵に出くわす。
問答無用で波瑠沙は斬りかかった。朔夜も応戦した。
刀を使っている。あれは見間違いだったのだと波瑠沙は思う事にした。
「こっちだ!」
迷宮のような通路を走り抜け、兵を斬り、王宮へと続く門の前に立つ。
板が打ち付けてあり、派手な鎖で覆われていた。
少し考え、数歩離れた所にある小扉の存在を思い出した。矢張り錠が取り付けられている。
「朔」
もう一度壊して貰おうと声をかけると、鼻先に鍵が差し出された。
「さっき斬った兵が腰にぶら下げてたよ」
軽く笑って受け取った。
鍵は難無く開いた。見張りの兵はこちらを使っているのだろう。
開いた。その途端、刃が突き出された。
「っ!」
波瑠沙はなんとか身を捩って致命傷は避けた。が、左腕に熱いものを感じた。
扉の向こうには槍を構えた兵が居る。奥にもまだ居るようだ。
「大丈夫か!?」
朔夜に頷いて応じる。左手から流れ落ちた血が滴る。
『ここから先は通さんぞ!』
扉を塞ぐ兵が怒鳴る。朔夜は冷たい目でその男を見遣った。
槍がすっぱりと斬れていた。
からんと落ちた穂先を呆気に取られて見ている、その間に朔夜は男の懐へ入って刀を突き刺した。
その後ろの兵達は何が起きたのか分かっていない。とにかく侵入してくる者へ槍を突き出す。
刀を立てていた男の屍を槍先に向かって倒し、己は横へ跳んだ。低い姿勢で着地すると、得物に味方が刺さってきて慌てる兵を尻目に別の兵を斬り上げ、ようやく槍を手放して刀を抜こうとした男の背へ刃を滑らせた。
物音に顔を上げれば、今来た方から新手が押し寄せて来ている。波瑠沙は片手で刀を構えていた。
「先に行け、朔!」
波瑠沙の言葉には従わず扉を潜って彼女の前に立つ。
その扉の奥にもまた新手が駆けつけていた。
「私の事は良い!明紫安様を!」
首を横に振って、敵から庇うように腕を伸ばす。
「俺にとってはお前の方が大事だ」
波瑠沙は目を見開いて少年の後ろ姿を見詰め、ちょっと笑った。
「こんな時に口説くなよ」
それが何も考えず下心も無く口をついて出た言葉だと分かるから尚更可笑しいし好ましかった。
朔夜はこの事態をどうするか、それしか考えていない。
負傷した波瑠沙を庇いながら戦うには敵が多い。力を使えば一瞬だが、それだと彼女を巻き込んでしまう。
そして急がねば明紫安らが危ない。確かに目的を果たすには波瑠沙を見殺しにするより無いのだが、それだけは絶対に避けたかった。
「俺に合わせて動けるか?」
朔夜は後ろに訊いた。
「ああ。なるべく付いて行こう」
「離れるなよ」
朔夜は踵を返して先程出てきた扉を潜った。つまり、前進あるのみだ。
そこに居た兵を刀を合わせる間も無く斬り伏せ、その返す刀で横の男の首筋を掻き切る。
そこに降ろされた刀を片手で受け、もう片手で脇腹を突く。
波瑠沙はと見ると、入ってきた扉を閉めて敵が押し入る時を稼いでいた。
「離れろ!」
怒鳴る。刹那、槍先が板を突き破った。
今斬った屍を扉に投げ付けて重石にし、彼女の肩を抱いてそこから離した。脇腹から血が流れている。
「済まん…」
謝る波瑠沙を手頃な庭石に寄りかけさせて、傷口を見た。
完治させる時は無い。今にも扉は破られようとしている。
朔夜は傷口に掌を当てた。どくどくと流れる血を押し留めるように塞ぎ、目を閉じる。
すぐに光は現れた。が、背後で扉が破られ敵が押し入ってきた。
振り返りながら双剣を握り直して迫った敵を斬る。波瑠沙を横から狙った兵は、見えぬ刃で腕を切り落とした。
少しなら使える。使い過ぎれば憑かれる。その前に力尽きるかも知れない。朔夜は刀を振り続けた。
人一人通れる幅の扉から続々と敵が入って来る。一気に押し寄せないからこそ防戦出来るが、どこまでそれが続くのかと言うほどキリが無い。
「朔!」
悲鳴のような声に反応して窺い見ると、横の板を打ち付けられていた門が開こうとしていた。
舌打ちして、とりあえず相手をしていた兵を斬る。
波瑠沙は刀を杖にふらふらと立ち上がって、ゆっくりと構えた。
「動くな!まだ傷が塞がってない!」
敵が押し入ってきた。
「先に行け、朔。命に代えてここは止める」
「駄目だ!」
襲ってきた敵を斬り、間合いを取りながら波瑠沙の横に立って。
「俺が守るから」
――お前が女を守れる訳ないだろう。
悪魔の声が脳裏で囁く。
――本性出せよ。それが一番楽だろ?誰も彼も殺しちまえば。
「…波瑠沙、頼む。ちょっと伏せててくれ」
「なんで」
「お前を殺したくない」
ただならぬ気配に彼女が膝を折ったのと、最前に居た敵が血を噴き上げたのは同時だった。
朔夜は地面を蹴ってその場から離れた。敵を斬りながら、その群れの中へと入ってゆく。
嵐のように刃が振り下ろされるが、どれも標的を捉えられず地に落ちた。
敵は浮き足立った。そうなると崩れるのは早い。
生きている者は居なくなった。
二人を除いて。
朔夜は膝を地に着いて荒く呼吸していた。頭の中で悪魔の笑い声が響いていた。
ほら、もう一人居るぜ?早くやれよ。
やりたいんだろ――?
「朔…」
「来るな!」
怒鳴って、頭を振って。
大丈夫だ。俺はまだ俺で居る。
この人を守るんだ。この人だけは。
今度こそは、ちゃんと。
ぎゅっと目を瞑って深く息を吐き、そっと目を開けて立ち上がる。
笑い声は消えた。
空を仰ぐ。曇り空で月は見えない。それに救われたんだと気付いた。
やっと、振り返って彼女を見た。
言われた通りに低い姿勢のまま、じっとこちらを見ている。
頬から涙が一つ落ちたのを朔夜は見た。
「朔…」
次の呼び声は涙声だった。
「ごめん。怒鳴って」
微笑んで、双剣を収めて近付く。
正面に座って、今度こそと脇腹の傷口へ手を伸ばした。
光。傷口が塞がった感覚に自分で頷いて。
がくりと頭が落ちた。酷い眠気が襲う。
女の手で体を支えられて、どうにか意識を保った。
「まだだよな…」
自嘲して、このまま彼女の上で眠ってしまいたい自分を振り払って。
「大丈夫か?」
起こした顔の真正面に、彼女の瞳があった。
朔夜は少し笑い顔を作って言った。
「すっげぇ眠い」
波瑠沙も薄く笑った。
「もう少し我慢してくれ、お子ちゃま」
二人は立ち上がった。
王宮の奥へと歩きながら、朔夜は訊いた。
「そう言えば、波瑠沙の好きな人、居たか?」
「いや、多分居なかった」
普通に否定した後、思い直して苦笑いで返す。
「あそこに居たらお前、とっくに殺してるだろ?それに好きな人かどうかは微妙になってきたぞ」
「え、そうなの?なんで?」
「なんでって、お前」
自分の言動に自覚は無いのか。
こういう時と刀を抜いている時は別人なんじゃないかと疑う。あながち間違いでもないが。
「婚約者って、一生好きな人って事じゃないのかな。俺はそうだと思ってた」
「何を見て育てばそう言えるんだい、お子ちゃまよ」
「だって、龍晶たちがそうだから…って、あれ」
朔夜が指差した先に、人影があった。
波瑠沙の足は止まっていた。
「申丁…」
あの日と同じように冷たくこちらを見ている婚約者の名を呟いた。
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