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月の蘇る
  5
 峡谷に兵が集まるまで、一日待つ事になった。
 狭い空間に居並ぶ天幕や繋がれた馬達を見ながら、谷を更に降りてゆくと川が流れている。
 足首ほどの深さの場所で朔夜は刀を振っていた。他に広い場所が無いのだ。
 見上げれば、左右に切り立った崖。その間に狭い空。砂嵐で霞んでいる。
 確かにここは天然の要塞だ。軍を隠し置くには持って来いの場所で、見つかったとしても攻めようが無い。
 難点は人一人しか通れない険しい道だが。
 他に開けた道があるのかも知れない。何せこれだけの大軍が入る事が出来たのだから。
 はたと己の足元を見る。
 この川は馬の足なら無いも同然だろう。
 流れも緩い。そしてそのまま渓谷の外へと続いているようだ。なるほどと思いながら手を動かす。
 動かなかった右腕はほぼ回復した。お陰で慣れた双剣を使える。その感覚を蘇らせようと型を浚い、更に架空の敵を斬った。
 風邪もすっかり治った。その筈なのだが、何かがおかしい。
 胸が苦しい気がする。何かに心臓を掴まれているような。やたらと鼓動が早く激しくなる。そういう時、決まって頭の中は一つの事を考えている。
 それを振り払いたくて動かずにおれない。そうやって限界まで体を使わねば眠れない。
 これの原因も正体も分からず困り果てていた。昨日から急に始まった病のようなもの。
「朔!」
 上から女の声で呼ばれてまた心臓が痛いくらいに高鳴った。
 何とか平静を装って崖の上を見上げる。
「楽しそうだな。私もやりたい」
 波瑠沙の笑顔は意外と近い場所にあった。朔夜の頭くらいの高さの場所から身を屈めている。
 目を瞬きながら頷くので精一杯。
 彼女は革靴を脱いで裸足になると、ふわりと飛び降りてきた。因みに回り込めば馬でも通れるような道はある。
 着地と共に水が飛び散る。朔夜はそれを顔にまともに喰らった。
「はは、ごめんごめん。避ければ良いのに」
 無駄に彼女の動きを凝視していたせいだ。顔を背ければこうならなかった。
「大丈夫…」
 と言う口を塞がれた。波瑠沙が己の袖で朔夜の顔を拭いたからだ。
 ぽかんと口を開けながら、今何をされたか理解しあぐねている。
「どした?なんか変だぞお前」
 ぶるぶると顔を横に振る。
「そんな事無い!風邪のせいだ。ちょっとぼーっとしてた」
「ふうん?悪化させるなよ。明日には都で決戦だ」
「分かってるよ!」
 背を向けて闇雲に刀を振る。もう放っておいて欲しい。ますます集中出来なくなる。
 でも、と別の自分が言う。それは悪魔ではなく懊悩する素直な自分の声。
 さっきまでずっと会いたいなって思ってた癖に。
「そう言えばさ、結局まだ手合わせしてないよな。実戦訓練も兼ねてどうだ?」
 背中で波瑠沙の誘いを受け、朔夜は手を止めた。
「心配しなくても、今日はちゃんと着てるからさ」
 背中越しに振り返った目に、波瑠沙は衣の下から鎖帷子を少し引っ張り出して見せた。
 そうなると断る理由が無い。そもそも断る気は無くて寧ろ是非とも手合わせしてみたい。しかし、それでも怪我をさせないとは限らない。いや、怪我をすればまた治せば良い。そうすれば公然と彼女に触れられる訳で…
 そこまで考えて朔夜は大仰に頭を振った。
「えっ、駄目?何が不満だ?」
 当然ながら誘いを断られたと思う波瑠沙が目を丸くしている。
「違っ…あ、あの、ほら、怪我しないようにやろう。明日が明日だし。なっ?」
 挙動不審も良い所だが、なんとか丸め込めた。
「ま、そうだな。お前の方こそ気をつけろよ。装備はそれで良いのか」
「うん。俺はいつもこれ」
「よし」
 頷くなり、波瑠沙は背中の長剣に手を伸ばした。
 それからの初手が早かった。刀の重さに逆らわずに振り下ろされる。朔夜はうわっと口の中で叫びながら飛び退った。
 燈陰の居合の手に似ていた。それに慣れていたから対応出来たのであって、普通なら初手で真っ二つだろう。
 飛びながら既に手の中にあった双剣を交わらせて刃を受けていた。その力を借りて空中で斜め左に方向転換する。
 波瑠沙は右利きだ。ならば初手は左に流れ、そこから右へ切り上げる。朔夜はそれを読んだ。そしてその通りになった。瞬時の判断だ。
 闘いに関しては冷静な己の頭に少し安堵し、反撃の手に出る。
 前に大きく跳んで間合いを詰める。水飛沫が二人の間に壁となって立った。
 重い刀の反動をものともせず波瑠沙は切り返してきた。朔夜の腰の位置へ滑り込ませてきた刃を片手で受ける。が、想像以上に斬撃が重い。片手では力が足りない。
 致し方なく受け流して刃の下へ仰向けになる形で潜り込んだ。刃を咥えながら膝を折り、水底に片手で掌をついて、もう一方の手で相手の足を狙う。
 布を裂く感触があった。肌に刃は届いておらず、波瑠沙は紙一重の所で避けていた。
 逆立ちから体勢を戻しつつ、朔夜は猛烈に後悔していた。
「ごめん!卑怯な事した」
 怪我しないようにと言ったのは自分なのに、無防備な足を狙うとは。
 間合いを取って正面に直った彼女は、にやりと笑った。
「じゃあこっちも卑怯な手を使って良いな?」
「あ、まあ…」
 曖昧に頷くと、波瑠沙は裂けた袴を更に破って断ち切った。げっ、と思わず朔夜は声を出す。太腿が露わになっている。
「破れてたら絡まって動き辛いだろ?」
 そう言いながらもう片足の袴も刀で裂いて同じくらいの長さにした。更に刀の鞘を外し、上衣を脱いで悠々と岸に置きに行った。
 すらりとした白い脚を隠すものが何も無い。だが確かに合理的だ。衣が水を吸えば動きが鈍る。何も身につけない方が身軽で良い。
 身軽でなくなったのは朔夜の方だ。目のやり場に困って動きが取れない。
「お子ちゃま朔君、続けられるかい?」
 もろに挑発されて覚悟は決まった。このままでは不名誉な渾名が付いて回ってしまう。
 水を蹴って走り出す。水中とは思えぬ速さで距離を詰める。相手の得物は振りが大きい。その隙に入り込めれば断然有利だ。
 相手の驚きと焦りが浮かんだ顔を朔夜は見逃さなかった。
 初手は弾かれた。波瑠沙が僅かな動きで刀を盾とした為だ。が、垂直方向に立てられた長剣は次の手が出ない。
 右手だけで刀を持ち替えて振り上げる。朔夜にとって隙は十分だ。弾かれた勢いのまま水面を蹴って腕を振り上げる。
 刃は左胸の前で止まった。
 対して波瑠沙の右手と刀は懐の中の朔夜を包むように止まっていた。
「負けたよ」
 にこりと赤い唇を引き上げて、彼女は言った。
「負けたけどね」
 まだ動けずに居る朔夜の顎を左手で持ち上げて、その頬に唇を押し当てた。
 驚きで朔夜は腰を抜かした。派手に水面が波立った。
 その波を裂いて切っ先が鼻先に突き付けられた。
「お子ちゃまにはまだ負けられないなあ」
 渾名はまだ返上出来ないようだ。尤も既に朔夜はそれどころではない。口付けされた頬を押さえて目を白黒させている。
 その顔を高らかに笑って、波瑠沙は刀を引いた。
 代わりに手を差し伸べる。
 これだ。昨日からずっと感触が残っていた掌。その柔らかさ優しさに焦がれてしまった。
 繋いでいた時は気にしなかったのに、後から思い返すと胸が痛くなった。
 そしてまたその痛みが襲ってくる。
「俺、病気かも…」
 手を取らないまま苦く呟く。
「病気?やっぱり風邪が治ってないか?」
 手を差し出したまま波瑠沙が問い返した。
 朔夜は頭を振って、素直に病状を申告した。
「なんか、心臓がどっきどきして痛いんだよ。昨日の夜、お前の事思い出してたら、急に。それからずっと頭から離れなくって。なんなんだろ、もう嫌だ」
 ぷっ、と吹き出したかと思うと。
 大笑い。当たり前だ。
「そうだろ?分かってたよ。私は分かってたけどお前は分かってなかったんだな。おいおい初めてか?」
「初めてだよこんなの!何これ」
「不治の病だよ」
 大笑いされながらの宣告。それってもっと深刻な事じゃないのかという困惑を顔に浮かべている。
「大丈夫だよ。大体の人間が経験する事だ。普通にしてれば死ぬ訳じゃないし」
「ほんと?普通によくある事なの?」
「あるある。って言うかお前、戔王のお后様の時はそんな事無かったのか?」
「ん?どういう意味?」
 本気で首を傾げている。あー、と波瑠沙は低く声を出して額を叩いた。
「お子ちゃまだったんだな…そうか…」
「何だよそれっ!って言うかもうやめてくれよそれは!」
「うんうん、分かった分かった。お前を大人にしてやりたいのは山々なんだがな…」
 彼の冷たい顔が脳裏に蘇る。
 裏切ったのは明白である男をまだ信じようとする私もまた子供なんだろうか?
 溜息にして悩みは吐き出した。
 どうせ明日には全て決まる事だ。
 改めて波瑠沙は手を差し伸ばした。
 今度こそ朔夜は手を取った。
 力強く引っ張り上げられる。その掌に優しさと、頼もしさが加わった。

 国は激動の時を迎えているというのに、龍晶の生活はきっちりと整ってしまった。
 日中は政務をする。勿論、体が急に治る事は無いので休みを挟みながら。だが前のように寝込む事は無い。
 戦況は余す事なく耳に入れる。何も意見をする事は無いが、頭の中で戦場の様子をきっちりと描いて留めているつもりだ。
 やるべき事は主に内政だった。地方に蔓延っていた賄賂を取り締まる法を編み出し、民の生活を向上させる為に力を注ぐ。
 戦費を捻出せねばならないので年貢をどれだけ取るかが悩み所だ。しかしこれを他の者に任せれば年貢は上がる一方となる恐れがあるので自らやらねばならなかった。
 そして鵬岷を次王とする為の根回しも必要だ。その時期こそ決められぬが、城内の忠誠は次第に彼へ向き始めた。民にもそれを広めねばならない。
 そして働くだけ働いて、夜を迎えれば必ず後宮へ帰る。
 まずは夕食を取りながら鵬岷と話をする。戔を治める為の知恵を出来るだけ共に考え出す、未来に向けた大事な時間だ。
 そして共に春音の所へ向かう。家族の顔を幼い息子に覚えさせる為だ。鵬岷にも弟を可愛がって貰わねばならない。後の為に。
 そこで華耶と合流し、二人で寝所に向かう。あとは朝まで夫婦二人の時間。
「仲春、これ開けてみて」
 寝所に着くなり華耶は白木の箱を差し出した。
 長さは掌に余るくらい。細長く平べったい。中身に首を傾げつつ、言われた通り蓋を開けた。
 中身は首飾りだった。金の鎖の先に、可憐な赤い花が大小合わせて五つ咲いている。
「母上の為のものか」
 すぐ思いあたって問うと、華耶は笑顔で頷いた。
 一年前、北州で約束した。二十歳になったら母への恩返しに首飾りを二人で作ろう、と。
 あの事件を経て話をするようになってから、その計画は漸く進んだ。尤も殆ど華耶に任せたきりだったが。
 それが今日完成したのだ。
「この五つの花は、私たち家族です。仲春と、私と、春音に鵬岷、そして、母上」
 龍晶は頷いて華耶に微笑みかけた。
「素晴らしい。きっと母上も喜んでいるよ」
 微笑み返す華耶を、そっと抱きしめて。
「華耶」
「なあに?」
「これまでの埋め合わせをしたいんだ。何か望みを教えて欲しい。どんな我儘でも良いから、言ってみて」
 本当は違う。過去の懺悔の気持ちは勿論あるが、気持ちは未来へ向いている。
 龍晶が待っているのは、戔の敗戦の時だ。それを過たず見極めれば負けても国は保てる。
 その代わりに己の命を差し出す。それくらいしか使いようの無い命だから。
 だから今、生きているうちに自分を慕ってくれる家族達へ恩を返そうとしている。息子達に向き合うのもその一心からだ。
 華耶はもっと特別だ。だから望みを何でも聞き届けたい。己に出来る範囲で。
「そんなの、一つだけしかないよ」
 華耶は何処か悪戯っぽく微笑んだ。
「何だ?何が欲しい?」
「何かが欲しい訳じゃない。強いて言うならあなたが欲しい」
 怪訝な顔で見返す。今こうして向き合っているのに。
 華耶は大きく息を吸って、思い切ったように言った。
「まずは一緒にお風呂へ入ろ?」
 実は二人で浴室に向かったのは春音が産まれた日の事だけで、後は疎遠になっていた。
 お互いがお互いの傷を労って気遣った結果だ。
 華耶は頓着無く己の衣を脱いで、躊躇う龍晶の前に立った。
 夫の帯紐に手を伸ばす。彼は嫌がりはせず、彼女の思うままにさせた。それが望みなのだろうと思ったから。
 するりと衣が落ちる。
 久しぶりに見た肌に、笑みが溢れた。
「痣、薄くなったね」
 以前は胸に班目を描いていた紫の痣が、ずっと減っている。
「今は良いんだ。痛む事も減ったし」
「良かった」
 何の根拠も無い自身の経験則だが、精神的な上下動に合わせてこの傷は痛む。
 今は全てが落ち着いている。変な話だが。
 死を覚悟したら、心が凪いだ。
 華耶は夫の手を引いて浴槽へ向かった。
 前は気遣いと恥じらいで横に並んだが、今は向かい合わせになって。
「ねえ仲春。理解して貰えるかどうか分からないけど、聞いてくれる?」
「勿論」
 湯の中で夫の両手を包む。白く細い指の、男の人にしては小さな手。自分の手の大きさと変わらない。
「私が仲春に望む事はね…。嫌な過去の記憶をあなたに上塗りして欲しいの」
 じっと見つめ合う。
 それだけで意は通じたと思う。だけど華耶は口に出して言った。
「前に、朔夜が憎む人に抱かれたんだって話をしたでしょ?私が奴隷だったから」
 龍晶は無言で頷いた。
「それをあなたの体で上塗りして欲しいの。嫌な記憶が忘れられる訳じゃないけど、そのままにしておくのはもっと嫌だから。…分かるかな…?」
「それは分かる気がする。だけど、その役目に俺が相応わしいとは思えない…」
 華耶は激しく頭を振った。
「あなたしか居ない。決まってるじゃない。私にはあなたしか居ないんだよ…?」
 こんな時に名前を出すのは卑怯かも知れない。だけど、龍晶にとっては確認せねばならない事だった。
「朔夜だって男だろ。いつかは華耶を求める時が来る。俺の居ない未来を二人は生きる訳だから」
「あなたも不死になれば良いのに」
 面食らって口を噤む。華耶は悲しく笑って頭を下げた。
「ごめん。こんな事言っちゃいけないよね。それを誰より望むのはあなたなのに…。ごめんなさい」
「いや…俺はもう諦めたよ」
 上げた顔に微笑んで見せて。
「この体でずっと生かされるよりは、生まれ変わって欠けてない体でまた華耶に会いたい」
「そっか…」
 華耶は上を向いて溢れる涙を湯の中に落とした。
「嬉しい。そう言ってくれたら、永遠を生きていける。待ってるから。…でも」
 握っていた手を己の胸へ導いて。
「今の仲春が一番好きだよ?」
 そして冗談ぽく笑って付け加えた。
「ごめんね、朔夜の事でずっと誤解させてたんだね私。朔夜は本当に子供の頃の友達の関係のままだから、こんな事はさせないと思う。だってあなたのように口説けないよ、彼は。何か言ってきたとしても私きっと冗談として流しちゃう」
「それは…困ったな」
 苦笑いで返すしかない。
「困らなくて良いよ。それが私達の関係。朔夜はあなたに代われないから」
「…そうか」
 良かったのだろうか。華耶がそれで良いと言うのだから良いのだろう。何より、己の心はそれで満たされてしまった。
 彼女の体に腕を回して抱き寄せる。こんな事初めてだったけど、彼女はそれで気を悪くしたりしないだろうと確信できた。
 彼女は抵抗なく膝の上を跨いで座り、同じように抱きしめてくれた。
 女の体の心地良さに今更ながら驚くような。
 それでも冷静を保ってしまう自分が恨めしい。頭に興奮は感じても、体を突き動かせる衝動は無い。
 それでも良いかと思い直して。
 華耶がそういう俺が好きだと言ってくれるなら。
 耳元の囁きで彼女の言葉に応じた。
「俺も華耶が一番だ。あなた以外には居ない。ずっとずっと一人だった俺に会いにきてくれて、感謝してる」
 どちらからともなく口を求めた。長く長く、絡ませ合って。
 離した唇で告げた。
「愛してる」
 骨が軋むほど抱き締める。それしか出来ないけれど。
 きっと華耶は真意に気付いているのだと思う。二人に未来は続かないと。
 だけど、濃縮された今この時が永遠に思えて、それで良かった。


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