月の蘇る 4 都に近付いた。 もう一刻も歩けば街に入る。 街道を行けば当然、見回る兵に見つかる。無用の争いを避け、敵に情報を与えない為にも人目の無い砂漠路を行き迂回して街に入る事にした。 寒風が砂を巻き上げる。口を開けば砂を噛むので黙々と歩く事になる。 そうでなくとも会話の中心だった波瑠沙の顔色に緊張と不安が見て取れ、話しかけるのが躊躇われた。 砂漠の上の楼閣が見えた。 街を塀で囲み敵と砂の侵入を防ぐ都、駕土(ガド)。 「どこから入るかな」 塀で囲われているという事は入口は限られる。その入口には自分達を見つけるべく兵が配置されている筈だ。 目を細くして遠くを見ようとしている朔夜に波瑠沙は言った。 「夜を待とう。夜陰に乗ずるか、そうでなくとも市民を巻き込まずに済む」 強行突破も辞さないという事だ。 「そう言えば紫闇はどうしてるんだろう」 燕雷に声をかけると、あんな奴は知ったこっちゃ無いとばかりに肩を竦められた。 「紫闇って?」 不思議に思ったらしい波瑠沙が問い返す。 「王様の弟」 朔夜は当然のように返した。 波瑠沙の足が止まった。 「暗枝阿様の事か…!?」 「そうそう。そう言えばそういう名前だった」 気楽に朔夜は返す。偽名に慣れていたし矢張り異国の名前は覚え辛い。 波瑠沙は見開いた目を旦沙那に向けた。この衝撃を共有出来るのは同郷の者だ。 『暗枝阿様がお帰りになったそうだ』 『何だと!?』 彼女は異国人達に問うた。 「暗枝阿様は今どこに?」 「先に都へ入ってると思うんだが」 今度は燕雷が答える。 「陛下をお助けする為だよな?そう思って良いんだよな!?」 詰め寄られて、燕雷は頷くしかない。 実際あの男が何を考えているのかは知らない。姉の為にと言いながら、下心が無いとも限らない。 『軍神が味方だ…!これほど心強いものはない』 心からの安堵の笑み。 そういう存在なんだ、と朔夜は少し意外に思いながら見ていた。 確かに哥王も香奈多も心から彼との再会を望んでいた。それが王宮に居る皆の願いだから、直接知る筈の無い波瑠沙もこんな顔をするのだろう。 だけど、あの男の今の実態を、本当に知っているのだろうか。 考えれば、ひやりとする。 かつては良い人間だったのだろう。彼女達に愛されるような。それが。 お前もいずれこうなる、と彼は言った。 己の力に蝕まれて魂を奪われると言うのか。無辜の命を奪わずには居れない悪魔に。 ――お前もよく知る事だろ? 炎の中であの男はそう言った。そうだ。 同じ悪魔は既に朔夜の中に存在している。 「いつまでもこんな所で佇んでいる訳にもいかないな。あそこの木立で夜を待つか」 波瑠沙の声で我に返った。 彼女の指差す先に、砂漠の中にようやっと生えた細い木が三本、枝葉も寂しく立っていた。 歩き出すと、波瑠沙は半笑いで朔夜に訊いた。 「風邪は治ったのか?」 「あっ、そう言えば治ってる。旦沙那が買ってきた薬がよく効いたんだ」 「薬のお陰か」 「え、なに?」 「昨日の晩に添い寝して温めてやった効果だよ」 目を見開いて、笑う波瑠沙を見、無理矢理視線を剥がすがもう頭の中の想像が止まらない。 耳まで赤くして自分の頭を叩いている。 「嘘だって。冗談だよ。そんなに思い詰めるな」 「嘘?嘘?本当?」 もう何を言っているのか分からない。 そんな戯れあいをしている間に木立に近付いた。 木の陰が、動いた。 「えっ…!?」 そこに居たのは黒尽くめの男だ。砂避けの頭巾を巻いており、目元しか見えない。 「まだ生きていたか」 黒尽くめの男――紫闇は言った。 「お陰様でね」 冷たく朔夜は返した。 「あんたは何をやってた?」 まさか、故国で虐殺をしていたとは思いたくないが。 その心配は不要だった。 「兵を集めていた。お前達のように無策で正面突破しようとする程、無謀じゃないんでね」 「誰だ?」 貶されて気を悪くした波瑠沙が朔夜に問う。 答える前に紫闇が口を開いた。 「お前が明紫安と香奈多が育てたつわものか。良い面構えをしている」 褒められて少し気を良くしたのが表情に出ている。が、すぐに顰められた。 「陛下を呼び捨てにするとは…」 「王は俺だ」 紫闇が口元の布を下ろした。顔が露わになる。 その瞬間、波瑠沙は目をいっぱいに見開き、口元を手で覆って呟いた。 「陛下…!」 そしてすぐ首を横に振って、北方語で尋ねた。 『あなた様が暗枝阿様ですか?陛下にお顔がそっくりでいらっしゃる…』 その言葉で旦沙那もそうと知ったらしく、驚いた顔で男を見る。 紫闇は頷いた。 『そうだ。だが今これよりお前達の王は俺だ。人の前では陛下と呼べ』 『それは…どういう事でしょう。明紫安様に何か…!?』 『案ずるな。姉は生きている。だが本来の王がこうして戻ってきた以上は、王位は返して貰う。それだけの事だ』 波瑠沙は明紫安が王とされた経緯を知らない。だがこれ以上疑問をぶつける事は憚られた。 膝を折り、右の拳を地面に付けて頭を下げる。最敬礼だ。 横の旦沙那もそれに倣った。 「頭下げられる程の男かねえ」 皮肉いっぱいの燕雷のぼやき。瞬時に三人に睨まれて肩を竦める。 「兵を集めたって事は、戦にするのか?」 朔夜は紫闇を睨みながら問うた。 「悪いか?」 「目的は王様を助ける事だろ?俺達で隠密行動をすれば無駄な犠牲者を出さずに済む」 「無駄な犠牲?月夜の悪魔が何を寝惚けた事を」 「お前が人を殺したいからか」 ひと思いに問うた。 あの夜の光景から、この男の本性はそれなのだと、そうとしか見えなくなった。 否、本性ではないかも知れない。全ては悪魔に操られるがままやった事なのか。 いずれにせよ、この男が戦に持ち込むというのは危険に思えた。 紫闇は、鼻で笑った。 「それの何が悪い」 息を飲む。もう罪悪感の欠片も無いのか。 「だが同時に救わねばならぬ命も多い。だから無策では無謀と言うんだ。姉さえ救えれば良いという訳ではない。お前は何も知らないのだろうが」 続く言葉に拍子抜けた。全てが冷徹という訳ではないのか。 「あ…そっか、香奈多さんも」 「囚われている女官達を救ってやらねばなるまい。そうだろう?」 問うたのは波瑠沙へだ。彼女は深く頷いた。 彼女にとって、王宮の女官達は家族も同然だ。 「来い。拠点に案内する」 とにかく砂漠でじっと待つのは辛い。避難できる場所があるのなら有難い。 一行が歩き出した時、都の方から大きな扉が開く音がした。 「大門が開いた…!」 波瑠沙が指差した方向へ目を凝らす。 遠い視覚で情報を得るより先に、数多の足音と蹄の音が届いた。 「大門は王の命ずる戦で兵を送る時しか開かない門だ…」 愕然としながらも、静かな怒りを込めて波瑠沙が教えた。 ならばあれは軍隊なのか。 「お前の友人が持ち堪えれば良いがな」 紫闇に言われて気付いた。 あれは戔を攻める軍隊だ。 朔夜は王を名乗る男を振り仰いだ。 「あれを止めなきゃ」 「やりたいならお前一人で行け」 言い返したいのを、ぐっと飲み込む。 自分の役割はそれではない。だけどそれは、王に戦を止めて貰い龍晶を助ける為だ。 軍は既に戦地へ向かっている。間に合わないのではないか。 「行くぞ」 紫闇が有無を言わせず踵を返した。一行もそれに従う。 朔夜はまだ門から続いている軍隊の列を睨んでいたが、唇を噛んで諦めた。 西日が砂上を朱く染める頃、山影にある峡谷へ着いた。 峻険な崖を人一人倒れる程の道を辿って降る。夕陽の眩しさと裏腹に、影の落ちる道は暗い。 掴むものの無い岩肌を触りながら進む。踏み外せば下は黒々とした崖が口を開けている。 朔夜は初めての光景に目が眩んだ。高い所が苦手なんて今まで思いもしなかった。とは言え今まで経験した高所なんて、せいぜい跳び乗れる程度の木の上か、足場のしっかりした戔の城くらいだ。 のろのろと最後尾をついて歩いていたが、足に当たった小石が崖を転がり落ちて行くのを見て、つい足が竦んだ。 下を見てはならない。分かっているが、少しでも動こうものならそこへ吸い込まれそうな気がする。顔を背けて前を見る事さえ出来なくなった。 「朔」 前方から燕雷の呼ぶ声がする。 何か返さねばならぬが声が引っ掛かる。 「おい」 不意にすぐ目の前から声がかかって、恐々顔を上げた。 波瑠沙が手を差し出している。 「落ちても引っ張りあげてやるから」 力強く宣言されて、崖側の手を浮かせ、出された手を握った。 彼女は満足の笑みを浮かべると、手を引いて歩き出した。 不思議な安心感で足は進んだ。 「高い所は苦手か?木には上がれるのに」 問われて、うーんと朔夜は考えて。 「落ちる感覚がするんだよ…。こんなの初めてだからよく分からないけど」 「昨日木から滑り落ちたせいか」 「そうかも知れない」 否、もっと前。もっと取り返しのつかない場所から落ちた。 落下する感覚と同時に蘇るのは、矢に刺し貫かれる痛み。 「ああ、繍の城から落ちた時だ…」 あの時の死に向かう感覚が恐怖として身に記憶されているようだ。頭では全然覚えていないのに。 華耶と一緒に死ぬと決めて飛び降りた。それでも彼女を守りたかった。 ぎりぎりまで追い詰められた、恐怖と悲しみと悔恨と。それらが無意識の記憶に刻み込まれて、落下の恐怖と重なった。 体は生きていたかったようだ。 「よくそれで生き延びられたな」 「いや、死んだよ。死んで生き返った」 「は?…ああ、お前も不老不死だからそうなるのか」 周囲に同じ不老不死の体を持つ人が居るから話が早い。 「どうして落ちたんだ?繍って、月夜の悪魔の拠点だったんだろう?城で足を滑らせた訳じゃないだろうし」 「俺が上の奴らに逆らったから、幼馴染を人質に取られて脅された。もう限界だったんだよ、奴らの言う事を聞いて人を殺し続けるのは。だから華耶と一緒に死ぬ事を選んだ。結果的に二人とも生き返れたけど、俺は彼女まで不死の体にしてしまった」 「お前の好きな娘って、その娘か?」 「なんで知ってるの?」 「昨日、爺さんが言ってた。お前にも好きな娘が居るって」 「勝手な事を…」 「でも良かったじゃん。好きな女と永遠に添えるんだろ?幸せな事だよ」 「俺にはそんな事出来ないよ」 「なんで?意気地が無いから?」 否定しようとしたが、そうかも知れないとも思った。 華耶と共に生きようという覚悟が出来ないから、龍晶に任せた。勿論、理由はそれだけではないけど。 「もう華耶は俺の事なんか眼中に無いよ。何せお后様だもん」 「后?お前、好きな女をどこぞの王に取られたのか?」 「違うよ。大事な二人だから幸せになって欲しかった。だから龍晶の所に行ってやってって頼んだ」 「戔王の后か。友人に女をやったんだ」 「そういう言い方するなよ」 むっとして返すと、波瑠沙は笑い、そして訊いた。 「今でも好きなのか?」 「うん」 即答。迷いが無い。 逆に波瑠沙が戸惑う程に。 「おいおい。そんなに好きなのに他人にやったって事かよ」 「だからそういう言い方するなって!好きだから幸せになって欲しいんだろ?当たり前じゃん」 「好きだから自分は退いたって事?」 「俺と居ても危険な目にしか遭わないから」 「私は好きだぞ。そういうの」 「うん。…え。え?」 けらけらと前を行く娘は笑った。 繋いだ手の中が汗でぐっしょりだと気付き、一度離して拭きたかったが、繋がりを失えばたちまち奈落に落ちる気がして離せなかった。 崖の底には驚愕の光景があった。 人が犇(ひし)めいている。人と同じくらい馬も居る。皆が鎧を着、刀を佩(は)いて、弓矢を背負っている。 呆気に取られていると紫闇は崖に無数に空いている洞に入っていった。 慌てて後を追う。中は回廊のように細長く、燭台に火が灯してある。 突き当たりにそこそこ広い空間があった。中央に卓が置かれ、数人の男がそれを囲んでいる。 「帰った」 紫闇の姿が見えると彼らはすぐさま膝を着いて拝礼した。 「各部族の首長達だ。それぞれ兵を集めて連れて来てくれた。哥の建国時から俺に忠誠を誓ってくれている」 紫闇の説明に納得しかけて、おやと思った。 哥の建国は百年以上前の話だ。その時に紫闇に従った者は既にこの世に居よう筈が無い。 「哥の者は本来強い者に従う。彼らの父祖が俺の強さを認めて臣下に直り、戦に勝利して建国が成った。今の哥は弱い者を頂に据えている。是正せねばなるまい」 同じ様な事を北方語でも話し、男達は深く頷いた。 「本当の王様なんだな」 こっそりと燕雷に耳打ちする。 彼は苦笑いで頷いた。 「全ての兵が揃い次第、都を包囲し攻め込む。計画を聞かせよう。来い」 言われるままに卓を囲むと、そこには都の地図があり、各々の部族の名が書き込まれていた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |