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月の蘇る
  10
 見た事のあるような、でも何処とは分からない河岸に居る。
 岸の向こう側に友の姿を見つけて、ああそうかと納得した。
 あれは戔の都だ。戴冠前に彼を救ったあの運河が流れ進む場所。
 龍晶はこちらに気付いていない。欄干の上にぼうっと目をやっている。
 誰かと話している?その相手は見えず、目を擦ってまた見て、げっ、と声が出た。
 相手は俺の姿をした何かだ。否、俺自身なんだろうか。じゃあ俺は何だ。
 混乱しながら橋に近付く。が、渡れない。
 その橋の際(きわ)で、浮いた足が藻掻いている。ゆっくりと、まるで水中のように。
 なんだよこれ、と悪態を吐いたが、頭の中に流れ込むように答えは齎された。この橋の向こうは、現実だ。
 龍晶の見ている、現実。
 声が聞こえた。
『今なら二人で逝けるから』
 俺の声。なんで。
 そんな事言う訳ないだろ。
 龍晶は一瞬、安堵したように笑った。
 待て。待てって!おい!
 怒鳴っても橋の向こうに声は届かない。
 龍晶は、凍る河に、するりと落ちた。
 夢だ。これは悪夢。でも、あいつには、現実――?
 答えなんかどうでも良かった。橋の上だと虚しく前後させるしか無かった足は、水面なら重力を持ったようだ。
 飛び込む。いつかのように。
 水の中は不思議に青かった。まるで子供の頃遊んだ梁巴の澄んだ川の中。
 そこで初めて目が合った。
 一緒に来てくれるか?頭の中に声が流れる。
 馬鹿言え、と叫び返す。
 お前が死んだら俺も死ぬけど、それは今じゃねえよ!
 沈む体を掴む。友の身を沈ませる重石はあの短刀だ。
 生きろっつって渡したじゃねえか、話が違うぞ千虎!どうして重石になんかなってんだよ!?
 見当違いな方向へ悪態をばら撒きながら、短刀を抜き取る。
 水底への緩やかな落下が止まった。
 別の誰かの手が龍晶の体を掴み、現実へと引き上げる。
 水の中から、多くの人が彼を救う様を見届けて。
 気付いた。
 あいつを生かした以上は、俺もそうしなきゃならないんだ、と。
 騒動が去り、人の居なくなった岸へ、そっと千虎の短刀を置いておいた。
 また取りに来るからな、そう友に言い置いて。


 結局。
 誰も救えなかった。あの子供も駄目だった。目の前で撃たれて。
 紫闇に付けた傷は浅く、対してこちらは行動不能になる深傷だった。無力に転がって、消されていく命を見ているしか無かった。
 そのまま気を失って、気付けばここに転がされている。目が覚めて三日目か。傷は大方癒えた。
 草を踏む音に気付いて首だけ傾けて目を向ける。
「おかえり」
 城から帰ってきた燕雷だ。有難い事に、握り飯の入った竹皮の包みを手にして。
 朔夜の横に腰を下ろして、包みを解きながら何気無く訊く。
「寒くないか?」
 冬の夜の山の中。寒くない訳がない。
 尤も、傷の痛みが先立つ朔夜には寒さの感覚が麻痺してしまっているが。
 これでは治癒より先に凍傷になってしまう。
 傷に響かないようそろりと起き上がって、握り飯を受け取った。
 燕雷は比較的乾いた小枝を集め、城から貰ったらしい書き損じの紙を着火剤にして火打ち石を打った。
「灌王に会えたよ。お前の無事が何となく伝わるように伝言しといた」
「無事じゃないけどね」
「まあな」
 要は生きていると伝われば良い。
 名を出すのは憚られた。灌とは言え、何がどう伝わるか分からない。
 悪名を売り過ぎた。
 同時に妙な話も出回っていた。
 悪魔は首を落とされた、と。
「あいつを追い詰める為の嘘なんだろうけど」
 握り飯を口に入れながら、朔夜は己の考えを口にする。
「食いながら喋るなよ」
 怒られて、飲み込んでから続ける。
「本気にしちまってるからな、きっと」
「そうかな。あいつはお前が逃げてると知ってる筈なんだが」
「いや、そこは苴も上手く騙してるんだろ。そうでなきゃ、俺が死んだと信じ込んで河に身を投げたりしない」
「…は?」
 あ、と小さく声を漏らして。
「っていう夢を見た」
 正直に申告する。
「縁起でもない夢を見るなよ」
「でも助かってたから大丈夫」
「そういう問題か」
 まあ、そうだけど、と握り飯と一緒に咀嚼しながら。
「そういう無茶をしてるのはお前の方だろ」
 ちくりと燕雷が刺すように言う。
「もう少しで殺される所だった自覚はあるのか」
「そりゃ、まあ、これだけの傷を作ればいくら俺だって」
「傷を作る前に自覚しろって話だ」
 亀のように首をすっこめて、口の中に残っていた飯を飲み込みつつ身を隠すように寝転ぶ。
 出来ればそんな責め苦は頭の上を通り過ぎて欲しかったが、そうはいかない。
「だって、あんな事するとは思わなかった」
 小さく言い訳してみる。それが全てなのだから。
「お前、気付いてなかったか?」
「何を?」
「奴は苴に入った時から同じ事をしていた」
 気付いてなかった。己の役割を果たす事に精一杯で。
 それとも気付かなかったのは、自分と同じ臭いがするからか。
「気付いてたらもっと早く止めようとしたよ。燕雷も教えてくれれば良かったのに」
「教えればお前はこうなると判っていたからだ」
 ぐうの音も出ない。
「俺には奴を止める力は無いしな。黙って見て見ぬ振りをするしかない。情けないが」
「…あいつは今何処へ行ったんだ?」
「先に哥へ行くってよ」
 沈黙が流れた。
 二人の逡巡は同じだっただろう。
 結論は違ったが。
「戔に帰るか」
「なんでだよ。哥に行かなきゃ」
 譲らぬ気で燕雷を見返す。その目を疑り深く見ながら彼は言い返した。
「お前、まだ分からないか?あの男の近くにこれ以上居ない方が良い」
「関係無い。俺は哥王を助けに行くんだ。そうじゃないと戔には帰れないよ」
「龍晶はお前を許すと思うが」
「俺が自分を許せない。あいつが俺に頼んだ事をやらなきゃ、ここまで来た意味が無い。それなら苴にこの首をやった方が良かった。今からでも間に合うだろうけど」
「馬鹿言うな。何処かの誰かのお陰で騒動は収まってるんだ。今更本物が出てきたらあちらさんも困るぞ」
「それって、誰かが俺の代わりにされて犠牲になってるって事?」
「苴の都で首が晒されているそうだ。灌の城の中でもそういう話が出てたから、法螺話ではないだろう」
「誰の首?」
「さてな。どいつもこいつも悪魔の首だと信じ込んでいるから真相は見えないが。あるとすれば元々捕らえていた罪人の首を落として仕立てたんじゃないか?事態を沈静化する為にさ」
「沈静化…って、それでみんな納得する?本物かどうか分からない首一つで、戔や龍晶を悪く言ってた奴らが黙るのか?」
「だからお前は苴軍を襲ってたんだろ。まあ、国ってやつは戦となればどうとでもして兵を調達するんだろうけど」
「…戦になる…?」
「寧ろそれが狙いだろう」
「龍晶は…!?」
「攻め込まれたら腹を括って相手するしかないよな」
「勝てる!?」
「さて、それは…」
 燕雷は頭の中で計算する。戔軍の兵数と半数近くを削がれた苴軍の兵数。そして、既に動いているであろう哥の大臣の兵。
 頭を拳で支えて黙る。
「勝てる…?」
 もう一度朔夜が問う。
「お前、戔軍の兵に稽古つけてたろ。どうなんだよ、そいつらの腕は」
 唸って、朔夜もまた黙った。
 問題は数でもなく、彼らの腕でもない。
 一人一人名のついた少年達の笑顔が思い出されていた。
 あいつらを犠牲にして良い訳がない。
「…苴の都に行って、俺一人でやった事だと言えば良いか。そうしたら戔を攻めるのは筋違いだって判って貰えるかな」
「誰が信じるんだよ、そんなの。もうお前は首だけになってる存在なんだぞ?」
「その首が誰のものか分かれば民は嘘だって気付くよ。何もかも嘘だったって…!」
「そう上手くはいかないと思うけど」
 応じた声は燕雷のものではない。
 彼は咄嗟に刀を己に引き寄せて闇夜に視線を巡らせた。
「出て来い鳥野郎!何しに来た!?」
 鳥野郎――溟琴だ。
 朔夜も目を丸くして首を巡らせ、一点を見詰めた。燕雷よりは夜目が効く。
 溟琴は森の奥から姿を現した。
「だから、いつになったらその呼称をやめてくれるのさ?」
「五月蝿い、鳥野郎は鳥野郎だ。梟みたいに現れやがって。何の用だ!」
 燕雷の言う事がなんだか子供の口喧嘩みたいで朔夜は笑っていた。その口元を燕雷が抓(つね)る。
「その、首の正体。教えてあげようと思って」
 抓り、抓られたまま二人は動きを止めた。
「…なんでお前が知っている」
「話をしたらからさ。首だけになる前にね。勿論それは皓照さんの考えだけど、まあ知った仲でもあるしお別れを言ってあげようと思って」
「知った仲って…」
 燕雷の言葉が低くなった。
 溟琴が知る人物ならば、自分も知っている可能性が高い。
「あれ?まだ分からない?首はちゃんと悪魔君と同じ銀髪だったんだよ。だから信憑性があったんだねぇ。何せ、血も繋がってる親子だから」
 止める声も上げられず、皆まで言われてしまった。
 せめて、頬から耳に手を滑らせて塞いでやる事くらいしか出来なかった。
 そんな事は何の意味も無いけれど。
 顔に目を落とすと、何の表情も浮かんでいなかった。
 まだ頭が追いつかないのだろう。
 その混乱を収めぬよう燕雷は言った。
「こんな奴の言う事が本当な訳無いだろ。信じるな」
「…いや…燕雷…」
 身体を地面に引き摺らせて朔夜は上体を起こした。
 口元には不思議な笑みが浮かんでいた。
「聞きたいよ。あんな奴がどうやったら死ぬのか。だって、悪魔を作り育てた奴だよ?人間に殺せるか?」
「朔…」
「その辺で野垂れ死んでた訳じゃないだろ。どうやって首になったんだ、あいつは」
 溟琴に問う。歪めた口で。
 相手は楽しげに答えた。
「苴の王城へ押し入って梁巴の侵攻を決めた奴らを斬りまくってね。いや、相手なんか誰でも良いから近寄る者全て斬り倒す勢いだったんだけど、何せ敵の中枢のど真ん中で一人暴れてるだけだからね。滅多刺しになりながらも王の前まで行ったんだが、そこで死んじゃった」
 ごうと風が吹いた。
 風の中に雪が混じる。容赦なく体に叩き付けられ、ちくりとした感覚を残して溶けていく。
 同じように身体中を斬られて死んだのだろう。
 あの、憎い男は。
「…くだらねぇ」
 朔夜は吐き捨てた。
「くだらねぇ。何も変わってないじゃねえかよ、あの時と」
 妻と子を残して、敵の只中へ駆けて行った父親。
「変わってなかったんだよ。あいつの時間はずっとあの時から止まってたから」
 燕雷が言った。朔夜は振り返った。
 目は濡れて光っていた。
「でも、これでやっと、動き出したんじゃないか?」
 眉間に皺を寄せて睨まれる。
 裏切った父親を許せないのだ。死んでも――否。
「あいつだけ母さんに会うのか。俺には許されないって知ってるのに。全部あいつのせいなのに」
 死んだからこそ許せない。
 燕雷は諭す言葉を考えた。
 言える事は、今これだけ。
「お前には龍晶が居る。華耶ちゃんも」
 その名前で少しだけ表情が和らいだ。
 その効果に自分で頷いたが、ふと気になった。
「どうして皓照はお前を燈陰に会わせた?何を話したんだ、お前ら」
 皓照は朔夜を消す為に動いているのだと思った。だからこそ戔と苴の取引を持ち掛けた。
 なのに、今は燈陰を身代わりに朔夜が逃げる形になっている。それをあの男が狙ったのか否か、そして目的を知っておかねばならない。
「皓照さんは燈陰が何をするか知りたかったんじゃないかな?僕はそれを聞き出しただけだよ」
「嘘つけ。先刻はお別れだって言っただろ。その時にはもう分かってたんじゃないか」
「捨て身で何かを仕出かすんだろうなって事は分かってたんだよ。その前に単身で兵舎を襲ってたからね。それに顔見りゃ分かる。こいつ死ぬ気だ、って」
「それで王城を狙うって、あいつが言ったのか」
「王城と言うか、苴王を殺すんだって言ってたけど。なんで?って聞いたら、それが俺の的だからってさ」
 溟琴は朔夜の前へ、飛ぶように回り込んだ。
 こういう動きをするから鳥に見える。
「繍は君に譲るってさ。ま、言われなくとも分かってるだろうけど。ねえ朔夜君、皓照さんは君に期待してるんだよ?」
 森の暗がりを睨んでいた目を、ゆっくりと溟琴に向ける。
「期待?」
「君がお父さんのように働いてくれる事をね。燈陰は途中で玄の弓から離脱したけど、君は皓照さんのお気に入りだから」
「殺そうとした癖に?」
 鋭く問うたのは燕雷。
 にんまりと溟琴は笑う。
「殺したいくらい可愛いんだよ」
「なんだその理屈」
「皓照は俺に何をしろって言ってんだ」
 二人の会話など耳に入っていないように厳しい目で朔夜は問うた。
「うん、君の思うように動いたら良いんだよ」
「は?」
「哥王を助けるならそれで良し、お父さんの遺言通りに繍を滅ぼすのも良し。君のお友達の為に苴軍を苦しめるのもまた良いんじゃない?」
「何が狙いだ…?」
 かつての相棒であった燕雷が皓照の意図を測り兼ねている。朔夜は黙っていた。
「狙いなんて。今、皓照さんは世界がどう変わるか楽しんで見てるだけだからね」
「結局、奴は高みの見物かよ」
 燕雷が舌打ちする。
「君もこっちに戻れば?」
 玄の弓に、皓照の元に戻れと言うのか。
「断る。俺は戔の役人だ」
「砂の上に積木のお城を作るような真似をして何が楽しいのさ。今にも崩れ落ちるよ?」
 二人の怒りが込もった視線を受けて、溟琴は笑いながら背後へ踏み込んだ。
「皓照さんの側で作られたり滅んだりする国や殺したり殺されたりする人間を見てる方が楽しいのにね。まあ考えといてよ」
 笑い声を残して溟琴は消えた。
「畜生。やっぱり嫌な野郎だ」
 燕雷は悪態を吐き、それが夜気に溶けていく違和感を覚えた。
「おい、朔?なんか言えよ」
 朔夜はまだ溟琴の消えた濃い闇を睨んでいた。
 否、睨んでいるのは、苴の都だろうか。
「勝手に死にやがった」
 未だに父親を睨んでいる訳ではあるまい。
「死ぬなら目的を果たしてから死ねよ。偉そうな事言いやがって」
 梁巴侵攻の最終決定をしたであろう苴王はまだ生きている。多少は肝を冷やしたかも知れないが。
 王を狙う事は、国を一つ滅ぼす事だ。
 そんな大それた事が一人の人間に出来る筈は無い。燈陰は最初から的を測り違えていたのか、それとも。
「なあ朔夜。これは奴の友としての俺の推測だから忘れてくれて良いんだが」
 何かが腑に落ちないのだ。あの男がそんな馬鹿をするだろうか。妻の墓の傍で隠居すると言っていた彼が。
「あいつ、皓照に唆されたんじゃないか。消えない憎しみを利用されて」
 振り返った朔夜の顔は、それは無いだろうと言っていた。
「別に誰に何か言われなくても奴ならやるよ。別れ際に苴へ復讐しろって言ってたし」
「そうか…。まあ、そうだろうな」
「皓照は苴王と仲良いんだろ?だったら有り得ないじゃん。俺なら龍晶を狙う奴は全員ぶっ殺したいと思うのに」
「おいおい」
 苦笑いしつつ、お前達とは違うぞと腹の中で反論した。
 皓照はその時、苴王の近くに居た筈だ。
 燈陰の刀が王に寸前で届かなかったのは、陰(かげ)にあの男が居たからだと思えてならない。
 余人にはそれまでの傷が原因で倒れたのだと見えるだろう。見えない刃は証拠を残さないのだから。
 かつての友を殺して、あの男は何をしようとしているのか。
 少なくとも、戦を正当化する首を一つ作り出したのは確かだ。
 高みの見物など嘘だ。
 あの男は己の手で世界を歪めようとしている。


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