月の蘇る 4 桜が舞い散る。 花弁だけが見える。あとは、闇。 また、ここに来たか、と。 あの日、あの時の光景。 動けば屍を踏む。 今まで幾人も、幾人も手にかけてきた、その屍を。 『今更死体は踏めないって言うのか?』 足元から声がする。 地獄に誘う声だ。 『そんな綺麗言を聞いても嬉しくないな。俺達をこうしたのは誰だ?お前だろう?』 違う。やりたくてやったんじゃない。 『何を言っている。自分の罪から逃げる気か?そんな事は出来ないぞ』 がらがら、がたがた、と不気味な音を発てて、骸骨が笑う。 『どうしてお前がここに居ると思う!?自分のやってきた事を目を開けて見る為だ』 『お優しいお前の事だ、そんな事は耐えられんだろうがな!』 『じっくり後悔すると良い!地獄の底で自分の罪に身も心も斬り裂かれてな!』 そうだな…。 死ぬくらいじゃ許されないなら、そうするしかないか… 『そうだ。お前は永劫許されはしない』 『地獄に来い。もう一回死ねば俺達の仲間に入れてやるよ』 分かった… いつの間にか握っていた小刀を抜く。 心臓に刃を向けて。 『おい、朔夜』 …誰?邪魔するなよ。 『俺だよ。その小刀の持ち主だ』 抜いた鞘に目を落とす。 虎の彫刻。 『お前、その刀で自ら死ぬ気か』 ああ。そうだ。 そうするべきなんだ。 『俺はお前に生きろと言ってそれを渡した。忘れたか?』 いや…忘れてはいない。でも、もう俺に生きる価値があるとは思えない。 『何故?』 みんな俺の死を願っている。生きる者も、死んだ者も。それに、俺はお前さえ殺した。恨んでいるだろう、俺を。 『全く恨んでいないと言えば嘘になる』 ほら、やっぱり。 『お前のお陰で残された家族は苦労しているし、俺の大事な部下までお前は殺した。その点は恨んでも恨みきれない』 うん…そうだろうな。解っててやった。 恨んでくれよ。それで良いんだ。 『だが俺はわざわざ恨み言を言いに来たんじゃない。そんなもの性に合わんからな。俺は怒りに来た』 怒る?何に対して? 『お前の湿きった根性に対してだ』 …死んでまで根性ってあるのか…? 『だからそれがそもそも間違いだ!!』 うわ、怒鳴るなよ。 『お前はまだ死んじゃいない!そりゃ今のままじゃ死ぬのは時間の問題だ。お前自身が死ぬ気で居るんだからな!』 うん、だからさっきからそう言って… 『良いのか、それで。前を見ろ』 殆ど無理矢理、馬鹿力で顔を上げられた。 『見えるだろ?』 いや…俺、もう何も見えない… 『嘘をつけ。それは肉体の話であって、今ここにあるのは精神のみだ。見えないなら見る気が無いだけだ、お前を待っている者ですら』 光――? 『お前を、信じて待っているだろう?』 …ああ。 見えた… 『行け。屍など踏んで生きろ。それを俺はお前に託した。その小刀と共に』 …ありがとう、千虎。 俺、もう少し、頑張ってみるよ。 『お前の道はまだまだあるぞ』 後ろに手を振って。 走り出す。白骨を踏み、壊して。 怨嗟など無視して。 ただ、光の差す方へ―― 水面の月が揺れた。 丸を崩された白い盆は、また徐々にその形を取り戻す。 気のせいだったか、と燈陰は再び目を伏せた。 風が波を立てただけだろう。 そう思い、気を緩めた。 が、違った。 まるで水中に潜り、今浮上してきた様な呼吸。 あまりに懸命に吸って、少し噎せて。 開いた碧の瞳に、月が写る。 「…朔!」 膝を濡らしてその横へ寄った。 瞳に写る月が、己の顔に変わる。 その必死な形相を透明な眼に捉えて。 朔夜は微かに笑った。 「朔…?」 自分を見て笑う筈が無い。 燈陰は訝しんで息子の眼の奥を見る。 澄んだ碧。 生まれた頃の、そのまま。 再び瞼が閉じられた。 「――朔夜!?」 「気付いた様ですね」 上から皓照が覗き込んでいた。 「だが、また…」 「大丈夫ですよ。眠っただけです」 落ち着き払った声に、燈陰は息子の手首を取った。静かに脈が鼓動している。 止められた腕の血路は、元に戻っていた。 傷の大半も。 今の様子では、恐らく視力も戻っているのだろう。 「俺を見て、笑った…」 我ながら悲しいが、それが解せない。 「記憶が逆行しているんでしょう。全てを思い出すにはまだ、負担が大きいから」 川に溺れた時の記憶喪失と同じだろうか。身体が衰弱しているから、精神が制御を掛けている。 ではただ単に、あれは憎しみの記憶が無い故の笑顔か。 「すみません。身も蓋も無い事を言ってしまいましたね」 「いや…」 多分、それが真実だろう。 あの日までは、あの笑みをいつだって見る事が出来た。当たり前過ぎて疎ましくなる程に。 だが、それが当たり前では無かった事を、今痛切に感じている。 「引き上げましょうか。風邪をひいちゃいけませんし」 皓照が冗談めかして言って、池に入ろうとするのを、燈陰は止めた。 「いい。俺がやる」 言って、抱き上げる。 たっぷり水を含んだ衣がざばざばと水を落とす。重みは殆どが水のそれだろう。 体格は別れた時とそう変わらない。確かに身体は引き締まった感はあるが、今は痩せ衰えた、と言った方が正しい。 背は伸びていない。これまでの生活が如何に酷いものであったか、まざまざと思い知らされる。 「良かったですね」 しみじみと二人を眺めながら、皓照が言う。 「…何が」 「あなたにそっくりだと分かるくらい、傷が治って」 「…そんなに似てるか?」 「親子だなぁ、ってすぐに判りますよ」 厚めの毛布を巻き付ける。寝かせて、その顔を改めて見る。 自分ではさほど似ているとは思わない。 寧ろ、今は亡き人の面影を見る。 『共に死んでやる事は出来た』。多分、二人は同じ後悔の元に立っている。 彼女を守れなかった。それが根源にあるから、こんなにも責められ、恨まれる。 二人の背負う罪だ。 「参考までに…一つ訊いても?」 「何だ?」 「何故彼を許す気になったのです?」 燈陰は眉を寄せて、そこに立つ皓照を見上げた。 「許す?」 「違いますか?疎んでいたのでしょう?」 ああ、と燈陰は納得した。 気を許す、という意味だろう。 罪を、という意味では、許されないのは自分の方だ。 「さあ…何でだろうな」 不明瞭な答え。皓照は言えない事情があると汲んだらしい。 「別に、無理には聞きませんけど」 「いや…話したくない訳じゃない。ただ、分からないんだ」 「分からない?」 「離れている間に情が湧いた…おかしな話だがな。強いて言うなら…妻を亡くしたからやも知れん。彼女が守ったものが何か、やっと…直視する事が出来た」 皓照は不思議な面持ちで燈陰をじっと見た。 そこに何の感情があるのか――燈陰はふと思い当たった。 「…お前…そうか…」 言いかけて。 急に鋭くなった眼光に言葉ごと息を飲んだ。 その眼が細められる。いつもの様に。 「そうですか」 感情の埋没した、柔和な笑み。 「本人に分からないなら、私などが理解出来る筈もありませんね」 「……」 心臓が早鐘を打つ。 たった一瞬の、あれだけの事なのに。 「皓照!燈陰!」 燕雷の声。外からだ。 草を掻き分けて彼は洞窟に入ってきた。 「どうしました?良い獲物はいましたか?」 食料確保の為、狩りをすると言って出て行った燕雷は、ひとまず小動物の肉を皓照に押し付け、自身は地面に布を広げた。 「これは?」 「見覚えないか?」 白い服。 腰帯に、剣が二振、紐で括られている。 「朔夜の物だよ。敵さんがわざわざそこに置いて行ったんだ」 「得物を、ですか」 燕雷は頷き、二人に問うた。 「どう思う?」 暫し黙して考え、皓照が言った。 「仕事をさせる気なのでしょう。この期に及んで」 「仕事って…!?」 「決まってるじゃないですか。彼の仕事は、繍に害をなす邪魔物の排除」 皓照は唐突に出口へ向かい、塞ぐ草を払いのけて外を睨んだ。 静謐な闇。 「…覗かれるのは気分が悪いですね」 振り向き、二人に告げる。 「どうです?彼の傷も癒えた事ですし、そろそろ引っ越しましょうか」 「どこへ…?」 「繍の隠密が易々と入れない所へ」 わざと、堂々と言う。 「例えば、潅(カン)の王宮なんてどうですか?居心地は最高ですよ?」 「おぉ、良いね」 燕雷が嬉しげに言う。 燈陰は眉を潜めたが、敢えて何も言わなかった。 潅は苴の隣国にあたる、小さな国だ。 今の所は自ら他国と交戦する気は無いらしく、お陰で小さいながらも国内は潤っている。 無論、そんな領地を周りが放っておく筈は無いが、潅に攻め入った国の尽くが不思議と敗戦し、猫の額ほどの領地も奪えないでいる。 その裏には目前で馬を駆る男の存在がある事を、燈陰は知っている。 皓照は潅に強くこだわる。その実力でもって、何者も潅を侵させない。 例え玄の弓へ傭兵の依頼があろうと、それが潅を不利にする内容ならば断る。 同じく肩入れをする苴とは、同盟関係を結ばせた。ただの傭兵の一声で。 ――恐ろしい男だ。 たった一人の男が、この乱世の行方を左右する。 人間には無い、力を持って。 懐に抱えた、未だ目覚めない息子を見遣る。 ――お前もいずれそうなるのか? 既に繍の発展には十分な影響を及ぼした。 近い未来、繍の手枷が外れ、自由に世界が見れるようになった日には。 この力をどう使うだろうか。我が子ながら想像がつかない。 また目前の男に視線を戻す。 苴の国境。街道に立つ役人が、彼の名を聞くなり頭を下げている。 普通の民は出来ない国境越えが、彼ならば難無く出来る。 潅に入った。 山上から、緑豊かな土地を望む。 田畑が風にそよぐ。今年も実りは上々だ。 「繍の様な荒んだ国に長く居ると、本当にここが楽園に思えますね」 清々しく皓照は言った。 広大な台地の中心に、日の光を照らし返す金の丸屋根がある。それが王宮だ。 「早いとこ馳走にありつきたいもんだ。行こうや皓照」 燕雷の言葉に微笑んで頷き、皓照はまた馬を駆り始めた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |