月の蘇る 4 短刀は桧釐の手から華耶に渡された。 「これが岸に落ちていたそうです。直前で落としたのか置いて行ったのか、とにかく身につけて無かったから身体が浮いて助かった、と」 虎の鞘の短刀。朔夜が託して行った。 「…守ってくれたんだ」 華耶は短刀に向けて呟き、眠る夫に言った。 「朔夜の為にも、早く戻ってきてね」 まだ意識は戻らない。騒動から三日目の朝。 「皇后陛下、朔夜は…」 苦りきった顔で桧釐が言いかけるのを、華耶は遮った。 「知っています。でも朔夜の事だからまた戻ってきますよ。於兎さんともそう話してたんです。いつもの事だもの」 「いや、でも…」 首を落とされたからもう無理だと断定しようとしたが、意味が無いと気付いてやめた。 信じたいものを信じれば良い。ただし、あいつはもう帰って来ない。 龍晶はそれに気付いたから身を投げたのだろう。供をした者の証言からしてそうだ。朔夜の名を呼び、会話していたとか。 別に幽霊を信じる訳ではないが、これまで死んだ者を夢現に見てきた龍晶はそれで朔夜の死を知ったに違いない。認めた、と言うべきか。 母親の時はあの悲壮な対面まで頑なに信じなかったのに、否その経験があるからこそ早く認めてしまった方が楽だと無意識がそう働いたのかも知れない。 楽になりたかったのだ。 それは許されなかったけど。 「陛下、今が肝心な時ですからね。早く目覚めて下さいよ」 桧釐も眠る顔に一声かけて、表へ戻るべく皇后に一礼して踵を返す。 これで良かったのかも知れない。 目覚めねば良い。全てが終わるまで。 それが一番楽な筈だ。 「桧釐さん」 扉を潜る前に呼び止められた。 「今、戦はどうなっていますか。戔は大丈夫でしょうか?」 振り返りながら肩を竦めて前者の問いに答える。 「今はまだ動きはありませんよ。互いに出方を窺いつつ、兵力を集めているのでしょう」 「戦をして、勝てますか?」 質問はもっと直裁的になった。桧釐は苦い顔をする。 「勝たねばならんでしょう」 そうとしか言えない。 なのに皇后は、弱く微笑んで言った。 「囚われて生活する事には慣れていますから」 負けた時の話をする。 溜息混じりに桧釐は言い返した。 「そんな事、他の者の前では言わないで下さいよ?士気に関わりますので」 「はい。…でも、一つだけ教えて下さい。もう絶対に口にしませんから。もしその時は、彼はどうなりますか?」 視線は夫へ。 桧釐は誤魔化す意味も無いなと非情に徹した。 「どちらかの国が都に侵攻して城を取り囲んで負けるのなら、我々は皆殺されると思った方が良いでしょう。そこまでになる前に降伏すれば、敵の要求次第です。ただ、王という立場上無事では済まないと思いますが」 彼はそれを望みそうな気がする。 他の犠牲を出すよりは、己の身を差し出したいと。 どうせ捨てようとした命だ。 「もしそうなったら、私が代わります」 「へ?」 思ってもみない申告に間抜けな声が出る。 「王は病身ゆえに私が女王となったと言えば、敵の皆さんも納得しないかしら?」 遊びの提案をするような可愛らしい言いようだが。 「まあそれも…一つの案として頭に入れてはおきますがね。敵の要求次第なので」 桧釐は言葉を濁したが、可能性はあると思った。 彼女の思うような可能性ではないかも知れない。それはつまり、龍晶がそれまでに息を引き取った場合、次の王――つまり幼い春音の身代わりとして彼女が一時的に即位するという手だ。 幼子は守られる。義理の母の犠牲によって。 では、と今度こそ御前を辞して表へと向かう。 確かに負け方を考えておく必要はあるかも知れない。桧釐の一番の苦手分野ではあるけれど。 逆にそれが出来るのは王その人で間違いないだろう。 その為に今回は助けられたのだと考えるのは、少し勝手過ぎるだろうか。 彼岸と此岸の間には、河が流れている。 それが見慣れたあの運河だと気付いて、龍晶は思わず笑ってしまった。なんて手抜きだ。他にもう少し立派な河があるだろう。 「だってお前、こっちに来なかったんだもん」 運河の向こう側――都の外から朔夜が言う。 苦笑して此岸から龍晶は答えた。 「俺だって行きたかったよ。でも」 此岸にはややこしい現実が様々に入り乱れている。その現実が、王を都から外へ出す事を許さなかった。 「お前が片付けなきゃいけない問題?」 「面倒だけど、そうみたいだ。俺が生きてないと、誰かが代わりに犠牲になるから」 親友を真っ直ぐに見て。 「華耶を犠牲にはしたくないだろ」 朔夜は肯く。その後で、首を横に捻った。 「お前が犠牲になる事も無いけどさ」 「それは無理ってもんだ。と言うかこの為に俺は王になったんだろう。そう思えば納得も行く。この命はこうして使う為のものだったんだって」 「今まで死ねなかった事が?」 「ああ」 そして冗談ぽく笑って言った。 「もしこの首を落とすのが苴だったら頼んでみようかな。お前の隣に葬ってくれって」 朔夜は笑わず真顔のままだった。 「悪魔は葬られてないよ」 「…え?」 蘇生を封じる為に埋葬はされていないと言う事か。その肉体を、跡形も無く消し去っているのか。そんな事が可能なのか。 それとも、悪魔の魂はまだ生きているという事か。朔夜の意識だけを消し去って。 そんな恐ろしい世界に戻りたくはない。 なのに朔夜は言った。 「なあ龍晶、お前は生きろよ」 「そんな事言って、また…置いて行く気か」 朔夜は首を横に振った。 「俺達はまた会える。だけど、それは今じゃない。それより華耶がお前を待ってるから。俺の代わりに戻ってやって。俺が何度もあの声で戻れたように、今度はお前が帰ってやってよ」 「華耶が本当に呼び戻したいのはお前だろ」 「だからそれは今じゃない。華耶が今呼んでるのは、お前だけだ」 「そんな訳…。こんな酷い夫に生き返って欲しいと思うか?もう愛想尽かされてるよ。自分で分かってる」 「ったくもう、天の邪鬼は相変わらずだな!本当は逆だって分かってる癖に。声も聞こえてる癖に!」 耳を塞いでいた。彼女の声から逃げようと。 目は、彼岸の友から離さなかった。 「だって」 涙でその姿が歪む。 こんな感情要らない。見えなくなったら消えてしまう。やめてくれ。 「俺はお前と逝きたかった」 朔夜は黙って短刀を差し出した。 生きろと言われて渡された、あの短刀。 「大丈夫だ。生きてればまた会える」 「…本当に?」 「そう約束しただろ。また三人で会える。お前が生きてれば」 「じゃあ、お前…」 短刀はいつの間にかこの手の中にあった。 生きねばならなかった。 「だからそれまで、華耶を頼む。お前しか居ないんだ。だから戻ってやってよ」 声が遠くなる。姿も霞んでいく。 嫌だ。行くな。彼岸の――否、その向こうは? 「お前は何処に行く…?」 最後に、にやりと笑った。あの悪戯っぽい笑みで。 「俺達の悪だくみは、まだこれからだろ?」 早朝の光の中、傍らで眠る顔を見て、素直にまだこの人を愛していても良いんだと思えた。 朔夜はそう望んでいる。否、あいつがそう言うからという訳ではないが。 後ろめたさが消えたのは確かだ。同時に失う恐怖も薄らいだ。それより守らねばならなかった。 先に逝くのはどうやったって俺だ。だから、彼女の盾になれる。 腕が動いた。手も、指先も、ぎこちなくだが動いて。 そっと顔を撫でる。その感触で華耶の目が開いた。 「仲春…?」 頬を触る手に、手を重ねて。 生きている。まだ温度は戻りきってないけれど、冷たい手の奥に確かな脈動を感じる。 「おかえり」 二つの手の隙間に涙が吸い込まれた。 わんわんと泣く祥朗に苦笑いしながら、嘘でも弁明せねばならなかった。 「苴に行きたかったんだ。その行動自体がおかしいのは分かるけど、苴に行って直接弁明したかったんだよ。そうしないと攻められるから。だけど体力が付いてこなくて足が縺れて河に落ちた。決して自分で飛び込んだ訳じゃない。信じてくれ」 弟は泣きながら頷いた。何度も何度も。 こう言ってやらねばずっと付き添ってくれていた彼の立つ瀬が無い。何より、お前を置いて逝くつもりだったと告げられる辛さはもう嫌と言う程噛み締めている。同じ思いをさせたくなかった。 祥朗の隣で肩を抱いている娘に目配せする。 彼女は気の毒そうに微笑んで頷き、思い人に声をかけた。 「あまり陛下を疲れさせてもいけないし、もう行こう?」 祥朗は素直に頷いて、彼女に肩を抱かれたまま出て行った。 「夲椀(ホンワン)という名だそうですよ。良い娘ですね」 華耶の言葉に頷いた。もう言葉を発する気力は無かった。 でも嬉しくはあった。漸く天涯孤独と言っても良い祥朗に身寄りが出来たのだ。早く本物の家族となってくれたら良い。 疲れた身を横たえると眠気が襲った。薬を飲まなくても眠れるようになったのは、それだけ身体が弱っている証なのだろう。 浮いた手はもう一つの手を探した。 探していた柔らかな手に受け止められると、心から安堵して眠れた。 それは残された者同士の結束でもあった。 苴からは丁寧に遺髪だという銀髪まで送られてきた。束ねてもはらはらと散ってしまう、まだ伸び切ってない長さの髪。 桧釐は敢えて自分達二人にそれを見せに来た。朔夜の死を認めさせたいのだろう。 華耶は泣いた。泣いていたが、強く言った。 それでも朔夜は帰ってきます、と。 自分はどうだろう。まだ半信半疑だ。 一度は死んだと思った。一緒に逝く筈だったのだから。 だけどあの夢の中でまた会えると言われたから、もうどっちでも良い気がしてきた。 それがどちらの世界かというだけで、あいつに会えるならもう何処でも良いか、と。 こうしてずっと夢現の間を彷徨っていれば、何処かで会える。 それは希望なのだろうか。少なくとも今、絶望はしていない。 ふわふわとした現実感と、華耶の手にささやかな幸せを感じるだけだ。 「陛下のご容態は如何ですか?」 宗温に問われて、桧釐は自分が見た事と周囲から聞いた事を合わせて答えた。 「少しは話も出来るくらいに快復しているそうだ。だけど一日の大半は寝ているらしい。魘される事も無く昏々と眠ってるんだと。前みたいに変な事を言い出さなくなったし、その辺は良くなってるんだろうな。医者はこのまま静養させれば良いって言ってるし」 「そうですか。それは良かった」 「良かった…ああ、良かったよ」 投げたような言い方。宗温は眉を顰めたが、聞かなかった事にした。 「そっちはどうだ?」 問われて、宗温は本題である各地の状況を語った。 「哥にはまだ動きはありません。兵の集まりが悪いようです。王を裏切った大臣への求心力が落ちているからでしょう。国境を越えない限りこちらは手出し無用としていますが、貴殿はどう思いますか?」 「攻められるまで待てって?さっさと叩き潰しておいた方が良くないか?」 「こちらから攻めても利は無いと思いますが」 地の利も無ければ、その余裕も無い。罠である可能性もある。 だが近い将来必ず攻めて来るのなら、戦力が揃わないうちに叩いておきたい。 「苴は?」 問題はこっちだ。哥を叩く為に動けば、他方から攻められるやも知れない。 「それが…斥候からの情報ですが…」 信頼出来る者からの情報だが信じ難いのだと、濁した言葉尻で伝えて。 「東部…つまりこちらを睨む軍施設が次々と襲撃に遭っているようなのです。それも、南から北へ、順に」 「は?どういう事だ?」 「分かりませんが、少なくともそのお陰でこちらへの進軍は遅れるとの事です。他方面から兵を掻き集めている状況なのだとか」 桧釐は腕を組んで考えた。 誰かが戔に有利になるように動いている。そう考えるより無い。だが、誰が? 「…そう言えば、苴がそんな事を言ってきていたな」 書状の中で、悪魔による惨殺事件が頻発している、と。 それは軍施設での事なのか。 「朔夜が苴東部の兵力を無力化しながら哥に向かっていたとしたら、それは可能なのかも知れない…」 「その中で捕らえられたという事ですか?」 「可能性は大いにあるな。一人で敵の巣をつついて回るようなもんだ。下手をすればいくらあいつでも命を落とすだろう」 「…朔夜君はいつも我々の味方でした」 沈鬱な宗温の呟きに、桧釐は苦笑いして否定した。 「おいおい、あの悪魔に手を焼いた事を忘れたか。あいつは陛下を殺そうとした奴だぞ?」 「それは悪魔である時だけですよ。朔夜君自身は常に我々の味方をしてくれた。戔は得難い人を失ってしまったのです」 やれやれと溜息を吐いて、相手の言う事にも一理あるし、ここは折れてやる事にした。 「戔を救った尊い犠牲って事か。だけどそれは一時的な話だがな。問題はこれからだ」 「矢張り苴軍が手を拱いている間に哥を叩くべきでしょうか」 宗温が先刻の桧釐の提案を口にした。 「俺ならそうする。苴の状況がそれなら尚更だ。お前は何を迷う?」 「…両国とも、まだ開戦は決定されていないような気がするのですよ。避けられるならば避けたい。ならば、こちらから攻めるべきではない」 「はあ?攻めて来るに決まってるだろ?」 「貴殿が苴王に書状を送って返信はありましたか?」 「無い。無い事が返答だろ」 「待ってみる価値はあると思います」 「ねぇよ。ある訳が無い」 宗温は桧釐に詰め寄った。 「この戦、避けねば…戔の未来は無い!」 桧釐は相手を睨み返す。 「そんな事は分かっている。だが、もう遅い。避けられねえよ。相手は来る。そしてこっちは…誰を犠牲にするか、だ」 「どういう意味ですか」 「あの人はこの為に命を拾った。分かるな?いくら俺でも二度は言わんぞ」 目を見開いて、宗温は後ずさった。 「お身内の言葉ですか、それが…」 「だから二度と口にさせるなと言っている」 幸い二人きりの空間だ。人払いは済んでいる。 変に解釈されて謀反だと騒がれている場合ではない。 宗温は口に手を当てて考えていた。眉間にはくっきりと皺が寄っている。 「…矢張りここは、陛下の指示を仰ぐべきです」 「死にかけてやっと生き返った人に判断なんか出来るかよ。それは責任転嫁って奴だ」 「しかし、指揮系統を考えればそれが正当だ。私の独断で攻める事は出来ません」 「その重責があの人を追い詰めたんだろ!?」 怒鳴ったが、それは自身も同罪だと気付いて口を閉ざした。 「…後宮へ行ってきます」 言い置いて宗温は出て行った。 「多分まだ寝てるぞ」 背中に吐き捨てたが、振り向きもしなかった。 閉まった扉を睨みながら、考えていた負け方がくっきりと見えてきた。 哥も苴も全軍で当たって来る事は不可能だ。ならば善戦は出来る。勢いのあるうちに和睦するのだ。粘れば粘る程に不利となるから。 だが和睦では相手は足りないだろう。そこで初めて降伏する。その人柱がかの王だ。それで相手は納得せざるを得ない。そこにいくらか金を付ければ文句も無いだろう。 それで戔は保たれる。新たな王を据えて。 国を救った悲劇の王。それで良いではないか。全てを捨てて堕ちたあの人には出来過ぎの筋書きだ。 組んだままだった腕に気付いて解く。 手はべっとりと汗で濡れていた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |