月の蘇る 3 日はとっぷりと暮れ、夜の闇が訪れる。 ただし、周りがどんなに明るくとも目前には闇しかないので関係無い。 何も見えない。耳元でずっと煩く騒いでいた声も消えた。誰も、何も近寄らない。 朔夜が言っていたのはこういう事だったのだろうか。誰にも指一本触れさせない、と。 自分が亡者共と同じ世界に来たからには。 嘘だ、と力無く己の考えを否定する。 全てはこの頭が作り出した幻だ。朔夜だって、あれは夢。 夢だからこそ会いに来てくれたのだろうか。 現実で会えないから、幻となって。 違う。そんな筈無い。あいつは、まだ。 だって、苴軍ごときにあいつが捕らえられる筈が無い。あいつなら勝てる。どんなに大軍がやって来ても、あいつなら。 本当に?今までに俺は、何度あいつに命を落とさせた? その屍を拾われたら? 首を落とせば蘇生不可能だと、苴なら知っているだろう。あの苴王の書きようからしても。 暗枝阿は何をしていた?もしや裏切った? 否、最初からそのつもりだった? 燕雷は太刀打ち出来ぬだろう。あの男を相手にしては。 それだと今ごろ二人とも――? まさか。そんな筈無い。 確かめねば。 この目で確かめるまでは、信じない。 ああ、これって、 母の時と同じじゃないか―― それでも行くんだろ?俺は。 真夜中、龍晶は動き出した。 あの日から肌身離さず持っていた虎の鞘の短刀を帯に差して。 そっと廊下へ繋がる扉を押し開ける。 そこに立っていた見張りの兵が、あ、と声を漏らした。 しっ、と鋭く息を吐き、兵を見据える。 顔に覚えがある。 「崔舗(サイホ)か」 低く問う声に兵は頷いた。 「一人だな?」 もう一度頷く。 それには龍晶は確証があった。扉の外の足音に神経を尖らせ、去っていく足音のした後に出てきたのだから。 警護は通常二人だが、常にそうとは限らない。 「外に出る。供を命ずる」 当然、崔舗は驚いた顔をして反論しかけた。 「しかし…」 「不敬罪で友と一緒にぶち込まれたいか?嫌なら黙ってついて来い」 それを言われるとこの男は抗う術を持たない。 尤も、その効果を確かめる前に龍晶は滑るように階段を降りていた。 体が軽い。いつぶりだろう。こんなに動けるのは。 まるで朔夜が乗り移っているような。否、まさか。 崔舗は焦って後をついて来る。それでも足音をさせないのは流石だ。近衛兵として叩きこまれた基礎がこんな場面でも生きている。 龍晶は人目の無い出口を選んで外へ出た。勝手知ったる生家だからこそ、そして長年藩庸らと命懸けの鬼ごっこをしてきたからこそ知る出入り口だ。 外に出て、庭草を踏んで、裸足のままだったと気付いた。格好も寝間着に羽織りを着ただけの姿だ。 だがそんな事はすぐに忘れた。雪の残る地面を踏むのは心地良くさえあった。 崩れた城壁を飛び越える。堀との僅かな幅の土塁を駆けて、下人用の小さな橋を渡る。 そうするともう街中に身を潜り込ませる事が出来る。自由の身だ。 何とかついて来た崔舗が息を切らして隣に立った。 「陛下…あの、どちらまで?」 戻れと言わないのは殊勝な事だ。だから素直に答えてやった。 「苴だ」 「…そ?」 あまりに突拍子の無い返答だったからだろう、その地名を頭の中で探しあぐねて。 「えっ…そ、苴ですか!?」 「うるさい。声が大きい」 申し訳ありません、と慌てて謝る。 「だって、陛下、歩いて行ける距離では…そうだ、馬を引いて来ますからお待ち下さい」 「不要だ。俺から離れるな」 「しかし」 「どうせお前が連れて来るのは馬ではなく人だろう」 図星に呻いて立ち尽くす。 構わず龍晶は進む。途方も無い目的地へ向かって。 素足で踏んだ雪道に血が滲んでいた。塀を登る時に切れたのだろう。 それを見て崔舗は主が正気ではないと確信した。どうにかして止めねばならない。 そう考えているうちに怒鳴られてしまった。 「俺から離れるなと言っただろう!」 はっ、と怯えたように応えて走り寄る。 また並んで歩きながら龍晶は言った。 「安心しろ、苴までついて来いとは言わん。お前の役目は都を出るまでだ」 「その先は?」 「無論、一人で行く」 無茶だと思いつつも、相手に正気は無いのだから当然かと己で納得する。 それよりも気になって問うた。 「何故、苴に?」 龍晶は切れ長の目で視線をくれて一度黙り、小さく答えた。 「友の無事を確認しに行く」 相手が顰めた顔を鼻で笑い、言い捨てた。 「貴様には分からんだろ」 それからは黙って歩いた。 真っ黒の空から、春を告げる大粒の雪が落ちてきた。 暖かな日はまだ遠い。暗く寒い道。 崔舗はふと思い立って道を先導した。この道は花街に近く人が多い、こちらなら人目がありませんよ、と。 夜の街に当然明るくない王は、素直にそれに従った。判断力も無くなっているせいだろう。 実はそうと気付かれぬように崔舗は誘導している。この町外れに友の家があるのだ。 医者見習いの要馬(ヨウマ)ならば、この局面をどうにかしてくれるのではないかと、藁にも縋る思いで。 ふと気配が遠くなって、後ろを確認する。 王は――王という立場を背負わせるにはまだ若過ぎるその人は、雪の舞う空をじっと見上げていた。 その様は、天人のような美しさで。 この世の人には見えなかった。 風が吹いた。白い壁が視界を遮る。 さくや、と呼ぶ声が吹雪に煽られた。 崔舗は、全くの他人事なのに、何故だか涙が止められなくなった。 「ばっかな事してるなぁ、また」 笑われて憮然として返す。 「それにいつも付き合ってたじゃねえかよ、お前は」 「だって我儘王子様を放っておけねぇから」 「じゃあ放って勝手に逝くな。ずっと傍に居ろよ。そう言っただろ」 「居るじゃん。ほら、こうやって。生きてる時よりずっと便利だよ」 「そうじゃなくて…」 言葉を切らす。答えはまだ知りたくないのに。 「お前、今は一時的に死んでるだけだろ?戻るべき肉体はまだあるんだろ?いつものように蘇るんだろ?」 朔夜は苦笑いして、己の首を指差した。 もう血は出ていない。その代わり、切られた赤い線はくっきりと一周している。 「これでもそんな事言える?」 すぐに目を逸らした。見たくないのはその現実だ。 「なあ龍晶、俺はこれで良かったんだよ。言ったじゃん、首を落としてくれって。お前の代わりに苴がやってくれた、それだけの事だ」 「言うな。そんな事」 「言うよ。だって、それしか救いが無いって、お前も知ってるだろ」 「じゃあ何で抜け駆けしてんだよ!?どうしてお前が先なんだ!?裏切り者…俺は、お前に、華耶を託すつもりだったのに…」 「そんなのお前の我儘だよ」 「分かってるよ。だけどお前に言われたくはない」 「そっかぁ…まあ、そりゃそうだね」 「勝手に死にやがって」 ひらりと朔夜は雪に混じって舞い上がり、行く手にある橋の欄干へ立った。 「寂しいならお前も来る?今なら二人で逝けるから」 「…本当に?」 真っ暗な空に浮かぶ笑顔が眩しい。 素直になれば分かる事だ。 こうすれば、永遠に一緒に居られる。 朔夜は龍晶の後ろに向けて顎で示した。 誰かと話す主の後ろをついて歩く。 話している相手は分からない。虚空に向けて喋っている。 随分親しい相手なんだろうなとその口調から想像したりして、自分まで向こう側に行っているのではないかと頭を振って正気を保った。 都の外れに近付いている。道の先に運河があり、橋が架かる。その橋を越えれば都の外だ。 暗闇の中に並ぶ家々の一角に目を凝らす。あれが医者見習いの友、要馬の住まい。今はあそこで寝ている筈だ。 何か奇跡でも起こって家から出てくれないかと念じるが、そんな都合の良い事が起こる訳が無い。 虚しく通り過ぎる。正気を失った主に引き摺られるように。 しかし視線を前に戻すと、王は立ち止まっていた。 何かに促されるように振り返り、崔舗と目を合わす。 そして言った。 「ここまでだ。城へ帰るが良い」 えっ、と戸惑いの声を上げる。が、確かにそういう約束だったと思い返した。 「城の者達によろしく伝えてくれ。行け」 行けと言われても、このまま離れる訳にはいかない。迷っていると、早く行けと怒鳴られた。 はっとして、来た道を走り出す。これは好機だ。 角を曲がり、三件目の扉を叩く。 「要馬!俺だ!崔舗だ!出て来てくれ!」 返事が無い。もしや、救民街で仕事をしているのか。 祈るようにもう一度扉を叩く。 「頼む!出てくれ!」 がらりと木戸は開いた。 「何だよ、こんな時間に…」 「陛下の様子がおかしいんだよ!手を貸してくれ!」 言い終えるが早かったか、その瞬間に。 大きな水音が響いた。 静まり返った夜空に余韻が後を引くのを、自らも息を詰めて聞いて。 走り出した。その音に反応して付近の家からも人が出てきている。 その野次馬を掻い潜って、運河の縁に立って。 真っ黒な水底に、白い肌が。 「崔舗!待て!」 友の制止の声を振り切って、氷の浮く水面に飛び込んだ。 痛い程の水の冷たさ。心臓が縮こまる。弱い者なら止まってしまう。 だからだ。だからこの人は飛び込んでしまった。 己の生を止めたくて。 少し潜れば運河の深さなど知れている。力無く水中に揺蕩う体に手を伸ばした。 抱き止めて、水面を目指して腕を掻く。 水上に顔を出し、大きく息をした。その途端、歯の根も合わぬ震えに襲われた。 まずい。思うように体が動かない。まして人一人抱えている。岸まで泳ぎきれる気がしない。 「崔舗!縄を!縄を掴め!」 野次馬の声の中からはっきりと要馬の声だけが聞き分けられた。 見れば、土手の人々が一本の縄を皆で掴んでいる。その縄の先が手を伸ばせば届く所へ投げられた。 気力を振り絞って腕を伸ばす。震える指先をどうにか絡ませて。 「引っ張れ!」 土手の人々が声を合わせる。命綱が引かれる。生きる、此岸に向かって。 「大丈夫か?」 岸に居る人々の手が届くようになって、崔舗はまず王を差し出した。 震えて問いへの返事は出来ない。あとは人々の手に引き上げられるのに任せた。 要馬は岸に上げられた王を見、すぐに周囲の者に叫んだ。 「中に入れろ!炉に火を焚べて暖めてくれ!」 目の前の家が開かれ、火が入る。 崔舗も周囲の者に促されて中に入り、炉の傍に座った。 既に要馬が王へ処置をしている横だ。胸を規則的に押し、口へ息を吹き入れながら、家の者に指示する。 「布団を敷いてくれ。そいつにも!」 出入り口に溜まっている野次馬達にも毛布を持って来るよう叫ぶ。何人かが踵を返して取りに行った。 激しく震えながら崔舗はその様子を見る事しか出来なかった。 横たわる王からは生気が感じられなかった。肌は痛々しい程に青白く、息は無い。 死んだのだろうか。否、そうはさせじと友が頑張っているのは分かるが。だけど。 そうなったら、この国はどうなる? 戦が始まっている事は知っている。都に居ては実感が無いが、軍部の仲間は続々と北へ向かっている。 そして更に苴も攻めて来るという。二つの国から同時に攻められて、守りきれる体力が無いのは軍部の端くれに居る自分でも分かる。 王としてその状況に絶望してしまったのか。それで全て投げ出して? そんなに無責任な人だとは思えない。病を得てもあんなに民の為になる仕事を続けていた人だ。 だけど、だからこそ、このどうにも出来ない状況を悲観してしまったのだろうか。 そこまで追い詰められているのか、この国は。 滅ぶんだろうか。戔という国は。 「おい崔舗!しっかりしろ!」 要馬の檄が飛んで我に返った。 意識が飛んでいると思われたのだろう。それは自分でも否定出来ないけれど。 「濡れた服を脱いで毛布にくるまってろ。温まれば治る」 近隣の者が持ってきた毛布を差し出してくれた。言われた通りに悴む手で服を脱ぎ、毛布に包まって震え続ける。 相変わらず要馬は指示をしながら心臓への圧迫を続けていた。と、微かに息を吸う音がした。 要馬が手を浮かせる。吸った息は咳になり、安堵したのも束の間で、口から赤いものが大量に溢れた。 「いかん」 王の体を横に倒す。喉に詰まって息を塞がないようにする為だ。血は板の間にどくどくと流れてゆく。 「水を!出来れば白湯をくれ!」 指示が飛び、家人が動く。 血は止まったが、まだぐったりとして意識が無い。 「毛布を!手伝ってくれ!」 崔舗と同じように濡れた衣服を剥ぎ取っていく。 腰布に手をかけて、ふと止めた。 噂の真相など衆目の前で確かめるべきではないと思い直し、毛布を掛けた上で脱がせた。 「誰か城へ行ってくれないか。行けば向こうも分かる。あと、救民街の医師を呼んでくれ。手が空いている者は手伝ってくれ。体を摩って温めるんだ」 人々がそれぞれに動く。誰もがこの一人を救おうと必死に。 それが誰かは知らぬ者が大半だろう。城へ行けと言われてもまさかそれが王だとは思うまい。城内で大騒ぎして探しているのは確かだろうから、行けば説明も無く案内しろと言われるのだろう。 別にそれが誰かなんて、誰も関係無いのだ。 助けられる人を助けたい。そう願って動く、それが人なのだ。 だが、前王の時代だとそれは普通では無かった。誰もが自分の事だけに必死だった。そこに屍が転がっていても冷たい視線しか投げない人が多かったと思う。 それをこの人が変えた。何を変えた訳でも無いだろうけど、国の空気が変わった。 未来に希望が見えるようになったから。 この人が苦しい所から這い上がってきたのをこの国の民は知っている。それはそのまま生きる希望になった。未来は変えられる。 だから。 あなたはこのまま絶望して死んではいけない。 ここで死んでしまったら、この国そのものが死んでしまう。 分かっているだろうか。今、あなたを救おうとしているのは、あなたが救いたいと願った民の一人一人だ。 知って欲しい。 まだ希望はある、と。 「要馬!」 弟子を呼ぶ老いた声は救民街の医師だ。 体付きのしっかりとした男が背負って走ってきたのだろう。かなり早い到着だ。 「先生、診て下さい」 要馬が師に場を譲る。早速、医師は脈を測った。 「…うむ。よくやった、要馬」 友は目をいっぱいに開いて師を見返した。 確信に満ちた行動をしていても、内心は不安で押し潰されそうだったのだろう。 「大丈夫だ。このまま温めておあげなさい。あとは私が引き受ける」 安堵で肩が萎んだ。 ふらふらと崔舗の横へやって来て、座り込む。 「お前は大丈夫か?」 やっと自分の番が回って来て脈を取って貰えた。だけどこれではどちらが病人か分からない。 崔舗はやっと歯の鳴らなくなった口で言った。 「ご苦労様、センセイ」 要馬は照れたような苦笑いを返した。 [*前へ][次へ#] [戻る] |