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月の蘇る
  2
 夢現で友の名を呼んでいた。
 切り刻まれる痛み。幼少の頃と同じように、兄とその取り巻きが今度は刃物を持って。
 朔夜、助けてくれ。
 お前しかいない。
 そう叫んで、はっと目覚めた。
 執務室の横の仮眠室。人影は無く、静まり返っている。
 夜の闇を恐れて燭台は点けておいてくれと祥朗に頼んだ。言われた通り、一つだけ残った灯りが心許なく揺れる。
 乱れた息を繰り返し、何とかもう一度眠ろうと目を瞑る。
 現の中に何も見ないうちに。何も聞かないうちに。
 夢も現実も恐ろしい。あいつが傍に居ないから。
「龍晶」
 突然、懐かしい呼び名が聞こえた。
 目をいっぱいに見開いて、声のした方へ顔を上げる。
 扉の前に、あいつは居た。
「帰ってたのか…?」
 いつの間に。否、扉が開く気配なんて無かった。
 朔夜は答えず、笑っていた。
「安心しろよ、龍晶。これからは、悪い奴は俺がみんなやっつけるから」
「悪い奴って…?」
 現実に戔を攻めようとしている人間たちの事だろうか。それとも。
「決まってるだろ。藩庸の馬鹿野郎共だよ。俺がこっちに来たからには、指一本触れさせねえから」
「待てよ朔夜。こっちって、何。どういう意味…」
 傍らまで来た朔夜は、にっこりと笑った。
 あの子供のような、嬉しさで満ちた、だけどその奥に悲しみの揺蕩う、満面の笑顔。
 その顔が。頭が。
 落ちた。
 声も上げられなかった。崩れそうなのは自分自身も同じなのに、指一本動かせず、呼吸すら止まってしまった。
 床に転がった朔夜の頭は、笑ったまま言った。
「だけどさ龍晶、約束は守れよ」
 約束?何の約束?
 混乱した頭は考えを巡らせているようで何も思い出せない。
「華耶を大事にしろって。お前、このままだったら」
 頭を失った身体が、刀を抜いていた。
「殺すよ?」

 今度こそ身を起こした。
 背中が汗でべっとりと濡れ、衣服が気持ち悪く張り付いている。
 執務室横の仮眠室。燭台の灯はすっかり消えている。代わりに窓から朝日が差し込んでいた。
 夢。あれは夢だ。なんてタチの悪い悪夢だ。
 頭を抱えて呼吸を整える事に専念する。
 目を覚ました祥朗が隣に寄って来た。いつも横の長椅子で共に仮眠を取っている。
 汗に濡れた背中に触れて、なんとか安心させようと。
 顔を起こして弟の顔を目に入れる。彼は微笑んで、着替えを取ってきますと言った。
 祥朗が行ってしまうと、いよいよ一人になった。
 震えが全身を襲う。初春の朝の寒気が汗で冷えた体に容赦なく刺さる。
 膝を抱えて夜具を抱く。転げて眠るとまたあの場面に戻されそうで、どうしても起きていたかった。
 桧釐のせいだ。あんな事を言うから。
 確かに苴は朔夜の首を落としたいだろう。そしてそれを承知で皆、朔夜を苴へ送る算段を付けた。
 だけどそうはならない。なる筈が無い。あいつがあんな死に方するもんか。
 ああ、でも。
 華耶を大事にしろ、とは。俺自身の後ろめたさだ。
 もう何日顔を見ていないだろう。まともな会話をしたのはいつ?怒鳴りつけたのが最後か。
 出て行け、顔も見たくない、と。
 養子は断って、春音を王にしてくれと、そればかりだから。そうしなくては私は出て行きますと譲らないから。それで腹が立って。
 仕方ないだろう。誰も俺の心を知らない。一度理解し合えた筈の彼女にそれを言われるのが一番堪えた。
 だけどそれで良かったんだとも思っている。
 これで朔夜に返し易くなった。
 そうか。こんな理由でお前が俺を殺してくれるなら、こんなに良い事は無い。
 俺はそれを望む。だから朔夜。
 生きて、帰って来い――

「嘘だろ?」
 嬉しそうな桧釐の顔に言ってやると、ぶんぶんと首を横に振った。
「本当ですって。そんな顔せずに喜んで下さいよ。華々しい自軍の初勝利ではありませんか!」
 壬邑で哥軍との衝突があり、戔軍が勝ったという報告だ。
 とは言え、まだ小競り合い程度の事だろう。先走った哥兵が集まる戔軍にちょっかいをかけて返り討ちにされたという話だ。
 一つだけ確かなのは、両軍とも準備の間に合わぬまま開戦の火蓋が切られた。
 龍晶は重い溜息の後に舌打ちして、書きかけていた書状をくしゃくしゃに丸めて捨てた。
「あ、陛下。いけません。紙が勿体無い」
 浮かれた忠告など無視だ。
 駄目で元々だと思い、哥へ書状を書いていた。大臣に宛てて、戦以外の交渉をしよう、と。
 これで見事に無駄になった。
「大丈夫です、陛下。分かったでしょう?我々はやれますよ」
 卓の上で頭を抱えて目を瞑る。
 次の手を考えねば。戦の着地点を。
「…灌に書状を書く。静かにしてくれ」
「あ、はい」
 桧釐は己の仕事へ戻っていった。
 頭が痛い。いや実際に頭痛はずっと付き纏っているが、この状況が一番頭が痛い。
 これで王位を退く?この男に実権を与える?無理ではないか。国が滅ぶ。
 緊急時は人の本性が出ると言うが、こんな軽薄な男ではなかった筈だ。それとも危機感が無いのか。
 無いのかも知れない。都に居れば遠い話だ。
 それに自分達が軍を操る側となれば、命のやり取りの実感は薄くなるのだろう。兄のように。
 龍晶自身で言えば、それだけは嫌だった。人を駒として扱う権力者にだけはなりたくない。
 だがある意味それをせねば戦は出来ない。
 灌王宛てに兵を貸してくれるよう頼む文章を綴る。
 同時に苴の動きを注視するよう書き添えた。
 養子の件には触れなかった。それどころではない。
 だがこの状況で自分が倒れたら?
 はたと思い至り、首を振る。
 どの道、若い鵬岷に指揮は出来ない。そうなれば皓照がしゃしゃり出て来るだろう。言語道断だ。
 今は死ねない。そう思うと同時に、全て放り出せたら楽だろうとも思う。
 灌王への書状は書き終えた。次は苴だ。
 哥が攻めてきたから協力してくれと下手に出る。それで出方を窺う。
 表面上、苴王とは親しい間柄だ。無論、哥への書状を自分が届けた事が大きく関係している。
 その哥が裏切ったのだから、普通なら多少なりとも協力はしてくれる筈だ。
 それが動かないとなれば、敵と通じている。
「桧釐、これを――」
 書き終えた書状を渡そうと立ち上がると、強い眩暈に襲われた。
 立ち眩みはしょっちゅうだが、一瞬で脱力し視界が白み、意識を失っていた。
「陛下!」
 周囲の叫び声が遠い。なのに。
「おい龍晶、大丈夫か?」
 すぐ近くではっきりと声がする。
 恐々、視線を上げて。
 安堵の息が漏れた。朔夜の首は繋がっている。
「朔夜、お前、生きてるよな?」
 問うと、悪戯っぽく笑った。
「さあ?死んだ自覚も無いからよく分からないけど。ほら、首切られるのって一瞬だろ?」
 絶句する。
 よく見れば、首に赤い線が。
 そこから血がたらたらと流れ出して。
「嫌だ…」
 口から声が漏れていた。
「そんなの嫌だ。朔夜、死ぬな…戻って来い!まだ、俺はお前に…!」
「陛下!陛下!!」
 身体を揺さぶられて意識が戻った。
 桧釐が上体を支え起こしている。間近に従兄の顔を見て、それでも少し安堵した自分が居た。
 倒れたままの机の横の位置だ。一瞬の出来事だったのだろう。
「済まん…ただの立ち眩みだ」
 掠れた声で言い訳して、腕の中から逃げようと身体に力を入れる。が、上手くいかない。
「ちょっと休みましょう。隣へ運びますから」
 そのまま抱き上げられて、仮眠室の寝台に寝かされる。
 ここに戻されると、不安が一気に戻ってきた。
 あれは本当に夢なのか。
「苴からの報せは無いか?」
 ん、と桧釐は考える顔になる。
 そして何か納得した顔付きになって。
「だから譫言で朔夜朔夜って言ってたんですね?全く、しょうがないお人だな。あんな美人のお后を放ったらかしにして」
「関係無いだろ」
 怒鳴りたい所だが、その力が無い。
 この怒りは図星を突かれたせいでもある。まさかこの男が朔夜との約束を知っている筈が無いが。
「ちょいと待って下さいよ。まだ書状に全部目を通してないんでね。何せ数が多くて」
 言いながら隣の部屋へ消えていく。
 入れ替わりに、そっと祥朗が入ってきた。
 薬を飲みますか、と問う。
「いや…まだいい」
 今日やるべき事はまだある。それに、桧釐らが戦をどう動かすのかは見ておかねばならない。
 何より、寝たくない。またあいつを見てしまう。
 耐えられない。冗談でも夢でも、朔夜が死んでいるなんて。
「祥朗、頼みがある」
 なんでしょう、と枕元に顔を寄せる。
「華耶に伝えてくれないか?悪かったって」
 顔を横に向けて、弟に微笑む。
「ついでにあの娘と会ってくると良い。悪いな、俺が後宮に帰らないからずっと会えてないだろ」
 祥朗はぱっと顔を赤らめて、ありがとうございますと、もじもじしながら言った。
 意地らしくて可愛くて、笑ってしまう。
 重たい腕を持ち上げて、頭を撫でる。
「お前が弟で居てくれて良かった。お陰でどれだけ救われたか」
 兄様ぁ、と泣き出した。
 その泣き顔で、自分がどれだけ心労をかけているか思い知らされる。
「悪かった…」
 兄として、この子にだけは弱味を見せまいとしてきた筈なのに。
 いつの間にか、頼れるのが彼だけになっている。
 朔夜が居なくなったから。
「陛下、ありましたよ」
 桧釐が書状を手に戻ってきた。すぐに祥朗は脇に控え、龍晶もまた王の顔を貼り付けた。
「随分前のものです。ふた月ほど前だ」
 裏に書かれた日付を見て桧釐が言う。雪に埋もれていたのだから致し方ないが、龍晶は苛立ちを露わに書状をひったくった。
 開く指先が震える。その間が間怠っこしい。
 なんとか開いて、ざっと目を通して。
 不意に、笑いが漏れた。
「陛下…?」
 周囲が不審がる程に、笑いは大きくなっていく。
「いや…予定通りだ。何も問題無い」
 意味が分からず差し出された書状を桧釐も読んだ。
 そして目を見開き、顔を青くする。
「これのどこが予定通りで問題無いんですか!?」
 それは苴軍部の怒りの書状だ。
 月夜の悪魔を受け取りに行った者は惨殺され、かの者は苴国内を逃亡している。その上、かの者の仕業と思われる惨殺事件が頻発している。これらは全て、戔の企てではないのか。
「陛下!申し開きの書状を!」
 桧釐の悲鳴を他所に、龍晶は一層声を上げて笑っている。
 笑いながら肯いた。
「そうだな。戔は関係無いと言わねば」
「…本当に関係無いんですよね?まさか…」
 こんな恐ろしい事が、この人の指示ではあるまい。
「俺は何も知らん。全てあの方が勝手にされた事だ」
「あの方?」
 龍晶は不敵に笑って言った。
「言ったろ。哥王の弟君で前王の、暗枝阿陛下だ」
 桧釐は注意深く主の様子を観察し、そこにまだ正気が残っていると認めて。
「ではそれは、哥の企みだという事ですか…?」
「哥も関係無い。全てあの方の独断だ。何せ陛下は、皓照にも匹敵する力を持っておられるからな」
「何ですと…!?」
「哥を建国した軍神だよ。そういう意味では皓照より強いかも知れない。そんな方が俺達の味方で居て下さる。俺が哥王の為に働くから、と。この意味は分かるな?」
 今後、皓照がこの国を操ろうとしても、一筋縄ではいかないという事だ。
 だから、その男との関係を切ってはならない、と。無論、哥王家とも。
「それは分かりましたが、しかし…」
 危険ではないか。
 このように、彼のした事が戔のせいとされるのなら。
「まあ良い。とにかく苴へ申し開きをしようじゃないか。俺には朔夜が無事だと確認できただけで十分だ」
 今後は倒れないようにそろりと立ち上がって、筆を取るべく再び執務室へと向かう。その背に桧釐は叫んだ。
「いえ、陛下、目を覚まして下さいよ!朔夜の力を利用すべきではないとあなたは以前仰っていたではありませんか!人ならざる者の力を使ってはならないと!我々は、我々の力で国を守らねば!」
 龍晶は足を止めて冷たく従兄を睨んだ。
「利用するつもりなんざ全く無い。ただ、あの力には同じ力で対抗する必要があると言っているだけだ。そしてそれは朔夜ではない」
「同じでしょう!?その哥王の弟君という人の力は、危険過ぎると思われます。勿論、俺は何も知らないけれど!」
 じっと、王は虚空を睨んで。
 そして呟いた。
「国の…いや、この世界の運命なんか、ただの人間には決められないんだ。全てそういう者たちが動かすんだろう」
「はあ!?」
 桧釐には分からぬ理屈だ。龍晶とて確証は無いが、確信はしている。
 全ては奴らが決める事。
 改めて桧釐を見上げ、真っ直ぐに見据えて、そして少し微笑んで言った。
「俺は出来る限り奴らに抗う。その結果呆気なく潰されるのは分かっているけどな。…共に抗う友がまだ生きていた、それが嬉しいだけだ」
 呆気に取られて桧釐は何も返せなかった。
 王が机に向き合い筆を取る。
 その時、扉が荒く開かれた。
「桧釐様!これが、今しがた…!苴王から、火急の書状だそうです!」
 大慌てで入ってきたのは桧釐の側近の一人だ。受け取った書状を手に、桧釐は王に視線を送った。
「見せろ!」
 親書は王の手で開かれた。
 そして、そのまま。
「陛下…?」
 何も言わず、身動きもしなくなってしまった。
「陛下、ちょっと…失礼しますよ?」
 動かない手から書状を抜き取る。指に力は入っておらず、するりと紙は抜けた。
 持つものの無くなった手は、だらりと下ろされて。
 桧釐は書状に目を通した。
 戔から遣わされた悪魔は捕らえて首を落とした。今は街道に晒され、再び悪事を働く事は無いだろう。だがこの度の犠牲は多く、あまりに大きい。よって悪魔だけを誅したのでは足りず、この企みをした戔国をも誅する必要がある。申し開きがあれば聞かぬではないが、今後何があろうとも大義は我ら苴にある。御覚悟召されよ。
「…なんてこった…」
 桧釐はそれだけ口にして、呆然と王を見た。
 心が何処かに行ってしまっている。何も見ていない。
 それでも桧釐は言わねばならなかった。
「陛下、申し開きの書状を」
 反応は無い。桧釐は叫んだ。
「陛下!書状を書いて下さい!我々は無関係なのでしょう!?このままでは戔は滅びますよ!」
「…もう、遅い…」
 口元だけが僅かに動いて、虚しく言葉が滑り落ちた。
 桧釐は激しくかぶりを振って、王の手に筆を握らせた。
「全て書いて苴王に知らせるのです。悪事は哥王の弟君が働いた事。戔は無関係。我々も共に犯人を探索し、捕らえる事を約束する、と」
 握らせた筆は紙の上に落ちた。
「陛下…」
「…勝てるんだろ?」
 俯いた顔で、王は言った。
「なら、勝てよ。戦して…勝てば良いだろ」
「哥と苴を相手にですよ?無茶な!」
「俺は最初からそう言っていたぞ!?」
 怒鳴って、その虚しさに気付いて。
 涙が一筋、頬を伝った。
「もう、いい…。勝手にしてくれ」
 隣室に戻っていく。
 そこに居た祥朗に、兄は優しく笑って告げた。
「今宵は後宮で過ごすと良い。俺の世話は無用だ」
 戸惑い顔の祥朗は部屋から出された。
 扉が閉まる。中は王が一人きり。
 不安そうに祥朗が桧釐を見上げた。
「…言葉通りにしてやってくれ。大丈夫だ。何か異変があれば俺達が扉ぶち破ってでも入るから」
 桧釐に言われて、祥朗はがっくりと肩を落とすように頷いた。
 祥朗を見送るついでに廊下に出て、そこに居る見張りの兵へ声をかける。
「中は陛下が一人だ。不審な事があれば迷わず入ってくれ」
 は、と返事をしたのは崔舗。
 祥朗の縮こまった背中が遠くなる。
 そこで初めて桧釐は大きな溜息を落とした。
 何がどうなるのか。全く予測不能だ。
「宗温を呼んでくれ」
 側近に命じて中へ戻る。
 申し開きの書状は自分で書く事にした。どこまで効力があるのかは、甚だ心許ないが。


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