月の蘇る 10 兵達は初めての拷問に戸惑ったのだろう、藩庸には表面的な傷くらいしか見られない。 尤も真夜中に近い時間なので縄を巻かれたまま眠りかけていたようだ。宗温の気配に気付いて目を半分開き、厭な笑みを見せた。 「これはこれは大大将どの、こんな所に何用ですかな」 「お元気そうですね。それは良かった」 「あなたの部下達が腰抜けなお陰だ。鞭も振るだけで脅しにすらならない」 「無駄な流血を嫌うのでね。あなた方がしてきたような残忍な行為はもう時代遅れなのです」 「そりゃ、あの小綺麗な坊ちゃんの好みでしょうな。いや結構結構。その甘さが命取りとなる事を知らぬ世間知らずだ。そう育てたのは私だが」 「笑わせますね。よく育てたなどと言えるものだ。陛下は積もる恨みの余り明日にでもあなたを殺すかも知れないのに」 「ほお?腰抜けどころか腰の下のものが無いお方に、私を殺す事など出来ますかな?無理でしょう。第一、私はまだ何も肝心な事を喋っちゃいませんよ。殺しちゃ駄目でしょう」 「減らず口はその肝心な事のみにして下さい」 宗温は傍らに置かれていた鞭を手に取った。 「私が問いたいのは反体制派の後盾です。協力者は既に知れていますが、商売人の皮を被った小悪党ばかりだ。もっと大きな組織が居る筈なのです。そうでなければあのような組織的な戦闘はあなたには出来ない」 「何故決め付ける。私が万能の天才だとしたら、あんた方の軍を捻る事なんて簡単なもんだ」 鞭がしなり、強かに男の身体を打った。 続いてもう二発。宗温は己の中の怒りが抑え切れない事を感じながら腕を振るった。 この男に対する怒りではない。 先刻、自分が勝手に裏切られたと感じた、その感情の続きだ。 龍晶が悪い訳ではない。あの人は哀れな狂人だ。だから、この怒りをぶつける所が無い。 明らかな悪人であるこの男なら、何をしても誰も文句は無いだろう。 藩庸は虚勢を隠しもせず痛い痛いと呻いた。その口からだらだらと涎を垂れ流して。 「素直に喋ればこれ以上はやらないんだが」 言いながら鞭を振って床を叩く。 「待て…待ってくれ。別に隠すつもりは無いんだ」 藩庸の言葉に何故だか落胆した。 もっと痛めつけさせてくれれば良いのに。 「お前が知りたい名は桓梠だろう」 宗温は眉を顰めた。聞いた事の無い名だ。 「誰だ、それは」 「繍の大将軍だ。尤も今は王より権力を握る男だ。硫季王との繋がりから、我々に協力して…いや、我々を使って動かしていた。だから私は悪くない、全てあの男に脅されてした事だ」 「成程」 これで全て合点はいった。背後に繍が居るのなら、南部を拠点にあそこまで大々的な悪事を働けるだろう。 前王と繍が密かに繋がっていた事は既に周知の事実でもあり、その繋がりがまだ存在していたのも納得できる。 ならば繍には何の利点があるだろうか。自国を攻めさせない為の時間稼ぎか。 「さあ、私は喋ったぞ。何も悪くはないだろう?解放してくれ。その前に治療だ。痛くてかなわん。流石は将軍殿の鞭だ」 うるさいな、と思いつつ背を向ける。まるで夏の羽虫だ。 ふと思い立って、背を向けたまま口を開いた。 「何故お前は前王に仕えようと思った?最初から金目当てだったのか」 「失礼な。私をその辺の小役人と同じにするな。硫季王に仕えたのは、その先代が憎かったからよ」 「陛下の父君が?何故?」 「名家の出である私の才を見抜かず、汚れ仕事ばかり押し付けられた。それ以上に許せんのはあの朱花とかいう女だ。賂の取次をしただけの私を屑を見るかのような目で見やがって。今思い出しただけでも腹が立つ。その賂を受け取るのは自分の夫だというのに。硫季王は父君を毒殺し、あの女を幽閉してくれた。だから仕えたいと思った」 「それで幼少の龍晶陛下に酷な振る舞いをしたのか」 「だからあれは躾だ。私が育てたのだ。立派な王となるように」 呆れた溜息を吐き捨てて、宗温は今手放したばかりの鞭を再び持った。 苛立ちを全て込めて罪人を打つ。 苦痛に耐えるくぐもった唸り声を聞き、鞭を放り投げ、その場を後にした。 本当に王は牢獄へ姿を現した。 賛比から報せを受けて、誰も止める者は居なかったのかと宗温は溜息を吐く。 知らぬ振りも出来ないので自らもその場へ向かった。 手前にある別棟に立ち寄り、別の囚人を連れて来させる。 引き摺られてきた少年は、宗温の顔を見て目を見開いた。 「漸く殺してくれるのか」 問いに、首を横に振る。 「連れて来い」 左右の兵に命じて踵を返す。 外に出た所で、その人と顔を合わせた。 「陛下、このような所までお出ましになるとは…」 「正気の沙汰じゃないって?今更だろ」 突き刺さるように冷たい視線に生唾を飲み下す。 刹那、後ろから少年の叫ぶ声が響いた。 「貴様のせいだ!騙しやがって…!」 少年の姿を認めた王は、口の端を吊り上げて笑い、すぐに無表情へ戻った。 「なあ、珠音。俺が藩庸に教えられた事は――」 足元の小石を蹴りながら。 「世の中は悪人で溢れているから、己が強いか賢いか、それか権力を握ってないと、自分も周囲の人間も守れないって事だ」 小石は珠音の足元へ転がっていった。 「俺は権力を選んだ。お前はどうする?」 少年は、小石から憎い王へゆっくりと視線を上げた。 お前にはそのどれも無いだろうと、そう言われたも同然だった。 「会わせてやろう」 龍晶は背を向けて獄舎へと続く扉を潜った。 その最奥で。 「藩庸様…!」 少年の悲痛な呼び声に、紫に膨れ上がった顔を上げる。が、その声の主には一瞥もくれず、王を見上げて男は唇を歪ませた。 「おお、ようやっとおいでなされたか…。待ちくたびれましたぞ」 まだ喋る元気はあるようだ。龍晶は冷たく男を見下ろしたままその言を聞いている。 「私は言うべき事はそこの将軍に言いましたぞ。解放して下され。さあ龍晶殿下、今こそこの藩庸に恩を返す時」 王は鼻で笑って言った。 「そうだな」 宗温を振り返る。 「刀を貸せ」 「…龍晶陛下」 「文句あるか?早くしろ」 正気に、元の優しい少年だった彼に戻るよう願いを込めて呼び掛けた声は届かなかった。 宗温は諦めて己の刀を抜き、差し出した。 これから何が起ころうと、全てはあの愚かな男の自業自得だと割り切って。 刃を受け取った龍晶は、憎い男に問うた。 「選ばせてやろう。何処が良い?」 「何処、とは…」 当然意味が分からず言い淀んだ後、藩庸は己の都合の良い解釈をした。 「この、腹の縄が良うございます。苦しくて息が出来んのです」 己を縛り上げる複数の縛めのうち、何処から断ち切れば良いかを問われたと思ったらしい。 龍晶は声を立てて笑った。 「そうか。なるほどな」 宗温には分かった。この笑いはただ間抜けな返答を可笑しがっているものではない、と。 悪魔の笑い声――そう、朔夜が悪魔に変じた時の、あの笑い声が耳朶に蘇る。 ぞっとした。 「ぐわあぁ!!」 男の叫び声が響く。 藩庸の太腿に刃が突き立っていた。 その刀を握り、左右に動かしながら王は無情に言い捨てた。 「ああ、手元が狂った」 刀を抜く。赤黒い液体が吹き出る。 「難しいな。よくこれを一太刀で断ち切れるものだ」 宗温に向けて褒めるような事を言い、にやりと笑う。 「陛下、そのくらいで…」 刀を受け取ろうと伸ばした手は無視して、再び藩庸に向き合う。 「なあ藩庸、教えてくれ。先刻お前は恩を返せと言ったが、その恩って何の事だ?」 痛みに喘ぎながら、それでも男は口を開いた。 「お忘れか…!宮中での作法をお教えしたのは、私ですぞ…」 「それは兄上の機嫌を取って取り入る作法という意味か?成程、他には?」 「殿下の不調法をお止めしたり、それが兄上の耳に入らぬよう骨を折ったではありませぬか。お咎めを恐れておいででしたでしょう…?だから私めが間に立って、良きように計らって差し上げたではありませぬか…!」 「そんな事、あったかな。他には?」 「兄上が殿下を殴り殺しそうな所を止めて差し上げるのはいつも私でしたぞ…!それだけでも恩人と感謝されても良い筈だ!」 「一緒になって嬉々として嬲ってた奴が何を言ってんだか。楽しかったか、あの時は」 「そんな筈ないでしょう!あの王には逆らえないとよくご存知でしょう!?だから私も仕方なく…」 「てめえで言ってたのに忘れたか。愉悦だったって。そんなの顔に書いてあるから聞くまでも無かったけどよ」 鋒がその顔に突き付けられた。 「その醜い面を更に醜くしてやろう」 刃は、鼻を削いだ。 悶え苦しむ男を見て、王は笑った。正気を無くした哄笑だった。 そして笑いながら叫んだ。 「まだだな!まだまだ足りない!死ぬなよ!俺の十年分以上は苦しんでから死ね!」 刀を逆の手に持ち替えると、代わりに鞭を手に取って無茶苦茶に振り始めた。 「痛みばかりでつまらんな。そんなもんすぐ慣れるだろ?俺も慣れたよ、貴様のせいで」 ぐったりと項垂れて反応が無くなり、鞭を投げ捨てる。 刀の先で顎を持ち上げる。潰れかけた目はまだ開き、口は必死に空気を吸っていた。 「早く死んで楽になりたいよな?」 問う声に笑いは無く、どこか切実な響きを持っていた。 相手はもう何か反応出来る身ではない。血だらけの顔の奥にある目で、己を殺す者を見ている。 「最期くらい、己の罪を認めれば良かったのに」 刀が翻った。がくりと頭が落ちた。 その首を、刃が叩いた。 半端に切られた首がぶら下がる。その状態で王は横の兵に言った。 「楽にしてやれ」 首は落とされた。その頭を踏み、蹴って、兵に寄越した。 「こいつを城門の外に晒してやれ。旧時代の大悪人と書いてな。それで民も安んじるだろう」 振り返る。あれだけの事をしながら返り血一つ浴びていない、恐ろしいまでに綺麗な顔で。 言葉を失っている宗温の前を素通りして、王は少年の前に膝を着いた。以前と同じように。 悲しみと憎しみの涙に濡れた目を見据える。 「縄を解いてやれ」 少年を見据えたまま、彼の背後に立つ兵へ命じた。 「なりません」 辛うじて宗温は声を振り絞った。 王の白い目が向けられる。 「命令だ。解け。罪人ではない者に縄を打つ道理は無い」 宗温は溜息を吐き、兵らに頷いた。 縄が解かれた。 その間もずっと、少年は王を睨んでいた。 自由の身にされて。 「もう一つ、お前に頼みがある」 王は言った。その口元に微笑がある。 持っている刀を、差し出し、少年の前に置いた。 「お前がやるべき事だろ?」 その後は一瞬だった。 宗温が叫びながら王の身を庇った。そうしながら横に居る賛比に、刀を!と叫ぶ。 賛比は刀を蹴り、珠音から遠避けた。その間に喚く王を担ぎあげて、宗温は外へと連れ出していた。 その騒ぎの中心に居た珠音は、全く動かなかった。 刀に手を伸ばす事も無く。ただ嵐が過ぎるのを待つように。 「離せ!宗温!もういい!」 外に出された龍晶は宗温の背を叩く。 不敬とは思いつつ、王を地面へ降ろした。 その足に再び立ち上がる力は無く、地面に這いつくばるように座り込んだまま、動かなくなった。 宗温も出来るだけ身を低くして臣従を表さねばならなかった。 「…やっぱり、あいつは何も出来なかっただろ」 王は地面に向けて呟いた。 「解き放ってやれ。あいつは何もしていないし、何も出来ない」 宗温はそれでも緩く首を横に振った。 「先の事は分かりません」 「未来の罪を罰すると?とんだ野蛮国家だな。それで牢に入らぬ者は居るのか?」 負けた。正気などとうに失っている筈の相手なのに、何故こうも理路整然と言い負かせられるのか。 刀を持ってきた賛比に、珠音を解放するように命じる。彼はすぐに踵を返した。 代わりに受け取った藩庸の血をたっぷりと吸った刀を、龍晶へ見せた。 「これで満足されましたか」 憎い男の血を見る目に、光は無かった。 ただ暗く、何も見えず。 「俺もああやって死ぬんだろうな」 抑揚無く唇から押し出された言葉に、宗温は震えた。 「何を…仰いますか。陛下はあんな者とは違います」 「違う?何処が?俺は罪人だ。ひとごろしだ」 宗温は急いで刀の血を拭った。そして刃を鞘へと隠した。 そうせねば、それを希求する瞳に負けてしまいそうだった。 「どうぞお休み下さい。さぞやお疲れでしょう」 王の従者達へ輿を持って来るよう伝える。 早くこの人にこの場から去って欲しかった。 「なあ、宗温」 運ばれてくる輿を見上げながら、龍晶は言った。 「珠音に訊いてみてくれないか?何故刀を取らなかったのか」 「取るとお思いでしたか」 「普通はそうするだろ」 あまりに当然のように言う。 その意味は途轍もなく重いのに。 「陛下…」 宗温の苦々しい呼び掛けなど聞こえぬかのように、輿に乗り込んで。 「悪かったな、宗温」 持ち上げられた輿の上から王は言った。 「俺は兄を憎む気にはなれない。あの人は操られてたんだ。皇太后と、今死んだあの野郎と、世界を操ろうとしている奴らに…。たぶん、俺も同じになると思う」 「どういう意味ですか」 運ばれながら、王は微笑んだ。 「小奈には謝っておく。あれは俺のせいだ」 それ以上は問えずに見送ってしまった。 正気の言葉ではない。だから意味の追究など無駄だ。そう思いつつも、引っかかってしまう。 一つだけ言えるのは、昨夜の己の怒りは何故か彼に伝わっていたのだろう。否、自分の口走った事を後で考えれば分かる事なのかも知れない。 いずれにせよ、宗温自身が憎む王はこれで消えてしまった。 憎しみに堕ちた者の末路を目の当たりにしてしまったから。 これ以上、憎悪の連鎖を続けたくはない。 珠音は怪しい足どりではあるが、自ら歩いて外へと出てきた。 少年に宗温は告げた。 「陛下のご厚情だ。どこにでも好きな所へ行き、達者に暮らすと良い」 青ざめた顔の、力の無い目で見上げる。 意思の無いその顔へ、宗温は釘を刺した。 「罷り間違っても陛下を恨んだり憎んではならぬ。誰かを害したり、自ら死を選ぶ事は決して無いようにな。達者で暮らせ」 もう一度願いをかける。普通の市民として平凡に暮らして欲しい。それ以外に願う事は無い。 そして、やはり訊かねばならないかと思い直して宗温は続けた。 「何故、刀を取らなかった?」 珠音は、青ざめた顔の中の口元に、強張った笑みを形作って言った。 「だって、あの人…」 言葉が震えている。 「心の底から死にたがってたもの…。そんな人を殺しても藩庸様は浮かばれない…」 怖かったのだ。 本当に死を願う生きた人間が、怖かった。 恐怖で何も出来なかった。また、最初と同じに。 「そうか…」 宗温は眉間に皺を寄せて、不満そうに言い足した。 「言っておくが、あの藩庸は多くの罪も無い人々を死に追いやった悪人だ。貧しい人に毒の入った食物を与えた。陛下は彼らを救おうとしていたのだ。藩庸の罪はそれだけではない。陛下自身、あの男に酷い仕打ちを幾度も受けている。だから今日、その報いを受けた。覚えておいて欲しい。罪のある者だから罰せられたのだと」 「あんな…あんな酷い罰がありますか」 少年の言う事は正しい。あれは罰ではなく、復讐でしかない。 宗温はもう一度、少年に念を押した。 「どうかこれからは穏やかに暮らして欲しい。これまでの事は水に流して」 兵に押されて珠音は去って行った。 彼が憎しみを忘れられるのか、それは分からない。だがそう願わずにはいられない。 もう復讐劇は見たくない。また、起こしてはならない。 藩庸の首が運び出された。 苦しかった旧時代はこれで完全に幕を引いた。これからは希望に満ちた新たな時代が待っている。 その筈なのに。 王の言葉は、自分は兄と同じ存在であり、また繰り返すと――そう聞こえてしまった。 [*前へ] [戻る] |