月の蘇る 6 皓照は意外に早くやって来た。 宗温がにこやかに城へ着いた事を告げに来た。執務室で一人、桧釐はそれを聞いた。 「陛下へは?」 告げなくて良いのかと宗温は訊く。 「とりあえず、俺が話を聞きたい。陛下には後で会うかどうかお伺いを立ててみる」 「お加減が悪いのですか」 「まあな。今度は後宮に篭って出て来なくなった」 華耶との仲が修復出来たのなら喜ばしい事だが、それで入り浸りになるとは思わなかった。 尤も、於兎の話ではまた精神的に不安定になっているらしい。それで華耶に頼らざるを得ないのだと。 確かに養子の件について日毎に結論が変わり、それだけでも不安定さは見て取れる。 これも於兎が言うにはだが、一応、夫婦としての結論は纏まってはいるようだ。 矢張り予定通り春音を王としたいから、養子は断りたい、と。 それは正直、桧釐としては好もしい。実父としてだけではなく、戔の民として素直な意見だと思う。矢張り王は自国民から出て欲しいものだ。 だがそれを通すに当たって不安が大きい事も分かる。王が自分の状態を理解しているから尚更だろう。 時によって弱気になり、意見を翻し、そしてまた時によっては己を励まして意を通そうとする。だから日毎に言う事が違ってくる。 どうしようもなく迷っている。その気持ちはよく分かる。桧釐だってどちらが正しいか皆目見当が付かない状態なのだ。 だからこそ皓照との対面は意味があった。 その本意が知りたい。そして何か正解への手掛かりが欲しい。 「ではこちらへお呼びしますよ」 「頼む」 宗温は一度部屋を出て行った。 一人になり、桧釐は考え直す。 正解への手掛かりと言うが、一体何をもってそう言えるのか。 それを引き出す問いは、果たして存在するのだろうか。 あまりにも準備不足だった。何も考えていない。 宗温はすぐに帰ってきた。 「お連れしました」 まるで下男のように畏まって、崇敬する男を招き入れる。 皓照が入ってきた。いつものように、余裕を伺わせる微笑を浮かべて。 「やあ、お招きどうも。招かれたという事は今度こそ歓待して貰えるんですよね?」 いきなり全く図々しい。桧釐は溜息を天井に向けて吐き出し、宗温に言った。 「済まんが、何かそれなりのものを準備するよう手配してくれ」 宗温はやや意外そうな顔をしながら頷いて出て行った。既に手配済みのものだと思っていたのだろう。 そこまでこの男を信奉できる気が知れない。が、こちらから来るよう頼んだ以上は文句も言えない。 「わざわざ来て貰って済まない。まあ座ってくれ」 一応の社交辞令を述べて席を薦める。 皓照は長椅子にゆるりと足を組んで腰掛けた。 「ご用件は?」 単刀直入に問われる。本当に見当もついていないのか。 桧釐もまた直裁に答えた。 「灌からの養子の件だ。知っているよな?」 ああ、と唇を指で撫でる。 「勿論です。それが何か?」 「お前はどこまで関わっている?」 笑ったまま眉間に皺を寄せて肩を竦める。 「それはどういう意味でしょう」 「お前の提案なのかと聞いている。婚姻の時のように」 「婚姻は元はと言えば朔夜君の提案ですよ。今回は、灌王の提案です。当然じゃないですか。何せ王子ですよ?」 「王位継承権を持つ王子を他国にやるなんて、悪いが俺は裏があるんじゃないかと考えてしまうんだ」 「裏。確かに裏はありますね。鵬岷王子は庶子なので、灌に置いておけないのですよ。皇后の嫌いようが酷くて」 「ただの厄介払いかよ」 「まあ確かに、身も蓋も無い言い方をすれば」 「灌王に伝えるなよ」 「それはあなたの出方次第ですけど」 全く嫌な相手だ。口の利き方は気をつけようと反省した。 「この縁組の目的はそれだけなのか?」 「とんでもない。灌と戔の関係強化にこれ以上の切り札は無いでしょう?戔にとっては悪い話じゃない筈です。有り難いぐらいじゃないですか?」 桧釐は足を組み直し、頭の裏で手を組んで目を瞑った。 相手に如何なる誤解を与えようとも、ここは一つ演じねばならない。そうでなくては、こちらに選択肢が無くなる。 「この国には既に王位継承者が居る」 「知っていますよ。このほど龍起王子と名付けされたとか」 「知っていて灌はそれを曲げさせようと言うのか?」 「なるほど。あなたとしてはそれは面白くないという事ですか」 「ああ。誰でも我が子は可愛いもんだからな」 「王となる我が子が可愛いのは当然ですね、確かに」 内心で舌打ちをする。だが今は権力の権化を演じ続けねばならない。 「灌との関係は保ったままこの話は断りたい。陛下は迷っておいでだが、俺はその術さえあれば独断で断っても良いと思っている」 「確かに戔において実質的な権力者はあなただ。時期国王の実父で後楯となれば更に誰も逆らえなくなる、そういう事ですか」 「だが灌と関係を切るつもりは無いんでね。どうにかならないか?」 「そうですねぇ…それは、難しいんじゃないですか?」 「おいおい、それは本当に考えた上での結論か?」 投げられた感が強い。 「だって、私に相談する方がお門違いですよ。私は灌王の友人であって統治者ではありませんから」 何を抜け抜けと、と龍晶なら食ってかかる台詞だっただろう。だが実態を知らない桧釐は丸め込まれた。 「なんだ、お前もそんなもんか。あとは当事者同士で決めるしかないんだな」 「なんだか勝手に呼び出されて勝手に失望されている気がしますが…。そうです、王様同士で決めて頂きましょう」 「それでうちの陛下が断っても良いんだな?」 「寧ろ戔はそれで良いのですか?」 このままでは本質が見えない。桧釐は切り込む術を一瞬で探さねばならなかった。 「お前は?どっちが好都合なんだ?」 唇の両端が、鎌のように吊り上がって。 桧釐は失敗したと気付いた。 「なるほど、龍晶陛下はそれが知りたくて私を呼び出したのですね」 桧釐は慌てて首を振った。 「陛下にお前の事は告げていない。俺の独断だ。お前の力を借りてでも、どうにかこの話を阻止したいと思ったまでだ」 「そうなんですか?意外ですね。これは陛下の意向だとばかり思っていましたよ。龍晶陛下は近ごろ私の事を邪険にしているようだから」 桧釐が言葉を詰まらせている間に、ああ、と皓照は明るく声を発して。 「せっかくだから陛下のご機嫌伺いをしていきましょう」 「待て、それには許可が必要だ」 許可など必要無いとばかりに早速踵を返して部屋を出て行く。 折悪くこちらに向かってきた宗温に、皓照は言った。 「陛下の元へ案内してください」 「畏まりました。こちらです」 宗温は何も疑わず後宮へと足を向けた。 「おい、宗温待て。陛下が会うとは限らんぞ」 後ろから怒鳴る。宗温は首を傾げた。 「この機会にお二人で話をした方が良いと思いますが。戔の為です」 駄目だ。骨の髄までの信奉を覆す時間は無い。 桧釐は二人を追い越して走った。報せも無くいきなり現れては拙い。 息を切らして後宮に入る。女官達から驚きの目で注目される。 更に国王夫妻が生活する御殿に飛んで入り、無遠慮に寝室にまで踏み込んで。 「どうしたのよ、そんなに走って」 迎えた声は妻のもの。 見れば、於兎を始めとした女官達と皇后が、春音を囲んでいる。今の今まで賑やかに喋っていたのだろう。 ではここの主は何処かと探すと、部屋の奥、寝台の上に横たわって虚ろな顔を向けている。 その枕元へ進み出て、膝を折り目線を合わせて桧釐は告げた。 「皓照が来ています」 合わなかった目がこちらに見据えられた。 「今、陛下に会おうと宗温が連れて来ていますが、気が優れぬという事で追い返しましょうか」 龍晶が何か言おうとしたのかは分からない。言い終わるや否や、妻の声が降って来たからだ。 「丁度いいわ!あの人に春音の可愛さを見て貰いましょ!ねえ華耶ちゃん」 「そうですね。私まだ、こちらに来てからきちんと皓照さんに挨拶していないですし」 桧釐が止める隙も無く場の空気は纏まってしまった。 「…陛下は場所を移します?」 女達に聞かれぬように小声で問う。 やっと声を出して彼は言った。 「どうせ追って来るだろ。彼女達に話は任せて俺は見張っておく」 皓照が話をどう持って行くか分からない危惧はあるのだろう。それ以上に女達が皓照相手にどう出るのか謎な部分はあるが。 「お前、奴と話したか」 「ええ。とりあえず反対はしましたよ。俺は実子を王にしたい権力の権化です」 「似合わんな」 鼻で笑った時、女官がやって来て客の来訪を告げた。 「お通しして!」 主に代わり於兎が許可を出す。夫はおいおいと苦い顔をするが、叱っている暇は無い。 宗温が平身低頭の体で皓照を中に入れた。 「おや、皆さんお揃いで」 予想以上に人数の多い室内に目を瞠りながら皓照は入ってきた。 「流石は後宮ですね。ご婦人方に目が眩むようだ。ところで私は陛下と話があるのですが」 「そう言って私達を追い出そうって?そうはいきませんからね!」 於兎が立ちはだかる。何故だと苦笑いしつつ、いいぞもっとやれとも思っている桧釐。 「ほら見なさい!この子が華耶ちゃんと私の子よ!可愛いでしょ!可愛いと言いなさい!」 抱いている赤子をぐいぐいと押し付けて、語弊のある言葉で謎の圧をかけまくる。 「か、可愛いです…。これで良いですか」 「よく、ない、わよ!!なにその言わされてる感は!?」 言わされている。間違いない。 よく分からない修羅場に春音が泣き出した。騒乱はますます混迷を極める。 「困りました。私は赤子が苦手です」 傍らの宗温に愚痴を溢している。彼は要らぬ気を回して於兎に意見した。 「春音様の為にも、少し外へ出ては?」 「いやよ!寒い!」 見事な一蹴のされ方もあったものだ。 「大体ね!私達はこの子を無視してあんた達が勝手に子供達の将来をどうこうするのが許せないんだから!だから春音の可愛さをちゃんと頭に叩き込んで帰って頂きたいのよね!」 ねえ華耶ちゃん、と同意を求められてやっと皇后が口を開けた。 「ええと…皓照さん、その節はお世話になりました」 彼女は『皓照に挨拶がしたい』だけだったので、著しく話の腰を折る形になりながらも目的は達成された。 その間も春音の割れんばかりの泣き声が響き、普通の声量では何も聞き取れない。つまり聞き取れるのは於兎の鍛えられた叫び声だけだ。 桧釐ははらはらと隣の王の様子を窺った。不快と眉間に書いて目を瞑っている。 控えている十和に目配せすると、彼女は察して立ち上がってくれた。 「若子様のむつきを変えて来ましょう」 あっさりと於兎から赤子を受け取って、奥へと下がってゆく。 漸く場が落ち着いた。 それでも於兎はまだ皓照の前に憤然として立ちはだかっている。華耶はおろおろとして女官に言った。 「お茶を、お持ちして」 おい、長居させる気か。そう龍晶が低く呟く。無論、妻には聞こえぬように。 仕方ないから桧釐が代弁した。 「皇后様、お気遣いは無用です。後宮に余所者をあまり長く入れておく訳にはいきませぬ故」 「ああ…そうですよね。ごめんなさい。皓照さんも、おもてなし出来ずごめんなさい。せめて夕食はお作り出来たら良いんですけど…」 言いながら夫の顔を窺っている。だが、目を閉じたまま動かない。 仕方ないから、これも代弁。 「皇后様、夕食は既に料理長が作っています。ご心配は無用です」 「ああ…そうですよね。ごめんなさい。なにぶん、急な事で…」 「そうよ華耶ちゃん、急に来たのはこの男なんだからそこまで気を回さなくても良いの!」 「えっ、私は呼ばれたんですけど?桧釐さんに」 視線が急に一点に集まった。何故だ。何故俺を責める。 「だって、ほら、お前も一言言いたい事があるだろ?だから呼んだんだよ」 何とか於兎に本来の目的を思い出させて、責める矛先を躱す事にした。 が、相手も防御が上手い。 「ですから、その件に関しては私は無関係ですよ。国王同士で話し合って下さいと先程も申し上げた筈です」 無関係な訳が無い。だがそう言い切られては次の手が無い。 そして於兎は結論を急ぐ性格だ。 「分かったわ!そういう事なら王様、きっぱりはっきり断ってよね!」 初めて一同の視線が龍晶に集まった。皓照などはここに居たのかという顔をしている。 桧釐は明らかに青褪めて王の一言を待つしかなかった。 「皓照」 目を閉じたまま、名を呼ぶ。 「はい、何でしょうか」 律儀に言葉を返しながらも、口元にあるのは見下した笑みだ。 「お前は戔を滅ぼす者か?」 「…はい?」 思わぬ問いに笑みが凍った。 龍晶はちらりと目を開き、しかしその視線は虚空に彷徨わせたまま、言った。 「済まんが父祖の亡霊どもが煩くてな。お陰で何も聞こえないんだ。お前がここに来た時から国を滅ぼす者だと騒いでいる。奴らに言ってやってくれ。お前が戔をどうするつもりなのか」 皓照は戸惑う顔を桧釐に向けた。 「陛下のご病気はまた随分と悪化しているのですね」 「まあな。だが本当に居るかも知れないぞ?」 言いながら虚空を指差す。皓照は顔を顰めた。 「その手の話は苦手なんです」 「きっちり説明してやらないと取り憑くぞ?」 半笑いで桧釐が脅す。初めてこの男の弱味を見つけた。無論、何の役にも立ちそうにないが。 「仕方ないですね。安らかに眠って頂く為にも陛下の問いに答えましょう」 とりあえずこの場では役に立った。 「私が戔に介入したのは勿論、悪政から民を解放する為ですよ。前王は農民まで徴兵して戦をしていたでしょう?それでは民は安んじる事が無く、周辺国も落ち着かない。ですから戦をしない龍晶陛下に即位して頂く必要があったのです。今後は今の状態を維持すべく、私は戔を見守っていくつもりですがこれでご納得頂けましたか?」 言葉尻は虚空に向かって問うている。 「見守るという事は、手を出す事は無いんだな?」 龍晶が問いを重ねた。皓照は肩を竦める。 「時と場合によります。例えば、このまま陛下のご病気が篤くなられて、兄君のように理不尽な出兵をするような事になれば、私は手を尽くして止めます」 二人の視線がかち合った。皓照は唇を吊り上げた。 「陛下は今、正気でいらっしゃいますね」 龍晶は顔を逸らし、瞼を閉じた。 「この世界で正気で居ようとすれば酷く疲れる。お前みたいなのが居るから余計に」 「それはまた、どういう意味でしょう」 「考える事が増えて困るって意味だ。疲れた。帰ってくれ」 桧釐が動き、出口を指し示した。 皓照は仕方なくという動きで踵を返す。 その背に龍晶は言った。 「灌の義父上に伝えてくれ。この物狂いは冬の間まともな話が出来そうにない故、なるべく暖かくなってからお越し願いたい、と」 [*前へ][次へ#] [戻る] |