月の蘇る 4 都の空気は冷えていた。 南部ではまだ晩秋の空気だったが、北上するにつれ温度が下がり、冬となった。 これではまた体を壊してしまうと女達に言われながら、龍晶は外套を纏って外に出ていた。 どうせまた近いうちに寝込む事になるなら、動けるうちに行きたい場所がある。 忍びとは言え馬車が走ればどうしても目立つ。だがこの街の人々に遠慮は無用だ。 救民街と自ら名付けた街。 冷たい空気の中で、多くの人が動き回っていた。 その表情の明るさに安心する。 「あ、陛下!お帰りなさい!」 人々が龍晶の姿を見て口々に言った。 歓迎の言葉が「おかえり」で定着している。ここは帰る場所。 気の利いた者が医師を呼びに走った。 祥朗も伴って来ている。ただし華耶は置いて来た。 特に意味は無いつもりだ。ただ誘わなかっただけ。 祥朗は師匠に調合についての相談や薬の仕入れについて話があるのだという。勿論、師弟なのだから帰還した挨拶も必要だろうと思って誘った。 あとは警護の兵が数人。住民と話をする為、遠巻きにするように指示している。 「陛下、見て下さい!水路がもう少しで完成します」 砂利を運ぶ若者が嬉しそうに知らせた。 見に来たのはこれだ。己の考えた事業の進み具合を確認しに来た。 働く者達が声を張り上げる。 「どうせならみんな、陛下の前で完成させようぜ!」 「おお、それが良い。よし、いつもの倍速で働け!」 「それが出来たらもうやってるよ!」 笑い声が起こる。 「陛下ぁ、すぐ帰らないで下さいね。本当にあと少しなんです」 笑って頷いてやると、皆やる気を出して更に活気付いた。 「お久しぶりですな。如何ですか、お具合は」 近付いてくる医師の声に気付き、龍晶は頭を下げた。 「先生…長らく祥朗をお借りしてしまって申し訳ありませんでした」 「はて。それを言うなら春までの予定と聞いていたのですが。随分とまた予定を切り上げられましたな」 「王の身は放っておいて貰えないようです。良くも悪くも」 「良きようにお考えなさい。陛下がおられる事で、こうして皆が笑顔になる。有難い事です」 龍晶は素直に頷く。 ここは良い。自分が役に立っていると実感出来る。 「あまりお身体を冷やしてもいけませんから、診療所でお茶でもいかがですか」 身震いをする王を見て、医師が提案した。 「お言葉に甘えます。皆の頑張りも見たいのですが、些か寒さが身に堪えて」 「完成まで温かい所でお待ちになれば良い。水が流れる所を見て頂きたいのですよ、あの者達は。お時間は宜しいですか」 「これより優先されるべき仕事などありません」 「それは良い」 冷たい風が体を撫ぜてゆく。 肉を失った身に隙間風が入るようだ。 外套を腕で押さえ、少しでも温度を失わぬよう歩く。 「無理をされていませんか」 目敏く問われて、龍晶は苦笑した。 「城に居る方が体に悪くて」 「それは困りましたな。何か体に障る問題でも?」 「問題だらけです。それも、俺の力ではどうにも出来ないような。だから、ここに来たのはある意味現実逃避なんです。どうか咎めないで下さい。ここはどこよりも落ち着く家だから」 「勿論です。時間の許す限りお寛ぎ下さい。それが何よりの療養だ」 診療所に入る。以前より広くなった建物の中で、見ない顔の若者が二人それぞれ患者を診ていた。 「弟子が増えましてな。祥朗が立派に育ってくれたお陰です。我もという若者が集まるようになりました」 振り向いて弟に微笑む。 祥朗は、僕じゃなくて先生が立派なんです、と謙遜して首を振った。 そして、ちょっと薬を見てきます、と小部屋に入っていった。 「祥朗が居なければ俺もこうしては居れません。立派に育てて下さった先生に感謝しています」 「いやいや、祥朗に助けて貰っているのは私の方ですよ。お陰でそろそろ隠居も出来そうだ」 応接室の扉を開けると、温かい空気が体を包む。 火鉢の上で釜が湯気を立てていた。 その火鉢の前の長椅子を勧められ、腰掛けながら龍晶は言った。 「隠居されては困ります。まだ先生には診て頂かないと。祥朗も何かと不安でしょうし」 「ええ。しかし寄る年波には勝てんのですよ。私にも寿命というものがありますのでな」 「寿命…」 王の正面に医師は座り、曇った顔を覗き込んだ。 「どうかされましたか」 何かあるからここに来たのだと察している。 龍晶は躊躇わず機密事項を口にした。 「灌王がご自身の第一王子を俺の養子にするよう言って下さっているのです。王子は十二歳、もしそれが実現すれば次王となる筈です」 「それは、また…」 国の大事だ。軽々しく何か言える事ではない。 「灌は…俺の寿命を知っている。長くは生きられないと。それ故の気遣いなのでしょうが…」 「それは誰にも分かりませぬよ。病が癒えてとびきり長生きされるかも知れません」 龍晶は小さく笑って首を振った。 「無理です。それに、俺も先生と同じで隠居したいのは山々なんですけどね…」 「またまた。何を仰いますか、その若さで」 「その若さに応じた体があればこんな事にはならなかったのですが」 溜息。物憂げに彼は言う。 「灌王の申し出は有難いが…将来の紛争に繋がるのではないかと懸念しています。自分の実の子供さえ居ればとも考えてしまう。先生、今からでもそれが可能にならないでしょうか」 相手の困った顔を見て、慌てて首を振った。 「何でもないです。忘れてください」 「そこまで悩んでおられるのですね」 「いや、それは、その…国の行末が不安で」 口走ってしまった事の恥ずかしさで口籠る。 適当な言い訳をしたが、自分の居ない未来よりも切実な問題がそこに潜んでいた。見て見ぬ振りをしているが。 だけど他に問える人も居らず、恐る恐る口に出す。 「華耶に申し訳なくて。いや…近頃は怖いんです。触れられる事すら怖くて。どうしたらいいのか…」 痛ましい視線。 あれだけ献身的な妻に向けて何を言うのか、と。 矢張り責められるだろうと諦める。 我儘にも程があると自分でもそう思う。 根底にあるのは失う恐怖だ。 その温もりを当たり前にしてしまうと、失えなくなる。否、失った時に立ち直れなくなる―― 「相手を避けると恐ろしくなるだけですよ。今どんな顔をしているのか、何を考えているのか、分からなくなるから」 近頃の生活を見透かしたような、医師の意見。 本当に見透かしているのかも知れない。ここに共に来なかった事で。 「徹底的に共に過ごしてごらんなさい。きっとまた、元通りになる筈ですから」 ああそれと、と続ける。 「何事もあまり悩まれぬ事です。考え過ぎると悪い想像ばかりしてしまいます。それは体にも毒です。長く生きる秘訣は、悩まず笑う事です」 「はあ、それは…何よりも難しい」 半分は本音、半分は冗談に包んだ失望だ。 考え過ぎだと一蹴されたも同じだ。 否、言われた事は正しいと理解は出来る。だけどどうしても自分の人生に楽観など出来ないのだ。 その言葉を知る前に絶望を知った。 絶望は他人の言葉に身を委ねる事を許さない。また裏切られると知っているから。 信じられるものが無い。 「…少しここで休んでも良いですか?寒さのせいか熱が上がったようで…」 視界が不安定に揺れ、頭が掻き回されるようだ。 「勿論です。寝台を用意しましょうか?」 「いえ、ここで…」 長椅子に横たわり、己の腕枕に顔を埋める。 医師は隣の部屋に声をかけ、毛布を受け取り体に掛けてくれた。 こうして親切にしてくれる人にまで背を向ける己が嫌になる。 憎むべきは、この心身をずたずたに壊した相手だ。 あの悲惨な幼少期が無ければ、こんな事には。 藩庸だ。 あいつが、憎い。 殺しても飽きたらない程に。 壁越しに聞こえる会話で、目覚めた頭が意識の覚醒を促す。 男の声が二人。扉の向こうから聞こえる。そこには警護の兵が立っている筈なので、声の主の一人はその兵のものだろう。 相手の声も若い。だから先生ではない。街の人か、もしかしたら先刻見た先生の弟子なのかも知れない。 声の主はともかく、話の内容が気になった。 自分に無関係ではない。寧ろ、ここに居るのが誰かを知っているから、そういう話になったのだろうが。 「陛下が病気だというのは本当なんだな。一瞬だけお見掛けしたが、あの痩せ方は尋常じゃない」 矢張り先生の弟子なのだろう。こちらが見ている以上に、向こうもこちらを観察していたのだ。 「患ってから長いのか?」 「さあ。俺も少し前から警備についたから…。その前は南部に療養に行ってたみたいだ」 警護の兵の口ぶりからするに、この二人は旧知なのかも知れない。偶然再会して話を始めたか。 「ああ、聞いている。それで都中に噂が立ったんだ。南部に行く直前に王子を王位継承者として発表したろ?」 春音の存在を人々に知らしめ、龍起という名を発表した。これで王位継承者は決まった筈だった。 それを覆す難しさもあるから、灌からの養子について慎重になっている。 だが噂とは、何だ。 「あの王子、陛下の実子じゃないんだってな?陛下は子供が作れない体だとか。本当か?」 「それは…さっきここの医師に相談しているのが聞こえたから、本当だと思う。誰にも言うなよ」 「言わないよ。と言うよりもう皆知ってるよ。それくらい都で噂になってるんだ。だから本当かどうか確かめただけ」 「そうなのか?城の中に居ると都の噂なんて聞かないからな。でも王ともあろう人が、なんでまた」 「これも噂だけど、多分本当だろうな。陛下の母親にあたる人が王家転覆を謀った事件、覚えているだろ」 「ああ、十年くらい前の。朱花様だっけ。凄い美人で評判だった。子供の時に親父と見に行った事あるよ。でもそんな大それた事する人には見えなかったなあ」 「その事件の真相は闇の中だろ。何せ当の本人はもう死んでいるし、一緒に囚われた陛下だってまだほんの子供だったんだ。それでだよ、罪人の子供が将来王位を継いで繁栄したら、当時の王からすれば困るだろ?」 「あ、ああ。え?それって人の手でそういう体にしたって事?つまり、宦官と同じ?」 うわぁ、と痛みを想像する声と、人としての侮蔑の声が混ざる。 今ごろこうして都中で己の噂――確かに全くの真実なのだが――が囁かれているという事だ。 いつかは知れ渡る事だったのだろう。でも気が狂いそうだ。もう狂っているけど。 だが今更という気もする。即位の時、否もっと前の反乱の時に悪意を持つ者が広めていてもおかしくない筈なのに。 この噂を今、広めねばならなかった者が居る。 扉の向こうの会話は続いた。 「だけど問題はそこじゃないんだよ。あの王子の実の父親が誰か知っているか?」 「ああ、知ってる。桧釐様だろ。王の片腕だって評判だ」 「現実は片腕どころじゃないだろ。両腕だ。何せ陛下がご病気だろうが都から離れようが、恙無く政は行われているんだからな」 「ああ、そっか。でもそれは流石に不敬だろ」 「寝ておられるんだろ?」 「多分ね」 寝ていると信じ込んでいるから、こんな場所でこんな話が出来るのかと苦笑する。 後で特に処罰どうこうしようとは思わないが。 「で?桧釐様が実の父親で何か問題が?」 「彼は朱花様の血族だと言うじゃないか。同じ北州の出で。そういう人が陛下に近寄って、自分の子供を次の王に仕立てて、そしてしかも…陛下は篤い病気にかかっている。怪しく思うなという方が無理だろう」 「おいおい、それは…」 「都中でそう言われてんだよ。俺が考えた事じゃないぞ」 扉の向こうの声は黙った。絶句という雰囲気だ。 龍晶も同じ気分が半分、もう半分は成程と腑に落ちている所がある。 そこまで噂になっているなら、本人の耳にも届いているだろう。 だからだ。灌の養子を特に嫌がりもしないのは。春音が可愛い筈なのに。 自分が反逆者になる事を恐れているのだ。 気の毒だが腹の中で笑った。あいつも苦労しているな。 だが母の事を根拠にされるのは不快でしかない。この間違いだけは正さねば。 龍晶は扉を開けに立った。 が、矢張り駄目だった。急に起き上がると強い眩暈に襲われる。 倒れた音を合図に二方向の扉が開いた。 一方からは医師と祥朗、もう一方は先刻までの声の主たちだ。 手をついて起き上がり、大事無いと口で言う代わりに彼らに掌を向ける。 眩暈が続いて顔が上げられず、吐き気がした。 「今調合した薬を持って来なさい」 医師が祥朗に指示し、続けて兵の後ろに居る弟子へ告げた。 「要馬(ヨウマ)、脈を取って差し上げなさい」 指名された男は一瞬戸惑いの間を空けたが、近寄って来て傍らに跪くと一礼して腕を持ち上げた。 自分や母を侮辱する人間に触れられる事に抵抗は感じたが、感情は押し殺した。 優先すべき目論見がある。 「あの噂の出所を知っているか」 声など出せる状態ではないから、呼気だけの言葉で問う。傍らに居る者にしか聞こえないのは却って好都合だった。 予想通り、不敬な男は顔色を無くし、脈を探る手が止まった。 「責めている訳じゃない。虚偽の噂を流す者を探し出し、民を惑わす事をやめさせねばならない。協力してくれ」 「ど…どのようにして」 「お前の友人を後で寄越す。二人で動くと良い。この事は他言無用だ。それと悟られぬよう動け」 要馬は頷いた。そして顔を上げ師に告げた。 「脈が早く、まだ熱が上がりそうです。陛下はいま暫く休んでから城に帰ると仰せですが、如何いたしますか」 周囲に悟られぬよう顔を下げたまま口元を歪めて笑う。 上出来じゃないか。そこまで不敬罪に問われるのが恐ろしいか。 その恐怖心を利用させて貰う。 「分かりました。ならば薬をお飲み頂いて、少し様子を見ましょう。要馬、陛下を寝台へお連れしてくれ」 「はい。…どうか、お許しください」 男は丁寧に頭を下げて痩せた体を担ぎ上げた。 周囲には担ぎ上げる非礼を詫びたと映っただろうが、当事者同士にとってその真意は違う。 蛇足だとは思いつつも、龍晶はその耳元に言わずにはおれなかった。 「母の事を反逆者扱いする事だけは許さぬからな」 体を支えている腕の震えが伝わってきた。 それでいい。恐れるが良い。俺は何でも許してやる訳じゃない。 あの時、母と俺を裏切って掌を返したお前ら都の民を、俺はまだ許してはいないからな。 俺に本物の絶望を教えたのは、お前達だ。 [*前へ][次へ#] [戻る] |