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月の蘇る
  2
 桧釐が南部の地を踏んだのは、実は今日が初めてだ。
 北州と都でしか生活した事が無いのだから当然だ。旅ならする余裕も無い。
 矢張り空気が違うな、というのが第一印象。暖かいのは勿論、砂漠に近い北部と違い湿潤さがある。
 川も多く、緑も濃い。南方には雪を被る山脈が望める。その向こうは繍だ。
 無論、呑気に物見遊山に来た訳ではない。
 王家の別荘という御殿の前に立ち、気怠く溜息を吐いた。
 自分が来たからと言って誰も良い顔をしないのは分かりきっている。
 特に主たる王の顔を見るのは憂鬱だ。
 関係が悪化しているからだけではない。状況と持ってきた話が拙い。
 案内を受け、中に入る。
 まず出迎えたのは妻だった。
「よく来たわね。元気?」
 嫌味は無く歓迎してくれる。少し安堵した。
「俺が倒れる訳にはいかないからな。そっちも元気そうで何よりだ」
「こっちに来てみんな調子が良いわ。暖かいって良い事ね」
「陛下も?」
「ええ。でも最近あの子は仕事のし過ぎで駄目よ」
「は?なんで仕事なんか」
 仕事をせずに療養する為にここに来たのではなかったのか。
「燕雷の仕事を代わってから、あれこれ気になったみたいね。何もかも放って熱中してる。華耶ちゃんが可哀想」
「はあ…?」
 分からない事だらけだがとにかく本人に会う事だと思い直して足を進めた。
「今どこに?」
「部屋に居る筈。でも話が出来るかしら」
「どういう事だ?」
「言ったでしょ。仕事してるか寝てるかどっちかなの」
 その姿がいとも簡単に想像出来る。以前もそうだったからだ。
 戴冠前、飛び降り未遂をしたあの頃。
 嫌な予感がする。
「何かあったのか?あの人を追い詰めるような何かが」
 声を潜めて問う。
 於兎は鼻を鳴らして答えた。
「いろいろあるけど自業自得よ。結局あれは華耶ちゃんを避けてるだけだもの」
「はあ?」
 思っていた答えと百八十度違う。思わず声が大きくなった。
 慌てて声を潜め直して問う。
「なんでだ?あんな仲睦まじい二人が」
「だからこそじゃない?王様は人との距離が詰められない人なのよ。一度自分の思いに反したら、もう駄目」
「何かあったのか」
「朔夜の事件を反乱軍の仕業にすり替えようとしてるの。それを華耶ちゃんが反対したから」
 そこまで言って、あ、と気付く。
「口止めされてるんだった。王様の前では知らない振りして」
 桧釐は苦い顔を己の手で撫でた。
「…お前から聞いたとは言わないでおく。どうせどこからか耳に入る話だろうし」
「頼むわね」
 頷いて、また溜息を吐いて。
「しかし今喧嘩なんてしなくとも…」
「喧嘩じゃないわよ。華耶ちゃんはそれでも夫に尽くしているもの。王様が意地張ってるだけで」
「何にせよ、今は拙いんだ。だが隠す訳にもいかない話がある。俺達にも関わるが…」
「何それ?どういう話?」
 余程妻に耳打ちしようかと思ったが、矢張り順序というものがある。
「国王夫妻と一緒に聞くと良い。だが頼むからお前が憤慨するような事はよしてくれ」
「何?ますます気になるじゃない」
「良いからどっちだ」
 進まない妻に何とか案内させ、王の居る部屋を開けた。
「桧釐です。入りますよ」
 お久しぶりですと挨拶しようとして、拍子抜けた。
 龍晶は卓上に突っ伏して眠っている。
 その背中に華耶が毛布を掛けている所だった。
「だから言ったでしょ。仕事してるか寝てるかだって」
 後ろからの妻の声に頷いて、とりあえず皇后に挨拶した。
「お久しぶりです、皇后陛下。ご機嫌は如何です」
 相変わらずの鈴の鳴るような声が返ってくる。
「桧釐さん、遠路はるばるお疲れ様でした。私はご覧の通りですが、陛下はお疲れになっていて。ごめんなさいね」
「いえ、謝りたいのは俺の方です、従兄として。お世話して頂いた上に余計な苦労をかけてしまっているようで。申し訳ない事です」
「私は苦労なんて。でも陛下が何に怒っていらっしゃるのか分からなくて、自分が情けないんです」
「怒ってはないと思いますけどね」
「でも、口を利いて貰えないんです」
「気にしないの。華耶ちゃんのせいじゃないから。絶対」
 於兎にも言われて、華耶は切なげな溜息を漏らす。
「いや、本当に申し訳ない。気難しい御仁なんですよ、昔から。大体、俺だって嫌われてるんだからこの人の気なんて分かりゃしないんですけどね」
 はっはっはと取ってつけたように笑い声を上げると、寝ていたと見えた瞼がちらりと開いて睨まれた。
「あ、陛下。お目覚めで」
 また瞼が閉じる。眉間に皺を寄せて。
「ちょっと陛下、せっかくここまで来たんですから挨拶の一つでもさせて下さいよ」
 冗談混じりの言葉を聞いて、いきなり立ち上がった。
 そのまま背を向けて奥の扉へと向かう。
「我々ではどうにもならない問題があるんです。話だけでも聞いて下さい」
「お前らで決めろ」
 吐き捨てて、扉を開ける。奥は寝室のようだ。
「そうはいきません。養子の話なのです」
「養子?」
 反応したのは女達で、当人はさっさと扉の向こうに消えた。
「ああ、全く」
 頭を抱える桧釐に、華耶は申し訳なさそうに弁明する。
「ごめんなさい。近ごろ夜遅くまで起きているから、お昼が睡眠時間になっちゃってて」
「元々が昼行灯な人ではあるが…良くないですな」
「ごめんなさい」
 恐縮しきりな華耶に優しく笑んで桧釐は首を横に振った。
「何が悪いって、こんなに美人で尽くしてくれるお后を放って仕事してる事ですよ。こんなに近くに居るのにけしからん事だ。なあ、俺達はやむを得ず離れ離れなのにな?」
 妻に惚気てみると、案外冷たく返された。
「都に居る時でもあなた、仕事に没頭して夜も帰って来なかったじゃない」
「それはお前が後宮に居ると思って…」
「この日には帰るって決めててもあなたがすっぽかしたわよ」
「たまたま勘違いしてたんだよあれはぁ」
 夫婦の行き違いはともかく、気になる言葉がある。
「で、養子って何」
 あー、と言葉にならぬ声を漏らす。
 もう順序がどうとなど言っていられない。
 体だけは華耶に向けて桧釐は告げた。
「お二人に養子を迎えて頂きたいという話が来ております」
「どこから?」
 問うたのは於兎だ。華耶は目を丸くするばかり。
「灌王家よりです。皇后陛下の弟君にあたる方となります」
 とは言え、華耶は形だけの王女なので話が見えない。
「その子はお幾つ?」
 またも問うのは於兎だ。
 それでも答えを告げるのは華耶に向けて。
「十二歳になられたと聞いております」
「じゃあ、春音はどうなるの」
 すかさず産みの母が食ってかかる。問題はそこだ。
「お前がそれを言い出すのは拙い。分かるか」
 今度こそ妻に言って、華耶に向き直る。
「国の問題でもあるが、ご夫妻が決める事だと俺は思います。どうか、お二人で結論を出して頂けませんか」
 華耶は顔色を失っていた。ただ、視線ばかりが落ち着きなく動いている。必死に考えているのだろう。
「あの、桧釐さんは…どう思われているのか、聞いて良いですか」
「私情無く意見するのは難しいので出来れば差し控えたいのですが」
「それでもです。私達も…どうすれば良いのか分からないから」
 龍晶はどう言うのか、こればかりは予測ができなかった。だからこそ先に聞かせたかったのだが。
「一つだけ言えるのは…断る事は酷く難しいという事ですな。灌王は親切心でご子息を差し出しているのだから」
「私に子が出来ないから、それを案じて下さっているのですね」
「それも華耶ちゃんのせいじゃないから。お互い知ってて縁組されたんだし」
「そうだ。だから灌は最初からそのつもりだったんじゃないかとも考えられる」
 二人の女の見開いた目を受けて、桧釐は済まなそうに言った。
「俺が早まっちまったんだよな。俺の子を養子にすれば良いって陛下に言ったのは。何せ、婚姻前に約束した事だから」
 言い訳のように続ける。
「でも、そうでもしないと戴冠なんか出来なかった。そもそもあの時は肉親を失った傷が深過ぎて生きる気を失くしてたから、何を差し出してでもあの人を生かさなきゃならなかったんだよ」
「私は感謝しています。春音を私達の子にしてくれた事に。だから早まったなんて思わないで」
 華耶に言われて、はっとした桧釐は頭を下げた。
「申し訳ない。口が滑りました」
「そんな事ないです。桧釐さんの考えが聞けて良かったし、陛下の為に春音が居る事も分かりました。だから一つだけ答えて下さい。もし、灌のお子を迎えても、春音は私達の子として育てても良いでしょうか?」
 夫婦は顔を見合わせ、即座に答えた。
「勿論です。春音はお二人の子ですから」
「華耶ちゃん、改めてあの子を頼むわね。私達は次の子を春音の良きお友達にするから!」
 言いながら於兎は夫の背中をばしりと叩く。
 苦笑いして桧釐は頷いた。
「がんばります」
 華耶はやっと笑った。
「ありがとうございます。安心しました。お二人が居てくれて良かった」
 あとは龍晶にどう説明するか。
 今は無理だろう。今夜にでも話し掛けてみようと華耶は考える。
「それに伴ってという訳ではないのですが」
 桧釐が言い辛そうに口を開く。
「灌への手前もありますし、陛下には都にお帰り頂こうと思います」
「えっ」
 華耶が声を上げる。
「今?冬を越してからでは?」
 桧釐は首を横に振った。
「でも…でも、まだこちらで様子を見た方が良いと思うんです。随分快復してきたけど、まだ調子を崩す事もしばしばあるし…。それに、こちらの暮らしが気に入ってるみたいだし…」
「私達にも計画があるしね?」
 於兎の言葉に頷いて、華耶は桧釐に縋るように言った。
「こちらの孤児を集めて安心して暮らせるような施設を作りたいんです。陛下も賛成して下さってます。この冬の間に小さくとも何とか始められないかと思って」
「他の者に任せましょう。人を探します」
「でも」
 何とか言い募ろうとして、華耶は言葉を途切らせて諦めた。
「…帰らないといけないんですね」
「はい。陛下を説得せねばなりませんが」
「分かりました。それは桧釐さんにお願いします。私の言葉はきっと聞いてくれないから」
 悲しげに自嘲する。それを見て桧釐は溜息を吐く。
「罪なお人だ」
 突然、於兎に足を踏まれてぎゃっと桧釐は悲鳴を上げた。
「ちょっと、王様のせいばかりにしてんじゃないわよ。私達、帰りたくないの」
「仕方ないだろ!お前が我儘言うなよ!」
「我儘?私は華耶ちゃんが言えないことを代わりに言って差し上げてるのよ!いきなり勝手に予定変更なんて酷いじゃない!」
「そうは言ってもな…」
「ごめんなさい、ちょっと陛下の様子を見てきます」
 正真正銘の夫婦喧嘩の間に居るのが居た堪れなくて、寝室に逃げる。
 扉を閉めると騒音は遮られた。声は聞こえるが、何を言っているかまでは分からない。
 言いたい事が言い合える夫婦が羨ましくもある。
 それはあの二人の性格だからであって、そう変わりたいと願っても難しい事は分かっているが。
 それにしたって、少しは何かを言ってくれてもいいのにと思いながら夫の元へ向かう。
 矢張り眠っている。寝たふりではないと分かるのは、いつも魘されているから。
 荒い呼吸の中に時々言葉が混じる。やめろ、来るな、と。
 余程怖い夢を見ているのだろう。それとも現実に何か追い詰められているからか。
 その一因は自分なのかと思うと、迂闊に何か言えない。
 何故だろう。朔夜が居なくなってから何かがおかしくなった。
 それほどの存在だという事だろうか。彼にとって、朔夜は。
 分かってはいたけれど。
 ふと顔を上げると、祥朗と目が合った。
 ここの所ずっと彼に寄り添ってくれている。どんなに真夜中でも、仕事をする彼の傍らで、自分は薬学の勉強をしながら。
 擦れ違い続けている自分より余程、今の彼を見てくれている。
「ねえ、祥朗」
 何か知っているかも知れない。
「陛下は私の事、何か言ってない?悪口でも良いの。教えてくれる?」
 祥朗は勉学の手を止め、新たな紙を引っ張り出して、筆を動かした。
『悪口なんて聞きません。むしろ』
 少し手を止め考えて。
『義姉様が居なくなった後は、いつも悲しそうです。謝っておられます』
「謝る?」
 祥朗は頷いて、兄の言葉を口でなぞった。
 ごめん、と。
 この冷たい態度は何か考えがあってやっている事なのだ。彼自身がその事に良心の呵責を感じている。
 その考えとは、何だろう。
「どうしてだと思う?」
 祥朗の方が彼の事は詳しい。直截に尋ねてみる。
『恐れているんだと思います』
「私を?何か怖い事言ったかしら?」
 義弟は少し笑って頭を振った。
 そして今度は深く考え、何度か筆を迷わせて、屈み込んで少し隠すように書いた。
『兄様の家族は、僕以外、みんな亡くなってしまったから。母様、佐亥、おばば様、貧民街のみんなも、前に仲良しだった女官も。それに、前の王様である兄上も。だから、怖いんです。僕も同じだから分かります』
 華耶は目を見開いてその文字列を見詰める。
 そして、義弟の横顔を見て。
『同じように、義姉様を失ったらと思うと、これ以上一緒に居る事が辛いんです』
 だから、責めないであげて下さい、と。
 祥朗はそっと書き足して、その紙をくしゃくしゃに丸めた。


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あきゅろす。
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