月の蘇る 8 夜の冷えた空気が火照った身を冷ます。 熱っぽいのは尽きている力を無理矢理使ったせいだろう。一寝入りしようとしたが興奮が邪魔をした。 怒りや苛立ち。そして目を背けたいのに背けられない事実が重くのしかかって、考えざるを得ない。 月の無い、重たい雲の垂れ込める夜。 雨になるかも知れない。血汚れを流すには、丁度良いのかも知れないが。 縁側に龍晶が供も連れずにやって来て、隣に座った。 「こんな時に一人かよ。不用心だな」 「ここは安全だ」 「どうだか」 投げるように言って、責める口調で問うた。 「華耶は?」 「於兎の所だ。あいつの賑やかさに付き合ってれば気は紛れるだろ」 「お前も一緒に居れば良いのに」 「ああ。でも、彼女は心配無いと分かったから。俺より余程肝が据わっている。お前とずっと一緒に居ただけの事はあるな」 「俺のせいで何度も怖い思いをさせてるからか」 「別に、お前のせいとは思わないけど」 お前達のせいだと呪う言葉が耳朶に蘇る。 今日の事を直視したくて女達の所から逃げてきた。 「お前にまた助けられた」 「いや、俺じゃない。あれは紫闇がやった。俺は華耶の方で手一杯だった」 「それで良い。俺は殺されても良いが、彼女に累が及ぶのは耐えられない」 朔夜は黙った。横顔が怒っている。 「死者を憎むな。彼らには彼らの理由があった」 「理由?藩庸の野朗に唆された事が?」 「藩庸は彼らを利用しただけに過ぎないだろう。奴が居なくとも、いつかはこうなっていた」 「そんな事無えよ。あーあ、あの野郎を引っ捕えてお前にぶん殴らせてからこの国を出たかった」 「それは遠慮する。顔も見たくない」 「とか言って、変に情けをかけたりしないよな?」 「それは無い。考えたくもないが」 藩庸については幼い頃からの恨みと兄を操り道を外させた憎しみしかない。 だが今日の事をそれで片付けるのは違う気がした。 「彼らが死なねばならなかった原因は、俺にある」 朔夜は睨んで、そして吐き捨てるように言った。 「違う。奴らが馬鹿な事をした。それだけだ」 龍晶は溜息を吐く。 「やり方は間違っていたかも知れない。でもそれで命を落とす必要は無かった」 「悪かったな。俺は加減出来なかった。だけど王を襲う奴はその場で斬り捨てられるものだろ。皆その通り行動した」 「彼らは死ぬ前提で行動を起こしたんだろうか」 「そうだろ。死ねれば幸せだ」 まじまじと、龍晶は友を見詰めた。 怒っているのは分かる。それにしても今日は何かがおかしい。 「戦地で自分を刺した子供を救おうとしたのに、彼らにはその言い草か」 「自分で選んだかどうかで違うだろ」 「お前は苴軍の将を暗殺する事を自分で選んだか?」 命令だった。が、己で選んだ復讐でもあった。 答えられない事が答えだった。 「そうだろう。彼らも同じだ」 朔夜は庭に降り、小石を蹴った。 転がって、池に落ちる。 「だから…死んだ方がマシだって言うんだよ」 水音の余韻に紛らせて。 「縄に繋がれて引かれて行くのは俺だった。死ぬべきなのに誰も殺してくれない。あれは俺だった…」 龍晶は絶句していた。 首を刎ねてくれたら楽なんだと言われた。 有り得ないと思って取り合わなかったが、本気で言っていたのだと漸く分かった。 己の罪を自認しながら生き残ってしまった今なら理解出来る。 罪を背負って生きていく事の苦しさが。 「あいつ…どうすんの?」 普通なら尋問して投獄、打首だろう。 藩庸の居場所を素直に言えば良いが、そうでなければ拷問される。 「ただ泣いていただけの子供をどうこうするつもりは無い」 思った通りの龍晶の答えに今度は朔夜が溜息を吐いた。 「お前は優しいけど、それは酷だよ」 「そうかも知れないが、まだ子供だからな。やり直す事は出来ると思う」 「子供だからこそ恨みは深いぞ」 横に立つ朔夜を見上げる。 「そんなもんか」 「まあ、良いけどさ。心配なのなお前だ。また同じような輩が現れないとも限らない」 「警備は厳しくする」 「それじゃ足りないよ、お前の場合」 「どういう事だ?」 「お前には付け込まれる善意しか無いだろ」 「そんな事は無い」 「あるよ。自分は捨て身で他人を信頼し過ぎるから」 「別に俺はどうなっても良いが…」 「だからそれが駄目なんだよ」 また苛立った声が戻って来た。 「華耶を悲しませるなって、何度言ったら分かるんだよ?自分でも言ってた癖に」 尤もだった。何も抗弁出来ず謝る。 「…悪い」 「分かったなら都に帰れ」 え、と顔を顰める。 「ここは戦地に近過ぎる。だから変な奴も近寄って来るんだろ。都の城の中ならこんな事にはならない」 「帰るのは冬が終わってからだ。まだここでやるべき事がある。どうしてお前に指図されなきゃならない」 振り向きざまに朔夜は、龍晶の胸倉を掴んでいた。 「それでお前は華耶を守れるのか!?」 本気の怒りをぶつけて、ぱっと離す。 異変を聞きつけた衛兵達が走って来る音がした。 龍晶は乱れた襟元を直し、彼らに言ってやった。 「何でもない。持ち場へ戻ってくれ」 遠去かる足音が、気まずい沈黙を埋める。 戻りかけた静寂は、降り出した雨音が破った。 朔夜は強くなる雨足に耐えかねて動いた。 「寝る。疲れた」 苛立ちは募るばかりだ。少し体が休まれば気分も変わるかも知れない。 龍晶は何も言わず、雨垂れを睨んでいた。 寝室に戻ってきた夫に、華耶はにこりと微笑む。 昼間あんな事が目の前で起こったばかりなのに、何事も無かったかのように振る舞える。 だから『肝が据わっている』と評した。 自分とは大違いだ。 「寝ようか、仲春」 誘われるがままに彼女の隣に横たわる。 女官らが燭台の明かりを消した。 「どうしたの?すごく冷えてるね」 今の今まで外で動けずに居たのだから、身体の芯まで冷え切っている。 寒いとも思えなかった。何もかも感覚が麻痺してしまって。 彼女の体温で火傷しそうだ。 「あの子達のこと、悩んでるの?」 頬を撫でながら、心中を読まれる。 「華耶はどう思う?」 問うと、少し嬉しそうに声を弾ませた答えが返ってきた。 「於兎さんとも話してたんだけど、私、養育院を開きたいの」 「養育院?」 「うん。ああいう恵まれない子達を集めてお腹いっぱい食べさせてあげられる場所。寝泊まりもできるし、読み書きも教えてあげるの。良いと思わない?」 起きた事に未だに呆然としている自分と違って、彼女はもう原因に対する対策を考えている。 「良いと思う」 そのまま返すのが精一杯だった。 正直、感情が付いて行かないままだが、華耶の言う事だから信じてはいる。 「だよね。そういう場所があれば、あなたの評判もきっと上がるし」 「そんな事はどうでも良いんだが」 「ううん。あなたが理不尽に恨まれるのは、私にとっても辛いもの」 凍えた体を、温かな体が包み込む。 されるがままになって、頭では朔夜の叫びを反芻していた。 華耶を守れるか。あいつが居ない、一人きりでも。 自信は無い。 「華耶」 「なに?」 くるりと無邪気な丸い目が、闇の中でも見て取れる。 「ずっと傍に居てくれな…」 瞼に唇を押し当てて。 「うん。居るよ。ずっと」 他の命なんてどうでも良い。 二人きりの世界さえ守られれば、それで。 きっと朝が来れば現実の重さにまた押し潰される。でも、この夜は、そうやって凌げれば良いと思った。 夜中、急に止んだ雨のように、別れは突然だった。 朝一番で紫闇が動いた。 「出るぞ」 急に告げられたその一言で全てが慌ただしく動き始めた。 少し離れた燕雷が詰める棟まで使いが走り、華耶は一刻待ってと懇願して弁当を作る。 朔夜は武器だけ用意すれば準備完了で、当事者でありながら周囲の喧騒を他所に待つ事しか出来ない。 その朔夜の目の前で、紫闇と龍晶が向き合った。 「文が届いたのですか」 「都には入った。もう待つ意味は無い。動きの鈍い奴が居るから今から行けば丁度いいだろ」 ちらりとこちらを見ながら言う。腹が立つから聞こえない振りをした。 「昨日はありがとうございました。お陰で命拾いをしました」 あの一件で頭を下げる龍晶なんか、もっと見たくなくて朔夜は寝たふりをする。 ふん、と紫闇は鼻で笑った。 「俺の言った通りだったな。漸く分かったか」 「仰る通り…不用意でした」 あまりに塩らしい態度が気になって薄目を開ける。 言葉だけという態度ではない。龍晶の顔色は完全に打ちのめされている。 夜の言葉が少しは効いたのなら良いと思って、朔夜は観察を続けた。 「良い薬だったな。少しはてめぇの命を大事にする気になったか」 龍晶は素直に頷いた。それにしても自分に対する時と態度が違い過ぎて、朔夜には面白くない。 「一つお聞きしても?」 「なんだ」 「あの襲撃も予測していたのですか」 目を見開かされた。 紫闇は知っていたのだ。だからあの瞬間、襲撃者達を撃ち殺す事が出来た。 「俺がここに居座ってて良かったな」 その為の滞在だったのか。 驚いて見詰めていたせいで、まともに紫闇と目が合った。 「そうでなければこの国は終わっていた」 お前一人では王を守る事は出来なかった、そう言われたも同然だった。 それが昨日から消えない苛立ちと怒りの原因だと、やっと自覚した。 目の前で友を失う所だった。そう思うと鳥肌が立つ。 その龍晶が隣に座って、朔夜は顔を上げた。 それは昨日と同じだが、二人の間の空気は昨日とは違った。 「お前が正しかったよ」 龍晶が真っ直ぐに前を見て言った。 目を合わせられないのは朔夜も一緒だった。 「都に帰るのか」 「それも含めて考える。華耶を守る方法を」 「お前の事もな」 頷く。いつか三人で再会する、その約束の為に。 「一つお前に決めて欲しい。生き残った彼の処遇を」 自身では決め兼ねるという事だろう。 それとも首を刎ねろと言って欲しいのか。自分では情が勝ってしまうから。 「…良いんじゃない?生かしてやれば」 夜と真逆の事を言って、友の驚く目を見やる。 「首を刎ねたらお前はまた魘されるだろ?」 「そんな理由か」 「お前の方が大事だよ。無罪放免になってもあいつ一人じゃ何も出来ないだろうしさ」 「そうか…」 「それで身を投げたとしてもあいつの人生だ。お前に責任は無い」 それには答えず、龍晶は腰に差していた刀を取った。 「これ、忘れてたろ」 千虎の短刀。 「あ、そう言えば」 確かに忘れていた。 当然のように受け取ろうとしたが、手を止めた。 「やっぱ、次帰る時まで持っておいてよ」 「何故だ?武器は多い方が良いだろ」 「いや、俺のじゃないし。それは実戦では使った事無い」 「それは分かってるけど。苴を通れば何かの縁で返す人に近付くかも知れない」 「それは無いだろ。誰にも会わないように旅しなきゃいけないのに」 「まあ、そうだけど」 怪訝な顔を崩さない龍晶に、朔夜は苦く笑って説明した。 「これがあれば、お前の所に帰って来なきゃならない理由が出来るだろ?」 「理由なんか要るのか」 「俺には要らないけど、まあ…立場が立場だから」 その時の状況がどうなっているか分からない。自分は国外追放された罪人で、相手は国王だ。 自分の意思ではここに帰り辛い。だから、強制的に足を向かわせる理由が要る。 そこで一目でもまた二人に会えたら良いと思う。結果、牢屋にぶち込まれるかも知れないが。 「その後はこれを返しに行くんだな?」 念を押して龍晶は訊く。 「うん。その自由が俺にあればね」 気が重くて逃げているが、そうなったら年貢の払い時だろう。 「分かった。これを返したら国外追放を取り下げてやる」 「そんな事で決められるのかよ」 冗談なのか本気なのか、とりあえず朔夜は冗談と受け取って笑った。 もう一つ、理由がある。 「これはお守りだ。これを持ってれば生き延びられる」 「それならお前にこそ必要だろ」 「昨日のあれで危ないのはお前だって分かったよ。俺は何とかなる」 「そうか?」 言いながらも龍晶は短刀を持つ手を引っ込めた。 「そういう事なら大事に預かっておいてやる」 「うん。必ず取りに帰るから」 笑って目を合わせる。 きっとまたこういう日が来る。それを短刀が約束してくれたような。 回廊の向こうから華耶の声が響いた。 「間に合ったぁ!」 安心感いっぱいの叫びと共に走り寄って来て。 「はい、朔夜。これお弁当と…」 包みを横にどさりと置いて。 頭にすぽりと何か被される。 「ん?」 上を見ても自分では見えない。 「手拭いを縫って帽子にしたの。片手でも被れるように」 そう言えば髪を切る時そういう話をした。 「あ、成程。ありがとう。すげえな、昨日の今日で作っちゃうなんて」 華耶は自慢気に笑って、動かない朔夜の右手を取った。 「あとね、昨日髪を切ってから返しそびれちゃってた」 手首に括ったのは、長年銀髪を結わえていた組紐。 幼い頃、二人お揃いで作ったそのお守りに彼女は念じた。 「早く動くようになりますように」 応じるように、少しだけ指が動いた。 「お、効き目があるな」 龍晶がいち早く声を上げる。 「やっぱ華耶は何でも治せるんだよ。俺なんかよりよっぽど能力がある」 朔夜も笑って冗談を言う。 「そう?じゃあもっとお願いしておこうかな」 華耶は両手で右手を包み、きゅっきゅっと握った。 「おい、楽しそうだな」 燕雷の声に三人が顔を上げる。支度が終わったらしい。 「行くか」 朔夜は立ち上がって、二人を振り返った。 「じゃあ」 「気をつけてね」 「うん」 龍晶は短刀を掲げた。忘れず帰って来い、と。 朔夜は頷く。忘れる訳が無い。 だけど。 遠くなる人影が滲んだ。 塀が邪魔して見えなくなってから、手早く目を擦る。 必ず帰って来る。だけど。 このまま変わらずに居られるかは、誰にも分からない。 願うのは、二人がこのまま幸せで居てくれること。それだけだ。 [*前へ][次へ#] [戻る] |