月の蘇る 4 翌朝。 燕雷が龍晶の寝所を訪れると、予想以上にすっきりとした顔色で迎えられた。 「寝込んでたんじゃなかったのか」 問うと、龍晶は寝台の上で肩を竦めた。 「薬を飲んで寝たら良くなった。これなら俺も哥に行ける」 「冗談言えるほどご機嫌なんだな。そりゃ良いや」 「王になんかならなければ、冗談だって一蹴されなかったのに」 面白くない顔で膝を抱える。哥に行きたいのは本音なのだろう。 「まだ数年も経ってないのに、あの大冒険が懐かしくなってんのか。また行けるよ、朔と一緒に」 龍晶は素直に頷く。先に夢があるから、大人しく療養も出来るのだろう。 「それでな、これは提案なんだが」 受け売りを前置きごとそのまま伝える。 「俺が朔と共に哥に行くってのはどうだ?」 「お前が?」 「仕事を放っぽり出して行くのは俺もどうかと思うんだが、あいつが心配だからなぁ」 燕雷は国王の静養の供をするついでに、南部の年貢の見直しをしている。無論、数人の役人を取り仕切って行っているのだが、自ら帳簿を捲らねば人手が足りない。 だが前の反乱で最も多くの農民を動員したのがこの南部地域であり、翻ってそれは年貢量の理不尽さがそうさせたので、この仕事は急務だ。 「お前が抜けるか…」 呟いて龍晶は考えている。 「駄目か?俺も一晩考えたんだが、他に適任が居ないんだよなぁ。紫闇が同行する事にはなるんだろうが、あいつが朔をどう扱うかは分からんし、信用ならない所もあるからな。万一の事があっても救出できる共連れは必要だと思うが、どうだ?」 燕雷の説明に緩く首を横に振って、龍晶は苦笑いした。 「だから俺が行きたいって言ってるのに」 こぼして、表情を正して。 「役割を変わるぞ、燕雷。お前の仕事を俺に寄越せ。だから安心して行ってこい。あいつを頼む」 「え…え?おい、療養中だろ?」 「帳簿見てる方が落ち着くんだよ俺は。良いから、役人達にもそう伝えておけ」 「滅茶苦茶だな。まあ、そういう事なら俺も甘えるけどさ」 笑いながら立とうとした燕雷を、龍晶は止めた。 「待て。今朝これが庭にあったそうだ。支度は急いだ方が良い」 差し出したのは、結ばれた紙片。 「投げ文か?誰から?」 読んでみろとばかりに顎をしゃくる。燕雷は紙を開いた。 「紫闇か。…今晩迎えに来る、か。ったく、急がせるな」 「朔夜には伝えてある。まだ腹も腕も治ってないが…お前が居てくれるなら少しは安心して見送れる」 「そう言って貰えるなら光栄だね。だけどよ龍晶、道はどうする?戔を北上するか、苴に入るか。お前の軍はどこまで信用出来る?」 この企みが露見しなければ要らぬ心配だが、時間の問題だろう。宗温にも隠している。 桧釐に露見すれば、何が何でも朔夜を捕まえて苴に送るのは目に見えている。 「…国内は厳しいな。済まんが、俺の軍は優秀だと思うんでね」 「仕方ないな。苴国境をこっそり超えるか。どうせ人目を避ける旅だしな。で?桧釐にはなんて弁明する気なんだよ?」 「言い訳なんて必要無い。あいつは何もかも察するだろうよ。それで俺を蔑むだけだ」 「また乱心だって言われちまうぞ」 「間違ってはない。療養期間が伸びるだけだ」 「良いのか、それで」 「問題無い」 言い切ったが、初めて不安の色が浮かんだ。 朔夜にも同じ事を言った。新しい政のやり方を決め、王の責任を軽くするのだと。 それが己の役割と信じている。 だが、このままだとその役割すら果たせないのではないか。 己の発言が半永久的に封じられてしまったら。 否、桧釐ならそんな事はしない。内容くらいは吟味して現実に反映してくれる筈だ。 そうでなければ、王の重責をそのまま桧釐自身に背負わせてしまう事になる。 それは避けねばならない。 「…少しは言い訳も必要なんじゃないか」 顔色を読んで燕雷は言った。 「考えておく」 龍晶は呟くように応えた。 建前は必要だ。桧釐ではなく、臣下や苴、そして民の為に。 「…面倒な立場になったもんだ。あいつ一人逃がすのに、これだけお膳立てが必要なのかと思うと…」 王の愚痴に、燕雷は軽く笑って流した。 その立場を掴む為に多くの血が流れた。都で愚痴を言えばその説教が返されるに違いない。 覚悟が足りないのだと、そう言うのは簡単だが。 「燕雷」 膝を抱えて不安に苛まれた表情の、この青年が抱える覚悟は一つだろう。 もう誰も傷付けず、失わない事。 「俺は、愚王か?」 そういう青年が、偶々王になってしまった。 なってしまったのだ。本当は向いていない。政治とはそれ程に残酷なのに。 それを多分、自覚しているのだろう。 だからこの問いだ。 父親や祖父が影でそう言われたように、自分も愚かなのか、と。 「…少なくとも、さ」 その愚かな者たちのせいで愛する人を失った自分が、その血を継ぐ彼に何を言うか。 とんでもない運命の悪戯だ。 「領民の為に自ら帳簿を繰るような王様を、俺は愚かだと言いたくはないね」 「それは気休めなんだが」 「でもお前が一番やりたかった事はそれだろ」 民への救済。誰も失わない、その覚悟の表れ。 「お前が人の命を第一に考えてる間は、俺も安心していられるよ。影で何言われようが気にするな。お前はお前のやりたい事をしろ」 龍晶は頷いた。表情に安堵が混ざった。 かつて彼の祖父を愚かだと言って聞かせた自分の言葉だからこそ、信用出来るものはあるのだろう。 祖先の失敗を受け入れ、時に己も疑う事が出来る。この王なら大丈夫だ。 「さて、引き継ぎだ。大量の帳簿をくれてやるが、後悔するなよ」 「お前の仕事が杜撰だったら、哥まで追い掛けて尋問してやる」 「そりゃ怖いな」 笑いながら部屋を出ていく。 この王も、この国も、失うものは全て失った所からの再出発なのだ。 これからは底から浮上していくだけ。希望しか無い筈なのだから。 きっと大丈夫だと、やっと笑った顔に伝えてやった。 旅の支度は整った。とは言え、整えるべき持ち物は武器の類しかないのだが。 何より整わないのは我が身だ。動かない右手は諦めて、左手だけの素振りを繰り返す。 動く度に胸の傷が引き攣れて、薄く繋がり始めた皮膚が悲鳴を上げる。それでも裂けるなら裂けろと動きを止める事は無い。 痛みなどどうでも良い。刀を振れるか否かが重要だ。 そうやってずっと生きてきた。 それを止めろと初めて俺に言ったのは龍晶で。 最初は何を言われているのか分からなかった。何かの冗談かと思った。 あいつは本気だった。俺の事を想って刀を置けと言い続けてくれた。 だけど結局、その期待には応えられないで居る。 俺にはこれしかない。 その生き方を決めた男が姿を現した。 「…何だよ」 感謝なんか毛ほどもしていない。憎いだけ。 「相手をしてやろうかと思ってな」 「暇なのかよ。昨日は頼んだけど、今日は要らない」 出立直前に変な傷は作りたくない。 「手加減はしてやる。素振りより実戦訓練が必要だろう。半端なまま行けば死ぬだけだ」 「もう何度も死んでるよ。あんたのお陰で」 「必要な時に屍を晒して役に立たなくても良いのか」 「ああ…ったく、仕方ねえな」 悪態を吐きながら木刀を父親に向けて投げる。 確かに型はまだ半端だ。このまま実戦に向かえばただでは済まない。 もう一本木刀を取りに行こうとした足を、燈陰は止めた。 「お前は自分の得物でやれ。感触に慣れた方が良い」 訝しげに目を細めて見返す。 「叩っ斬っても良いのか」 にやりと、笑って返される。 「やれるもんならやってみろ」 背中に負い持っている長刀を抜きながら、ふと疑問に思った。 こうして挑発して、悪魔に変じたらどうするつもりなんだと。 確実に俺はこの男を殺す。それでも良いのか。 その危険を承知しながら、今までこの男は俺と対峙してきたのか。 俺を強くする為に。 悪魔ではない、俺自身を。 「構えて待っても相手の重さに負ける。必ず先手を取れ。お前の速さなら先手を取った上で手数を増やした方が良い」 思考は隅に追いやられ、言われるがままに体は動いた。 片手で長刀を振り回す反動に慣れねばならない。油断すれば体ごと持って行かれてしまう。 相手は木刀なのに軽くいなされ、まともに当てさせて貰えない。 正面から当たれば木刀など防御にならないだろう。そのまま身を斬る事になる。 それでも良いと言って始めた以上、遠慮する気は無いのに。 「おい、何やってる。全然力が入ってないぞ」 ムキになって振った一撃が拙かった。ひょいと躱され、そのまま背中を打たれて、前のめりに倒れるより無い。 倒れた体目掛けて、容赦なく木刀は突いてきた。 右腕が動けば避ける事は簡単だ。だが頭からの命令を聞き入れない腕を咄嗟に動かそうとして、判断が遅れた。 眼前で地面を突いた木刀の先。飛び散った小石が顔を叩く。 「やっぱり死にに行くだけか?情けない」 ずるりと、不恰好に上体を起こす。表情を見せないように、背中を向けたまま。 自分でも情けないと思っている。悔しさと怒りと、しょうがないという甘えた気持ちと。 ない混ぜになった感情が、長年蟠っていた問いを口から押し出してしまった。 「俺に刀を持たせてどうしたいんだよ、お前は」 「…は?」 「餓鬼に刀を仕込んだ所で梁巴は守れる訳なんか無かっただろ。役に立たないって分かっている癖に、こうして危険な綱渡りをしながら俺に刀を持たせるあんたの意図が分からない」 乾いた風が二人の間を抜けて行った。 砂埃の先に、故郷の無くなったあの夜を見ている。 破壊の力を呼び覚ます為に刀を持たせた。その力で、梁巴を守る為に。 だがそれは、その考え自体が甘かったと悔いても悔やみ切れない程の力で。 自分達親子三人を、地獄に叩き落とした。 その報いに、この子に斬られるなら仕方ないと、心のどこかで考え続けている。別にもう要らない命だ。 彼女の居ない世界に、生きる意味は無いから。 「…言っただろ。あの戦はまだ終わってない。お前が終わらせるんだ。だから弱いままで居させる訳にはいかない」 「てめぇでケリ付けようとは思わないのかよ。戦を始めたのはお前達大人だろ。俺に全部押し付けやがって」 「…そうだな。悪いとは思っている」 半分だけ振り返った顔。 「そんな謝罪じゃ足りないか。でもどう償ったものか皆目分からなくてな。いっその事お前に罪を被せて憎んだ方が楽だと思って…お前にも自分にも嘘を吐いた」 「…嘘?」 「お前は母親を殺してなんかいないよ」 横顔は、目をいっぱいに見開いて。 緩く首を横に振って、震える唇で思わぬ言葉が出た。 「嘘だ。それこそ…嘘だろ。俺は…」 記憶がある。その光景が、脳裏にこびりついて。 「お前の思い込みだよ。あんなのは俺の出任せだった。何の証拠も無い。俺が見たのはただ、彼女の隣に座り込んでいたお前の姿だ」 「だって…!」 体ごと振り返って食ってかかろうにも、続く言葉が出なかった。 あの感触は、あの光景は、俺の思い込み? 悪夢を現実と信じていただけ? 本当に? 「何の為に刀を教えたかって?お前を強くする為だよ。強くしなきゃ生き残れない。俺はお前を生かさなきゃならなかった。親として」 投げ置かれていた刀を拾い、その手に持たせて。 「お前が認めなくても、俺がどんなに逃げていても、俺達は親子だ。お前の母親がそれを望むんだから、そうでなきゃならないんだ」 朔夜は刀身をじっと見下ろしていた。 その俯く頭に手を伸ばし、初めて撫でてやって。 「こんな父親で悪かった。お前の気が済むなら、その刀で斬っても良い」 力無く、朔夜は立ち上がった。 左手の刀を持ち上げる。 こんなに重かっただろうか。これで戦えるのだろうか。 何と戦うんだろう。 今から、俺は、何の為に。 「朔夜」 背後からの声で振り上げた刀は止まった。 「やめとけ」 一番聞きたかった声で止めてくれた。 左手をだらりと下ろし、刀を捨てて。 「ありがと…龍晶」 庭に降りて朔夜の隣に並んだ彼は、友の代わりにその父親を睨んだ。 「どれだけ馬鹿な事を繰り返せば気が済むんだ。こいつから最後の肉親まで奪う気だったのか?こいつが一番傷付く方法で!」 「…本気で斬るとは思わなかった」 龍晶は。 つ、と燈陰に歩み寄るなり、その頬を殴っていた。 そう強い力では無かった筈だ。力の差は歴然だし、背だって頭一つ分は上にある。止めようと思えばその細い腕を掴み捻る事など簡単だ。 だが、燈陰は殴られるに甘んじた。 朔夜はただただ親友の行動に驚いていた。 「いい加減にしろよ。そんな言い訳なんか聞きたくない」 冷たく龍晶は言い捨てて、朔夜へと向き直った。 「済まんな。つい、頭に来た」 朔夜は首をぶんぶんと横に振って、もう一度礼を言った。 「ありがとう…お前が居なかったら俺、本気で斬ってた」 「そうだろ」 我が意を得たとばかりに口の端を上げて、その顔のまま情けない父親を仰ぎ見て。 「あんたの気持ちも分からなくはないよ。俺も人の親になったから。それで息子の気が済むなら、この体はどうなっても構わない」 でも、と朔夜に視線を向けて続ける。 「残された方の気持ちも痛いほど知ってるからな」 朔夜は頷いた。龍晶も笑って頷き、言ってやった。 「良かったな、朔夜。もう悪夢を見なくて済むじゃねえか」 「え、…あ、そうなのかな…」 「そうなんだよ。全部この父親の作り話だ。本人が白状したじゃねえか。俺は最初から信じてなかったけどさ」 「俺は…母さんを…」 自分の掌に視線を落とす。 この手が全て奪ったと信じ込んでいた。己を憎んで、復讐すら出来ないともがいて、苦しみに溺れて。 龍晶の手が手を包み、言った。 「違うんだよ」 ぽつりと、掌に涙が落ちた。 「…良かったな」 友の手に包まれた頭が、こくりと頷いた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |